奇跡講座ダイアリー

『奇跡講座』のワークブックとテキストとわたし

2017-07-06

私のワークブック

いろんなところから中身のページが取れていて、修復もしてない。

2012年のこと、書店でワークブックを買って家に持ち帰り、「これが『奇跡講座』のワークブックか」とうやうやしく表紙を開いた瞬間、目次と「この翻訳について」という前書きの部分がパリッと離れて取れてしまった。

すごくがっかりしたことを覚えている。

私にとって大事な本だし、4,600円と高額だぞ、しっかり作ってくれよ~、と思った。

だけどのちに、これは「神との分離」の象徴かしら?と思うようになった。ACIMがようこそ、とまず私の分離を見せてくれたというわけだ。

そう思うとなんか腑に落ちた。

テキスト編

『奇跡講座』のテキスト編の方は、あまり開いてないので(^_^;)まだきれいだ。

こちらは、買ってまもなく、尊敬する老先生宅に伺った際、「私がはまって勉強している本なんです」と、持っていって見せた。すると先生は「ほほう、どれどれ」と言って、指につばを何度もつけてページをどんどんめくっていった。

私は内心「ぎゃあ~、私もまだ触ってないのに…。つば付けないで」と焦りまくった。「ああ、内容はじっくり読まないと」とかなんとか言って、本を慌てて引っ込めた。

そして、やはりがっかりした。私にとって神聖なる聖域を…(>_<)

でも、またしばらくして、それこそが「起ってないことで、赦しのチャンスだ」と気づいた。

自分にとって大事だといっても、ACIMの本という物に執着するのは間違っている。

それをまっさらなテキストから学んた。

日常のいろんなところに「神との分離」とその取りなしのチャンスが置かれているけど、買ったばかりのワークブックとテキストにもしっかりそれが組み込まれていた。少し懐かしいおはなし。

レッスン123-私は、父が与えてくれた贈り物に感謝する。

2017-07-05

レッスン123-私は、父が与えてくれた贈り物に感謝する。

ここ数日とっても蒸し暑い。

さっき「イランで東半球の観測史上最高気温に並ぶ53.7度を観測」とのニュースを見た。あわわ、これはもう暑くてやだ、と言ってるレベルじゃない。今朝、島根県には初めての大雨特別警報が出ていた。

これらも、異常気象というか温暖化の影響なのかな?家では、今年はまだエアコンを付けておらず朝に昼に夜にくるくるくるくる扇風機が大活躍している。

レッスン123はシンプルに神に感謝をささげるワークだ。

これまでに自分が受け取った贈り物に対して感謝する。

今、感謝のために捧げる一日によって、あなたがこれまでに得たすべてのもの、すなわちあなたが受け取った贈り物の、真の大きさについて、いくらなの洞察が得られるという恩恵が追加される。

私たちはひとりで進むのではない。ひとりだったときに聖なる友がやってきて、救いをもたらす神の言葉を語ってくれたことに、私たちは感謝を捧げる。

今日、あなたが神に感謝をするとき、神の感謝を受け取りなさい。神は、あなたが捧げた感謝をあなたに与える。神はあなたからの贈り物を愛に溢れた感謝のうちに受け取り、それらを何千倍にも何万倍にもして返してくれる。

感謝を捧げる15分のワークを2回。

ワークをして

ワークをして、「感謝する」というシンプルな行為が、このゲンジツの世で私たちが神の門をくぐる術なのかなと思った。

感謝することで、このゲンジツの世の影響力を小さくし、心が神の守られるその影響度を大きくするのかな、と。

だれでもいつでもどこでも「感謝する」ことで神に近づける。「感謝」ができれば幸せな気持ちになれる。感謝は魔法の杖なのだ。

私は、ACIMワークをする少し前位から、仕事関係の方や友人に前より感謝の言葉を表すようになったり、お店でお会計の時も「ありがとうございます」と言うようにしているけれど、本当の感謝のこころがわかっているかというと、かなりあやしい。

気づくと、心に不平や不満を感じているから。

人に対してというだけではなくて、自分を取り巻く状況や環境、諸々のことに心の中でグチっている。

本当に感謝できるようになったら、こうした心の中の不平不満もなくなるかな?感謝の心というのも、草花のように意識して育てていくものなのかもしれない。

正直なところ…

私は『神の使者』とACIMに出会えて感謝している。

ずっとACIMに沿って学べるかどうかはわからないけれど、今は人生に道しるべができたと喜んでいる。

幻影ではあるけれど、昔は嫌い憎しみさえ抱いていた母との関係がよくなり、産み育ててもらったことに感謝できるようになった。そのこともとてもありがたいと思っている。

ACIMの教えを学ぶにつれ、世間の競争原理や「こうあるべき」というものに振りまわされることもなくなり(人から見たら、変り者度が増しているだけかもしれないけど)、心の中の罪悪感、恐怖感が和らぎ、結果として幸福感と穏やかさが増した。それは何よりありがたく幸せなことだ。

何とかACIMのワークを続けられている。その自分の状況にも感謝している。存在をはっきり感じることはできないけれど導いてくれているだろうホーリースピリットにも感謝したい。

生きるうえでの様々な葛藤はまだまだあるけれど、

今日の一日を、今週を、今月を、、、感謝して幸せなきもちで生きよう。

アファメーション

不平不満を感じていることに気づいたら、状況のポジティブな面を見て感謝しよう。

レッスン122-赦しは、私が望むすべてを与えてくれる。

2017-07-03

フタを開けてみれば…「都民ファーストの会」圧勝

昨日の都議選は蓋をあけてみれば、小池百合子都知事が率いる「都民ファーストの会」が圧勝だった。公示前6議席だったのがなんと55議席も獲得。一方の自民党は告示前の57議席から23議席と半数以下となり、歴史的な大敗と言われている。

選挙前々日、駅前で公明党の候補を応援する小池さんを見かけた。生で見るのは初めて。第一印象は、色が白い、テレビで見るよりお腹周りがだいぶふくよか。声に張りと力がある。

小池さん出現にみんな足を止めて駅前はすごい人だかりになった。そして、小池さんを見上げる皆が好意的だった。その時「小池さんにはまだ“風”があるんだな」と思った。自信から来るのだろうか、オーラというかカリスマ性も感じた。

