レッスン94-私は神が創造したままの私である。

2017-03-30

春めいて

ようやく春らしくぽかぽかとした陽気になってきた。街を歩く人の服装も、スプリングコートになってきた。

3月までのプロジェクトが終わり、少し気持ちに余裕がある。子どもの頃から入学や進級が4月だったから、50代半ばの今でも4月には何か一新され仕切り直す雰囲気がある。また、今ここから、いいはじまりにしたい。

昨日、ふと思ったのは、ワークの際英語の原文で読んで進めたいと思っているのも、もしかしたらエゴから来るこだわりなのかな、と。

素晴らしい日本語訳があるのにもかかわらず原文の“読解”に時間がかかり、まるで英語の勉強のようになっていて、日本語だけならば一日で済むものを数日かかったりしている。それがACIMそのものから意識をそらすことになっているかもしれない。

かといって、そのやり方を変えられるかといえば、変えにくいけど。そういえば「目的の手段化」というのは、ズボラなくせに完璧主義なところがある私が陥りがちな“症状”ではある。

レッスン94:私は神が創造したままの私である。

レッスン91からは、真の自己の本質を思い出させるワークが続いているように思うけど、レッスン94のテーマは「私は神が創造したままの私である。」だ。

真の光は強さそのものであり、強さとは無罪性である、とも書かれている。もしこの事実を受け入れるなら、私たちは強いはずであり、光が自らの内にあるはずなのだ。

また朝起きてから夜の就寝まで1時間ごとに初めの5分をワークに用いる。

自分が作り上げた自己像を手放し、

私は神が創造したままの私である。

私は永遠に神の子である。」と唱え、自分の中の神の子に到達しようとする。

ワークをして

I am as God created me. 私は神が創造したままの私である。

この言葉は強くシンプルで、好きだ。

5分のワークは初め、時間の圧迫(落ち着かない気忙しい感じ)を感じたが、午後には少し落ち着いてきた。

そして、ACIMを、ここではないどこかの精神的な理想のものがたり、ではなく、

これこそが事実・現実として捉えなおそう、と考えた。

ずっとずっと昔、故郷の畳の部屋に赤ん坊として寝かされ、まどろんでいた頃、

まだ神が近かった。神とつながっていた感じがする。

今や…その記憶ははてしなく遠い…。けど、

実はそれこそが現実に近く、

一度も神から離れてはいない。

私は、今ここに神が創造したままの私である。

そう、感じたいと思う。

レッスン93-光と喜びと平安が私の中に宿っている。

2017-03-29

レッスン93をやったのは先週21日。ワークをした日とそれをダイアリーに書く日のライムラグを縮めたいと思っているけど、まだ縮まらず、ダイアリーブログがなんとなく億劫になっている。ワークはしたいけど、ブログにするのがむずかしい。

改めて、ワークのダイアリーに何を書いたらいいのかわからないことや、

さらにレッスン91からは文章が長く理解しきれていない、というのと、

こんなこと(中途半端にダイアリーを書くこと)して何になる、という気持ちがある。

でも、ブログがなければワーク自体緩く続けることもできていない気がするし、多少なりとも復習になっているのでは?とも思っている。

レッスン93:光と喜びと平安が私の中に宿っている。

レッスン91からのワークは、くりかえし私たちに闇ではなく光に目を向けるよう方向づけしている。

ワークは冒頭、「あなたは自分の中に悪と闇と罪が住みついていると思っている。もし誰かがあなたの真の姿を見たなら、毒蛇を見たときのように飛びのき後ずさりするだろうと思っている。」から始まる。

ここには私たちの深い自己嫌悪が書かれている。これは私のように意識の上でもそう思っている人と、意識はしていなくても無意識でそう思っている人とに分かれるだろう。

ただ、この自己嫌悪には根拠がない。「虚無に基づく信念」だけど、虚無が作り上げた世界にずっと生きている(と思っている私たち)には、まるで信じがたい。

私たちは神から自分から分離したと思い込んでいる。そして、そのことについて神にあまりに大きな罪の意識と恐怖を感じている。

でも、ACIMはくりかえし、それは誤解だ、と教えてくれる。

自ら離れたと思っている今ここの私は、エゴでありそれこそが虚像。真の自己は一度も神から離れたことがなく今も神の平安とともにある。

それをレッスン93では「あなたが為したと思っているすべての悪は一度も為されたことはないと保証されて、なぜあなたは大喜びしないのだろうか。」と言っている。「あなたの罪がすべて無であることも、あなたが創造されたままに清らかで神聖であることも、光と喜びと平安があなたの中に宿っていることも、たしかに保証されている。」と太鼓判が押されている。

でも、この考えが、虚無の世界になじんで闇の法則で生きている私たちには、ぴんと来ない。

レッスン93では、

光と喜びと平安が私の中に宿っている。

私の無罪性は神により保証されている。」と唱え、神と一なる自己を体験することに主眼が置かれている。

そして、私たちの強固な思い込みに正しい考えを刷り込むべく、起きている間はずっと1時間うち最初の5分をこの練習に使うこと、としている。

ワークをして

毎時最初の5分を使うというのは、なかなか慌ただしい。気づくと時間が過ぎていることもままあり。私はまだフリーランスだから家での作業中はやりやすいけど、勤務している人とかはいったいどうやっているのだろう。こうしたワークができる環境というのは限られているのでは…?

最初のうちは5分とても長く感じられ、何度も目を開けてしまう。落ち着かない。

でも回を重ねるごとにだんだん、やりやすくなってきた。

夕方5時のワークでは「私は幸せになってもいい」と感じた。

未だに心の奥のどこかで、「私は悪い子、悪い人間で、だから幸せである資格がない」という刷り込みがあるのだ。その自己否定は大人になってから気づいて、変えてきたつもりだけど、まだ、ある。

そこで、「私の無罪性は神により保証されている。

そして、「光と喜びと平安が私の中に宿っている。

この本当は正しい事実を、新しい暗示のごとく、何度もくりかえす。

エゴが怯えて身構えてしまわないよう、リラックスしながら、気を抜きながらくりかえした。

晩7時のワークでは、

「罪ある自分が少しましな世界を望むんじゃないんだ、そもそも原罪はないんだ」と感じた。

だから、ずっとHappy&Peacefulでいていい。問題を温存せず、手放していいんだ。

これはぐるっと一周して、元いたところに戻る…みたいだけど、

結局「自分を愛する」ということだ。そしてリアルには他者と自己の区別はない。

だからシンプルに「愛する」こと。

いいことをしたから、許される、認められる、

悪いことをしたから、不十分だから、認められない、罰せられる、というのではなくて、

そもそも無辜(むこ)であり、愛されていい。幸せであってもいい。

夜9時のワークでは、「幸せであってもいい」じゃなくて、

「いや、幸せでなきゃいけないんだ」と思った。

だからこそ、いつも上機嫌であること!

