奇跡講座ダイアリー

レッスン28-何にもまして、私はものごとをこれまでとは違った見方で見たい

2016-06-20

今日は父の命日でした。

昨年の今日の旅立ちから丸一年かぁ。げんきんなもので、昼ごろまですっかり忘れてた。ずっと離れて住んでいたから、まだどこか実感が持ててないようなところもある。これからどんどん「なつかしい思い出」になっていくのかな。ACIMの「特別な関係」は、他の人にとってもそうだと思うけど私にとってもかなり手ごわい。ぎゅっと握りしめたままだ。

仕事で心に余裕がなくなっているけど、一応今日の約2分のワーク×6回を行った。

レッスン1~50までは、これまで自分から見える世界観の「解体」で、今日もその続き。

「『何にもまして、私はこのテーブルをこれまでとは違った見方で見たい』というとき、あなたはそのテーブルについての自分の先入観を撤回して」「あなたは真の見方で見ることに献身すると誓っているのである」

「実際、もしテーブルに関する自分の観念のすべてを取り払い、完全に偏見なく見るなら、あなたはそのテーブルだけからでも心眼(ヴィジョン)を得ることができる」

私は、昨年末一度365のワークを終わらせているけれども、まだ心眼というものはわからない。自分なりにはまじめにやってきたつもりだけど、まだまだ。2度目のワークは、私にはとても役に立っていると思う。

一度目はとにかく自分なりにワークをやって進めることしか余裕がなかったけど、2度目は少し視野を広げ、もっとテキストを読み込んだり関連本を読んだり、勉強会みたいなのがあったら参加してみたりしても…と思っていたけど、今のところただワークをやっているのみである。

そんなに先を急ぐこともないんだな。でも、ワークという「ニンジン」を与えられた馬みたいに、脇目をふらず、なんかやっとこさだけどワークを追いかけ、学習ブログを振り落とさないようにしてる。。かんじ。

(あ、今日中に更新、と思っていたけど、また12時を回ってしまった)

レッスン27-何にもまして、私は真に見たい

2016-06-18

何にもまして、私は真に見たい

今日のワークは、「あなたの欲求の中で心眼(ヴィジョン)を最優先させる」という決意表明だ。

この世の幻ではなく真実を見ることを選ぶ、そのために自分の在り方を変えるというコミットメントと言ってもいいだろう。

ワークブックには、少なくとも30分に一回、できれば15~20分に一度、主題概念を唱える間隔をはっきり決めてくりかえすこと、と指示がある。「ほかのことで忙しくしるときでも、これを行うのは難しいことではない」とクギを刺されている。

私は、30分に一度「0分と30分にやろう」と決めた。

今日は自宅から1時間のところで一日パソコンのワード、エクセルの講座。朝家を出た時に唱え、電車でも唱え…「あ!忘れてる」と思い出したのが、パソコン講座中の10時45分。

パソコン講座は、講師の先生の指示にしたがっていっしょに操作していくので、付いていくのが精いっぱい。この簡単な概念さえ、「0分、30分」を意識して唱えるのはむずかしかった。合間、合間に思いだしては唱えた。

「真に問うべきことは、あなたがどれくらい頻繁に思いだすか、ということである」「また、あなたはどれほど今日の概念が真実であることを望むのか、ということでもある」

どうかなあ、けっこう忘れていたし、講座が終わってからもどっと疲れて、ふにゃふにゃとこの短い文言を言っただけかも。

AKB総選挙

帰宅してテレビをつけたら、AKB総選挙の開票イベントというのをやってた。今年は新潟でやっているらしい。なんかすごいな。同じグループでファンによる選挙で順位付けされるこのシステム。それが次のシングル曲を歌うメンバーを決めるのだとか。

下位から順位が発表され一人ひとりが挨拶してこの選挙にかけた思いや感謝を言う。多くの子は泣いている。アイドルとそれを支えるファンと。いや一人ひとりの人とそれを精神的に支えているアイドル…なのかな?

発泡酒を飲みながらぼーっと最後まで見てしまった。

同じグループ内で順位が決まり、一つでも上に行きたいと願い、その願いをファンがかなえようと応援する。AKBグループが10代~20代前半だからか、その思いはピュアで真剣。順位に一喜一憂しているのが、なんかすごいよ。なんかだまされてないか、と思うけど、何が何に(だれが、だれに)だまされていると思うのかは、よくわからなかった。

若さとひたむきさ、なのかな、惹きつけるものは…。みんな、頑張ったら成長できる、上に行ける、って思っているみたいだけど、そういうふうに動くものかな?