だけど、こんなに大差がつくとは思っていなかった。流れ、変わる時は変わるもんだ。

昨夜の開票速報で、キャスターの方が「小池さんの風の吹かし方もうまいけど、自民党のこけ方がひどかった」と言っていたけど、ほんとうに。

加計学園問題では直前に下村都連会長の献金疑惑が出たし、稲田防衛大臣の致命的な失言、「このハゲーッ!」でいちやく有名になった豊田真由子議員の秘書への暴言もあった。テレビは五感に訴えるから、暴言音声はかなりのマイナス宣伝になったかも。

小池さんは運がいい人なのかもしれない。

この風がこれからの東京都と都民、私の生活にどう関わってくるだろうか。

政治に関心があるわけではないけれど、人とその人が紡ぐものがたりには興味がある。

小池さんは一部では総理の椅子をめざしているとか言われるけど、そうかな?政治と選挙のゲームの達人は最終ゴールまで行きつくのだろうか。大勢生まれた「小池チルドレン」やがて自民党の「自民党 魔の二回生」と言われる人たちみたいに、話題を提供する時もやってくるかな。

見守っていこうと思う。

レッスン122-赦しは、私が望むすべてを与えてくれる。

昨夜の都議選にはびっくりしたけど、私はともかく自分を生きていかねばならない。自分の心の中がすべてだ。

ACIMワークをやっている時は、穏やかにもなるし豊かな気持ちにもなれるけど、心にはさまざまな葛藤があり生活に余裕はない。

これに対するワークブックのレッスン122は、

赦しは、私が望むすべてを与えてくれる

赦すことが、私たちが手に入れたいと努力している、すべてのもの―幸福や静かな心、確かな目的、おもりやり、守られている安心感、やさしさ、慰め―と、それ以上のものを与えてくれる、と説く。

答えはここにある!

赦して、赦されなさい。

…朝と夜15分「地獄の終わりを保証する探索」のワークをする。

ワークをして

赦しが、私たちにすべてのものをもたらすという理屈はわかっているつもりだ。そもそも私たちは神なる性質のすべてをもっている。

それが認識できないのは、エゴが私たちに目くらましにかけ、宇宙のこの世という“バーチャルリアリティゲーム”に誘ったことで、私たちはそちらを本当の世界だと思うようになっているから。

赦すというのは、ゲームの中の自分の視点から、外からゲームを見ている自分の視点へと視座を移すことと同じだろう。

私たちが住んでいるのは、私たちの観念が見せる世界だ。観念にぴったりの現実感を感じさせるしくみがある。1つの判断、結果を赦すことでで、幻想が一つ取り除かれる。そして赦しが完璧になれば、神と私たちを阻んでいた雲が取り払われその向こうに輝いていた太陽の日差しを感じるがごとく、神なる質をすべて自分のうちに感じることができるのだろう。

だから、レッスン122の文言どおり、赦しは私が望むすべてを与えてくれる。

それは頭でわかったつもりでも、なかなか一度では身につかない。徐々に徐々に目覚めていくには、時間という幻想が必要だ。

私の中には、さまざまな観念があって、その中には「○○のための時間がない(足りない)」というのもありそう…。

だから、やるべきことがあってそのための時間があっても、そこになかなか立つことができず、いつも「あれもしなくちゃ、これもしなくっちゃ」と心が上滑りする。

こう、言っているのもエゴなんだろうな。

赦しを学んでいるものの、どこかしら観念的で「わかったつもり」で留まっていて、本当に赦しをベースに生きるところには至っていない。

7月のじかん。大事なじかん。不平、不満、欠如、心配…などに費やさず、赦しと感謝をベースに生きたい。

アファメーション

本来の私には神の記憶がある。私が神の子のかけらだ。

『マチネの終わりに』

2017-06-30

運命にふりまわされる大人の恋愛

去年11月「アメトーーク」の読書芸人の回で、オードリーの若林さんと、芥川賞作家の又吉さんが「2016年のおすすめ本」として挙げていて興味が湧いた。

38歳のクラシックギタリストと2つ年上のジャーナリストの女性の恋愛のものがたり。

図書館で予約したが、すでに予約がいっぱいでようやく半年後6月に私の番が来た。帰省のお伴に持っていき新幹線の中で読んだ。

2006年の出会いから2012年までお話しで、ノンフィクションではないものの主人公にはモデルがあるのだという。イラクの治安や東日本大震災などバックボーンがしっかり描かれているから、甘い恋愛の話というより現実感がある。

ひとことでいうと、おもしろかった。ふだん恋愛小説というジャンルを読むことがないから比較はできないけど、旅と相まって非日常に入り込めた。

構成がしっかりしていて展開もおもしろく、文章表現も格調高くて、これを書いた作家(平野啓一郎さん)さんはすごい頭がいい方なんだろうな、と思った。

一方で、ひとつの恋愛としてみたら、どこかしら観念的で女というものがいくぶん美化されているように感じた。

ちょっとしたすれ違いと第三者の嫉妬から、恋する二人が真相を確かめることなく誤解が誤解を生み運命に翻弄されていく様子はさながらかつてのメロドラマみたいでもどかしく、はらはらした。とっても大事なことを会って確かめることなく諦めることなんて、実際ににあるもんかな、と不思議に感じた。

たぶん、あるんだろうし、だから美しくお話にもなるのかもしれないけど、、。

自分の嘘から「ライバル」を陥れ主人公と結婚した「妻」が良心の呵責から嘘を主人公に吐露する場面があるけど、実感から言うと、女ってもっと生々しいもので「秘密は墓場まで持っていく」ことができるふてぶてしさもあるように思う。それは善悪というモノサシではなくて、自己の存在を賭けて生きているようなところがあるから。

未来は常に過去を変えている

この話には、「人が変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えている。」という考え方が流れている。

未来のできごとによって過去の意味づけというものは変わる。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去はそれくらい繊細なものなのだという。

そう、過去のできごとは変わらなくてもその意味づけや上塗りされるイメージによって変化する。

過去も未来もほんとうはない、というACIMとは別次元の話だけど。

ヒロインの女性はクロアチア人の映画監督と日本人の母を持つハーフで、シングルマザーに育てられ「父から捨てられその存在を経歴から葬られた」と思って育ったが、文中でそれは誤解だったとわかったところがあった。それによって、彼女の未来も変わった。