エゴは罪悪感と怖れから必要のないものを創り出している。それは実は起っていない過ちのためだ。

それを取りなすこと。それが祈りの本質なのかもしれない。

レッスン92-奇跡は光の中で見え、光と強さはひとつのものである。

2017-03-28

レッスン92:奇跡は光の中で見え、光と強さはひとつのものである。

最初にこのワークは前のレッスン91「奇跡は光の中で見える。」の延長だと書かれている。

今、私たちは肉体の目でこの世の様々なものやことを見ていると思っているが、ACIMの中でイエスは実は真に見てはいないのだと言っている。また脳で様々なことを考えていると思っているが、実は真には考えていないのだと言う。

肉体の目…真に見ることはできない。

肉体の脳…真に考えることはできない。

肉体の目では闇しか見えない。それはエゴの弱さに拠って立っているから。エゴの闇の世界が見えているのだ。

神の強さの光があってこそ、私たちは真に見ることができ、考えることができるのだという。

光=強さ…自己     …愛し赦す

闇=弱さ…エゴ(偽自己)…裁き咎める

そうであれば、私たちに必要なのは光と強さである。

レッスン92は肉体の目を閉じ、真の自己に出会えるよう聖霊に導きを求める。この20分の練習を2回。

ワークをして

以前は朝晩短い瞑想していたこともあったけど、20分目を閉じて心を鎮めるということが久しぶりだった。

睡眠以外では、ネットやスマホ、テレビなどの音や情報、刺激にさらされ続けている。

そして、たいして忙しくなくても、何かやるべきことに煽られているような感じが常にある。

煽られ感というのはエゴからのものだろう。何にもなくても、アワアワしてしまう(要はビビリ)。

こういう時間のリズムは、故郷に帰省した際には別ものになる。自分の生活圏じゃないためか、時間がゆったり感じられ一日が長く感じられる。1時間という時間の体感がまったく変わって長くなる。「あれ、まだこの時間か」と思うことがしばしば。それがとっても不思議。

「忙しい」は「心を亡くす」と書くとはよく言うけど、実際心を亡くしているのかもしれない。現代人が忙しくするのは、真に見て感じることをしないで済むようにするためかもしれない。

改めて、心を鎮める、というのも、私に必要なことだなと思った。

稀勢の里さん、手負いの優勝、すごい!

2017-03-27

テレビをつけたら、お相撲が

ここ最近冬のような寒さだ。昨日は月1回の色彩サークルがあった。持ち回りで講師というか進行役をやっていて昨日は私が担当。「アートセラピー」のミニ講座みたいなものをやった。ちょっとしたキンチョーがあり、よい刺激にもなった。

帰宅後、テレビをつけたらお相撲だった。

普段相撲は見ない方だけれど、見れば千秋楽で横綱・稀勢の里さんが取り組むところ。場内は気合いに満ちている。二日前の24日左肩を痛めたらしくテーピングが痛々しい。本来ならば休場してしかるべきなのだろうけど、押して出ているらしい。昨日の取り組みのVTRでは、痛めた肩に力なくあっけなく敗れる姿があった。

ケガが悪化したらどうするんだろう、やめとけばいいのに。

相手は優勝して横綱になるのを目指す大関・照ノ富士さん。照ノ富士の方は、前日の取り組みで対戦相手の琴奨菊さんを立ち合いで変化してかわしたことがブーイングされているらしい。VTRは見ていないけど、試合なんだからそれもありだろう。相撲わからないけど、それも技のうちなのでは?

一般的に考えたら、照ノ富士関が勝って終わり。稀勢の里、ケガなのによく出てきた…、ってとこだろう。日本人の判官びいきなのか、ケガをしている稀勢の里さんをつい応援してしまう。

最初の立ち合いで息が合わず、仕切り直し。その時、あれって、思った。もしかしたら、流れが変わる?

よくわからないけど、照ノ富士さんの表情が少し曇っている気がする。前日、立ち合いの変化で勝ちはしたけど、それで受けたブーイングが意外と響いているのかしらん。勝つことへのストレートさがなくて迷いがある感じ。

立ち合いし直し。思わず正座をして画面に見入った。

決まり手は何と言うんだろう、照ノ富士さんの方がころんところがった。

なんと手負いの稀勢の里が勝った。すごい!!

稀勢の里、優勝決定戦へ、すごい

もう画面にくぎ付けだ。これで照ノ富士、稀勢の里、ともに二敗で優勝決定戦にもつれ込むらしい。

そして迎える優勝決定戦。これって、世紀の一番じゃ…

もう画面にくぎ付けだ。

もうこうなったら、やるしかない。息を飲むとはこのことだ。一瞬たりとも見逃すまじ。

そして、なんと、稀勢の里が勝った!!

すごーい、すごい!!

それから、場内に流れる君が代と稀勢の里さんの涙…。思わず一緒に歌ってしまう。君が代、歌ったのいつぶりだろう。

…ここで6時10分となり中継はおしまい。

ふだんお相撲見ないけど、だからこそか、感動。すごい!よくやった。

ACIM的に見たら…

それからいくぶん落ち着いて、ACIM的に見れば(もちろん勝ち負けは二元性の世界のことでACIM的ではないけれど)照ノ富士さんが負けたのは、前日での立ち合いの変化について、どこかしら“罪悪感”のようなものを持っていたのではないかしらん?と思った。

ネットで見たら、その一番、照ノ富士関には「モンゴルに帰れ」「恥を知れ」などといった激しいヤジが飛んだらしい。「勝ってしまったら…(さらに反感を買うのでは)」と優勝してしまうことへの恐怖がどこかにあったのではないか。

意識の上ではそんなことには動じないのかもしれないけれど、それでも人の子、無意識には、多少なりとも罪悪感や勝ってしまう恐怖があったのでは。それが、取り組み前の迷いのような、寂しさのような表情ではなかったのかな、と思った。