指原莉乃さん、24万票獲得して初の二連覇!とかやってた。得票数が2位の渡辺麻友さんと7万票近く差がついている、とはすごい。彼女の魅力というのは何かな?かわいいのはみんなそれなりにかわいいから、容姿の差とは思えない。そこで大量票を集めるのは何かな?

こうやっていろいろ書いているということは、私もちょびっと巻き込まれているのかな。

この世は幻、心眼を得たいと思っている私。アイドルは幻のなかのさらに幻だ。アイドルが旬な時期は一時だろう。幻の世界のなかとはいえ、こう人を揺さぶるのには何かあるのかな。真実のカケラが含まれたりしているのかな。

心眼ではないと思うけど、つい「若さっていいな」って思った。

 

レッスン26-私の攻撃的な考えが、決して傷つくことのない私の強さを攻撃している

2016-06-17

誰かに対して攻撃的な考えを持つということは、自分自身を攻撃していることと同じ

晴れ。急に暑くなってきた。

その日やったワークの概要を書くだけでは、ACIMを知らない人にとっては、ちんぷんかんぷんだし、逆にACIMを知っている人にとっては何をいまさら、かもしれない。

そもそも、だれに向けてどんなメッセージを、が設定できていないブログだ。いったい私は誰に向けて何を書きたいのか…。でも、とりあえずは日々のACIMの学習のふりかえりになれば、それでよしとしよう。ともかく続けてみよう。

私たちは、実相の世界に今も神とともにいる。完璧に満たされた世界だ。だけど、神から離れた、と誤解している私たちは、「自ら神から離れてしまった」ことを恐れ、いつか神から懲らしめられるのではないかと思っている。その思いは私たちの無意識にずっとある。

そして、このゲンジツの世はその無意識の恐怖を投影して見ている世界だ。そもそも存在していない懲らしめられるという恐怖を私たちがあると思っているから、実際に作り出してしまう。そして、「正当防衛」として攻撃的な考えを身につけてしまう。

それが今日のお題になっている。

「あなたを通して結果をもたらすものは、あなたに対しても結果をもたらすはずである。」

私たちが、誰かに対して攻撃的な考えを持つということは、自分自身を攻撃していることと同じである。

とどのつまり「あなた自身の考え以外の何ものも、あなたを攻撃することはできない。」

私たちのものの見方が、本来傷つき得ない存在であるはずの私たちを傷つきうる者にしてしまっている。でも、それは正しい眼でみれば、実際には起こっていないのだ。

今日のワークでは、心の中に「結果が気になっている未解決の問題」-「憂鬱感、心配、怒り、強要感、恐れ、いやな予感、気がかり」といった感情を見つけ、それに名前をつけて、

私は     について気にしている。

といい、そのあと、そのことに関連して起こりうる結果をいろいろ思い起こし、

私は    となることを恐れている、ということを複数あげる。

そして、最後に

こうした考えは私自身に対する攻撃である。と言い、今日のお題を唱えて終える。これを6回やった。6回ともなるとけっこう慌ただしく感じた。

私は母が老いていくことが怖い…それは自分自身に対する攻撃

私のワークでは、

母が胃の調子が悪いと先週細胞を採って検査を受けたところだったので、

私は母の胃の検査について気にしている、となった(6回のうち1回)

そして、

私は、母が悪い病気だと言われることを恐れている。

   お母さんがどんどん老いてしまうことを恐れている。

   私がこうしていつまで東京でひとり暮らしを続けられるか、故郷に戻らざるをえない状況になってしまうことも恐れている……等

といったようなことが出てきた。

こうした考えは私自身に対する攻撃である。

         *

ふだん何気なく抱いている憂鬱感、心配、怒り、強要感、恐れなどはすべて「攻撃的な考え」であり、実はそれは自分自身を攻撃しているのだ。

母からは夕方「大丈夫でした」とのメッセージが入った。「でも株は下がりました」。株なんて下がったっていいじゃないか、とほっとした。私がほっとしたのは母のことを思って、というより、精神的に未熟で母にはずっとお母さんのままでいてほしいという甘えからだけど、それは今掘り下げないでおこう。

 