それがよかった… 沁みた。

主人公がギタリストだから、作中にはいろんな曲も登場する。そうした曲を集めたタイアップCDが発売されているそうだ。

それも聴いてみたい。

レッスン121-赦しが幸せへの鍵である。

2017-06-30

都議選直前

6月最後の日。外は梅雨らしく雨がしとしと。

都議選が明後日に迫り、外の選挙カーは必死に名前を連呼して「お願い」「よろしく」と通っていく。

これって騒音っぽくてみんなの生産性を落としているだけのようにも感じるけれど、名前連呼の効果っていうのもやっぱりあるのかな。

築地市場の問題はこの都議選にどの程度関係しているかな。小池さん率いる都民ファーストの会は、どの程度議席を獲得するだろうか。

都議選については、友人知人から自民党、公明党2候補に投票を頼まれた。けれど私自身は本当は「だれ」が望ましいと思っているのか、よくわからない。投票するつもりではあるけど、未だ定まらず。

レッスン121-赦しが幸せへの鍵である。

また新しいフェイズに入る。レッスン121ではACIMの最も基本的な概念である「赦し」について、「赦しが幸せへの鍵である」という概念を深める。

これは、「赦しこそが幸せへの鍵である」と言い換えた方がわかりやすい気もする。

赦し…

すわなち、この世の幻想性を認めて、手放すこと。

この世のゲンジツはここにいる私にとってはもちろん現実的なことだけど、実は映画のように幻影を見ているだけ、それも神からの分離という幻影。それは実際には「起ってはいない」。自分の罪悪感と恐怖がときに無意識から浮かび上がって、怖く辛い映像を見せる。

その時、現実ではないのだと認めゆるす。それによって、神と私たちを隔てていたかに見える雲が取り払われて、ずっと在った神が見えてくる。

レッスン121には、「赦しは習得されるものである。」とある。車の運転や料理や水泳のように身につけるものだ。

それを内なる教師であり、本来の自分であるホーリースピリットの導きによって学んでいく。

レッスン121は赦す練習で、長いほうの練習は、

①自分が嫌ったりネガティブな感情を抱いている「敵」と「友」を選び、

②敵視している人のどこかに光を感じる

③光を広げる

④友にその光を移し、その人に友以上の存在を感じる

⑤光を自分に与えてもらう

⑥「敵」と「友」を一つにする

⑦彼らに祝福してもらい彼らと一つになる

⑧これにより自分自身によって赦された

…大まかにいえばこのようなプロセスによってワークをする。

レッスン121は一日を通して赦しが果たす役割を忘れないため「1時間ごとに、次のように自分に教えなさい。」と次のような文言で締めくくられている。

赦しこそが幸せへの道である。私は、自分が死にゆく者、誤りを免れない者、罪深い者だという夢から目覚め、自分が完璧な神の子であるとわかるようになるだろう。

ワークをして

2日間何回かワークをした。対象を決めずにワークをしたなかで「敵」の役に「妹」のイメージが出てきた。

妹は7歳も年下ということもあって、ずっと「かわいい」としか思ってこなかった。もちろん今もかわいい、愛おしい唯一のきょうだいだ。

だけど何年か前たまたま帰省のタイミングが一緒になった時、母親に激しく怒りをぶつけている姿を見て、怖ろしくなり、それから妙にキンチョーするようになってしまった。それでこのワークの対象となった。

ワークをしてみて気づいたのは、妹が母に怒りをぶつけている姿は、

強大な母に怒り憎しみを抱いていた過去の自分を呼び起こしていたのだということに気づいた。

幼かった私は怖ろしいと思っていた母に反発しながらもただ感情を閉ざすばかりで怒りを表現することができなかった。次女の妹はそれができる。

だから大人になった今、まだ反抗心をむき出しにしている妹に、何を甘えているんだ、老いた母に…と思う反面うらやましくもあったのだ。

そして、母を攻撃する妹の姿は、もう一つ、妹や妹に代表される年下の者から非難され攻撃される自分というイメージを呼び起こしていた。母にぶつけるその怒りは私に対してもあるだろう、と。

だから、大人になった妹は葛藤を呼び起こす存在であり、だからどこかしらキンチョーがあるのだと思い当たった。

つまり、私は妹に表現されなかった自分を見ていた。親を責める子と子から責められる親の両方を見ていた。

彼女は私だ。

ワークをしてその正体がわかった。

このイメージはとりもなおさず、「親なる神との分離」のイメージではないのか。自分が親から離れたのを、親がダメだからだと責める「結果」をこの世に作っていたのではないか。

イメージは、まだ手放せていない感情のしこりというだけであって、本当のことではないから、そこにしがみついてその感情を育ててリアルにしてさらに大きくしてしまうのは望まないことだ。

それで手放すようにした。

このイメージは私にとっては深いものだと思うから、何度も赦すことが必要かもしれない。

アファメーション

私が出会うすべての人は、私。その私を赦して慈しむことを思いだそう。

復習Ⅲおわり-レッスン91~110

2017-06-29

レッスン91~110を復習する「復習Ⅲ」がようやく修了。復習Ⅲのレッスン91~110の主題概念は下記のとおり(日本語は『奇跡講座ワークブック編より』)。

ここでは復習Ⅱの内容からさらに進み、「私は霊である」と宣言するとともに、「神の救済計画における私の役割」にも光が当てられている。

神との距離が少し近くなっている気がする。

そして、「神の意志とは幸せ」であり「平安と喜び」であることが強調されている。私たちのはたらきとは幸せであることだ。

神との信頼を紡ぎなおす段階なのかもしれない。

 日本語 英語
91奇跡は光の中で見える。91 Miracles are seen in light.
92奇跡は光の中で見え、光と強さはひとつである。92 Miracles are seen in light, and light and strength are one.
93光と喜びと平安が私の中に宿っている93Light and joy and peace abide in me.
94私は神が創造したままの私である。94 I am as God created me.
95 私は創造主と一体の一なる自己である。95 I am one Self, united with my Creator.
96救済は私の一なる自己から訪れる。96Salvation comes from my one Self.
97私は霊である。97I am spirit.
98私は神の救済計画における自分の役割を引き受ける。98I will accept my part in God's plan for salvation.
99救済が、ここにいる私の唯一の機能(はたらき)である。99Salvation is my only function here.
100私の役割は神の救済計画に不可欠である。100My part is essential to God's plan for salvation.
101 神の意志が私に望むのは完全な幸せである。101God's Will for me is perfect happiness.
102 私に幸せを望む神の意志を、私も共有している。102I share God's Will for happiness for me.
103 神は愛なのだから、幸福でもある。103God, being Love, is also happiness.
104 私は、真に私に属するものだけを求める。104I seek but what belongs to me in truth.
105 神の平安と喜びは私のものである。105God's peace and joy are mine.
106 私が静まって、真理に耳を傾けられますように。106Let me be still and listen to the truth.
107 真理は、私の心の中のすべての誤りを訂正する。107Truth will correct all errors in my mind.
108 与えることと受け取ることは、真理においてはひとつである。108To give and to receive are one in truth.
109私は神の内に休らう。109I rest in God.
110私は神が創造したままの私である。110I am as God created me.