ずっとACIMの見方を学んでいるから、うがった見方になっているかもしれないけど。

いや、こんなに勝ち負けで興奮するのは、学べてないのかな。

私たちは体ではないし、勝ちも負けもない。でも心を動かしたということはそこに真実の何かが含まれているからか。それともエゴの策略にまんまとかかっているだけなのか。

熱くなった。そして熱くなるのもいいな、と思った。

お相撲また見たいし、応援したい。稀勢の里さんも照ノ富士さんも応援したい。

勝つこと、成功することには常に罪悪感も伴う。頂点に立つということは、その下に多くの人がそうではない人がいるというころだから。それを押して勝つのには、自分なりの裏づけや大義がいるのだろう。

私は、勝ったり負けたり、成功したり失敗したりする二元性の世界の見方を卒業したいと思いつつ、今それに興奮したり感動したりもしている。

レッスン91-奇跡は光の中で見える。

2017-03-25

レッスン91からはまた1つの学習の固まりが始まる。

私の今のワーク学習の仕方は、ACIMの学習サイトで英語を聴いて、

大畑学さんのA Course In Miracles Workbook 精読で短いパラグラフごとに英単語や解説を見て

『奇跡講座 ワークブック編で日本語訳を見て、、、と、まるで高校時代の英文読解みたいになっている。

和訳で通しで読んだ方が意味は理解しやすいけど、原文はどうなっているんだろう、と気になるし、2つの日本語訳を見比べると訳し方のちがいもあったりしておもしろい。

そうやっていると、文章読むこと自体にけっこうな時間がかかる。レッスン91からのワークは長文が多く手ごわい。また抽象度が高く、日本語で読んでもよくわからない部分もある。

ちなみに、一回目のワークはいつやってたんだろ、と気になってメモ帳を見たら、2014年の6月だった。6月にレッスン91から113まで仕事と並行しながらけっこう毎日まじめにやってた。少し若い自分が。

レッスン91:奇跡は光の中で見える。

レッスン91は「奇跡には心眼(ヴィジョン)が伴う」というACIMの中心概念から始まる。

奇跡は常にある。それが見えるにはヴィジョンが要る。

光の中では奇跡が見える。

闇の中では奇跡が見えない。

だから光は決定的に重要だけど、私たちの信仰心は今、光ではなく闇に向けられている。それを聖霊(=内なる強さ)のサポートを得て逆転させる必要がある。

レッスン91はその強さを自分の内に感じるワークだ。

どうやってかというと、自分への次の問いかけによって。

「奇跡は光の中で見える。

肉体の目はこの光を知覚しない。

しかし私は肉体ではない。私は何なのだろう?」

この問いに対する答えを心の内に探すことが、自分の強さに気づく方法だという。そして、内なる強さを体験し、神とのつながりの信頼感にくつろぐ。

ワークをして

私の場合は、この「私は何者か」との問いかけに対して、

「神の子」という答えが浮かんだ。

一方で、ACIMの教えどおりの「神の子」を実行することは、命綱なしで高い崖から飛び込むような怖さがある。

ACIMを学べば、安全ネットがあってやさしく受け止められるのだと知っているはずなのに。怖い。。コワイ。こわい。

私は自分の弱さに立つのか。

強さに立つのか。

「私は肉体ではない。」と言う時、それを否定したい気持ちがあった。

今、体のある症状に悩んでいるから、「体ではない」とはやりすごしにくいのだ。困ってはいるけど慣れてもいて医者にも行かず放置している。

その症状は、私の無意識の罪悪感や恐怖の象徴として私がゲンジツ化しているものだ。

だけど、ちゃんとこの世で“手当て”した方がいいかもしれない、とワーク中思った。放置していることが“温存”となっているのかもしれない。

 

私は奇跡が見たいし、ヴィジョンを得たい。

奇跡は真実の顕在化であり、そこにすでにある真実がヴィジョンによって見えてくるのだという。

私は紙の上で学んでこそいるけど、奇跡もヴィジョンも体感できていない。まだまだよくわかってないんだなと改めて思う。

復習Ⅱおわり-レッスン61~80

2017-03-23

レッスン61~80を復習する「復習Ⅱ」が修了。

ここでは、初めて「赦し」という概念が出てきて、それが「私の機能(はたらき)」なのだということが示される。

また「不満」ということがどれだけ機能と逆行するものであり、ACIMの意図する神の救済計画への攻撃であるか。

だから、不満を「奇跡」と入れ替えるべき。そうすることができれば問題と思うものは存在しないのだと。

復習Ⅱのレッスン61~80の主題概念は下記のとおり(日本語は『奇跡講座ワークブック編より』)。短いシンプルな文言が多くくりかえすうちに、復習Ⅱの元(英語)の主題概念は覚えた。英語圏の方とコミュニケーションする機会があったら唱えることができるけど、相手がACIMに親しんでる人じゃないと「なんじゃ、そりゃ」ってなりそう。。。

  日本語  英語
61私は世の光である。61I am the light of the world.
62赦しは、世の光としての私の機能である。62Forgiveness is my function as the light of the world.
63世の光は、私の赦しを通じて、すべての心に平安をもたらす。63The light of the world brings peace to every mind through my forgiveness.
64私が自分の機能を忘れずにいられますように。64Let me not forget my function.
65私の機能は、神が私に与えたものだけである。65My only function is the one God gave me.
66私の幸せと私の機能はひとつのものである。66My happiness and my function are one.
67 愛が私を、愛と同じに創造した。67 Love created me like itself. 
68愛は不満を抱かない。68Love holds no grievances.
69私の不満が、私の中の 世の光 を隠している。69My grievances hide the light of the world in me.
70私の救済は私の中から訪れる。70My salvation comes from me.
71神による救済計画だけがうまくいく。71Only God's plan for salvation will work.
72不満を抱くことは、神の救済計画に対する攻撃である。72Holding grievances is an attack on God's plan for salvation.
73 私は光が訪れることを意志する。73 I will there be light. 
74 神の意志のほかに意志はない。74 There is no will but God's. 
75 光は訪れている。75 The light has come. 
76 私は、ただ神の法則のもとにある。76 I am under no laws but God's. 
77 私には奇跡を受け取る資格がある。77 I am entitled to miracles. 
78 奇跡が、すべての不満と入れ替わりますように。78 Let miracles replace all grievances. 
79 問題が解決されるように、私が問題を認識できますように。79 Let me recognize the problem so it can be solved. 
80 私の問題がすでに解決されていることを認識できますように。80 Let me recognize my problems have been solved. 