レッスン25-私は何が何のためにあるのかを知らない

2016-06-16

昨日は15日の夜書いているうちに日をまたいでしまい、16日の日記になってしまった。昨日のワークでは、自分の経済的な「問題」が頭に浮かんできたけど、一方では、それは私自身が、罪悪感や恐れをこの世に映し出して作り出している問題だとも知っている。ACIMではこの世は幻のようなもので実在していないことをくりかえし説いている。しかし、そのこの世に生きている私たち(と思っている私)は、この世のリアリティを否定しては何事も進まないから、そこをこの仮想現実でどうふるまってよいのか、よくわからなくなる(わけがわからないことを書いていないか…(・・;))

今日はレッスン25。

このワークの中心は「自分が自我だという誤った自己認識によって、あなたは何が何のためにあるのかを理解ができなくなっている」というところじゃないかな。

私たちが「私」と認識しているのは「自我」だけど、それは「本当の私」ではない。私たちは自我の観点からものを見てよかれと思う方向に向かっているけど、「本当の自分」から見たら完全に方向性を誤っている。

だから、「すべてについてあなたが自分で設定したゴールを自ら進んで放棄しようという気持ちになることが、あなたの学びにとって決定的に重要なことである」

言うは易し…だけど、これは当然ながら大きな自我の抵抗をもたらす。ワークを始めた最初の頃、多くの者を「あきらめるよう」促されるような気がするのはそのためだ。あきらめるのではなく、ただ意味がないものだと気づいていく、ということなのだけど。

『神の使者』ではゲイリーが、

「ぼくがあきらめたくない物質的なことやこの世の欲望は、真実の代用品として―ぼくが追いかけ崇拝するように―置かれている、すべてが現実だと思い込ませるための偽りの偶像じゃないかな」(2010年発のp212)と言っている。私もそう思う。

今日のワークは、手放すこと自体には踏み込まず、そこへ向かうための第一歩だ。

周囲を見渡して、目に入った対象に対して各々にひとつひとつ目を向け、

私はこのペンが何のためにあるのか知らない。

私はこのパソコンが何のためにあるのか知らない。

…と言っていく。

約2分のワークを6回やった。

レッスン24-私は自分の最善の利益を知覚していない

2016-06-15

ワークの概要を大雑把に書くだけじゃ、意味ないな~と思うけど、それよりとにかくなるたけ毎日ブログを更新するというところに意識が行ってる。

今日は強気に見えた舛添都知事が一転、辞任を表明したニュースが走った。そして次の知事はだれになるのかに話題は移っていった。時や場所は変わっても、こうした権力の移転とそれに対する世間の関心というのはずっとあったんだろうな~

日経新聞には「舛添都知事おごりが生んだ退任劇」という記事が出ていた。舛添え都知事の退任の原因がおごりなのかはよくわからないけど、おごりから生じた「隙」で、権力の座を奪われた人というのも、また古今東西、きりがないんだろうな~と思う。権力も名声もない者は失う心配もない。

今日はレッスン24をやった。

すごくざっくりまとめると、私たちがどう行動するかはどう感じるか(知覚するか)にかかっているが、その感じ方は誤っている。

だけど、そのことに気づいていないから、そのことを正す必要性すら感じていない。今日は、学べるようになるためまず心を開こう、というような感じ。

まず2分心の中を「現在憂慮している未解決の状況」を見つけ、それに対して、「その解決時に実現を望む目標をできる限りたくさん、注意深く」ランダムにあげる。

そして、そのあと、

「この状況において、私は自分の最善の利益を知覚していない」と締める。

これを1日5回。そのたびにワークブックを読んだりメモしたりしていたら、1回に10分位かかった。なかなか慌ただしかった。

私の憂慮は、やはり生活費がきちんと稼げてないこと、が浮かんだ。

そのことについて詳細に書く根性もないのだけど。フリーランスで働いているが、ACIMのワークを初めてから仕事が激減。だけど、それだからこそ時間に余裕ができてワークが続けられたともいえる。なんとか首の皮一枚つながって生活してきたけど、この先このままでは続かない。

ワークでは、まずそのことが浮かんできた。

「私が生活費を稼げてない状況において、

私は十分な収入を得たいし、それは私がミッションを感じることであってほしいし、実際に私ができることであってほしいし、できればフリーランスのままでいたいし、株や不動産といった投資からも収入が得られるようになりたいし、故郷で一人暮らしをしている母とももっと一緒に過ごしたいし、ふりかえって後悔しない(これ以上)人生を送りたいし…

この状況において、私は自分の最善の利益を知覚していない」

最後の一文を加えるとき、「そうなのかな?」と不思議な気分になる。

だれも見てないだろうと思うから、こういうことを書いているけど、かなり恥ずかしいものがある。

 

