2017-03-11
私にとって土曜日は街の空気が緩んで、逆にマイペースで仕事に向かる日。フリーランスは暦は関係ないとはいえ、街の雰囲気で私のリズムもなぜか影響受けるのだ。
急ぎ目の仕事があるから、やるど~と思っていたけど、気づいたら1時間以上、インターネットで春のシャツブラウスを見てた。あれやこれやディテール見たり、サイズを確認したり、良さげなもの同士を比べてみたり。ネットショッピングにも体力がいる。
新しいワークもやりたいところだけど、それはやめといて、月曜のワークのダイアリーの更新を。
レッスン73:私は光が現れることを意志する。
ワークから感じたことは。
「問題がない(実在しない)ことに対する不安を手放せ」
ということ。
私たち(というか私)は、自分の心や時間を「解決すべきこと」で埋めるのに忙しい。
そして問題と見えるものがあるときは、
鼻先にニンジンをぶら下げられた馬よろしく、ニンジンを得ようと、(ACIMの)光を避けてしまう。そして、それが解決済みとなると、光に目を向けるのではなく新たな問題で心や時間を満たそうとする。そして、それが人生だと思っている。
「ただ、いまの瞬間にこそ、光を意識せよ」そう言われた気がした。
私たち(私)は、自分の心の不安と均衡させるべく、外での問題を見つける。
そういえば、今朝の田舎の母からの電話があった。かつての店だったところを借りてくれているテナントさんが、次の契約はせずに店を出ることになった、という。空き店舗のままでは税金が払えない、売ってしまいたいが売れるか不安だ、と言っていた。どうしよう、私に新テナントさんや買主さんを見つける力があるとは思えない。
そう、問題というのはいつだって起る。というかあるものだ。
問題には、不満や課題、夢といったものも含まれるだろう。
○○だったら、私は幸せなのに。
○○だったら、私は光に満たされるのに。
そうではなくて、
誰の心にも光はすでにある。
それを意志を持って見ること。。。なんだろう。
今日光を導き手としよう。
レッスン74:神の意志のほかに意志はない。
こうは思いきれない自分がいて、こう唱えると逆に少し不安を感じる。
不安を感じているのは私のエゴだろう。
この世のゲンジツの中で自分の安全が脅かされていると感じたときに、このことを思い出し、正しく判断できるだろうか。
どんなときでも幻想を幻想と通りすぎて、闘う者にならずに生きることができるかな。
「神の意志のほかに意志はない。」と言われた時に、自分の考えや好きなものや居心地がよいと感じたものなどを手放すように迫られている気がしてしまう。
ACIMのどこかの文章で「単にそれは無価値なものだと認識されるだけだが、最初のうちはそれがわからない」というような文言があった気がするけど、そんな感じが、まだまだある。
だから聖霊の声をもっと聴きたいと思う一方で、今の自分に不都合なことを聴いてしまったら(どうしよう)、と思うような自分もいる。
えらい遠い道のりだな。こりゃ。。