2017-03-30
春めいて
ようやく春らしくぽかぽかとした陽気になってきた。街を歩く人の服装も、スプリングコートになってきた。
3月までのプロジェクトが終わり、少し気持ちに余裕がある。子どもの頃から入学や進級が4月だったから、50代半ばの今でも4月には何か一新され仕切り直す雰囲気がある。また、今ここから、いいはじまりにしたい。
昨日、ふと思ったのは、ワークの際英語の原文で読んで進めたいと思っているのも、もしかしたらエゴから来るこだわりなのかな、と。
素晴らしい日本語訳があるのにもかかわらず原文の“読解”に時間がかかり、まるで英語の勉強のようになっていて、日本語だけならば一日で済むものを数日かかったりしている。それがACIMそのものから意識をそらすことになっているかもしれない。
かといって、そのやり方を変えられるかといえば、変えにくいけど。そういえば「目的の手段化」というのは、ズボラなくせに完璧主義なところがある私が陥りがちな“症状”ではある。
レッスン94:私は神が創造したままの私である。
レッスン91からは、真の自己の本質を思い出させるワークが続いているように思うけど、レッスン94のテーマは「私は神が創造したままの私である。」だ。
真の光は強さそのものであり、強さとは無罪性である、とも書かれている。もしこの事実を受け入れるなら、私たちは強いはずであり、光が自らの内にあるはずなのだ。
また朝起きてから夜の就寝まで1時間ごとに初めの5分をワークに用いる。
自分が作り上げた自己像を手放し、
「私は神が創造したままの私である。
私は永遠に神の子である。」と唱え、自分の中の神の子に到達しようとする。
ワークをして
I am as God created me. 私は神が創造したままの私である。
この言葉は強くシンプルで、好きだ。
5分のワークは初め、時間の圧迫(落ち着かない気忙しい感じ)を感じたが、午後には少し落ち着いてきた。
そして、ACIMを、ここではないどこかの精神的な理想のものがたり、ではなく、
これこそが事実・現実として捉えなおそう、と考えた。
ずっとずっと昔、故郷の畳の部屋に赤ん坊として寝かされ、まどろんでいた頃、
まだ神が近かった。神とつながっていた感じがする。
今や…その記憶ははてしなく遠い…。けど、
実はそれこそが現実に近く、
一度も神から離れてはいない。
私は、今ここに神が創造したままの私である。
そう、感じたいと思う。