レッスン23-攻撃的な考えを放棄することで、私は自分の見ている世界から脱出できる

2016-06-14

これは、昨日のワークの流れの続。

私たちは、自分の怒りを投影してこのゲンジツ世界を見ている。この世は「あなた自身の攻撃的な考えが映像として表現されたものである」

すなわち、私たちが生きている世界は映し出された「結果」の世界だ。だから、「世界を嘆いても無駄である」

ではどうするか。この現実の「原因」である「攻撃的な考え」を手放すのだ。

それが今日のワークの目的だ。

また自分の心の中を約1分間探して「攻撃的な考え」を見つける。

それについて、

    についての攻撃的な考えを放棄することで、私は自分見ている世界から脱出できる」とその考えを1つずつ心にとどめ、それから手放す。

ここでは、攻撃する考えと攻撃される考えを同じ攻撃的な考えとして扱っている。

今日も何とか約1分の心の探索とワークを5回できた。

ワークの概要を書いただけで日記にはなってないな。

4月からひょんなことから、色えんぴつ画の月1クラスに通うことに。今日はその日。紫陽花の写真を見て、先生に教わりながら、1枚の小さな絵を描き上げた。うまくはないけど、でもそれなりにできるのがうれしい。

これから画家をめざす―!ってわけじゃないから、妙な気合いもプライドも要らず、ただその時間に集中できるのがいいみたい。けっこう疲れるけど、我を忘れられるのがいいのかな。

レッスン21、22

2016-06-13

ブログなかなか毎日は書けないな~

でも1日休むと次の日、また少し「敷居」が高くなっている気も。ほんの1行でもいいから、毎日ブログにアクセスした方がいいのかもしれない。

Wordpressの使い方も勉強したいのだけど、手がつけられていない。

ブログを書いておもしろいのは、これを書こうとか、こういう構成にしようとか考えることなく書き始めて、気づくと何かしら書いていることだ。その成り行きみたいなものが新鮮だ。

もっと写真とかも入れたりしたいんだけど、今は写真を入れてもトップページでは消えてしまう。どう設定したらいいんだろうか。

レッスン21-私はぜひとも別な見方でものごとを見たい

昨日は、レッスン21をやった。

これは、前ワーク「私はぜひとも真に見たい」の続きである。

自分の心に怒りの感情を見つけ出し、それについて、

私はぜひとも、別の見方で(人の名前や具体的な状況)を見たい。

と言う。激しい怒りもささやかないらだちも区別しないで対象とする。毎回約1分のワークを5回。

善意の友人のちょっとしたおせっかいな行動に対するいら立ちや、先日のセミナーで受けた「ダメだし」に対するいらだち、昔好きだった人に対して未だ思いだす腹立たしさ、いい歳をして安定収入を稼げていない自分への情けなさなど、5回もワークするといろいろ出てきた。

心の中を探索していくと、終いには、人間がいずれは死ぬ存在であること、その死の前には(たいがい)病いがあることにも、怒りというか恐怖や理不尽さを感じているのだということがわかった。

死も病いもACIMの視点から見たら幻想であり実在しないことだけど、今の私はそれに怯え腹立たしさまで感じている。

ひと昔前、「勝ち組」「負け組」なんて言葉があって、「勝ち組」はうらやましがられ持てはやされていた頃があった。だけど、私に言わせれば、どんなに「勝ち組」であっても、いずれはみんな老いて病んで苦しみいずれは死んでしまうじゃないか。オセロで買っていても最後に両端を取られて一気に逆転されるみたいに、結局みんな「負ける」んじゃないか。こう見えてしまっていた。

これはどう考えてもACIM的な見方じゃないし、学んでいるつもりで、教えが身についてないということだ。私は、とくに老い、病、死が怖いんだろうか。怖いと思うから、幻であるそれらをリアルにしてしまっている気がする。

レッスン22-私が見ているのは、復習の一形態である

私たちは、自分の怒りをこの世に投影するがために、「今にも自分に襲いかかろうとしている復習を目にする」という。そしてその「復讐」を前に「自分の攻撃が正当防衛として知覚される」のだと言う。

つまり、私たちが今見ているこの世のゲンジツは、復讐に満ちており、その復讐には怒りを持って攻撃するのが正しいかのように見える。

でもこれは大きなまちがいであり、「残酷な空想」である。

今日のワークは、その「残酷な空想」から目を覚ますための訓練の第一歩だ。

周りを見渡しながら、

私は朽ちてゆくものしか見ていない。

私は永続するものは何一つ見ていない。

私が見ているものは実在しない。

私が見ているのは、復讐の一形態である。

と言う。

そして練習の最後には、

これが、私が本当に見たい世界だろうか?

