奇跡講座ダイアリー

見た夢のはなし

2017-12-18

夢のはなしをした

「今年も残すところ二週間」とテレビのキャスター、アナウンサーさんが言っていて、「あぁ、そうなんだな~」と思う。「今年最後」の場で、「よいお年を」と挨拶を交わすことも多くなった。

今年最後のユング心理学講座では、私が見た夢を聴いてもらった。この講座では前半が秋山さと子著『ユング心理学』の読み合わせ、後半が受講者が見た夢を話す「夢分析」の時間となっている。

私は見た夢をはっきり覚えておれる質ではなく、断片的だ。

〈11月某日見た夢〉

女性(そんなに親しくはない感じ?仕事関係?)の女性とホテルに宿泊している。部屋に何か不具合があったらしくホテル側からしばらく部屋を移ってほしいと言われ、私たちは大きな荷物を置いたままで代わりの部屋に行く。

新たな部屋ではいつの間にか女性の彼氏が加わり、3人になっている。

ホテルサイドに何か事件があったらしいけれど、それが何かわからない。

なぜかその部屋にはトイレがなく、外に出たところにあるトイレを使うが、鍵が甘くて、何度か外から人に開けられてしまう。何度かめに思いっきりドアを引っ張ったら、ガチャンと音がして安心して用が足せた。

この鍵をちゃんとホテルが直すのを確認するまで帰らないぞと思う。ヘンな障害物ができていたりして元の部屋には戻れず、だったら荷物を持ってくればよかったと思っている。

カップルの方は困っていないらしく楽しそうにやっている。

先生の解釈やアドバイス

先生は私の夢を聴いて、

「自分の意志で部屋を代わっているわけじゃないのよね?」と確認し、自分の意志ではない移動が起こったというのは、私の心の中の何らかの不安要素を表すのだとおっしゃった。

そして「自分の意志じゃなくて場所を変わらなくてはならない」ってことで、思いつくことない?予知夢ってこともあるけど」とおっしゃった。

また、トイレの鍵が甘いというのは、個人生活の境界が甘くなっている、守りが不確か、夢でトイレが落ち着かない状態というのは自分の感情がうまく流せない状況を指すのだという。

私は、母が足が痛み出して歩行困難で、最近脊柱管狭窄症と診断されたことを思い出して、そのことを話した。

父が亡くなり高齢の母がひとり暮らしとなって一段と実家のことが気がかりになっている。そして、ACIMのワークの際、聖霊のメッセージを受け取る際などに、「故郷に戻れ」とアドバイスされている気がしていた。

それが聖霊の声なのか、あるいは私の罪悪感を反映したものかはよくわからなかった。しかし何度か聖霊さんのアドバイスを受けたような気がしていた。そして「実家に行っても、それで引きこもるわけではない、そこから発信もし、いろんな場所を巡るし今以上に活動できるのだ」とも、アドバイスされた気がしていた。

ただ私は、母が朝から晩までしゃべりっぱなしで個の空間がほとんどない実家に戻る決心ができなかった。また保守的な田舎でひとり身はきつい、隣近所のつき合いが濃い地域は苦手…などとマイナス要素を挙げ、「まだお母さんひとりで大丈夫、…まだ大丈夫」と先延ばししてきた。

講座で、内なる自己からのメッセージとして「実家に戻れ」と言われているような気がすること、でもそのアドバイスは自分の意に沿うものではなく耳をふさいでいるような状態なのだということを話した。

先生いわく、一緒に泊っていた女性は、私のシャドウ(もうひとりの自分)、具体的には母を指すのだろうとおっしゃった。そして部屋を移ったということは、私が親元へ移ったということの暗示。部屋を移ってから、女性の彼氏も加わったということは、活発な母の男性性が活性化しているのだろうと。

「でも、荷物は前の部屋にあるのよ。夢は東京生活の全部を引きはらえと言っているわけではないのよ」と先生。

そして、新しい部屋にはトイレがないという夢の状況から、「感情を安心して出せる個人空間は確かに整っていないようだけど、最後にガチャンと鍵をかけられているのだし、それを直すのだと言っているから大丈夫なのよ」とおっしゃった。

解釈のポイントと私の意識

私は途中から先生がおっしゃったことをメモしたけれど、少ししか書きとれず、またどうしてそういう解釈になるのかわからないことも多かった。

けれど、おっしゃった解釈のポイントは、

・もうすでに母の介護が始まっている。

・一緒に住んでも、環境を整備しつつうまくやれる。

・母のパワーを恐れるなかれ。

・ただ母は男性と女性の2倍の心パワーと心づもりして対峙せよ。

・東京の拠点を引き払う必要はない。

ということらしかった。

おそらく大事なのは、このアドバイスをどう私が受け取るかという点なんだろう。

私にとって何より大きかったのは、聖霊さんからのメッセージなのか?と感じていたことを、講座の中で話したことだ。これまでは「いや気のせいだ」と言えたけど、「よくわからないけれど、内なる心の声はこういうんです」とみんなの前で言ってしまった。

だから、まったくそのメッセージは、私の潜在意識から意識へとはっきり移ったし、先生や講座仲間にも共有された。

かといって、母とひとつ屋根の下に住む決心は未だつかない。近くにアパート等借りて住むことは母には意味不明らしく、それも今は選択肢にはない。

来年はどうなるかな?変化が大きな年を迎えようとしているのかな?

いずれにしてもACIMの学習者であることは変わらない。ほんとならば、それが変わらないのなからば、どこにだれといようとOKのはずだけど。

『奇跡講座(ACIM)』について話すのはむずかしい

2017-12-15

ワンコインイングリッシュ、今年最終回

ACIMのワークブックを始めてから、改めて英語に興味が湧いた。できるなら原書で読みたい。それに加えていつか海外のACIMのコミュニティの方と話をしてみたいという思いがあるから。

運よくNPO法人が主催している1回500円の英会話講座を見つけ、今年の4月から月2回通っている。先生は東ヨーロッパ系の美しい女性で、幾度も丁寧に日本人の発音のくせを直してくださる。月2回ではペラペラ話すというところまではいかないけど、少しずつ英会話に対する苦手意識が少なくなっている。いい講座と出会えた、ラッキー!~と思っている。

きのうはその英会話の今年最後の回だった。たまたまある受講者の方に声をかけてもらって、先生と私を含めた受講者と4人、隠れ家風レストランに行ってランチをした。

「神さまで戦争がなくなる?」

その日の学習テーマが「自分について語る」でそれぞれ自分の関心や経験についての英作文を発表したことから、その流れで、先生に「あなたが今一番関心があることは何なの?」といった質問をされた。

私は少しためらったけれど、iphonでACIMのサイトを見せた。

A Couese In Miracle.奇跡講座。

でも、ACIMについても「奇跡」についても、まったく説明ができなかった。

先生から「それは神さまと関係ある? あなたは神さまを信じる人?」と聞かれ(先生の日本語はややカタコト)、「はい」と答えたら、

「私、神さまを信じる人きらい!あ、ごめんね。でも、神さまに祈っても何も解決しない。神さまで戦争がなくなる?すべては自分と自分の努力よ。自分の力で切り開いていくものよ」と言われた。

私は「そうですね。私も自分の中の神さまを頼みにするのでOKだと思います」と答えるばかりだった。

母国を離れ7ヶ国もの国で仕事をしてきた先生には、特別に強い自負心(と、もしかしたら神さまへのアレルギー?)があるようだった。

私もはなから議論するつもりもないのだけれど、まじめに答えようと思ったところで、「この世は実際はリアルに見えるけれど、自分を映している投影であって、私たちは個々人であるかのように見えるけれど、ひとつであり神の延長であり…赦すことが何より大事で…」なんてことを、どこからどう説明してよいかもわからない。

人と場面を選ばないとやっぱり「頭は大丈夫か」と言われてしまうだろう。

奇跡ってなんだろう?