レッスン120-レッスン109、110の復習

2017-06-26

復習Ⅲ修了へ

ようやく復習Ⅲの最後。レッスン120は法事帰省前の6月15日、16日にやったもの。

私は、30分に一度主題概念を数秒でもいいから練習するという、この復習Ⅲのワーク形態が苦手で、すぐ忘れてしまい、なかなか先に進めなかった。

さらに帰省中も帰省後もワークはあまり進んでいないけど、ゆっくりでいい、ただ離れてしまわないようにしようと思う。

ワークブックの英語の原文にあたることをあきらめれば、もっと楽に早く進めることができそうだけど、せっかくあるのだからと思うと、どうも気になり、、、結果、英文読解にかなりエネルギーを取られてしまい、英語の勉強だかACIMの習得なのかわからなくなってしまっている。

でも、この人生で自分の軸となるもの(今はそう思っている)を見つけられた私は、なんて幸せなんだろう。

ACIMのおかげで、前より心安らかになった。かつては「出口がわからなかった」けれど、今はここから見たら針の穴ほどの小さな穴でそこへの道のりは遠いのかもしれないけれど、「出口はある」のだ。

自分が人生において被害者や加害者ではないと知るだけでも、私がACIMから得たものは大きい。

レッスン120-レッスン109、110の復習

l109)私は神の内に休らう

 今日、私は神の内に休らう。そして、私が神の内なる静けさと完璧な確かさの中で安らっている間、神が私の中で、私を通して働くに任せる。

l110)私は神が創造したままの私である。

 私は神の子である。私は今日、自分についてのすべての病んだ幻想を脇に置き、私が本当は誰なのかを、父に教えてもらう。

ワークをして

このワークにかぎらないのだけど、ワークをして感じたのは、私の「批判ぐせ」だ。

何かしら、自分に不都合だったり不愉快なことがありそうになると、自分ではない誰かのせいにする気まんまんの姿勢でいる、ということに気づく。

 あんなっことがあったから → こうなった

 あのせいで → ひどい目に

つまり被害者のポジションになり、そして隙あらば「正当な理由」によって「防衛」を試みる。

全部がそもそも要らないことだ。

私が神が創造したままの私で、今なお神の内に在るならば、

苦しむ必要も、害を被る必要もないはず。

私たちの身体は、意識、無意識にかかわらず私たちが抱いている批判や不満、罪悪感の行き場を求め出口を探し、その攻撃性は病いや苦痛を生み出すけれども、その必要もない。

レッスン110の文中の文言

私は神が創造したままの私である。

神の子が苦しむことはありえない。

そして私は確かに神の子である。

の宣言どおりに生きられたら!!

アファメーション

今ここにこうしている私。この私は祝福されている。

あっぱれ!小林麻央さんに学ぶ生きる様

2017-06-24

生きる姿勢

昨日、小林麻央さんの訃報が届いた。

ブログをしばしば拝見し辛い状況の中でもやさしく自分らしく生きる姿に尊敬を抱いていたから、「ああ、旅立たれたか」と何とも言えない気持ちになった。

6月20日付の最後のブログではお母さんの手搾りのオレンジジュースのおいしさを記事にしておられ、

「皆様にも、今日 笑顔になれることが ありますように。」と締めくくられている。添えられた写真には穏やかな笑顔。肌にも透明感があり瑞々しささえ感じる。たいへんな闘病だったろうに最後まで日常の一場面の喜びを綴る投稿だった。

2014年9月の海老蔵さんブログに掲載された着物姿の真央さんをお気に入りに登録していた。その頃はすでに病に罹られていたことになるが、その若妻らしい姿からは病魔の影はみじんも感じられない。人の運命というのはつくづくわからないものだと思う。

34歳。お子さんはまだ4歳と5歳。普通なら、人生これからいよいよ本番、という時だったのに…

2014年2月の人間ドッグで引っかかり何回かの検査後10月に病が確定したという。最後の投稿写真で見せた穏やかさに至るまでには、忸怩たる思いや葛藤、いくつものプロセスがあったろうと推察する。

それを前面に出さず凛として自分を晒す姿に、存在の美しい人だと感じ入っていた。ありのままに振舞っているように見え、その実とても抑制の身についた方だったのではないかと思う。

一読者として生きる姿勢を学ばせていただいておりました。

お悔やみ申し上げます。

与えられたいのちに、感謝して生きる

この世をエゴから投影されたロールゲームのようなものと見た時、そこにはいつも2人の自分がいるように感じる。「ゲームを外から見ている自分」と、「ゲームの中で生きている自分」。

ゲームを外から見ている自分は、このゲンジツの世がすべて投影されたものでリアルではないと知っている。

でも、ゲーム中の私は、当然そこでの出来事に一喜一憂する。

この世のあらゆる「死」というものは、「神との分離」を繰り返し再現して体験しているにすぎない。そう頭ではわかっているつもりだけれど、やっぱり今ここにいると思っている私の方は、悲しくさみしい。

私は身体ではない。身体は私ではない。

でも、今ここで身体を持って生きているのはこの私。

生きていられるのはありがたいこと。

それを改めて感じた。

ふとふりかえったら、2014年の春は、私自身の「がん」が発覚した時だった。夏は手術するのしないのすったもんだしたあげくネットでいろいろ調べ、お医者様は手術を勧めたけれど「経過観察」だけを続けるという選択をした(大きくならないタイプでリスクは小さいと判断した)。

おかげさまで無治療で経過観察のまま今に至り、元気に日常をあたりまえのように生きている。それがすごく尊いありがたいことなのだということを忘れていた。

病気で亡くなる人、事故で亡くなる人。事件に巻き込まれる人。ぽっくりと逝く人。いろんな運命がある。いずれはここにいる皆が肉体を後にする。

けれど、今ここに残されている人たち、生きていられる人たちは、この肉体を持った自分の命を生きなきゃ。

よしんばそれがかりそめの世だとしても。

自分に与えられたものがたりを生きるー。

それを改めて感じた。

小林麻央さんが見せてくれた日々の記録はずっと生き方のお手本のひとつとして、ブログを共有するみんなの心に残るものだろうと思う。

あっぱれ!