と自問する。

この短いワークを5回。

「私が見ているものは実在しない。私が見ているのは、復讐の一形態である」「これが、私が本当に見たい世界だろうか?」

これが、私が本当に見たい世界だろうか。これが、本当に見たい世界だろうか。…このフレーズが心の中でリフレインする。

ちがう。これは私が本当に見たい世界ではない。もっと別の世界があるはずだ。

そう思っているからこそワークをしているんだ。でもまだまだエゴの世界にいる。なんか心もとなくて、こわい。

 

レッスン20-私はぜひとも真に見たい

2016-06-11

私たちが「真に見たい」のは「心眼(ヴィジョン)」である。

そして、「心眼に必要なのは、見ようとする決断だけである」

私は365のワークを終えたが、まだ心眼というものが見えていない。

今日たまたま『ミッチェル・メイ・モデル』という本を再読していたら、その本のなかに、

「物質界というのは、スピリチュアルな世界、神秘的な世界が目に見えるような形として存在しているものです。その逆ではありません。ですから、私たちがこの物質的なものを解釈するときに、肉眼とか自分の頭だけで解釈しようとすると、本当にそこに在るものが見えない。「幻」なわけですよね。でも、あなたがその本来の姿、本質を見ることができるなら、それは幻ではなくなる。本当の姿が見えてくるのです」(p141)とあった。

心眼と同じようなものを記述したのだろうか。

レッスン20では、「今回、私たちは練習に初めて枠組みを導入する」とある。それは一日を通して、「少なくとも1時間に2回、ほぼ30分間隔で、ゆっくり『私はぜひとも真に見たい』と今日の主題概念を繰り返すことである。

30分ごとにタイマーをかけながら、やった。そのうちに30分経たなくても前倒しして、主題概念を唱えるようになっていた。

だけど、こういう種類のワークは平日働きながらだとけっこう難しいかもしれない。

そして、これはまだ序の口でもっと時間とエネルギーを注力しなくてはならなくなる。

まあ、毎日かならず1つ進めなければならないというものでもないから、ゆったりした気持ちでいこう。

 

 

レッスン17-19

2016-06-10

水曜日深夜、東京の家に帰宅。

遠距離を動くと、ここ10年位だけど、とても疲れてしまい、なかなか動けない。なんとか既にある予定だけこなして、後はごろごろしてた。この“動けなくなる症”には慣れていて、キンチョー状態が長く続くと決まってそうなってしまう。

ただ動けないだけで動かないでじっとしていると回復するから、楽といえば楽。まるで携帯電話の充電みたい。単に怠け者なのかもしれないけど。おとなしく動かずにいたら、少しずつチャージされてきた感じがして、動ける感じがしてくる。今回も、かなりチャージできてきて、あと少しだ。

ブログの更新はできなかったけど、ACIMのワークは毎日した。

レッスン17-私は中庸なものを見ていない。

レッスン18-私の見方がもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

レッスン19-私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

父の一周忌のため帰省した故郷では、こころに仕舞ってあるいろんな思いがうずいたけど、それはまた機会があれば…。

とりあえず、ブログから離れてしまわないように、更新。なんとかできた。

私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。すなわち、私の考え、心の持ちようによって、私が見るこの世のゲンジツが変わる。「原因と結果は分離しないので、思考とその結果は実は同時に起こっている」(レッスン19)

つい生前の父を思い、また父にもっと幸せを感じてもらえたはずなのに、と過去の世界に入り込んでたそがれたり、後悔を感じた週だった。故郷の町のひと気のなさに昭和時代にぎわっていた商店街の活気はどこに行ったんだろう、みんな、生まれて成長しパワーを謳歌するもそのうち老いが来てそのパワーを失いいずれ死ぬ、この人生のサイクルにどんな意味があるんだろうと思った。

この世のゲンジツは私のエゴの投影であり幻想の中にしかないと頭では知っているけど、父や母のことや故郷のことでは、すぐに幻想に浸かってしまう。執着があるんだな。

親が亡くなると、やっと子どもは精神的に大人になれると聞いたけど、私は、まだまだ子どもで、いい歳のおばさんなのに、精神的には大人になりそこね、途方に暮れて一人立っている感がある。