返りに日本人の受講者の方と二人になりフォローのつもりか、「奇跡ってどういうことだろう」と振ってくださった。けれど、「奇跡」という言葉の意味も、ものの見方の変容をさすACIMのそれと、「信じられないことが起こる」といった一般の「奇跡」ではまったくちがう。

それを説明しようという意欲すら持ち合わせず、ただ「『奇跡講座』の「奇跡」の意味も一般のそれとはちがうんで…」と、もごもごとつぶやき、言葉のキャッチボールのボールをぽとんと足元に落とすだけだった。せっかく話題を振ってくださったのに申し訳ない。

やっぱり『奇跡講座』のことを世間で話すのはむずかしい、と思った。(やっぱり、というけれど、これまで一度か真剣にトライしてみたわけじゃない。友だちに『神の使者』を勧めて読んでもらうところまでいったことがあるのが一度だけ。)

先生の反応は、自分の中のもうひとりの私のACIMに対する思いで、それを見せてくれたのかもしれない。

返り際に私に「奇跡ってどういうことだろう?」と言った方が、「量の質への転換かな?」とご自身の考えを言われた。それが哲学的でおもしろかった。

量の質への転換…。10回では何の変化もない。100回でもわからない。10000回でも変化せず。だけど、10001回で変化が起きる。それって奇跡ってたしかに言うかもしれない。

そういう意味では、一般でいう奇跡も、『奇跡講座』の通じるものがあるかも。

来年2018年のお題は、「奇跡講座を自分を通していかに一般向けにもっと広く表現していくか」というところかな、とふと思う。

レッスン166-私には、神の贈り物がゆだねられている。

2017-12-13

日本海側は大雪警報、本格的な冬がきた

今日も東京は快晴だけれど、母が暮らす日本海側は大雪や猛吹雪に警戒だということで、朝母に電話してみたけど、まださほどではないらしい。これから本格的な冬が始まる。

日本列島は縦に長いし山脈も多いし海岸も多いから、同じ季節の日本といってもその気候はまったくちがうなあ、と今さらだけれど思う。もっと日本の地理のこと、地理だけじゃなくて観光や産業など知ってもいいかもしれない。半世紀以上生きてきて基本的なことを知らないことを、よく感じる。

教養というまでもいかないことだけれど、中学生くらいのレベルの知識がちゃんとあったら、もっとわかって楽しいことや感じることがたくさんあるんじゃないか、と思う。

それでも「この世は幻想」というACIMの教えで、途中からどうでもよくなってしまうのだけど。それでも、せっかくこの世に生きているのだから、この世のことももっといろいろ知りたいと思う、最近。

レッスン166-私には、神の贈り物がゆだねられている。

レッスン166本文の概要―

私たちにはすべてのものが与えられている。

だけど、私たちの意志が神とひとつでなければ、そのギフトは受け取られない。

私たちはこの世が神の意志によって創造されたものだと思っているが、この世は神の意志は無関係で、実は存在すらしていない。

ただ、神とは無関係な偽りの信念によって作りだして、幻想を見ているにすぎないが、幻想を見るものはその幻想を守ることに必死で、神のギフトを受け取ることは、自分自身への裏切りを強いられることだと信じる。

そして、私たちが恐怖におびえているのは、まさにこの幻想の世にしがみついているから。それを手放して神からのギフトに気づいて自分のものとしさえすれば、すべての悩み、悲しみ、苦しみが終わるというのに。

上記のようなことは、ACIMワークブックの中で、手を変え品を変え、何度も何度も説明されている。

レッスン166中の「(この世を実在すると思う者が)さまよい続け、彼の周りのどこにでも見える虚しさを意識しつつ、あてどもなく歩み続けながら、自分のわずかばかりの取り分が減っていくのを知覚している。」という表現は、人生の後半に入った者の多くが感じているだろう心境をうまく表現していると思う。

私たちは、神のギフトが与えられており私たちを導く聖霊(ホーリースピリット)が耳元でその開き方を教えてくれているのに、「今、映画を見ている最中だから。」と耳を貸さないでいる。もちろんそれはホラー映画だ。

「彼は自分で選んだ道を進んでいるのであり、自由になりたければただ、誰が自分とともに歩んでいるかを認識し、自分の宝庫を開きさえすればよいのである。(L166-6-3)」

それを認めるのは、気づいた今だ。「惨めな自分こそ自分だと思ってきたが、それは自分の真のアイデンティティーではないのかもしれないとすら思えてくる。(L166-9-3)」

神からのギフトを次の誰かにつなげる役割

そして、後半にはこんな文章がある。

「あなたがどんなに恐れを抱こうとも、ただ一言「そうではない」と慈悲深く、やさしく答える存在が、あなたとともに歩いている。(L166-11-3)」

この文がレッスン166の中で最も私に響いた。

さらにレッスン166は、自分一人が神からのギフトに気づいてそれを受け入れるだけではなく、次にそれを他の誰かにつなげる役割を担うべきことが書かれている。

「しかしその存在は、さらにもう一つ、あなたが忘れていたことを思い出させる。(L166-12-1)」

「彼がやってきてあなたに差し出したものを、今度はあなたが与えることを学ばなければならない。これこそ彼が与えることを通して教えている学びである。(L166-12-3)」

次の誰かに与えてこそ、本当に受け取ることになる。

ハッピーでいることと感謝

そして、これを実践するには、受け取った者はハッピーでいること。

「もしあなたが病気であれば、あなたが彼らに癒しを与えずにおくことになる。あなたが何かを恐れるなら、それが彼かに自分たちの恐れは当然だと教えることになる。(L166-14-3,4)」

つい、復習もかねて、自分が響いたところを書きだすかたちになってしまった。

自分も身近な家族や友人も含め、この世は「問題」に溢れている。年齢のせいか、とくに「健康問題」が多い。

昨日「近くまで来たから会わない?」と電話があり夕ご飯をご一緒した年上の友人は、不整脈の治療でカテーテルアブレーションという手術を三度して、もう大丈夫と気持ちが前向きになった矢先の先月末に、また症状が出て救急車を呼んだという話だった。

同じひとり暮らし。しかも私より10こ上。不安な気持ちが伝わってきた。

でも、ACIMの教えは不安をやり過ごし(その幻想性を見てリアルにせずなるべく流すこと)、常にハッピーでいること、を教えている。

むずかしいことはできないけれど、シンプルに常にハッピーでいることは心がけられる。

いや、実はこれが一番むずかしいのだけれど…、

常にハッピーでいることを心がけよう。

ワークをして感じたこと(聖霊さんのメッセージ?)は、「感謝、感謝、感謝!」だった。

感謝を表すことと、感謝のきもちを受け取ること。これもまたこれまでの人生で苦手なことだけど、覚えている間は心がけようと思う。

 

レッスン165-私の心が、神の想念を拒否しませんように。

2017-12-11

東京のそらと故郷のそら

とてもよい冬晴れだ。寒いけど澄んだ青空がさわやかで気持ちがいい。

私が育った北陸は日本海側だから、冬は雪や雨が多い。また降らない時でも晴天というのはめったにない。いつも冬はどんよりした空だった。

帰省の列車ではいつも川端康成の『雪国』そのまんま、「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」。トンネルの入り口と出口での、青空から銀世界への変化をすごく不思議に思ったものだ。