レッスン90-レッスン79、80の復習

2017-03-21

冷たい雨が降り続いている。“催花雨”というらしい。花芽が吹くには雨が必要だそうで、花に早く咲けと促す雨なのだとか。繊細で美しいな。昔の季節感は今よりもっと味わい深いものだったのかも。

気づけば、今年の冬は一度もエアコンをつけなかった。乾燥するし電気代も高いしと。もっぱら電気ストーブを連れて居住スペースと仕事部屋を移動していたら、不自由も感じなかった。しかし、今日は真冬みたいな寒さ。足元で電気ストーブが頑張ってる。

レッスン79:問題が解決されるように、私が問題を認識できますように。

このレッスン79、これまで何度もくりかえし目にしてきて、やっと肚に入った気がした。

問題=不満

解決法=奇跡

、という見方。

不満がなぜよくないか。

それは、不満が自ら創りあげたものでどれだけリアルに感じようと実際にはないものだから。

それにかかずらうのは無意味だし、無益だ。

せっかくの奇跡の機会を奪っているから。

 

この世で自分の身に降りかかる不都合なことすべてを、

じつは「起こっていない」と見抜くのはむずかしいけど、

ついその理不尽さを嘆いたり、

正義をたてて怒ったりするけど、

問題とは不満、

解決法とは奇跡、

そして奇跡とは、真実を見通すこと。

だから、不満を赦し、それを入れ替わる奇跡を受け入れることが、自分を幸せにする。

ゲンジツで不都合なことに巻き込まれると、すぐに「問題とは何か」を忘れてしまうけど、このことをなるたけ覚えていられる時間を長くしたい。

リアルに感じられるように起っているけれど、問題は実際はない。私たちのものの見方の誤りでそう感じているだけで実際にはない。

問題が起こった、と思ったら、それを赦すこと。現実ではないと見抜きそれにまつわる感情をゆるめ弔うこと。

幻想に大きい、小さいはないと言うけれど、自分にとってインパクトがあることが起こっても、この原則を覚えて実行できたらいいと思う。

レッスン80:私の問題がすでに解決されていることを認識できますように。

大畑学さんのWorkbook精読には「簡単に言えば、実相的には問題はどこにも存在しない。問題を抱えた時点で、あなたは幻想を抱いている、ということである。」と解説があった。

たしかに。。ゲンジツに問題があるように見えても、本人はまったくそれが問題ではなく動じず幸せのままでいるということも、理屈の上ではありうる。

今回ワークをやった際に「困ったことは起らない」というフレーズを思い出した。日本一の納税額(お金持ち)で有名になった斎藤一人さんの最初の本『変な人の書いた成功法則』にあったのだ。

昔すごい考え方の人もいるものだと感心し、それから何か困ったことが出会いそうな局面で「困ったことは起らない…困ったことは起らない…」と念仏みたいに唱えている。

この言葉は一元性の世界観に基づいているわけではないけれど、こう唱えるだけでもネガティブに流されがちな姿勢が正される。

レッスン61~80の復習Ⅱでは「不満」や「問題」がいかに光の道に反したものか、手を替え品を替えくりかえし説かれた。

不満・問題⇒幻想を見ている

⇒だから、それを赦す

不満を常に奇跡と入れ替えるということ。

よくポジティブシンキングというけれど、これがほんとうのポジティブシンキングなのかもしれないな。

二元性の光と影の光だけを見ようとするポジティブシンキングではなくて。

これは、ひとり家で穏やかにワークをしている時は「わかった」と思うけど、外に出て出会いがしらに猛スピードの自転車にぶつかりそうになった時には、すでに忘れている。

とにかく不満の芽を育てないようにしよう。赦そう。

なるたけ覚えているように、しよう。

レッスン89-レッスン77、78の復習

2017-03-20

「人生で二番目に大切なもの」と今朝の夢

世間では三連休の三日目。予定なし。春めいてきた。

昨夜のテレビで、ネットで話題になっている珍問答?、として、15日国会での麻生太郎財務相と山本太郎参議院議員とのやりとりを放送していた。

山本太郎議員が「人間が生きる上で、一番必要なものは何か。私は空気だと思います」と言った上で続けて「麻生大臣、人間が生きる上で、二番目に大切なもの。何だと思われますか?」と質問。麻生さんは、初め戸惑いながらも、

「私はこの種のわけのわからん質問が来たときには答えるのはひとつ。」

「人間が生きていくうえで大事なことは、朝、希望を持って目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝とともに眠る。この気持ちだと思ってます」と答えた。その回答が、「かっこいい」とか「太郎対決の格のちがい」とか言われているのだとか。

私も、ふむ。たしかに、と思って、メモした。

メモするとき、「働き」は勤労だけの意味よりもっと広く「それぞれの人がそれぞれの役割を果たす」みたいな意味がいいとひらがなにした。

朝、希望を持って目覚め、

昼は懸命にはたらき、

夜は感謝とともに眠ること。

シンプルだけど、なんかいい。すごくいいんじゃないだろうか。

これは、山本議員が麻生大臣から二番として「水」の回答を引き出して「水道の民営化」の話につなげたかった質問だったとキャスターの人が解説していた。

そのせいなのか、今朝「貯水施設」の夢を見た。東京都に水を供給する、東京近郊の県内の貯水施設に仕事で行っているらしい。帰り際の雑談で「こういう施設も最近は都内に置くべきだという話がありますからね~」とかいう職員さんの話を聞いている私。

その後、その施設の管理人のおじさん(60代位の男性)と、その飼い犬がそっくりで、「(犬が)メガネをしたらホントそっくりですね」と私が言い、笑っている。

夢は概してヘンだけど。へんな夢。

でも、ふと「水」のことって知らないな、と気になった。水事情ってどうなってるのかな。あたりまえのように思っていたけど、家の水って蛇口まで毎日どこからどう伝わって蛇口に来ているんだろうか、と。

レッスン77:私には奇跡を受け取る資格がある。

3月9日にやった。

奇跡とはいわゆる超常現象のことではない。

不満や問題の向こう側にある、実相的な真実が具現化すること。

「実相的な真実の具現化(大畑学さんの精読版の表現)」のことをイエスが「奇跡」という名で呼んだのは、おもしろいと思う。

このコースのタイトル自体が「奇跡講座」だ。粗くいうと「(ヴィジョンを開いて)真実を見ろ」ということかな。。

レッスン77の文言は、私にはとくに訴えかけてくるものがある。

私には奇跡を受け取る資格がある。」と唱えると、何かが溶けていくような気がする。

愛は不満を抱かない。(l68)」とか、「私の不満が、私の中にある世の光を隠している。(l69)」とかの方がわかりやすい気もする。一方で「私には奇跡を受け取る資格がある」は“正気”を思い出せる気がする。