この世のゲンジツからは浮いているし、一方、実相を感じられるまでにも至らず。

レッスン16―私に中庸な考えはない

2016-06-07

昨日、iphonからダイアリーを更新できたつもりでいたけど、ミニ旅行から実家に帰宅してパソコンを覗いてみたら、できていなかった。今度またやってみよう。

金沢、加賀温泉の母との小さな旅は、ささやかながらもとっても楽しかった。

旅の道中、土曜日行ったセミナーについて新担当者の方とメールでやりとりし、この前のセミナーはやっぱりお客さんである主催者を満足させたものとは程遠かったんだ、と思い知ったのはピリッときたけど。

今日の主題概念は「私に中庸な考えはない」

気になったフレーズは、

「あなたが見ているすべては、あなたの考えがもたらす結果である」

「あなたの抱く考えの1つひとつが、真理か幻想かのどちらかを助長する」

「救済のためには、自分が抱く考えはどれもが平安か争いか、愛か恐れかのどちらかをもたらすと認識することが必要である」

「恐れの想念については(中略)まずは、それらが等しく破壊的であると同時に等しく実在性がないということを認識することが肝心である」等。

また1分ほど心の中を探索することからワークを始めるのだけど、私の心の中心を占めていたのは、

次回7月のセミナーに対する不安感(今度、ちゃんと満足していただけるものができるか不安だ、こわい)と、

高齢の母がさらに年老いていずれは別れを迎えることに対する恐怖、抵抗感(お母さんにはいつまでも元気でいてほしい、お父さんみたいに死んじゃったらどうしよう?)だった。

前者はこんな心根では「プロ失格」とも言えるし、後者は幼児のような気持ちだけど。

「セミナーに対する不安ついてのこの考えは中庸なものではない」

「いずれは迎えるであろう母に対する恐怖についての、この考えは中庸なものではない」…と ワークした。

いずれも「恐れ」をもたらす考えだ。破壊的で実在性のないものだ。幻想をさらに増幅させるものだ。

恐れを愛に変えたい。恐れを愛に転換する。私は実在するものを選びたい。でも、こわい、いま。

とくに母の死は恐怖から想像することもできず思考停止になってしまう。

「実在性のないこと」なのだけど。

母にはゆっくりゆっくり生きてほしい。

レッスン15ー私の考えは、私が作り出して形象である

2016-06-06

せっかく故郷に帰省したのだから…と母のお疲れさま会を兼ねて 隣県の片山津温泉に来ました。金沢でミニ観光…妙立寺、通称 忍者寺は敵の侵入を欺くための建物のからくりが見事でした。

にし茶屋街のお茶屋さんは、現在も御座敷席として使われているそうです。

夜 食後、温泉ホテルでiPhoneから投稿。iPhoneからの投稿は初めて。タッチパネル 押すのヘタだ。

ワークのほうはまだそんな時間がかからないので、無事レッスン15を終えました。

母とこうして過ごせる時間、愛おしくありがたいです。

レッスン14-神は意味のない世界を創造しなかった

2016-06-05

レッスン14

「あなたの見ている世界は、実相とは何の関係もない。それはあなたが作り出したものであり、存在していない」

レッスン14のこのフレーズが、ACIMを言い表す核心のひとつではないかと思う。

これはつまり、私たちがいるこの世界を「存在していない」と、この世の実在性そのものを否定しているのだ。それを受け入れる人がごく少数派なのは当然といえば当然だし、ACIMが「万人向けではない」と言われるゆえんでもある。

私は、これを直観的にだけど、真実だと思っている。だからこそ、このフレーズには安心感を感じる。

今日のワークでは、目を閉じて思いつくままに世界のあらゆる恐怖を思い浮かべ、

「神はあの戦争を創造しなかった。だから、それは実在のものではない」

「神はあの大地震を創造しなかった。だから、それは実在のものではない」

と、それぞれの恐怖に名前を付けて、その実在性を否定する。

個人的な心配や不安についても、その「惨事」に名前をつけて、その実在性を否定する。

そして、「神は意味のない世界を創造しなかった」と繰り返し、練習を締めくくる。このわすか数分のワークを3回した。

父の一周忌

今日は父の一周忌で、朝の新幹線で故郷の富山県に帰省した。朝のワークは新幹線の中で行った。

去年北陸新幹線が開通したおかげで、前より東京と行き来がしやすくなった。

法要にはお坊さんを含め17名が参加。近況などを語り合った。

一年前までは生きていた父が、今この世にはいなくなっている。そして、一年もたつとそれはあたりまえのこととなる。法要の席でももう父のことはあまり話題にならない。月日が経つのは早いね、お天気よくてよかったね、という話。そして今のこと。

人の命ははかないな。

夜、江戸時代のドラマをやっていた。200年前江戸の人々がこんなふうにもめたり恋をしてたりしたんだ、と思う。でも、みんなもういない(あたりまえだ)。100年後には現在いる私たちもほとんどがいなくなってるだろう。それが不思議なようにも思える。みんなどこに行ったんだろう。どこ行くんだろう。でも、200年前や100年後を持ち出さなくても、今だって実在はしていないだって!!