最初に東京の冬晴れに驚いたのは、18歳で父と東京に大学受験に来た時だった、と空を見てふと思い出す。その父も今はもういない。

あれからずいぶん遠くに来たんだな。窓から青空を見上げ、一瞬感慨にふける。

けど、生きているかぎり変化はある。

歳を重ねるにつれ平穏になるとわけではなく、変化は常にあって、年齢が上にいけばいくほど、ところてんのように押し出されていくから、世の中が馴染みのない新しいものになるのだと、最近知った。

レッスン165-私の心が、神の想念を拒否しませんように。

レッスン165は、「この世が実在するように見えているとすれば、それには、あなた自身が世界を超えたところにある真理を否定しているということ以外にそんな理由があるだろうか。(L165-1-1)」で始まる。

今、私には、かなりリアルに見えている。

田舎でひとり暮らしをする高齢の母が歩行困難になっていたのは脊柱狭窄症になっていたからだと知ったことや、理事長を務めるマンションの大型修繕工事とそれに伴う借入のこと、自分が月々の生活費をちゃんと稼げておらず預金から引き下ろして生活していること、これからどうやって稼いでいったらいいか見当もついていないこと…

どれもかなりリアルに見えている。

自分のことだけではなく、すもうで貴乃花部屋の貴ノ岩関が横綱・日馬富士に暴行された一連の騒動や、富岡八幡宮の宮司の富岡長子さんが弟に殺害された事件、さらにトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と正式に認め、大使館を当地に移転させるとして国際問題になっていることなど最近のニュースも、けっこうリアルに見えている。

レッスン165によれば、この世が実在するように見えている⇒ということは、すなわち、私が神の想念を拒否しているから、ということになる。

自分の意志で拒否しているから、本当は命の源であり自分とひとつてある、神の想念を感じることができず、神のヴィジョンが見えない。

ACIMを学ぶ一方で、強いエゴへの執着

細々とだけれどワークを続けてきて、「この世はリアルではない」「私たちは自分の想念をスクリーンに映し出して、4D映画をはるかに超えた完璧なバーチャルリアリティの世界を体験しているだけ」と、頭ではわかっているつもりだけど、その世界に何かしらのイベントが起こった時には、いつしかそれが幻想だということを忘れて、すっかり巻き込まれてしまっている。

神の想念をエゴのそれと取り換えたい。

だけど、神を頼り切るのは怖いと思う。

そして、自分が自分だと思ってきたもの(=エゴ)を手放すのも、怖いんだと思う。

ACIMの考えには惹かれる。そしてワークもやる。

でも、それはエゴが許可した柵のなかでだけ…というのが、今の私の状態なのかもしれない。ある一定のところまでワークが進むと、聖霊からのアドバイスを求めつつも、「それを聴きたくない」「聴いてしまって何かを変えなければならなくなるのがいやだ」と思っている自分がいる。と気づく。

これじゃあ、だめだよな~

エゴが傷つかない範囲で、ワークの上っ面をなでているだけだ、たぶん。

それでも、玉ねぎの皮をむくように、少しずつでも、エゴが小さくなっていっていたらいいけど。

レッスン165は次の言葉で締めくくられている。

「確信を得るためには、私たちは自分に頼らず、神を頼りにする。そして神の名において、私たちは神の言葉が指示する通りに練習をする。神の確かさは、私たちのあらゆる疑いを超えている。神の愛は、私たちのあらゆる恐れを超えたところにあり続ける。神の想念は、今もすべての夢を超えて、神の意志の通りに私たちの心の中にある。」

私は、ACIMの素晴らしさに惹かれた一方、エゴへの執着も人一倍強い。だから学習に時間がかかるのだと思う。

ゆっくりでいいから、離れず続けよう。

レッスン164-私たちは今、私たちの源である神とひとつである。

2017-12-08

お赤飯ときんぴら

昨日、マンションの理事会と修繕委員会(大型修繕工事のための会)があり、いろいろと紛糾したいへんだった。

…がそれとは別に、ちょっとしたサプライズが…!

それは役員でもある私の階下に住むおばあちゃまが、手づくりの赤飯ときんぴらごぼうを下さったこと。

理事会でもまったく発言することなく、私とも、10数年前引っ越してきてからほとんど話したことがない。一昨年、私のユニットバス下の配管からの水漏れで大迷惑をかけたし、目が合うと逸らされるからてっきり嫌われているのだろうと思っていた。

だから、理事会終了後に「赤飯炊いたから、あげる」と、パックが入った袋を差し出された時は、びっくり。

え、私に?

嫌われてたわけじゃ、なかったんだ…

そして、そのお赤飯はほのかに塩味が効いてとってもおいしかった。

冷蔵庫には、先日他の年上の友人にいただいた栗ご飯ときんぴらがまだ、ある。そして、お赤飯と新たなきんぴら…と、手づくりがいっぱい。

なんだか、寒夜にまた、ほっこりした。Thanks!

レッスン164-私たちは今、私たちの源である神とひとつである。

ワークの日記がなかなか更新できなかった。もともと未だに何を書いていいかわからなくて、気合いがいる。

レッスン164をやったのが、母が上京する前の11月16、17日と、ちょっと飛んで帰った後の11月28~30日。どんなワークだったっけ、とワークブックとメモを見て思い出すところから。

私たちの源である神とひとつになり、私たちの五感に頼るものの見方ではなくて、キリストの見方を習得するのが、このレッスンの目標であり、ワークブック全体を通しての目標でもある。

このレッスンには「キリスト」という文言が何度も出てくるが、これはイエスキリスト個人ではなく、聖霊と一体化したわたしたち自身の神性をさしている。

この世界をキリストのまなざしで見ることによって、この世界の無意味な騒音をスルーすることができる。その神性、聖性はすでに自分の自分の中にある。この世の雑事、雑音に囚われず、静かに心を開くことによって、自らの内なるキリストを開きさえすれば、この世で感じている悲嘆や苦しみは天国と交換できる…というようなことが書いてある(と思う)。

キリストの四角の前では、この世界はたやすく消えていく。(L164-2-1)

この日、悲嘆は捨て去られる。なぜなら、キリストが与える時間を今日、受け入れるあなたには、外の世界よりもはるかに身近な内界から生じる光景や物音が明確になるからである。(L164-3-4)

あなたの中には、罪の想念が一度も触れたことのない聖性の感覚がある。このすべてを、あなたは今日思い出す。(L164-4-3)

私たちは、この世には辛く悲しく厳しいことが多いと思っているけれど、それは単に私たちが内なるキリストを開いていないからだという。それさえしっかり身につけれれば、この世の辛く悲しく厳しいことはかすかに聞こえる雑音のように感じられるのだろう。

私たちが見るもののすべては、その聖性の内に私たち自身の聖性を反映するので、ただ私たちの喜びを増すばかりである。(L164-7-4)

練習の間、自分が欲していると思っているものをすべて手放すことによって、カーテンを開きなさい。あなたのとるに足らない宝物を片づけ、清浄で開かれた空間を、心の中に空けておきなさい。そうすれば、キリストが訪れて、救済という宝を差し出してくれる場所となる。(L164-8-1,2,3)