見事だ、と思う。見せてくれた在り様に感謝。

レッスン119-レッスン107、108の復習

2017-06-22

法事で故郷へ

先週末父の三回忌で帰省。お寺で美しいお経を聴きながら厳かに法事が行われた。行く前は親戚と顔を合わせるのを億劫に感じていたけれど、法事は個人を偲ぶというより今生きる人をつなぐために、大事な儀式なのかもしれないと思った。

故郷の家では東京とは別の習慣とリズムが刻まれていて、自分が育った地ながら不思議な気分になる。父が病気になってから、意識が故郷にひっぱられ、東京にすっきり着地しにくくなったけれど、父が亡くなり田舎に母ひとりになってからは、その傾向はますます強くなっている。

東京とひとり暮らしの自由さに慣れた私は、気持ちを故郷と母に向けながらも、母が元気なことをいいことに、まだ「では故郷で住もうか」という気にはなれないでいる。

法事の翌日、母と黒部宇奈月のトロッコ電車に乗った。新緑の季節…宇奈月湖(ダム)のエメラルドグリーンが鮮やかで湖面橋の赤がよく映えていた。

よく歌の歌詞なんかで「小さくなった母の背中」といったフレーズがあるけれど、あれは本当だ。私の母はかつてより伸長が10㎝も小さくなって、私と同じくらいになった(元が高かった)。

母が小さくなる分、愛おしさが増す。

ACIMのワークブックを携帯していったけど、まったく開かず、ワークもできなかった。パートタイム学習者にしても、進み具合はスローモー…

レッスン119-レッスン107、108の復習

l107)真理は、私の心の中のすべての誤りを訂正する

 自分が何らかの形で傷つくことがありえると考えるとき、私は間違っている。私は神の子であり、私の自己は神の心の中で安全に休らっている。

l108)与えることと受け取ることは、真理においてはひとつである。

 私は今日、すべてを赦すつもりだ。それにより、自分の中の真理を受け入れる方法を学び、自分の無罪性を認識できるようになりたい。

ワークをして

最近考えているのは、おカネと豊かさの概念を変えること。

私たちは、コストと収入の世界にいると思っているけれど、それは一つのレイヤー(層)で、その下層というか根本には神なる豊かさがあるだけだとしたら、その豊かさを頼ることですべてはまかなわれるのかな、と思う。

収入もコストも、給料も、節約も、物価上昇も、損失もない。ただこの幻想の世界でのできごとだ。本当は神とその豊かさの中にいるのだとすれば、幻想をやる過ごすことさえ完全にできればおのずと豊かさは与えられるのかな、と。

もちろん、そうは言ってもトイレットペーパーやジャムをスーパーの5%割引き日に買うことにしている私。お風呂の残り湯を洗濯に使う私。レジでポイントカードを出す私。そんな簡単には意識を変えられないけれど。

本当に神だけに頼ることができて、自分がこの世の幻想性に惑わされず、エゴの心をやり過ごすことができれば、ただ自分の世界に現れるものやこと、人に、赦しと感謝と愛で対応できたら、とても幸せなのじゃないかと思う。

一方で、ACIMが提唱することが私にはやっぱり無理だぁ~、様々なエゴの執着を捨てられるはずない、と思い、そのことに恐怖を抱いたりもする。

とくに母のことを思う時、ずっと元気でいてほしいと思う。母が老いていくのは嫌だ。これは母のことを愛している、というより、大人になりきれず大人になった自分の甘えと執着だ。母もまたこの世の幻想だと観念的には思うけれど、その幻想にしがみついていたい自分がいる。

アファメーション

中休みしてもいい、ACIMから完全に手を離してしまわないように。また戻ろう。

レッスン118-レッスン105、106の復習

2017-06-16

きゅうり

今朝ウォーキング途中に、たまに挨拶をするくらいのおじさんから、採れたてだと言ってきゅうりを二本もらった。何でも同じく朝通りかかる別の人にあげるはずが通らなかったから、と。

きゅうり二本を腕に抱えて歩き出した。採ったばかりというきゅうりはとげとげがあっていかにも生命力に溢れている。ふとだれかから、ちょこっとしたものをいただくのもうれしい。

きゅうりというのは一年中スーパーにあるから意識しなかったけど、今がちょうど旬だ。

私の90近い伯父は漢方や医食同源に詳しい人だが、彼は常日頃「きゅうりは癌にとても効く」といっている。ではなぜそういう情報がさほど広まっていないのかというと、「あまりに身近にありすぎて商売にはならないから」だそうだ。

おじさんだけが知っているまだ未解明の栄養もあるのかな?

ともかく採れたての旬の夏野菜、ありがたくいただこう。

レッスン118-レッスン105、106の復習

l105)神の平安と喜びは私のものである。

 今日私は、自分で作り出した幸福と平安の代替のすべてを喜んで放棄し、それらと交換に、神の平安と喜びを受け入れる。

l106)私が静まって、真理に耳を傾けられますように

 私が、自分の弱々しい声を静められますように。真理そのものを代弁する力強い声が、私は完璧な神の子であると告げて私を安心させるのを、聞くことができますように。

ワークをして

以前の自分と比べたら、「神というもの」(神の定義)が変わった。

前は、崇高な愛なるものと思う一方で、畏怖の念をいだきやはり怖ろしかった。

今は…、レッスン105にあるように平安と喜び、そして豊かさ、幸福、愛…そのものであり、意識の上では怖いとは思わなくなった。

今ここで、何か辛い苦しい状況ならば、それは神が与えたものではなく私が作りだしたものだ。それを選ぶ必要はない。

神と自分たち自身に対する誤解のためになしたまちがったチョイスにすぎない。

私がここ数年ACIMから学んだことはこのことだ。

どんな渦中にいようとも、それを思い出したい。

そのためには、自分で集めた、そして今も増やそうとしている自分を保持するための防具にふりまわされないことだ。

この世は移ろいやすいし、そうしたものが役立つかに見えるのは一時だ。

それでも、新しい防具が欲しくなる。

私は若い頃から、資格を取ったりそのために勉強したりするのが、好きだった。こつこつやって何か形になるような気がするから。

そして、それが世の中に対して自分を証明できるような気がするから。

今もその志向は健在だ。でも、それらに振りまわされて本末転倒にならないようにしたい。

自分で自分のじゃまをするのを止めて、少し…心に真理が入り込めるすきまをつくろうと思う。

「時感」って熟語があったらいいな、ふと思った。

アファメーション

神は在る。God is.