私(私たち)は、罪悪感の着ぐるみなのかな。

炎天下でも、それと知らず汗だくで着ぐるんでいる、そのぬいぐるみ。

「あんたは今ぬいぐるみを着ていて、それは脱いでもいいんだよ」と教えられたような。

でも脱いじゃうことは経験ないよ…

罪悪感は恥という感情とも深くつながっているんだろう。

この主題概念は、理由はわからないけど、私をダイレクトに癒してくれる。

誰でもより真実を思い出させる主題概念があるというけど、私の場合はこれがそうかな。たくさんの主題概念の中でも心に直接響くものだと思う。

それは資格だったか。

そしてそれがあるのか。

ありがとうございます。感謝します。

レッスン78:奇跡が、すべての不満と入れ替わりますように。

午後のワークは気が急いて上滑りしてしまう感じがあった。その日のうちに提出すればいいという仕事でも昼一番から追われている気がして集中しにくくなる。必要以上に焦るのは私の良くない習い性だ。

「奇跡が、すべての不満と入れ替わりますように。」というのは、誘惑に屈しないように、ということかもしれない。

崩れた姿勢を不満という杖で支えてバランスをとっているようなところがあるかも。

仮想悪や仮想敵を作って不満やグチを言い合う。具体的な相手がいなくても、社会とか、時代とか、政治とか、タレントの噂とか。

つい抑えていた不満やグチを出すと、一時は軽くなった気分になるけど、それは幻想の世にブーメランを投げただけのこと。またしばらくしたら、自分の所に戻ってくる。それは堅い。

そうではなく赦して、1つずつ終わらせていくしかない。

少しずつ。少しずつクリアに視る術を身につけていくしかない。

レッスン88-レッスン75、76の復習

2017-03-17

ワークをやった日と、それをダイアリーにする日とのかい離がまだ続いている。これは、3月7日と8日。もう10日位前にやったワークなんだなぁ。

3月11日には6年前の大震災当時を思い出し、気持ちがぐるぐるしてしまったけど、これもまたこの世で「神との分離」を再現しているのだ、これもまた他のことと同じ、赦すべきことなんだ、とあらためて思う。

「経済って何だろう」と、この世の経済のしくみに疑問…、のようなことを書いたけどそういえば、私は趣味でささやかに株式投資をしていて、その金融資本主義に便乗していた一人だった(^_^;)リーマンショック前に初めてその損失まだあり。儲けも出したいが、まず元に戻したい、と思ってちまちまやっている。会社の動き、世の中の動きと株価が複雑に絡んで動くの、よくわからないながらも、刺激的でおもしろい。

そして、これからも成長しそうでいいな、と思う株を先週末買っていた。ネット通販、公共料金のクレジットカード決済代行の会社だ。それが買った翌日に「不正アクセスと個人情報の流出」があったとニュースが…。ストップ安に~。あわあわ…。次の日、これからどうなるか見当がつかず、売り注文を出して外出した。

…で、売れてた。13.7万円の損確定。あわあわ…。

もちろん、これも幻想!!

気分を左右されることじゃない、と知ってる。もとい。

私って、、、。何やってんだか(>_<)

レッスン75:光は訪れている。

私がこの世で幻想ではなく、実相を生きるとはどういうことなんだろう。

ワークをしていて時々浮かんでくることは、「故郷に拠点を置く」ことだ。

これが聖霊に勧められていることかどうかわからない。けど、なんとな~く、高齢になった母の元にいた方がいいんじゃないか、と思う。

一方で少し抵抗も感じる。

家意識が強い北陸の故郷では、独り身で子どももいない私は肩身が狭い気がする。何らの「成果」もなく…、とも思ってしまう。どんな「成果」であれば許容されるというのだろう。

「故郷に拠点をもつ」…私の世界が広がることかもしれない。

その場合、どうやって生計を立てるのか。

親とはいえ、性格やリズムがまったくちがう今、一つ屋根の下で住む覚悟ももてないでいる。ただ、ワークをしていると、漠然とそうした方がいいのかな、と感じる。

それともう一つ感じるのは、私は「圧倒的に言葉が少ない」ということ。

ACIMは、究極的には「God is(神はある)」だ。だけど、それをそう説明するだけでは何ら意味はなさない。

これをこのゲンジツの世で表すには、いろいろな知識や言葉も必要かな、と感じる。ACIMを仏教と比較したら、とか、今の私にはまったく説明できないし。

歴史も、経済も、一般常識的なことも、ここ数年何でも「幻想だから」とやりすごし過ぎた感があるから、勉強したい、と思った。その方法として、放送大学とかもいいかな、などと思った。この春は間に合わないけど、また考えてみよう。

レッスン76:私はただ神の法則のもとにある。

むか~し、占いに興味があり、初めてタロットを買った日、裏返したたくさんのカードから「自分のカードを選ぼう」と無作為に一枚取った。

それは「星(スター)」というカードで、そのシンボルは“水を運ぶ人”、“チャネルの役割”。手にした水がめから水を浴びるような女性の絵がやわらかくて美しくて、それから自分のテーマも“水を運ぶ人”だ、と思うようになった。

当時、そのココロもいろいろ考えた。水は生命力や癒しや深層の感情を表わしていて、そうしたものを目の前の人に“運ぶ”ことを天命としたいのかなと考えた(大げさだけど)。

数年前ACIMと出会い、ACIMについて“水を運ぶ人”になりたいと思った。

でも、そうならば、そのはたらきに、もっともっと意識的になって、変えることがたくさんあるんだろうな。今の私はエゴの執着の元にある気がする。

『神の使者』に、

学び始めの頃は、「何かを捨てよ」と言われている気がする。が、ただそれらが無価値だと認識されるだけである、みたいなくだりがあったけど、

今も、何かを手放せと言われている気がする。そして、それを認めることに怯えというか、居心地の悪さを感じる。

東京ひとり暮らし、地位もお金もなく楽な立場ではあるけど、ふと思うと、その気楽な立場に執着があるんだな~

ACIMの勉強を始めて今年で5年目になるのか…短い長いのかわからない。濃いか薄いかもよくわからない。

完全に私を守ってくれる神の法則を大事なものと思いつつ、未だに怯えのようなものを感じている私。

一生こうしてこわいのかな。

ACIMを学んでいるというお題目を掲げつつ、神から逃げている?