ワークをして

大事なのは、自分の今の見方を一回捨てて心に清浄な空間を作ることだ。

だけど、ちょうどこのワークをやっていた前後は、母を迎える準備と滞在中母に合わせることで、いっぱいいっぱいでまったく心の空きスペースが持てなかった。また、帰省後もあることで心がざわついていた。

そういう特別なタイミングでなくとも、一般の大人にとってこの世は「目標(やりたいこと)」や「問題(解決すべきこと)」で溢れていて、何もないスペースを作る余裕はほとんどないだろう。「本当の我に返る」ということなく、目先のお題に追われてあっという間に一年過ぎてしまう気がする。

むしろ、逆で自分を麻痺させて大事なことに気づかないために、あれやこれや「問題」と「目標」を創り出しているのかもしれない。

本当に大事なことに気づいたら、自分を変えなくてはいけない。それに抵抗があるから。

毎日の地道なワークは急速な変革というわけではなく、薄皮を剥ぐように自分を変えてくれるといいと思う。それにしても、もっと毎日まじめにワークしないと。

このワーク時のメモ(感想)には、

「神さまの正体は感謝である。」

とある。神さまに対して「正体」とは失礼な書き方だけれど、本質やエッセンスという書くより真に迫っている気もする。

「神さまの正体は感謝である。

だから、神とつながるには感謝すること。

神に。そして神を映すすべてのものに。

記絵とは、すべてのものの中に神を見ること。

その目をやしなう。」とある。

また別の日には

「自分の好きなことと仕事を一致させてもいい。

好きなことではたらき、おカネを得てもいい。

神の子は、そのままで愛されて、満たされていい。

神が私に感謝している。

私がここにいることに。

私が神に思いを巡らして、神と通じたことに。

神さまは誤解されている。

その誤解を解くというのもしごとだ。」

とある。

神さまと感謝との関係?にこのところずっと関心がある。

いいことがあった時に感謝するのはたやすい。

自分にとって良くないことがあって、そこでも感謝するのが大事なんだと思う。「良くないこと」=幻想、であり、そこを見破りスル―して、感謝することこそ神さまと通じることだと思うから。

早めのクリスマスギフト !?

2017-12-04

昨日、少し早目のクリスマスシャンソンショ―に行ってきた。

風邪気味でおまけに膀胱炎も併発したらしくトイレがやたらに近く、体調面はイマイチだったけれど、おいしいお弁当とケーキ(高級弁当、ケーキ&コーヒー付き!)をいただき、美しい生歌でぜいたくなひとときを過ごせた。

メンバーは、あるカルチャー講座の先生と受講生仲間。前回から一年ぶりにお目にかかって、「一年ってあっという間だね、年々短くなるね」と話した。歌い手のひとりの方も、肺炎にかかって1ヶ月も入院されていたとかで酸素チューブを手にしながらの熱唱。時の流れとそれぞれの変化を感じた。

去年は参加されたけど今年は都合で参加できなかった方とコンサートの前日にメッセージのやりとりをしていたら、「買い置きしておいた栗で栗ごはん作ったから、少しですが送りますね」と言ってくださった。

その宅配便が今朝届いた。

栗ごはん、きんぴらごぼう、かぼちゃ煮、八宝菜風の煮物、焼きそばなどなど。なぜかくまモンのおせんべいも入っている。テレビドラマの「田舎のお母さんの宅急便」みたいだ。

さっそく夕ご飯にお惣菜をいただいた。

栗ご飯も、きんぴらも、かぼちゃ煮も、お店の味とはちがう、家庭のぽっこりする味だった。

ほんとにおいしい。

風邪で自分で自分の世話のが面倒だと思っていたタイミングで届いたごはん。体にも心にも栄養が与えられ、ありがたかった。

ひとり身に冬の寒さと寂しさが染みると思っていたけれど、そうじゃないな。

人の優しさが染みる… だ。

クリスマスコンサートをご一緒した方からは、入浴剤やハンドクリーム・ヘアワックスといったプチギフトもいただいた。気が効かない私は、いただくばかりだった。

今年は、ひとり身の12月は苦手だとは言わないようにしよう。せっかく与えられている時間を楽しもう。

私もなにかお返しができるといいな。

おひとりさまは12月が苦手!?

2017-12-02

風邪引いた

昨晩電車で風邪をもらったのか、帰宅後のどがいがいがして、熱っぽい。体内で、風邪ウィルスと免疫システムがせめぎ合っている感じ。夜中にトイレに起きた時には、風邪ウィルスの方がのどを征服しつつあり、痛みと腫れがひどくなっていた。

明日3日は、私にとって唯一のクリスマスらしいイベント、クリスマスシャンソンショ―がある。すでにチケット代は同行者におカネを建て替えて購入してもらっている。何としてでも治さねば…と、薬を飲んで、ハチミツ生姜レモンを飲んで、朝からこっぽり布団に入って寝ていた。

目をさますと2時間くらい経っている。また目をさますと2時間。眠れる、眠れる。うつらうつらしながら、いよいよ熱が出ても食べ物を気軽にお願いできるような友だちも知人もいないな~とか、高齢、ひとり暮らしの母は雪が降る冬にもっともっと心細いだろうなどと、考えるでもない考えごとをしながら、寝ていた。

おかげさまで午後3時過ぎには、のどの痛みは少し治まり、明日出かけられそうなくらいにはなってきた。よかった、ほっとした。

クリスマスはストレス!?

昔見た表に、ストレスがもっともかかる人生イベントみたいなものがあり、1位が「配偶者の死」で、2位が「離婚」だったが、その中に「クリスマス」も入っていた。当時若かった私にはイマイチぴんと来なかったけれど、40歳すぎてひとり暮らしを再び始めてからは、「わかる」と思う。

大人になりきれず、わがまま、気楽に生きている私は、常日頃ひとりは楽だな~と思っているけれど、冬は寒さがしみて、やはり寂しい。街は、赤々とクリスマス色に彩られ賑やかで、みんなが家族や恋人に囲まれ豊かでハッピーそうに見える。その中であたかも自分ひとりが取り残されているかのようだ。

クリスマスの日に幸せな人とそうでない人の踏み絵が行われるかのようである。その幸せの基準は、恋人や家族の有無と豊かさ、健康なのかな?もちろん、それは私自身が思っているモノサシだ。

明日行くクリスマスシャンソンショ―は、そういう私の「自衛策」だった。一昨年から同じメンバーで行っているが、私にとっては、チケット代12,000円は高額だけど、クリスマス期に聴くシャンソンは物悲しくも癒しであり、おひとりさまのクリスマスを、えいっ!と飛び越えるための目くらましみたいなものでもあった。

一昨年は24日、昨年は21日だったけれど、今年は会場の空きとメンバーの都合の兼ね合いで、3日。クリスマスストレスの自衛としては、やや早すぎるかな?第4週あたりに、別の目くらましが必要かな?

ACIM学習者にとってとくべつな日

クリスマスといえば、『奇跡講座』を伝えてくださったイエス・キリストの誕生日ではないか。「誕生日」という概念が特別視されるものではなくても、クリスマスはやはりとくべつの日だと思う。

それをACIMに思いをはせるのではなく、ひとりぼっちの孤独感のほうに引っ張られている私。クリスマスに反応するような歳でもないだろうに。学習者としてはえらく未熟もんだよな、と自嘲してしまう。

今週、数ヶ月に一度通っている病院の診察に行った。えらく混んでいる病院で受付から検査、診察まで3時間以上かかる。なのでACIMと出会うきっかけとなった『神の使者』を持っていき待合室で何度目かの再読を始めた。

改めて読むと、今まで気にならなかった箇所が響いてきたりして、また「いい」と思う。

今年の冬は、また原点に戻って『神の使者』『不死というあなたの現実』を読んで心静かに穏やかに締めたいと思う。

ともかく風邪が和らいできて、あと少しというところまで来た。よかった。明日早めのクリスマスイベントを楽しんでこよう。

レッスン163-死は存在しない。神の子は自由である。

2017-11-29

ワークについて最後に書いたのは、いつだっけ?

