レッスン118-レッスン105、106の復習

2017-06-16

きゅうり

linecamera_shareimage (1)今朝ウォーキング途中に、たまに挨拶をするくらいのおじさんから、採れたてだと言ってきゅうりを二本もらった。何でも同じく朝通りかかる別の人にあげるはずが通らなかったから、と。

きゅうり二本を腕に抱えて歩き出した。採ったばかりというきゅうりはとげとげがあっていかにも生命力に溢れている。ふとだれかから、ちょこっとしたものをいただくのもうれしい。

きゅうりというのは一年中スーパーにあるから意識しなかったけど、今がちょうど旬だ。

私の90近い伯父は漢方や医食同源に詳しい人だが、彼は常日頃「きゅうりは癌にとても効く」といっている。ではなぜそういう情報がさほど広まっていないのかというと、「あまりに身近にありすぎて商売にはならないから」だそうだ。

おじさんだけが知っているまだ未解明の栄養もあるのかな?

ともかく採れたての旬の夏野菜、ありがたくいただこう。

レッスン118-レッスン105、106の復習

l105)神の平安と喜びは私のものである。

 今日私は、自分で作り出した幸福と平安の代替のすべてを喜んで放棄し、それらと交換に、神の平安と喜びを受け入れる。

l106)私が静まって、真理に耳を傾けられますように

 私が、自分の弱々しい声を静められますように。真理そのものを代弁する力強い声が、私は完璧な神の子であると告げて私を安心させるのを、聞くことができますように。

ワークをして

以前の自分と比べたら、「神というもの」(神の定義)が変わった。

前は、崇高な愛なるものと思う一方で、畏怖の念をいだきやはり怖ろしかった。

今は…、レッスン105にあるように平安と喜び、そして豊かさ、幸福、愛…そのものであり、意識の上では怖いとは思わなくなった。

今ここで、何か辛い苦しい状況ならば、それは神が与えたものではなく私が作りだしたものだ。それを選ぶ必要はない。

神と自分たち自身に対する誤解のためになしたまちがったチョイスにすぎない。

私がここ数年ACIMから学んだことはこのことだ。

どんな渦中にいようとも、それを思い出したい。

そのためには、自分で集めた、そして今も増やそうとしている自分を保持するための防具にふりまわされないことだ。

この世は移ろいやすいし、そうしたものが役立つかに見えるのは一時だ。

それでも、新しい防具が欲しくなる。

私は若い頃から、資格を取ったりそのために勉強したりするのが、好きだった。こつこつやって何か形になるような気がするから。

そして、それが世の中に対して自分を証明できるような気がするから。

今もその志向は健在だ。でも、それらに振りまわされて本末転倒にならないようにしたい。

自分で自分のじゃまをするのを止めて、少し…心に真理が入り込めるすきまをつくろうと思う。

「時感」って熟語があったらいいな、ふと思った。

アファメーション

神は在る。God is.

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