レッスン117-レッスン103、104の復習

2017-06-15

夢分析とモラトリアム

昨日の晩は月一度のカルチャーの「ユング心理学講座」だった。2002年の5月から参加させてもらっているから、気づけばもう15年になる。月1度とはいえさすがに15年も受講しているから、人見知りの私でも気をおかずに行ける、数少ないありがたい場だ。

昨日は最近見た夢の分析をしていただいた。

持っていた何枚かの服を捨て置きながら、私が連れと円形劇場に入り込む、観客として舞台を見ていたが、舞台上にいた演出家らしき人に突然話しかけられ、即興でやりとりをする、途中から親戚のおばさんが出てきて完璧な答えを返すという夢(なんのこっちゃ)。

先生はこの夢が、何らかの仕事上のことを意味し、そこでは私が即興でもやりとりができ、私の分身であるおばさんは「完璧な答え」も持っている、とおっしゃった。「あなたが60代位というこの夢の演出家になんか思い当たることない?」と言われ、今、契約をせず無報酬のままお手伝い(?)している会社の社長が思い浮かんだ。

どんなかたちで関わることができるのかわからず、商品化する力がないから、今のところただ言われるがまま打ち合わせや研修に参加したり、ちょっとした調べ物やレクチャーをしたり。自分でも交渉力も企画力も乏しく無能だな、と思う。

一方で、自分に来たものをリアクションモード(受身)でその時できる範囲でただやっていくとどうなるのか、というそのことが、私にとっては実験のような気もしている。

先生は私が無意識では「その仕事に乗り気で自信も持っているのだ」とおっしゃった。自信なく逃げ腰の私には意外だったが、「そうなのか」と少し気が楽にもなった。

今の私は、いろんなことが不確かなまま進んでいる。今だけではなく、これまでの人生自体がモラトリアムのようにも思う。だから、ACIMのようなものに惹かれるのかなと思う一方、単なる「世逃げ」の言い訳にしているのかなと思うこともある。

レッスン117-レッスン103、104の復習

l103)神は愛なのだから、幸福でもある。

 愛がすなわち幸福であり、それ以外の何ものも喜びをもたらさないということを、私が覚えていられますように。だから、私はいかなる愛の代替も迎え入れるつもりはない。

l104)私は真に私に属するものだけを求める

 愛は私が受け継いでいるものであり、私はそれとともに喜びも受け継いだ。これらは父が私に与えた贈り物である。私は真に私のものであるすべてを受け入れたい。

ワークをして

ワークの形式が変わっても、いつも同じようなことを感じている・

すなわち、私は心の奥にずっと自己嫌悪を抱えて生きてきたんだ、ということを確認している。

それはもちろん父なる神を蹴って「自分でやるから」と離れてしまったことに対する自己嫌悪だ。

それは実は起っていない勘ちがいだけど、やっかいなのはそれが無意識にあるから、それと知ってもすぐには正しようがないことだ。

自分に認めない(否認)→否認したものを他者の内に見る(投影)

→ゲンジツで心がざわついたり嫌な気分になったり、あるいや嫌な結果を作る

という一連の流れを作ってしまう。

心の中のこの、実はありもしない“悪業”を無に流せるのは、無意識が意識に上がってきた時だけ。つまり、心がざわついたり嫌な気分を感じた時しかない。

これを正しい見方で見て、修正する。

自分に、それは実は起らなかった、起っていないのだ、と教える。

それによって、意識できた分だけ消えていく。

起っていなかったことを赦すこと。そして起っていなかったこと=神と今も共にあることに感謝すること。

こうした修正が必要なことを思い出した。

でも、この考えは、この世で人と関わったり、あるいはただ生きている時でも、すぐに忘れてしまう。そして、ざわざわや嫌な思いを引きずったり深堀りしてしまう。

最近ワークから少し離れていたから、特にそう…。

とにかく止めてしまわず、何とかACIMにつながりつつ、くりかえすことかな?私はACIMのワークはこの世での生きるという実践の上でも役立つと思っているのだから。

アファメーション

愛がよくわからない、愛を意識してみようか。

レッスン116-レッスン101、102の復習

2017-06-10

昨日までの三日間ACIMワークから完全に離れ、ある会社向けのプレゼン資料づくりに寝食削り没頭していた。それはそれでゲーム感覚で楽しかった。夕方プレゼン終了後疲れと爽快感からくる心地よさを感じた。こういう感覚は久しぶりだった。

…、たった3日なのにACIMの感覚が遠くなっていて、びっくりした。

また、のれんをくぐって「よろしく」と改めて中に入る感じだ。ダイアリーを書き終わったら思い出せていると思う。

レッスン116-レッスン101、102の復習

l101)神の意志が私に望むのは、完全な幸せである。

 神の意志、私の完全な幸せである。私が苦しむことがあるとしたら、それは唯一、神の意志とは違った別の意志があると信じているからである。

l102)私に幸せを望む神の意志を、私も共有している

 神の子である私に対する父の意志を、私も共有している。父が私に与えたものが、私の浴するすべてである。父が私に与えてくれたものが、実在するすべてである。

ワークをして

前にも何度も書いているのかもしれないけど、昔は(私の悪事をすべて知っている)神が怖かった。レッスン101の本文に書かれているとおり、人生のどこにいようともいつかのタイミングで見つけられ、私の番として罰せられる。そう思っていた。今も少し思っている。