もともと時々しか更新できていないACIMブログだけど、最後にワークについ書いたのはいつで、レッスン何?と思い、見たら、11月10日のレッスン162だった。

じゃあ、レッスン163からだ。

そして、このワークはいつやったのか、とノートを見てみたら、11月9、10、13~15日だった。ずいぶん時間をかけたみたいだけど、あまり「ちゃんとできた感」がないから、何日もやったものか。朝だけはできても、夜はできなかったり、その逆だったり…もあったみたいだ。

自分が大事に思っていると言っているわりには、「瑣末なこの世のこと」に時間を使ったり、夜は疲れたりして、できないまま日を過ごすことがけっこうある。そして、そんな日も楽しかったりする。

…できの悪い学習者だ。

でも、他に行くべきところも、もっと頑張ってやるべきこともない気がする。

だからできれば、この世に生きている間ずっとACIMから離れずに学び続けたいと思っている。

レッスン163-死は存在しない。神の子は自由である。

死は存在しない。神の子は自由である。

この主題概念は、私にとって最も響くものだ。

なぜなら、私は子どもの頃からずっと「死」が怖いと思ってきたから。

小さい頃母に「死ぬってどんなこと?」と聞いたのを覚えている。母の答えは「寝て明日がないこと!」。

「お母さん、怖くない?」と聞いたら「そんな馬鹿なことを考えている暇ない!」だった。

成長し死の概念を理解するにつれ、死への恐怖は大きくなった。「死」に人生の根っこを抑えられており、常に「死」を背負って生きていて、生は「死刑宣告」までのつかの間の猶予、だから楽しめ、試せ、どうせ朽ちるのだから。そう言われているような気がしていた。

それは今思うと、まさにエゴの主張そのままで、エゴの罠にきれいに嵌っていた。

最初に『神の使者』と『奇跡講座』に惹かれたのも、意識はしていなかったものの、もしかしたら、死の恐怖から救いあげてくれるのではないかと感じたからだろうか。

レッスン163の冒頭には、「死とは一つの概念であるが、しばしばそうとは認識されない多くの形をとる。(L163-1-1)」とある。そして、悲しみ、恐れ、不安、疑い、そして怒り、不信、信頼の欠如、さらには肉体にまつわる心配や羨望といったものまで、その概念に含めている。

つまり、神の子にとって本来身にありえないことのすべてが「死」という概念だと言う。そしてその概念を象徴するものが、やはりこの世での「肉体の死」だ。

レッスン163にもあるように「死はその人質となっているすべての生命を間違いなく奪いにやってくる。(L163-3-4)」とある。

しかし、後半では、死は全的ものだから、神も含めてすべての者が死ぬか、あるいは命あるものはけっして死なないか、どちから一つであると言う。死が存在するならば神の死もありうる、それが誤りならば死はありえない、と説く。

「神の死という概念はあまりにもばかげていて、狂人ですらそれを信じるのは難しい。なぜなら、それは神がかつて生きていたが、どういうわけか今は死滅してしまい、おそらくは神の存在を望まない者たちによって殺された、ということを示唆するからである。」(L163-7-1,2)

こうした概念や理屈がちゃんとわかったわけではないけれど、ACIMの立場、「神は死を作らなかった。だから、死がどんな形をとろうとも、それは幻想であるに違いない。」(L163-8-6,7,8)は心強い。

死の恐怖から逃れるためにACIMを学ぶというのは本末転倒、原因と結果を逆にしてしまっているけれど、人間が本質的に持つ死の恐怖がなくなったら、それだけでこの世は平和でハッピーな場になるような気がする。

ワークをして

私はなぜそうも死が怖いのか。

死の何がもっとも怖いのだろう。

改めて感じてみたら、

「自分が無になるように思えるから」という答えが浮かんできた。

「自分」への執着…

その執着している「自分」だと思っているものが、エゴなのだ。

私は人一倍、「私」というエゴへの執着が強い。だから、怖いのだ。

エゴが自分が消えてしまう恐怖で大暴れしているのだ。

エゴへの執着を解き放とうとするのが、ACIMの学びだ。

私のACIM学習の目標は、「私」という檻から本当の私を自由にすることでもあるのだと思った。

ACIMからしばらく離れた、戻っていこう

2017-11-27

ひとりが身に染みる

たった四日間の母の滞在だったけれど、その後やや調子を崩していた。

ふだんひとり暮らしの私にとっては同じ空間にずっと誰かがいるというだけでストレス、それが非日常のワクワク感と相まって、ずっとテンションが上がったままだった。

その上がってしまったテンションが母が帰った後もすぐには通常に戻らず、またようやく気が抜け出すと、上がった後の揺り戻しなのか、ぼーっとして動きづらかった。

そして、心の内では、短い期間だけれど母とずっといることで、この世の現実感をいつもよりぐっと強く感じ、同時にACIMの世界観が遠ざかっていた。

すがすがしい晴天の空、母を新幹線で見送った帰り道、この東京で私はひとりなのだなと強く感じたのだ。

みんなが大切にして紡いでいく家族というものを、私は作れなかった。老齢の母はいつまで元気でいてくれるだろうか。私はこの人生で何をやっていたんだろう、何やってるんだろう、といった思いがぐるぐるした。

人生とは、愛する人と出会い子どもをなして、愛する子どもを育て家族を作り、その中で笑ったり泣いたり、いい事もそうでない事もあって、老いていずれ子や孫に未来を託してこの世を去る、そうした営み。

それがまっとうな人生で、私はやっぱりできそこないじゃないか…

おりしも、季節はクリスマス商戦の真っただ中。クリスマスソングがやけに身にしみる。

ACIMはこの世からの隠れ蓑?

私はこの世の現実から遠ざかりたくて、ACIMをやっているのではないか。時々思うこの疑惑がまた湧いた。

私はこの世で幸福の証明とされているものは何一つ持っていない。ACIMやACIMワークはこの世の価値観から身を引きたい自分のための言い訳のようなもので、この世で「勝ち組」で「幸せ映え」するものさえ手にしていたら、ACIMを見向きもしなかったんじゃないか。そう思えた。

だけど、今ようやく、ひとりの時間に慣れて平常心?になってくると、

ACIMの見方こそがやはり正しいと思える。

この世の楽しいことも、もちろん、味わっていい。私たちには五感があり感情がある。日々の小さな、あるいは大きな出来事もある。それを感じないでいるというのは不自然だ。

だけど、それはそれ。真の意味でリアルではない。やはり、私たちが回り灯篭に映している映し絵のようなものにすぎないのだ。

おいしいものはおいしい。お母さんは愛しい。私は気兼ねなく旅行できるくらいのおカネのゆとりが欲しい。健康で若々しくいたい。

これらはぜんぶ本音だ。

だけど、私の根幹にはもうひとつの、本音というか真実がある。

God is.

