レッスン83-レッスン65、66の復習

2017-03-01

早くも今日から3月。でも、けっこう寒い。

昨日ひとりでやっている会社の申告書を出して税金も(定額の7万円だけだけど)払ってきて、一服。いつもこれが苦手で一年のうちで2月~3月にかけてが憂鬱。今年もようやく終えた。

非常に緩慢に進んでいる私のACIMの勉強とワーク。もっと頑張ってもいいはずなんだけどなぁ。。自分の余力と生活の隙間がある時しかできてない。やめてしまわないことが目標、とは志ひくすぎだけど(^_^;)

おとといレッスン83をやった。

レッスン64:私の機能(はたらき)は、私が神に与えたものだけである。

このワークから私が感じたことは、

私は「出し惜しみ」しているかも、

ということだった。ワークからメッセージを傾聴しようと目をつむるや否や、「出し惜しみしているかも」と浮かんできた。

ACIMに対し?

その他の様々なことに関しても?

年を重ねた生きる智恵なのか、40代後半から衰えを感じている気力体力を温存しようと、どこかに「余」をもたせておきたいというのが、ここ数年のスタンスになっている。

これは今の私がゲンジツに生きるのに必要だと思っていたけど、すべてに内向きな護り傾向になっているのかもしれない。

(「まもり」とキーボードを押したら、「護り」と出て、あれ「守り」とどう違うのかな?とネットで見てみると、

「守る」は 大切なものとして持ち続けること。
(例) 宝を守る 約束を守る 伝統を守る 沈黙を守る 見守る
「護る」は 攻められることがないように持ち続けること。
(例) 国を護る 辺境を護る 身を護る 銃後の護り(角川書店 漢字用法辞典)

と。私のは「護る」か、やはり)

そして、それが「出し惜しみ」という姿勢になっているのかも、と思い当たった。

おそらくその心の奥には、不安感、恐怖がある。

とにかく物事を円滑に進めるためには、エネルギーを消費しつくして枯渇してしまわないように…と思っているけど、ここ数年、疲れやすくて気力体力不足を感じているのは、恐怖に基づいた考え方の「結果」なのかな、と感じた。

私は、

疲れやすい→(だから)省エネモードで→(その結果)出し惜しみ… していることがあるかも、と思ったけど、それは逆で、

不安・恐れの気持ち(の投影)→内向きにガード→疲れ… という因果があるのかもしれない。

日常生活のあり方のクセなのか、いつも不必要に緊張し体に力が入っていて、だからこそ疲れている、ということがあるかもな~とふと思った。

この世のゲンジツにまったくネガティブに引きずられないということは、なかなか現段階の私にはむずかしい。

私は表面的には、穏やか、やさしい、と言われることが多いけれど、心の奥では、ずっとファイティングポーズで生きているのかもしれない。無意識で身につけたクセかもしれないが、それを意識して緩めるときなのかもしれない。そう感じた。

レッスン65:私の幸せと私の機能(はたらき)はひとつのものである。

この文言、わかる、うん、わかるような。え、でもよくわからないような。わかるんだけど… という感じ。

ACIMの究極の教え「God is(神はある。それ以外はない)」を信じれば、私たちが奈落の底に落ちることはない、セイフティネットがある、ということだ。

それは原初からある。

この世でどんなに明るく楽しくやっていても、ふと顔を出すやるせない不安や恐怖感というのが誰にでもあるのではないか。

それは自作自演のドッキリだった。

それを思い出すということ。

自分の機能(はたらき)を思い出し、全うしてこそ、同じところにある幸せが見えるんだ。

自分が適用した(採用した)見方・考え方が自分の世界を創る。つまり世界観がゲンジツになる。

恐怖の論理は恐怖を強める。

愛=神を強めれば、愛が=神が強まる。

そしていずれ愛=神しかない…とわかるのかも。

私は頭ではACIMの考えがすばらしいと思っているけど、肚落ちがいまひとつなのかもしれない。おそらく、それは圧倒的に実践とくりかえしが足りないからなんだろうな~と思った。

筋トレだ、たぶん、要領は。くりかえし、毎日、そして負荷をかけていく。

といっても筋トレしたことないけど。たぶん。

ACIMは体をエゴに基づくものとして重きを置いていないけど、春だからか、ふと筋トレしてみたく、今、なった。話がずれてきているかな。

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