その典型的なものが、老い・病気→死だ。

ただ、今は、「神は私に幸福だけを望んでいる」という文言が前より信じられるようになった。

私たちはこの世で苦しむ必要はいっさいない。

私たちはみな幸せであっていい。

いや、完全に幸せであることこそ神が私たちに望んでいることであり、

神とは完全なる幸せそのものだ。私たちはそこから生まれ、今なおその一部だ。

ただ、それをリアルに感じられるためには、幻想を幻想として、見抜き赦さなければならない。

この習得は、やっぱり理屈というより練習なんだろう。

泳ぎをマスターするように、顔を水につけバタ足をして息継ぎを覚えて…といった具合に赦しも習慣化して身につけていくことだ。

小林麻央さん

このところ、小林麻央さんのブログを拝見している。食事ができなくて痩せ細った姿を気丈にもブログに載せておられる。当然ながらのすっぴんのお顔が美しいと思う。

ワークのミニ瞑想をしていても気になっているのか彼女のイメージがでてきた。

ACIMでは病んでいようと健康であろうと肉体はただの夢、実相は変わらないという。苦痛は肉体的な機能ではなく無意識で自らが自らを攻撃したり、自分自身を憎んだり罪悪感を抱いたりした「結果」だという。

そうはいっても…。いや、そうだとしても…。

毎日、今日は更新はあるかと見てしまう。それは私が彼女の病に囚われてしまっているからかもしれない。

それで、彼女の病気を赦した。

そして「罪と恐怖のシンボルにはならないでください。幸せと癒しのシンボルであってください」とメッセージを送った。

だれか他の人の病であっても、それを目にしているのが自分なら、それは助けを求める自分の内なる声だ。それを癒すことだ。癒しと赦しは同じものだ。

それで、私が見ている彼女の病気のイメージを赦し、手放した。

人間はいずれ肉体を離れるとしても、病気になることも老いて苦しまなければならないこともない。

罪悪感がなれければ苦しむことはできない。

神と一体である私たちには罪はなく、あるのは完全な幸せだけである。

アファメーション

幸せであることは神の意志を生きること。

レッスン115-レッスン99、100の復習

2017-06-06

おくればせながらの『アナと雪の女王』

ちょっぴり空気がひんやりして過ごしやすい。昨日は晴れという天気予報に反して夕方から雷雨となった。やっぱり東京は亜熱帯地方になったんだ、と思いながら濡れて帰った。

週末、おくればせながらDVDを借りて『アナと雪の女王』を観た。我ながら、遅っ。2014年3月から日本公開されあんなに話題になったのに観ておらず、先日地上波発とテレビでやっていたのをチラッと見て、いいかも、と借りてみた。

おもしろかった。

なんであんなに女性人気があったのか、わかった気がした。ネットのある解説には主題歌「レット・イット・ゴー」が本来は「流れにまかせて」といった意味なんだけど「ありのままで~」と訳されて松たか子さんが美しい声で歌い、それが「ありのままでいいんだ」と日本女性のこころのツボになって大ヒットした、といったようなことが書かれていた。

たしかに「ありのままで~」というのは耳ざわりのいい言葉だからそうだろう。だけど、いつも弱くて助け出されるような姫ではなく、愛の力で状況を打破できた王女アナに、女性はわが身を投影し自信をつけたのではないかと思った。

もう「私は弱くてだめなの、助けて、お願い」と言わなくてもいい。ありのままの力を認めても、認められてもいい。それは武力や権力ではなく愛の力だ、と解放した。

映画を観た女性はそういうメッセージを受け取ったのでは?だから男性にはイマイチ受けず女性に大人気だったんでは…と。そう思えた。

解釈が古いかな?

しかも、もう3年も前の映画…。ははっ。

レッスン115-レッスン99、100の復習

l99)救済が、ここにいる私の唯一の機能(はたらき)である。

 ここにいる私の機能(はたらき)は、私が犯したすべての誤りについて、世界を赦すことである。そのようにして、全世界とともに、私がそれらの誤りから解放されるからである。

l100)私の役割は神の救済計画に不可欠である

 私は世界を救済するための神の計画に不可欠である。神は、私が世界を救えるようにと、その計画を私に与えたからである。

ワークをして

救済とは、この世の幻想性に対する徹底的な赦し。そして、出会う兄弟姉妹に神の子という真の姿を見て愛すること、だと思う。

レッスン99には、「赦しと救済は同じものである。あなたが自分で作り出したものを赦せば、あなたは救われる。(w99-10-6,7)」とある。

レッスン100には、「あなたの喜びなしでは神の喜びは不完全である。あなたの笑顔なしに世界は救われない。(w100-3-2,3」、

今日私たちは、喜びがここでの自分の機能(はたらき)であることを理解しようと試みる(w100-6-1)」とある。

ならば、究極的には、この世での私のはたらきは、

L99赦すこととL100喜ぶことだ。

そして、救済すれば、救われるのはこの私だ。

 

テレビでは連日ヨーロッパを中心としたテロのニュースが流れてくる。テロがこんなに頻発するなんて…。

これもまた誤解が私に見せる幻影だ。

だけど幻影だから対処しなくていいのか…と罪悪感のようなものを感じる。

だけどそれに感情的にネガティブに反応してしまうのは、その幻想をリアルにしてしまうこと。

じゃあ、心のレベルでゆるすということを、この世のかたちのレベルではどうふるまえばいいのか。そこがまだよくわからない。

 

レッスン100の本文「あなたは今日、神の使者である。あなたは、自分が見るすべての者に神の幸せを運び、あなたを観てその幸せに満ちた顔に神のメッセージを読みとるすべての者に、神の平安を運ぶ。(w100-6-4,5)」というフレーズに反応してノートに書き写した。

今のじぶんは全然ちがうのだけど、

これを人生の目標にしたいからだと思う。

アファメーション

苦しむ必要がある人なんて、この世にいない。

レッスン114-レッスン97、98の復習

2017-06-03

雑談できる友のありがたさ

まだ梅雨入り前なのだけど、梅雨が明け本格的な夏が到来したかのように錯覚する強い日差し。紫外線がことさら気になる思秋期だ。

昨日は久しびりに友だちと会って、新宿の東郷青児 美術館で開催されていた「ランス美術館展」(フランスにあるランス美術館のコレクションをご紹介する展覧会)と、自由が丘で開催されていた「柳本浩市展」(46歳の若さで昨年急逝されたデザイナー、ディレクター柳本さんの追悼展)に行ってきた。

芸術的刺激もよかったが、何より老いていく親のことや自分自身の健康など、50代の定番とも言えるおしゃべりができて楽しかった。ネット化が進んで仕事でもプライベートでも直接会うということが減って久しい。フリーランスでひとり暮らしの私にとっては、こうした雑談ができる友とその機会というのはほんとうに貴重だ。