神は在る(それ以外はない)。

そして、私は神が創造したままの私である。

 

これを思い出しながら、また中断してしまったワークを再開したいと思う。

2017年秋、母との時間

2017-11-22

母が来た

先週土曜から三泊で母が上京していた。先月『日曜美術館』で運慶展の特集をやっていたのを見て、ぜひ生で見たいと興味をもったのだ。

母は好みがはっきりしていてストライクゾーンが狭い。私はなんとか母を満足させたいと、好きそうな建築や庭のコースを考えランチの店を予約し、わが家でのメニューを考え…、と段取りしていた。

しかし、来る前に足を痛めそれが回復していないとかで、杖をついてやってきた母は、私が想像していたよりかなり重症で50m歩くのも辛そう。ゆっくりゆっくり普通の3倍位のスピードで杖を頼りに歩く。

よく来たな。私だったら直前でも取り止める、と思う。筋肉痛だと思っていたものが良くならないどころか悪化したのだと言うが…

何とかランチを予約してあったお寿司屋さんまでは辿り着いたものの、観光できる状況とも思えず、予定変更し、連日、前回の上京でもお世話になった整体の先生に予約を入れて診てもらった。

そんな状態でも、「運慶展」だけは行くと、日曜、上野公園の国立博物館まで行って大混雑のなか40分待ちの列に並んで、見てきた。好奇心が強いというか根性があるというか…。あと、お茶のお稽古に持っていく○○という和菓子のお土産を買わねばならない、と見栄をはりたいあたりは、まだまだ生命力があると安心した。

母は私とちがって外交的でおしゃべり好きで、朝目覚めた瞬間から夜眠りにつくまで口を閉じるということがまったくない。ほとんどは「○○という番組に出ていたあの○○の弟って誰やったっけ?」みたいな質問、「この器の色、料理に合わないね、もっと○○だったらいい」とみたいな意見と「どの駅降りるの?」という類の質問だ。

私は、母に優しくしたい、満足してもらいたい、と思う一方で、目先の質問攻め、意見攻めにはたちまち辟易してきて、「さあ」「知らん」「そうやね」と流してしまう。引きこもりの私には、人との会話は3時間くらいが限界なのだ。

かつて憎んでいた母が今、小さくなって目の前にいる

その昔母は156㎝の私より10㎝も背が高い、色白美人だった。頭が切れ店を仕切るキャリアウーマンであり、母は私にとっては「私にまちがいはない、言うとおりにしなさい」と叱る絶対的権力者だった。私は支配的暴力的な母が大きらいだった。

在る日いきなり勉強部屋に現れた母が、なぜかわめきながら雑巾で私の顔を何度も拭いた。三世帯家族でたまったストレスを子どもにぶつけたらしい。

その時私は「覚えてろ。いつか私が大人になり力関係が逆転したらぜったいにこの仕返ししてやる」と心に誓った。子ども時代の記憶はほとんどないけれど、その瞬間のことは覚えている。

その母が、私より小さくなり皺くちゃのおばあさんになり杖をつき、歩くのもままならない様子で目の前にいる。

ふと「盛者必衰」という四文字熟語を思い出した。母だけでない、この世で移り変わらないものはない。

この瞬間、自分が母を憎んだり恨んだりしていないことが救いだ。無意識ではわからないけれど、私が感知できるかぎりは憎しみは消えている。

逆に、とてもとても愛しいと思う。

それだけで、私の人生はWINだと思える。それだけ自分のなかで母の存在と母への感情が大きかった。

母はわが身の投影

もちろん、ACIMを学んだ今、母はわが身の投影だとわかる。他のことと同じ、幻影でありゆるすべきもの、手放すべきものだ。手放すからこそ、私自身が贖いゆるされる。

しかし、この母への思いは何だ。恨み、怒りはない。あるのは、愛しさと強烈な執着心だ。

憎んでいたのは、叱られ甘えられない、認められないことに対する反応だったのだと思う。50も半ばを過ぎた今、「認めてもらいたい」「褒めてもらいたい」と幼い頃出せなかった気持ちを溢れさせている自分がいる。

その甲斐あってか、今回の滞在で

「どこで食べるより、あんたが作ったものがおいしい」と母。料理下手な私は、おいしいと評判の鍋つゆやあえ物のペーストを買いこみ、それで鍋や茶わん蒸し、春菊の胡麻和えを作っただけなのだけど、それでもとってもうれしかった。

また一方で「あんたに子どもがいたらよかったんだけど」とつぶやく母に、「ごめん」と心の中で答えて肩を落とした。

母への執着心とACIM

母の滞在中ずっとおしゃべりしている母に、ACIMのワークのことも、その考えもすっかり忘れていた。

私がACIMワークが細々とでも続けていられるのは、ひとり暮らしの孤独からで、家族がいて家族との生活があったらその必要性すら感じないのかもしれない。

家族と住んでいたらACIMワークをやりたいと思っても、自分だけの時間とスペースを保つのもむずかしいだろう。

私はACIMワークを続けACIMを細々とだけど学んできたと思うけれど、母をゆるせてはいない。許せてはいると思う。が、それはACIMのいう赦しとは異なる。

感情の向きが憎しみ・恨みから愛しさへと逆になっただけで、手放すどころか、強い情と執着心をもって、幻影をリアルにしてしまっている。

いつかその母とも、この世での別れが来る。今はそういうことを想像できないし、したくない。

今の私はまさにエゴトラップに引っかかっているのだと思う。

私が赦されるのは、こうした母への執着を手放すからだ。それがACIMの学びだ、と思いながらも、今は感情の波に翻弄されている。

そして、もう少しだけ、その波に漂っていたいようにも思う。

ゆるすことを勉強中

2017-11-13

当マンションで大型修繕工事案が計画中

私は今、住んでいる古マンションの管理組合の理事長だ。

役員は順番制だけど高齢化率が高く、賃貸に出して実際には住んでいない人は除かれるから、4年に2年くらいは役員が回ってくる。そしてなり手がいなくて、今は「理事長」。私だってヤだけど、拒みきれなかった(>_<)

もうすぐ築40年に手が届く古い建物で、前回の大型修繕からもう15年近く経っていて、そろそろ大型修繕が必要…

ということで、管理会社の勧めで無料建物診断をしてもらったが、やはり「早急な対応」が求められるとのことで、大型修繕工事の事案が上がっている。

排水管もしょっちゅうどこかで水漏れしていて、どうせなら大型修繕と排水管更生工事を両方やってしまおう、という方向に進行中だ。

問題は、修繕積立金がまったく足りないこと。概算で2,000万円以上借入が必要。住民のなかには、すべてにヒステリックに反対するタイプの方もいて、決まったとしても難航しそう…

役員以外は、無関心を決め込んでいるのか、建物の無料診断説明会や工事やその際の借入の必要性の説明会にも、役員とそのヒステリックな反対者以外はほどんど出席なし。

ただ管理会社の担当者は、他のことはなかなか動いてくれないくせに今回はやけに積極的。公募する修繕業者がなければ管理会社推薦の業者で進めることになるが、そうしたらよっぽどいいことがあるのか、、前のめり姿勢だ。

こんな多額の借金をするのに、表面的な形式だけは踏んでいるけれど、それでいいのかな?皆さん、説明会に参加されていないけれど、どれだけ理解し、納得しているのかな、と気がかりな私。

「見積もり参加業者の募集」!?私まだ確認してないよ

そんななか、「11月末までに工事業者を推薦ください」と理事長名(つまり、私の名で)業者募集がポスト投函されているのを見つけて、びっくり。管理会社の担当者の方が、作って出したものだ。