6年目の3.11

2017-03-12

6年前のあのとき

昨日は東日本大震災から6年目の日だった。あの時のことを思い出した。

2011年3月11日午後2時26分に1回目の地震発生。午後3時15分に2回目の揺れ。その後大津波、そして原発事故。

私は東京の錦糸町で占い鑑定の契約仕事の日だったが、一緒に仕事をしていた先輩とすぐにお客を帰して店を閉めて、いっしょにバスに乗って、時間はいつもの4倍位かかったが、無事帰宅することができた。

最初は何が起こったのかわからなかった。

翌日テレビで大津波に飲み込まれていく建物や車を見た。行方不明の方の数が増えていった。こんなことが実際に起こるのか…と、ただ茫然としていた。企業CMが消え、くりかえしくりかえし流されるACのCMが不気味だった。

あのとき、日本人が戦後信じて頑張って積み重ねてきた産業信仰みたいなものが、一気に崩れた気がした。ガーンと頭を殴られたようなショックがあった。述べ95万人もの復興ボランティアが駆けつけた。日本全体で「もっと便利に、もっと豊かに」という生き方そのものを見なおそうと、気持ちをひとつにした。今ではそれも薄れてきている。

亡くなった方、

その家族の方々。

今も復興途上で辛抱を続けている方。

人生が大きく変わってたいへんな思いで日々を生きている人。

ものすごいことだった、とても悲しいことだった、と改めて思う。

この現実を赦すとは?

ACIMを学び、厳しい現実もエゴが見せている幻影だと知った。

現実のできごとに対する感受性が鈍化している自分がいる。そしてそれに罪悪感を感じている自分も。

でも一方で、これもまた赦すべきことだ、と思いなおしたりしている。

こうした厳しく恐ろしい現実に直面したとき、どうしたらよいかわからなくなる。

心の中では、常に赦すということ。

では、ここにいる私の行動は?

この世はすべて幻想なのだから無頓着でいいということとはちがうだろう。

『神の使者』を読みACIMのワークを始めてから、乱暴な例えかもしれないけれど、この世をロールプレーゲームのようなものと見ている。

ここにいる自分はゲームの中の主人功として生きている、そして実はそのゲームをしているもう一人の自分がいる、という見方だ。ゲームの中のことは幻想だから、それに囚われず、今も神と離れていない真理に目覚めること。それが真に生きるといういことだ、と学んだ。

だからといって、どんなことがあっても、ゲームの中のこと…と割り切っていいものだろうか。

「赦す」ことを意識している私は、ただ共感力の乏しいドライな人間になっただけではないか、とも思う。

コストって? 経済って? 発展って?

あのとき、津波で原子力発電が停電した事態について、専門家がテレビに呼ばれ、ずっと「万が一メルトダウンしたら、大変なこと」と言い続けていたが、結果的にはメルトダウンはすでに起きていた。

1ヶ月後、事後の甚大さはチェルノブイリ事故と同じ「レベル7」に引き上げられ、後々チェルノブイリをはるかに超える放射性物質が出てしまったこともわかってきた。今もどう収束できるのか見えていない。

あの時命がけで陣頭指揮を取って日本を守った福島第一原発の吉田所長は2年後に亡くなった。震災とは別だけど、私の父も旅立った。6年の変化は大きい。

原子力はCO2を出さずクリーンで低コストなエネルギーだと聞いていたけど、コストとは何だろう。

どこまでがコストなのかな。お金で換算できることと、できないこと。

経済とは何で、

発展とは何で、

豊かさとは何なんだろう。

こう思いを巡らせる私は、実在しない現実に巻き込まれているのだろうか。

これこそが私が赦すべき現実なんだろうか。

東日本大震災を赦す、とは?

たぶん、そうなんだろう。。。

では、「ゲーム」の中の小さな私の生き方は?

何かと闘ったりはしないとしても、このうつろう現実のなかで、どう生きたらいいんだろう。

やはり目の前の人、出会う人、縁ある人を、赦し、愛する、ということかな?

じゃあ、それができているかな?

ACIMを自分なりに学び、浸透させようとしているけど、独学で勘ちがいしてベクトルをまちがえたりしていないかな?

ただ社会に無関心になり、事なかれご都合主義を助長させているだけではだめだよね。

東日本大震災を赦す、とは、ここに体を持って在る私がどう動くことだろう。

あの震災直後ありえないことに直面して、ACIMと出会う前だったけど、一瞬“正気”に戻った気がした。

ACIMを少しだけど学んだ私は、

東日本大震災のぜんぶをどう赦すのか。

赦した私は、どう考え、どう動くのだろう。

レッスン87-レッスン73、74の復習

2017-03-11

私にとって土曜日は街の空気が緩んで、逆にマイペースで仕事に向かる日。フリーランスは暦は関係ないとはいえ、街の雰囲気で私のリズムもなぜか影響受けるのだ。

急ぎ目の仕事があるから、やるど~と思っていたけど、気づいたら1時間以上、インターネットで春のシャツブラウスを見てた。あれやこれやディテール見たり、サイズを確認したり、良さげなもの同士を比べてみたり。ネットショッピングにも体力がいる。

新しいワークもやりたいところだけど、それはやめといて、月曜のワークのダイアリーの更新を。

レッスン73:私は光が現れることを意志する。

ワークから感じたことは。

「問題がない(実在しない)ことに対する不安を手放せ」

ということ。

私たち(というか私)は、自分の心や時間を「解決すべきこと」で埋めるのに忙しい。

そして問題と見えるものがあるときは、

鼻先にニンジンをぶら下げられた馬よろしく、ニンジンを得ようと、(ACIMの)光を避けてしまう。そして、それが解決済みとなると、光に目を向けるのではなく新たな問題で心や時間を満たそうとする。そして、それが人生だと思っている。

「ただ、いまの瞬間にこそ、光を意識せよ」そう言われた気がした。

私たち(私)は、自分の心の不安と均衡させるべく、外での問題を見つける。

そういえば、今朝の田舎の母からの電話があった。かつての店だったところを借りてくれているテナントさんが、次の契約はせずに店を出ることになった、という。空き店舗のままでは税金が払えない、売ってしまいたいが売れるか不安だ、と言っていた。どうしよう、私に新テナントさんや買主さんを見つける力があるとは思えない。