そのことを夫婦で暮らしている友だちには言えなかったけど、目的がないとりとめのないおしゃべりができる関係というのはしみじみありがたいと思った。

ひとりはいいけどひとりでいすぎるのは…。私が年を重ねますます内向的になっている自分のライフスタイル、やはりどうにかすべきかも、という反省も感じた。

レッスン114-レッスン97、98の復習

l97)私は霊である。

 私は神の子である。肉体は、私の霊を封じ込めることはできず、神が創造していない制限を私に課すこともできない。

l98)私は神の救済計画における自分の役割を引き受ける

 神は私を、永遠に変わることのない私として創造したのだから、その神の言葉を受け入れること以外に、私にどんな機能(はたらき)があるだろうか。

ワークをして

先週の金曜、土曜にやったワークだ(やっと少しだけどワークとダイアリーが縮まった)。思ったのは次のようなこと。

私が霊なら、他の人も霊だ。

どこで読んだか忘れたけれど、私たちの肉体は霊をくるむ肉の毛布みたいなもの、という表現を思い出した。それはあたかも、スヌーピーのライナスがいつも持ち歩いている毛布みたいなものだ。

この男の子の名前を確認するのにネット検索したら、その毛布のことを「安心毛布(security blanket)」と言うそうだ。安心毛布は「人が物などに執着している状態を指す」ともあった。

私たちの肉体もまさにこれなんだ。肉毛布。

もちろんここに生きている以上、肉毛布は必要だけれど(ないと幽霊になるのか?)、人と接するときはなるたけ肉毛布をやり過ごして、同じ神の子という本質と意識しようと思った。

 

そして、「神の救済計画における自分の役割を引き受ける」ことについては、私の役割はまず赦すこと、愛すること。

それ以外にこの現世での役割は何か。

やはり、

ACIMとこの世をつなぐこと、と

ACIMをわかりやすく伝えること、

という2つが思い浮かんだ。

これまで経営のお手伝い的な仕事をして生計を立てていたけれど、できたらいずれ、何らかACIMのことをしごとにしたいと思う。

でも、それはすなわちACIMに関する何かをしておカネを稼ぐということ?と思うと、具体的なイメージが想像ができずそこでおしまいとなった。

夜のワークでは、この学習ブログはコースを歩むストックみたいな役割として役だっているけど、「だれかに何かを伝えるもの」にはなっていない。ACIMをまったく知らない人向けのブログがあってもいいのかもなぁ、と思った。

それはまだ先のお話なのかもしれないけど。

アファメーション

人を、肉毛布をやり過ごして、霊として感じてみよう。

レッスン113-レッスン95、96の復習

2017-06-01

紫陽花

お~、6月に入った。

朝の散歩道に咲く紫陽花のうすむらさきいろに癒しを感じる。紫陽花というのは、咲くまでは存在感がない。梅雨の季節に咲いて初めてそこに紫陽花が植わっていたのだと気づく。

紫陽花というのは咲いてないときはどうしているのかな~と、50も半ばになってから子どもっぽい疑問が湧いた。それで今年の冬、意識して紫陽花を見てみたら、からっからに枯れた木の枝から小さな緑の芽が出ていた。それが次第に葉っぱとなり春にはどんどん緑を増やしていった。

あたりまえだけど花をつけるまでも他の植物と同じように、春に芽が出て成長して秋には枯れて…というサイクルをくりかえしていた。

ほう、とちょっぴり感動した。

紫陽花は色がいい。ピンクから紫、青としっとり控えめな色味で、花々のグラデーションも美しい。小さな花を覗くと、花びらと真ん中の取り合わせもなかなかいい。今、調べてみたら、花びらだと思ったものはがくで、真ん中の小さいのが花そのものみたい。

この6月は紫陽花をみよう、とふと思う。

レッスン113-レッスン95、96の復習

l95)私は創造主と一体の一なる自己である。

 私は一なる自己であり、完全に全一で、被造物のすべてとも、神ともひとつであるから、安らかな静けさと完璧な平安が私のものである。

l96)救済は私の一なる自己から訪れる。

 一なる自己の智識は今も私の心の中にとどまっており、その自己のもとから見れば、私のための神の完璧な救済計画が完璧に成就されていることがわかる。

ワークをして

ワークをしたのが5月12日。もう半月以上前のふりかえりということになる。

この95、96のワークでは神と一体の「一なる自己」にフォーカスが当たっている。

改めて本文を読んでみると、

あなたが見ている自分自身は、神の被造物を模倣した滑稽な紛いものである。すなわち、弱く、意地悪く、醜く、罪深く、哀れで、苦痛にさいなまれるものである。それが、あなたが自分で作り出したあなたである。」と、

神から分離したと思いこんだ私たちがエゴの主導のもと作り出した私たちの自己像が描かれている。

そして、それは間違いだから「あらん限りの確信を抱いて」以下のように唱えて手放すようにと強く命じている。

私は一なる自己である。創造主とも、被造物とも、被造物のあらゆる側面ともひとつである自己、無限なる平安と力がみなぎる一なる自己である。」(レッスン95)

レッスン96では、本来私たちは一なる自己のはずなのに、幻想の自分(エゴ)と本来の自己(ホーリースピリット)が共存しているため、私たちは常に葛藤にさらされていると説明されている。

それは同じテーブルの上での葛藤ではない。一方は真理であり、一方は幻想―ないものだから。私たちはその両方を握ったままでは真に救われることはない。

幻想を手放さなければ真理は得られず、真の愛、幸福、穏やかさ、喜びの状態になることはない。

そうはいってもなかなか…

ここに住んでいる以上、ここでの諸々があるし…。

理屈はわかるようになりつつあるけど、それを日々の暮らしのなかでどう生きるか(応用編?)、いま一つ会得できていない。

私のワークの感想メモには、

「心は身体より大きい(あたりまえだけど)。

それが身体をやぶって躍動したがっている感じ。」

とあった。

とにかくACIMは習得系なのだから、筋トレや水泳と同じ、コツコツやるしかない。しばらく離れて忘れたら、またそこから再びやるしかない。

どうしても、この世でいいことばかり起ってほしい、と思うけど、嫌なことや理不尽なことが起こった負荷がかかった時こそが、力をつけるチャンスなんだよな。わかっているけど…。

アファメーション

ACIMは筋トレ。こつこつ続けるが肝要。

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