私は、なんとなく話はしていたものの、「11月末までに工事業者を推薦」の条件と締切はまだ話し合いをした上で進めるつもりだった。

なんかいやな気がした。何がどういやなのかはわからなかったけど、急にドキドキしてきた。

少し時間が経ってから考えてみたら、私に書類を確認することなく、物事が進められていることに、“強引さ”を感じ、それに恐怖と怒りを感じたらしかった。

恐怖は、形式上の手続きだけはとっているけれど、住民のみんなは説明会に参加もせず、どれだけ工事について理解し了承しているのか。充分に納得しないまま、私の責任で大きなおカネを借りることと、それで工事をすること…だった。

怒りのほうは、「見積もり参加業者の募集」書類は、やっぱり私に最終確認をしてからにしてほしかった。なんか甘く見られているのかな、と感じ、自尊心が少し傷ついた。

私が矢面に立たされているのに、自分のコントロールを超えて事が進む感じがいやだったのだ。

ACIMでは、この世の幻想性を見抜き、それを赦すことを学んでいるはずだったけれど、私はただこの世から逃避して、この世での力だけを弱めているようにも思える。実際に「問題」が起こった時、「これは幻想だから」と逃げているだけで、その対処法がわからない。

私の恐怖と怒りをゆるす

今朝のワークで、このことをイメージしてみた。

これも、またやはり幻想にすぎない。

何かがあって→ 私が恐怖と怒りを感じたのではなく、

私の心に恐怖と怒りがあって、それが存在を私に主張している。

…だから、このことが起こっているのだ。

だから、このゲンジツに対処は必要だけど、それは派生して出てきたこと。元である私の恐怖心と怒り(神からの分離という誤解に由来する)こそ、幻想だと見抜いて赦すことが必要なのだ。そう感じた。

私が恐怖と怒りをいただいたまま、管理会社にアプローチしてもうまくいかないだろう。

まだざわざわがあるけれど、それを治めてから、具体的な行動を決めたいと思った。

生きるのは、この地に足をしっかりつけて踏ん張るようなものだと思っていたけれど、今は自分の人生映画のスクリーンに現れてくることに「私が作っている映画だよ」を思い出すようなもの、になっている。

レッスン162-私は、神が創造したままの私である。

2017-11-10

レッスン162-私は、神が創造したままの私である。

たしか同じ主題概念があった…と思って、ワークブックの目次を見たら、レッスン110に同じのがあった。レッスン162の冒頭でも、次のようにある。

この一つの考えをしっかりと心に抱くだけで、世界を救うことができる。今後、学びの新たな段階に入る折々に、私たちはこの概念を繰り返すことになる。進歩するにつれて、この概念はあなたにとって、今よりもはるかに多くの意味をもつようになるだろう。(L162-1-1,2,3)

この言葉は強力だから、こう思い唱えるだけで、心に大きな変容をもたらすという。

心からこのことばを受け入れられるようになること、それがワークブックを通した目標といっていいだろう。

このワークではこれ以上の抽象的概念は用いずに、この強力な文言を改めて用いて、心の変容を促す。

ワークをして

「神はこの世を作らなかった。

 そして、私は神が創造したままの私である。」

これが真実。じつにシンプルだ。

私が神が創造したままの私なら、私には罪もその罪から受ける罰もなく、悲しみや悲惨なことも起りうるはずがなく、あるのは愛と喜びに満ちた世界だ。

自分がそう信じ、その信じたまま生きることで、同胞をゆるすことにつながり、贖い、救済できる。それが自らを購う道でもある。

この世では毎日いろんなことがある。大きな事件、身近なこと、いいこと、悪いこと、得すること、損すること、くっついて、離れて…、悲しんだり、喜んだり…

でも、すべては流れ、流れて、回り灯篭みたいに、過ぎていく。

今が、過去になっていき、そして新しいものが現れて、古いものは去って、そして新しいものが、今になり、古くなり、過去になり、新しいものが現れて…

その都度一喜一憂して…

生きているって、そういう時間のことだと思っていた。与えられた持ち時間のなかでなるたけ、「よい」ポジションに得て「よい」暮らしをすること、子孫を残すこと…

けれど、もうそういうやり方からは卒業したい。この世の「よい」は「悪い」と対だ。

「よい」をめざすのではなくて、この世で起きていることは見て、過ぎて、真実が見たい。真に在るものだけを見たい。

常に、私は神が創造したままの私だ。

だから、そんなときでも喜びに満ちており穏やかだ。豊かさで溢れており、光り輝いている。

そんなふうでありたい。

実際には、ほんの小さなできごとにも、いちいちカーッとしてしまうけれど。

ACIMにふれれば、真実を思い出すから、細々とでもワークを続けていきたいし、繰り返し繰り返し学びたい。

浮かんだことば

私は、神が創造したままの私である。あの人も、神が創造したそのままの同胞だ。

レッスン161-聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。

2017-11-08

レッスン161-聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。

11月に入り都内でも木の葉が色づいてきた。

昨日は立冬。こよみのうえでは冬。はやい。

せっかちな母に頼まれて、母用の年賀状のレイアウト案を作った。来週末母が上京することになって、その時、いくつかの中から選んで印刷したものを持って帰りたいらしい。

干支をイラストに、と来年は何かな、と思ったら「いぬ」だった。戌年、平成三十年かあ。おそらく平成最後の年だ。

急くこともないと思うけれど、ちらっと年末の気分になった。

      *            *            *        

レッスン161は、「怒り」をテーマとしている。怒りのそもそもの原因は、「神からの分離」がもたらす恐れと罪悪感だ(もちろん、これは誤解)。

私たちは、自分の奥底に居座る恐れと罪悪感を認めたくないばかりに、それを他者にかぶせる。心理学でよく言われる「投影」というやつだ。

嫌なことをしたり悪事をはたらいたりする他者がいる。だからその人に怒りを覚える。それは「正当」だと思う。だが、ACIMではそれは、私たちの恐れと罪悪感を他者に投影した結果、見えてくるもので、私たちは実は自分自身に怒っているのだと見る。

ひとりの兄弟はすべての兄弟である。(L161-4-1)

兄弟を肉体と見なす者は、兄弟を恐れの象徴として見ている。そして彼は攻撃する。なぜなら、彼が見ているのは自分自身の恐れであり、それが自分の外側にあって、攻撃の構えをとり、再び自分とひとつになろうとして叫んでいる様だからである。(L161-8-1,2)

このレッスンでは、現実的な一人の人を、他のすべての兄弟の代表として選び、その人に対して救済を求めるということを行う。「救済を求める」とは、すなわち怒りの感情を流しその人をゆるすこと。

その人が鏡となって見せてくれたものを、それは幻想であり、罪はなされていないとキリストの目でその人を見ること。

それこそが、自分の中の恐れと罪悪感から自由になる方法である。

具体的にこの世で私たちが感じている怒りや見ている罪を題材として、それを逆にして取り成すことによって、天国に戻るのだ。

このレッスンのワークの次の文言が普遍的な「怒りや恐れからの安全な脱出法」になる。

聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。私はあなたをキリストのまなざしで見て、あなたの中に私自身の完璧な無罪性を見たいのです。(L161-11-7,8)

ワークをして

怒りのテーマで選ぶ「ひとりの兄弟」とされるのは、親子や配偶者、恋人や友人、ご近所など、距離感や関係が近しい人が多いだろう。

そうでなければ、とっくに離れてそれでおしまいで、感情をこじらすこともそうないから。

私の場合、こういうワークで出てくるのは、元の夫が多い。すでに別れてかなりの年月。別れて20年後にひょんなことから偶然再会してすったもんだして…おカネを貸したり…返済がなかなか進まなかったり。今も強い感情を持っているわけではないのだけれど、今の人間関係が希薄だからか、こうしたワークの際には彼が浮かんでくる。

