2016-08-25
二元的であり一元的であり
ACIMを主題にワークや日々のことを書いているけど、ころころと立ち位置や視点が変わってしまう(だから、読む人は書き手に合わせて立ち位置を変えることが求められてしまう)。
究極の教えは一元性であり「神はある(それ以外はない、すべて幻想もしくはメタファー)」、そして「神とは愛である」だと思うけど、それだとそこで話が終わってしまう。
そこで何かしら書こうと思うと、ある時は純粋な一元性的視点になり、またある時は日々の二元性的な視点になり、さらにそのごちゃまぜになったりしている。何より私自身もACIMの教えに魅せられてはいるけど、実践はとても難しく“修業中”の身で、揺れている。
ACIMの導きのエッセンスは、この世の二元性の幻想をリアルにすることなく、特に恐怖、不安や怒り、罪悪感、攻撃心、執着心、後悔などを赦す(手放す)ことだと言えるだろう。
ワークはそのための基礎知識と訓練だ。それによって、少しずつ薄皮が剥がれるように二元性から一元性へと見方が変わり、この世にありながら、“そもそも欠乏がなく満たされた世界”に生きることができる。結果としてこの上ない幸福感に満たされる…。
その地点―悟りともいうのかな?そこに到達できるのが、今世なのか来世なのか、来々世…いやもっともっと後になるのかはわからないけど。
オリンピックとACIM
リオオリンピックが終わり、「メダル獲得選手55名が凱旋会見」のニュースをやっていた。
正直、すごい!と思う。クラスで一番になるだけでもすごいのに、学年で一番を越え、エリアで一番を越え、日本で一番を越え…世界で競い合う、しかも四年に一度のこの時に照準を合わせ最高のパワーを発揮してメダルを獲得できる…なんて。
いったいどんなメンタルでどんな厳しい練習あってのことなんだろう?銀メダルや銅メダルのメダリストは喜ぶどころか悔しがったり、金ではなかったことを詫びたりしている。オリンピックというのはやはりすごい舞台なのだな~
一方、ACIM的見方で見れば、「勝つ」と「負け」が対局をなす勝負の世界は二元性の世界そのものだから、勝ちに執着せずこれをリアルにしないことが求められるのかな?オリンピックのメダルそのものが幻想と言われてしまうのではないだろうか。おそらく、この世の他の栄誉と同様、そこに真実を求めては「神だけがある」一元性の世界からは遠ざかるのだろう。
ACIMを学んだ「成果」かどうかわからないけど、私は前より勝敗にこだわれなくなった。それでも陸上男子400mリレーで、ケンブリッジ飛鳥選手がウサイン・ボルト選手に食らいつきながら日本人特有のチームプレーで銀メダルを勝ち取った時には、ワクワクしたけれど。
オリンピックは勝敗で見れば、二元性の世界だけど、その晴れ舞台の裏にさまざまなドラマがあって、その中にはACIM的観点から見たリアル、さまざまな愛や感謝もたくさん含まれているんだろう。
卓球の愛ちゃんこと、福原愛選手が銅メダルを取った後のインタビューで涙ながら「みんなに感謝しています」と話していたけど、その言葉こそ、そうした愛の表現なのかな?と思った。
オリンピック選手と自分を比較するのはなんだけど、私はといえば、ACIMを自分の人生のテーマとしたいと思いながらも、圧倒的に練習量や真摯さに欠ける。趣味ではないのだ、私の人生としたいのだ。
せっかく超一流のアスリート、オリンピック選手のパフォーマンスを見られたのだから、爪のアカを煎じて飲む気持ちを持とうではないか…と思った。それが、私にとってのリオオリンピックだ。