私の中には、現世の非実在性を説くACIMを信じる私と、父が亡くなってしまったことを切なく感じ人の命をはかなく思う私が、矛盾しつつも矛盾なく同居している。

神との分離イメージの再現

ACIMをごくごく大雑把にいうと、私たちは本当は一度も神と離れてはおらず今も神とともにある。だけど、「もしここを離れたら」とふとした瞬間にふと思ったことから「神から分離した」と勘ちがいしているのだという。その誤解からきっと神は怒ってお仕置きをするだろうと、無意識に(神への)恐怖と罪悪感を感じている。そして、その「恐ろしい神」から逃げるために、分離したエゴが宇宙という隠れみのを作り上げたのだという。実際には、エゴも宇宙もない。

私たちが「ある」と思って幻想を支え続けていること、分離したエゴの視点からものごとを見ていることが、幻想を支えている。そして、「この世」の中で、この実際には起こっていない「神からの分離」のイメージを投影して何度も何度も見ているのだという。

今週末は、北海道七飯町の林道で父親に“しつけ”のため車からおきざりにされ行方不明になっていた7歳の男児が、6日ぶりに見つかったというニュースが日本だけでなく世界中を駆けめぐった。

幸運が重なって、自衛隊の駐屯地内の宿泊施設で見つかったとのこと。ほんとうによかった。

不謹慎かもしれないけど、これもまた神からの分離というイメージの再現であるかのように感じた。

その子は父から見捨てられたと感じ暗闇の中ですごい恐怖だったことだろう。

その恐怖感は、無意識の深い層にあってふだんはそう意識はしていないかもしれないけど、私たち一人ひとりの中にある原初的恐怖でもある。

でも、それは、私たちが分離した見方で見ているからで、本来の見方で見ることができれば、恐怖はありえず無限の愛しか感じられない。

ACIMは幻想から目を覚まさせ、本来の見方を回復させるための解説&実践書である。

私はそれがしっかり身についているわけではなく、今回の人生でどれだけ身につけられるかわからないけど、「三歩進んで二歩下がる」式で精進したいと思っている。

 

 

レッスン13ー意味のない世界は恐れを生み出す

2016-06-04

レッスン13

私たちは「意味のない世界」「じっさいには存在していない世界」を実在するかのごとく知覚している、と思っている。

無意味だと感じることは、神から分離している者にとっては強烈な不安を引き起こす。

自我は実在しないがゆえに、自分の無能さと非実在性を証明されてしまうことを恐れ、空白に何らかを書きこもうとする。私たちはその書きこまれたものに、意味を見出している。そして、その意味を手放すことができないでいる。

「きわめて重要なことは、あなたが意味のないものを認識して、それを恐れずに受け入れられるようになることである」と記されている。

私は2年半かけてワークをやってきたけど、まだまったく「意味のないものを認識して恐れずに受け入れられるようにはなっていない」と、改めて思う。

世界がなくて、私が自分と思い見えているものが、本当はないのだということは、やっぱり心もとなく思う。私は、この私、見える私にしがみついているんだ。たとえ、どんどん変わっていく一時の存在だとしても。

2分位のワークを何とか3回やった。

キンチョーしていたセミナーの仕事当日

今日の午後は、ずっと前からキンチョーしていたセミナー講師の仕事だった。

時間をかけて準備したし、真摯に務めたとは思う。

だけど、内容を詰め込みすぎて、受講者の方々がワークをしたり意見を交わしあったりといった時間があまり取れず、私ひとりがしゃべっているかたちになってしまった。レジュメに盛り込んだ内容を終えるのに一生懸命で最後の質問の時間さえ取れなかった。

こんなに盛り込みすぎたのは、セミナーで空白の時間が生まれてしまうのが、怖かったからだと思う。

この1冊でテーマ全体を網羅して理解しやすいものを作ろう、と思ってレジュメを作ったことは本当なのだけど、全体で3時間半という時間の中ではやっぱり盛り込みすぎだった。