私がこじらせたのは、彼のことが好きだったけれど結婚という枠が嫌で、こちらから一方的に別れたことに端を発している。もう何十年も前のことなのだけれど…。

今回ワークをして新たに思ったことは、

彼に対して完璧であらねば…、二人の関係は完全なものじゃなくっちゃ、という若さゆえの(?)無意識のプレッシャーがあって、それに耐えられず自分から逃げた…というのも別れた要因のひとつだったんだと。

彼を擬似神として、神との一体性、完全性のイメージを恋愛に重ねたみたいだ。幼稚だけれど、親に甘えてこなかった分、恋愛で甘えを出した。

そして、神としてだけではなく、神との分離のイメージもまた重ねて、分離した「罪」をなすりつけている。

さらに、そのイメージに執着し、手放すことができないでいる。

そう思った(理屈っぽいかな?)。

そうではなく、私が真の心眼で神の世界、神との一体性を感じることができれば、そうした擬似的なものは必要ないはずだ。

代理の偽物のイメージを手放すことこそ、神さまに近づくことだ。

私が神さまを心の内にしっかり持てれば、この世に一時の神のイメージを求め、探しあぐねるのではなく、誰に対しても神を見ることができるようになるのだろうと思う。

浮かんだことば

心の中に神さまを持とう。そして、これも、あれも、その目をとおして見よう。

レッスン160-私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。

2017-11-06

レッスン160-私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。

I am at home. Fear is the stranger here.

このレッスン160の原文の「stranger」という語を、中央アート出版社版は「異邦人」と訳していたが、異邦人という言葉は若かりし頃ヒットした久保田早紀さんの歌のイメージしかなく(素敵な歌だった)、私には少し違和感があった。大畑学さんの訳のほうは「よそ者」となっていて、こちらの方がすんなり受け入れられた。

このレッスンが言いたいことは、ざっくり次のようなことだと思う。

神なるものと恐れは共存できない。

だけど、今は神の子である私たちの心の中に、恐れという「よそ者」がいる。

それは、私たちが自ら招き入れてしまった者だ。

私たちは本来の自分自身を否定してしまい、よそ者を住まわせ自分を明け渡し、今やそのよそ者に乗っ取られていることすら意識していない。幽霊に憑依されているようなものだ。

その状態では、自分が何者かを認識したくともできない。私たちは迷子になったままだ。

しかし、私たちの心の奥には真の自己がある。この自己は神とつながっている。よそ者を追い出して本来の自分を取り戻すには、この神を確信するだけで充分だ。

私は神の子であり、その私こそがここにいる。この私は恐れとは共存できない。

神の子を幻想から目覚めさせるホーリースピリットに感謝しよう。そして私も同じように見よう。

ワークをして

26、27、29、30日と足踏みしつつワークした。

夜はリサイクルセンターの抽選でゲットしたS字チェアで瞑想ワークをしていたけれど、いよいよ寒くなってきて長いこと座っていられなくなってきた。

最近感じるのは、やはり「感謝」が大事だということだ。神の愛とは、一般的に使われる愛というよりは感謝ではないか。神自体が感謝なんだろうと思う。

私は幼い頃から暴力的な母親に反抗心を持って育ち、感謝ということをしなかった。

表立って反抗することはできず心と裏腹に行動は従順に、という今から思うと可愛げのない内向的な子どもだった。心に反抗心を抱くばかりで育ててもらって、あたりまえと思っていたのだ。

だから、感謝ということばと形は知っているけれど、その実、よくわかっていないのかもしれない。

「ありがとう」と口に出すことが感謝ではないだろう。それは挨拶のようなものかもしれない。私は、感謝をしようと思ってはいるけれど、できていないのかも。ワークをしながら、そんなことを思った。

そうしたら、自分に感謝してごらん、と言われた気がした。

わからなくてもいい、ありがとうを、ここにこうしている自分に言うのだと。

それでそうしてみた。

なにかほころんでいく気がする。

普段は、知らず知らずのうちに体や心に力が入り緊張し(=不安)、劣等感や申し訳なさでコチコチなのかもしれない。

要するに、この世はプロジェクターで映されたスクリーンにすぎないのだから、いつ、だれにありがとうといっても、それは自分自身に言っているのと同じなのだ。

もちろん、自分に言うよりは目の前の同胞に言った方が自然でたやすい。

でも、わからなくなったら、なぜ「ありがとう」なのかもわからなくても、「ありがとう、私」と言ってみてもいい。そう思った。

くりかえし、いつもおんなじこと、言っているけれど。

浮かんだことば

ありがとう、わたし。ありがとう、ホーリースピリット。ありがとう、かみさま。

携帯会社をauからマイネオに変えて、固定費節約

2017-11-03

auからマイネオに

世間は三連休で、車も少なく町の空気が緩んでいる。

お天気もいい。

冬になる前のおでかけ日和…ドライブに最高の日だな。

携帯会社をauからマイネオに変えた(乗り換えっていうのかな)。新プランはデータ通信(3GB)+通話のプランで1,510円だけど11月9日まではさらに1年間毎月900円割引の大盤振る舞いキャンペーン中だから、向こう一年は基本の料金が410円になる!これは大きい。

auサイドには違約金を払わなくてはいけないけれど、もうすぐ2年間の割引きがなくなりぐっと電話料金が高くなる予定だったから、やっぱりマイネオの方がかなり安い。移行できてよかった。

ひとりでなんとかできた!

機械、通信関連にめっぽう苦手意識がある50代のひとり暮らしの女(あえておばさんとは名乗らない)が、あれやこれやネットで調べ、MNP(携帯電話番号ポータビリティー)の予約番号を取り、これを買えば事務手数料を無料にできるとかいうワザを使いエントリーコードを買い、自分でsimカードを交換して、カスタマーセンターに2回も電話して聴きつつ通信設定して…、と、四苦八苦する様はなんともキュートではないか、と自分で思う。

最後まで設定できて、電話、ネットともつながった時には、達成感を感じた。

わたし、ひとりでも、できた!

しかし、便利な世の中というかなんというか、こうした移転手続きやエントリーコードを買って受け取るのも含めて、家にいながらグーグル先生だけを頼みにしてできるのだから。

コミュニケーションにやや難ありの私には大助かりだ。本来ならば、コミュニケーションする相手もわずかなのだから、電話の機能だけでみれば私には必要ないくらいだけれど。これはもう電気や水道と同じく社会のインフラになってしまっている。ネットも地図もたいへん便利だ。そうそう、ACIMワークの時も、You Tubeの瞑想音楽をよく使っている。

ACIMから見たら節約はmeaningless

こうした「節約」は、ACIMから見ればまったく意味のないことだと思う。文字どおりmeaningless。

この世のゲーム内でうまくやることではなく、その幻想性を見抜いて、そこから抜け出すのがACIMの教えだから、ゲームの中のゴールドだか、ギルだかルピーが増えようが減ろうが、本来は関係ないはずだ。

それどころか、そのゲーム内のことに熱くなってしまうことは、それをリアルにしてしまうことだから、ACIMに逆行することだともおもえる。

でも、でも、今は、

自分で何とか手続きできたこと、と、

月々の携帯電話代が大きく節約できそうなことに、

ちょっぴりテンションが上がっている。

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