そう、問題というのはいつだって起る。というかあるものだ。

問題には、不満や課題、夢といったものも含まれるだろう。

○○だったら、私は幸せなのに。

○○だったら、私は光に満たされるのに。

そうではなくて、

誰の心にも光はすでにある。

それを意志を持って見ること。。。なんだろう。

今日光を導き手としよう。

レッスン74:神の意志のほかに意志はない。

こうは思いきれない自分がいて、こう唱えると逆に少し不安を感じる。

不安を感じているのは私のエゴだろう。

この世のゲンジツの中で自分の安全が脅かされていると感じたときに、このことを思い出し、正しく判断できるだろうか。

どんなときでも幻想を幻想と通りすぎて、闘う者にならずに生きることができるかな。

神の意志のほかに意志はない。」と言われた時に、自分の考えや好きなものや居心地がよいと感じたものなどを手放すように迫られている気がしてしまう。

ACIMのどこかの文章で「単にそれは無価値なものだと認識されるだけだが、最初のうちはそれがわからない」というような文言があった気がするけど、そんな感じが、まだまだある。

だから聖霊の声をもっと聴きたいと思う一方で、今の自分に不都合なことを聴いてしまったら(どうしよう)、と思うような自分もいる。

えらい遠い道のりだな。こりゃ。。

レッスン86-レッスン71、72の復習

2017-03-10

3月10日お昼。外はよい天気。

ワークは少しずつ進んでいて今朝はレッスン90をやった。でもダイアリーブログは少し滞っていて、ワークとブログにちょっとした差ができている。本当はなるたけ近いほうがその時のままの気持ちで書けてよさそうだけど。ダイアリー、追いつかなきゃ。

レッスン71:神による救済計画だけがうまくいく。

本ワークをやったのは先週土曜日だった。

そこで感じたことは、

神による救済計画だけがうまくいく。

…のならば、今みたいに、自分の余力、余時間があればACIMを入れるといった感じじゃなくて、生活全体をACIMを軸として組み立て直すこともできるのではないか。

…と。

いつも「気力体力が乏しくて」とか「生活費をもっと稼がなくちゃ」と言っているけど、それば、私の生き方の結果そうなっていることで、いわば「不満」だ。

もっとACIMを中心にストイックというか意志的になれるのではないか。

ふとしたきっかけで、去年から市川海老蔵さんのブログを見始めた。これまでテレビで見ていた印象と異なって、歌舞伎役者という使命を果たすべく毎日のトレーニングや食事その他すべてが組み立てられているように見受けられた。

特異な立場の方だし、そもそもものすごく体力気力に満ちた人だと思う。また持って生まれた性格なのか育ちなのか、大勢の人の中でも自分のペースでいるのがとても上手い人みたいだ。

私とはタイプが別!スペックがちがいすぎる…と思ってしまうけど、少なくともライフテーマを生きるための習慣づくりは見習えるのではないか。

そして、小刻みで忙しそうなスケジュールの中でも気を抜くところは抜いて、自分のスタンス、リズムを調整し続けているという点では、お手本にすべきでは?

舞台なんてあったら、どんなに小さなものでは私ならば半月も前からキンチョーでコチコチになっていそうだけど。

たぶん、キンチョーのなさというのも、無意識での自己肯定感、罪悪感の少なさと関係がある気がする。

私も、もっとACIMのトレーニングを進めていけば、あがり症や過緊張も緩み、疲れにくくもなるのかもしれない。

とりとめのなく書いたけど、要するに

自分の生活のなかのACIM関係の時間を、ちょこっとずつでも意識的に増やそう、ということかな。

レッスン72:不満を抱くことは、神の救済計画に対する攻撃である。

私は、実に“ストライクゾーン”が狭く、不満が多い人間だ。不満を人に言うことは少ないけど、実際そう。

フリーランスで仕事をしていることも、ひとり暮らしをしていることも、突き詰めればわがままな性格で自分の好きなようにやりたいからだ(かといって、実際好きにできたり、また結果的にそれがプラスになったりするとは限らないが…(^_^;))

エゴが見せてくれる「不満」は、巧妙で、

保つべき秩序やマナーだったり、完璧主義だったり、憎むべき社会悪だったり、寂しさだったり、加齢や悪天候へのつぶやきだったり、将来計画だったり…

いろんな形でやってくる。

意識的にならなければ…。

私の心から出る9割が何らかの「不満」だ。

こうだったらいいのに、とか、あと少しこうしてくれたら、とか。

ということは、私は日頃から、神の救済計画を攻撃しているということだ。

「不満」は、「理想」とセットになって、この世で市民権を得ている気がする。

不満を見つけることはビジネスチャンスにもつながる。その不満をつぶして、またひとつ豊かに…

そういう思考も自分の中にあって、つい不満にフォーカスしてしまう。

不満があったから、人間社会というのが発達してきた。だけど、出始めの頃は「すごい」と喜んでいた新機能は、すぐに「あたりまえ」になり、そのうち新しい優れものが出てきて「不十分」となる。そのくりかえしだ。

豊かで便利になったんだよな。そのおかげで。

ィコール幸せ、でないにせよ。

不満は「あたりまえ」と思う気持ちから発しているのかな。

あたりまえでなく、有り難し…

あたまでっかちか。わたし…

レッスン85-レッスン69、70の復習

2017-03-06

6、7年前、週に何度かショッピングセンター内で手相鑑定の仕事をしていた。まだACIMと出会う前のことだ。

今日はその時一緒に店に出ていた女性と数年ぶりにランチをご一緒した。その方は今も週3回位占いの仕事をなさっているとのこと。ボランティア精神あふれた人間味のあるベテラン鑑定士さんだ。

この数年間の人生の変化や共通の知人の話などをして、楽しい時間を過ごした。占いではお客さんの重い話を聴くことも多かったけど諸々含めて楽しい仕事だったと、当時を懐かしく思い出した。

今となってはACIMの考え方がベースとなっているから、手相や暦から、「あなたの運はこうですよ」という仕事はできなくなってしまったように感じている。

「この世はリアリティがあるけど、実は幻想なの、あなたが出会う人や出来事を赦すこと。それこそが大事なんですよ」と伝えることは、占いには当たらないだろう。そういうアドバイスを求める人が、世の中にどれくらいいるだろうか。

レッスン69:私の不満が、私の中の世の光を隠している。

私がワークをする時には、ACIMのホームページで該当するワークを英語で聴いて、日本語訳を読んで、大畑学さんの精読版の解説を読んで…というパターンが多い。

大畑学さんの精読版は、英語の訳や解釈もあるしACIMの本質もわかりやすく説明されていて、サブテキストとして重宝している。

その大畑さんの精読版に、「不満とは、直面している自体の責任を外部世界に向かって投射し、怒りの中に自己の責任を回避する行為である」との説明があった。

的を射た説明だな、と思った。

「不満=責任回避行為である」とスパッと言い切っていて、腑に落ちた。

一方で、学び方が浅いのか、自分のゲンジツの状況が不都合な場合の対処は未だによくわかっていない。

例えば、自分が店を経営していたとして店内で万引きをしている人を見つけたら…、

もちろん、それは「不満」ではないよね?