まるで今日のレッスンの中に書かれている「自我は、その空白が自分の無能さと非実在性を実証するために使われるかもしれないと恐れて、大急ぎで自らの考えをそこに確立しようと躍起になる」を地でいっているようではないか。

私なりにまじめにやったけど、また受講者さんにも真剣に聴いていただけたけど、帰り道「やっぱりだめだ」「私はこの役に十分な力を持っていない」とがっくり重い足をひきずって帰った。ひどく疲れた。こういう知覚も「分離している者」の感じ方なんだろうな。

明日、早朝、父の一周忌で故郷に帰省する。

ちゃんと起きなきゃ。

2度目のワークが意味があると思う。「やっぱり分離しまくっている私」はかなり残念だけど、それとわかるのもワークを通してなのだから。

 

 

レッスン12-私が動揺しているのは、意味のない世界を見ているからである

2016-06-03

レッスン12

この主題概念は、昨日のワークと同様に、外の世界が私たちに何らかを感じさせるのではなく、その逆で、私たちの考えが外に見えるものを決めるという事実がベースになっている。

周囲を見渡しながら、私たちがいるこの世界にふさわしいと思う形容詞を付して、

「私は自分が恐ろしい世界、危険な世界、狂った世界を見ていると思っている」

といったように表現する。形容詞には「楽しい」「成功者としての」などポジティブなものも含める。そして、その後で

「けれども、私が動揺しているのは、意味のない世界を見ているからである」とつけ加える。

このわずか1分位のワークを3回やった。

私たちがこの世界を意味のないものとして受け入れることができたら、私たちが自分たちで覆っている偽りの雲を払うことができたら、「それは言葉に尽くせないほどあなたを幸せにすることだろう」と記されている。

今日のワークも、私たちが空虚を恐れて自分で自分を邪魔している偽りの知覚を、それと認識するためのものだ。

明日はキンチョーしていたセミナーの仕事だ

明日、たま~にあるセミナーの仕事。多くの人の前で話すことに自信が持てず緊張感があり、かなり前から文字どおり「動揺」している。

かなり前から意識していたけど、前日になって、やっぱり準備のための時間が「足りない」と思い、「なんでもっと早く手をつけなかったのか」と後悔の念が湧いている。

朝、瞑想した際、こうした動揺を自分より大きなものに預けた。

私は『神の使者』やACIMで説明されている聖霊の声が聴こえるわけではないしうまくキャッチすることもできないのだけど、そこで、なんとなく感じたのは、

『自分が信じている世界を信じろ』ということだった。そして、「そろそろ『ない世界』から『ある世界』に来てもいいのでは?」と。

私は、いつも「(時間やお金や能力やその他いろんなものが)足りない世界」に自分を追いやっている。これは私に似つかわしい「足りない」という思いが投影されて見えている世界だ。そして、いつも「だから(完璧には)できない。つらい」という世界の「住人」でいる。

それについて、もう私はそのからくりを知っているのだから、それを手放しでもいいのでは?と感じたのだ。

いつも、足りない、不足している、できない、と感じ、同じパターンをくりかえしているけど、そこに「安住」している必要はないのだ。

瞑想では、ただ「鎮まって立つこと」だけを意識するよう求められた気がした。もちろん、これはちゃんと準備ができて可能なことなんだろうと思うけど。

実際に、どうなるかはわからないけど、「足りない」状況に追い込んでから、それを言い訳にして、「だめだ、だめだ、やっぱり」のゾーンに後悔や自信のなさとともにいるのは、卒業してもいいのかな。

もう、よる11時過ぎだけど、今ここから、真摯につとめようと思う。

 

レッスン11-私の無意味な考えが、意味のない世界を私に見せている

2016-06-02

私たちは、外のできごとが自分の感じ方に影響を与えている、何からのできごとが自分を喜ばせたり、不快にさせたりしていると思っているが、ACIMはそれは逆さまだという。

「自分の考えが自分に見せる世界を決定する」のだ。

今日は、思考を逆転して真の世界に近づく訓練の第一歩だ。

目をつぶり、心の中でこの主題概念を唱えたのちに、目を開き目にするすべてのものに視線を向けながら、この概念を自分に向かって繰り返す。約1分程度を3回。

「この主題概念の中に赦しへの鍵がある」と記されている。

とりあえず、今日もワークができた。

仕事がなかなか進まず焦りあり。

これも外のできごとじゃなくて、私の心が見せているんだけど(^_^;)

 

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