2019-04-03
皇居近くでのお花見ランチ
新年号「令和」の発表翌日、友だちと皇居周辺でお花見&ランチした。
3月30日~4月7日まで皇居乾門通りの一般公開だったこともあって、皇居から千鳥が淵周辺はたいへんな人出だった。
昨日はあいにく曇り空で、色がつくかつかないかという微妙な桜のピンク色はくすんで見えた。
どちらかというと友だちとのおしゃべりがメインで桜を堪能するという感じではなかったけど、年に一週間だけの桜の花のいのち。帰宅後、もっともっと間近で見上げればよかった、と思った。
日本人のDNAなのか?…やっぱり桜が好きなのだ。
ゲンジツの刺激にすぐわからなくなってしまう私
私はひとりで静かに『奇跡講座』の世界に浸っているときは、穏やかで気分よく『奇跡講座』が指し示す神の世界こそリアルだと感じていられるのだけど、イベントや外出で刺激を受けたりだれかと長時間一緒にいたりすると、すぐこの世界の刺激の強さにのまれてしまい、わけがわからなくなってしまう。
妹が泊まりに来ていろいろ昔のことや母のことなどおしゃべりして無意識が動いたのか、あるいはイベントの人出に当たったのか、妹が帰った後疲れきってしまい、一日ぼーっとしていた。
『奇跡講座』を学んでいるといったところで、それは人里離れた一軒家のひとり暮らしみたいに外部からの刺激が少なく“守られた”環境でのみ言えることで(そこでも大いなる自然の刺激、影響がある)、普通の環境ではまったく身についていないのかもしれない。
赦しだって頭の中だけで考えていることで、実践はできていないのかもしれない。
…すぐ自分がだれだかわからなくなってしまう。
落ち着いてリズムを整え、自分が聖霊に導いてもらっている神の延長であることを思い出したい。
ACIMワーク253-私の自己は宇宙の支配者である。
「私自身から招かれずに私のもとにくるものはない。
この世界においてさえ、私の運命を支配するのは私である。
私の身に起こることは、私が望んでいることである。
生じないものは、私がそれが起こることを望まないものである。」(L253-1-1,2,3,4)
そうなのだな~
すべて自分が見ているものは、自分が見せているものなのだ。
私はだれかや何かに巻き込まれているわけではない。
自覚はないが、すべて私自身が作って見せているゲンジツなのだ。
この真実もまたすぐ忘れてしまうから、ちょいちょい思い出すようにしよう。
『奇跡講座』を勉強している(思い出している)ときは、この世の今のささやかなことや瞬間的なことはリアルではないから…リアルを見ようと投げ打ってしまうことが多いけれど、もっと大らかでもいいかもな。
桜はやっぱり美しく心惹かれるし、新年号騒ぎはかわいくも見える。
そういう一つひとつが今からだをもって生きているってことだ。
そこを否定することが『奇跡講座』だと思っていたけど、それはそれ。執着さえしなければ、楽しんでいいのかもしれない。