かたちの上では社会規範に則って、警察に通報するなどの行動をしつつ、

一方、心のなかでは、赦すということなのかな。

その辺りの具体的な対応がよくわかっていない。

実際にそんなことがあったら、赦すことを忘れ憤ってしまいそうだけど。

ニュースやワイドショーなどで毎日取り上げられている実際の事件でも、孫がおじいちゃんを殺害するなど残酷なものが目にとまり、被害者に同情し加害者には、なんてひどい愚かな…、と思うけど、これもACIMを学ぶ者としては、赦す、しかないんだろうな。

どう解釈・対応してよいかむずかしく感じることが多いけど、まずは、自分自身の目前のことから…

前よりは、少しは不満が減ったか。。少しずつ、少しずつ。

それでよしとしよう。

レッスン70:私の救済は私の中から訪れる。

自分にはどんなふうに見えても、

自分の救済も、また罪悪感も、自分の中にのみあるのだということを思い出そう。

社会的に酷いことが起こっているように見えるとき、

こう捉えることは無慈悲でクールすぎるように思えることもあるけど。

私の心の中のスタンスとしては、この立場をとることにしよう、思い出せたときには。

そして、しばしば、思い出せるようにしたい。

レッスン84-レッスン67、68の復習

2017-03-04

3月に入ってもこれまでけっこう寒い日が続いていたけど、今日は日差しが暖かく春らしい日だった。

薬が安いので時々利用している巣鴨のドラッグストアに行こうと思ったら、地蔵通りは「4の付く縁日の日」ですごい混み合っていた。私はただ目的地へ。

どことなく、いよいよ動植物の活動期に入った気がする。

レッスン67:愛が私を、愛と同じに創造した。

Love created me like itself.

この67は、ワークの主題概念のなかでも好きな文言だ。短くて強くて力を与えてくれる気がするから。

ワークをしてすぐに感じたことは、

もっと自信をもて。

ここにぶれずに立て。

だった。

愛が私を愛と同じに創造したところ、

そこにちゃんと立てたら、私の行動は変わるんじゃないか。

エゴに塀を築き内向きに護りを固めようとするのではなく、

溢れる泉なる愛を、愛が枯渇してしまったと勘ちがいしているところへと運ぼうとするのではないか。

そう感じた。

内なる聖霊は私に伝える(私がそう感じたこと)には、

「あなたの面倒は私がちゃんとみる。

あなたが死守しようとしているエゴは幻だ、

幸せを愛に背を向けるな。」

……、まず一歩は、緩めることかな、いろいろと?

と感じた。ふと50半ばにして未だ中二病か、と自分ツッコミが浮かんだけど、これは…

レッスン68:愛は不平不満を抱かない。

これも短くて、核心をついている文言だ。

とくに私は小さい頃から、親に不満や反抗心を抱いていて、表面的には周りに合わせつつも、本心は隠して自分の内に籠るような子どもだった。不平不満がどこか習い性のようになっているのだ。(当時の親を超える歳になり、いろいろな人生経験を経てようやく感謝できるようになってきたけれど)

不平不満がそんなにも良くない、自分にダメージをもたらすものだとはACIMを学ぶまで思っていなかったけど、

A.不満を抱く… ・自分の源が神(愛)であることを否定。

         ・憎悪の夢のほうにチューニングが合っている。

B.満足・感謝… ・自分の源が神(愛)であることを肯定

         ・実相をみる準備ができている。

 となるから、Bを選ぶべきなのだ。

不平不満を抱いている自分はエゴに立った自分で、本質ではない。

心の姿勢のテーマで、

姿勢は無意識的なクセだから、これを正していくしかないんだろう。そして無意識だから、気づいたらその都度、ってことかな。何度も。

               *

自分がやっいること、このワークやそのやり方や、それを稚拙ながらブログにしていること、まったく無意味なことを…とも思うけど、

復習になっているような気もするから、今年の活動期も続けたいなと思ってる。

「この世界の片隅に」 観てきた

2017-03-02

昨日は「映画の日」、「この世界の片隅に」を遅ればせながら観てきた。よく観るブログとかでも「観てきた、よかった」と紹介されていて、気になっていたのだ。

ひとことで、「すごくよかった!」

戦争の映画が苦手で観られない方だけど、これは別物。そこに生きていた人の日々の暮らしを、少女、北條すずを通して見せてくれて、まるで自分がその場に入ったかのような感じだった。

戦争って50代の私ですら、遠いことのように感じているけれど、約70年前の日本でのできごと。おじいさん、おばあちゃんの時代。父母が子どもだった時代。長い歴史のなかではごく最近のことだ。

そこで、北條すずさんとその声を演じるのんさんの、ほっこり感と、広島から呉に乞われてお嫁に行って、そこでの生活になじんでいく日常感。そこに徐々に入り込んでくる戦争の非日常性と残酷さが、対比されて見えて、やるせない気持ちになった。途中でツーっと涙が頬をつたった。70年という近い過去に現にその人たちは生きていたんだ。

そして今私たちは、物があふれる世の中に暮らし、ネットの出現で世界ともつながっている。この変化の鮮やかさよ。それがいいか悪いかはわからない。でも70年という時間の短さとその変化の激しさと。なんかすごい。

そして、私たちが「あたりまえ」と思って享受している、この豊かさは、改めてあたりまえではないんだと思った。先人の努力によってここまで来られたんだし、今も平穏さと豊かさを支えている人がいてこそ。

映画では戦争という悲惨さとは別に、戦況が激しくなるまでの田舎の自然豊かさや人と人とのぬくもり感や時間のゆったり感に、今では失われたような豊かさも感じた。何だか懐かしいような気もした。

変化。時間や場面の切り取り方によっても変わるけど。変化。

ACIMでいえば、すべては幻想だけど。今私たちが目にしている変化。

まずは自分の心を平穏に保つところから。

この映画、母に見せたいな、とも思った。いろんな思いが巡るのではないかな。

もっと長くやってほしい、日本のもっと多くの人とも共有したいし、世界の人とも共有したい、そう思った。

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