日々のこと・きもち

本庶佑さんノーベル賞受賞に、あるACIM学習者が思ったこと

2018-10-02

本庶佑さんがノーベル賞を受賞

[caption id="attachment_4528" align="alignright" width="300"] 本庶佑さん NHK NEWS WEBより[/caption]

昨日のニュース速報で、京都大特別教授の本庶佑(ほんじょ・たすく)さんがノーベル医学・生理学賞を受賞されたとの一報が入った。

なんでも、本庶先生は、免疫の働きにブレーキをかけるたんぱく質「PD-1」を発見。このブレーキを取り除くことでがん細胞を攻撃する「がん免疫療法」の開発に結びつけられたとのこと。

「がん免疫療法」は、手術、放射線治療、抗がん剤治療に続く、第4のがん治療法で、研究成果を基にした治療薬オブジーボは副作用が少なく大きな成果をあげているらしい。

今朝の番組ではそのお人柄も紹介され、

「一生をかけるなら、リスクが高くても、やりたいことをやるべきだ」

「誰も見向きもしない石ころを磨き上げ、ダイヤモンドに仕上げていく。混沌とした状態の中から立ち上げるところに、大きな魅力を感じる」

といった言葉も紹介されていた。

詳しいことは理解できないが、先の見えない、地道な根気がいる研究だと想像できる。

すごーい、素晴らしい。

病気の原因は罪悪感と捉える『奇跡講座』の考え

一方で、私は『奇跡講座(ACIM)』の学習者の端くれだから、病気や治癒について、ACIMがどういうスタンスをとっているかも、ある程度知っているつもり。

とくにワークブックの以下の文言にはインパクトを感じた。

「あなたは、山積みにした紙切れの束と大量の円形の金属がない限り餓死してしまうと、本気で思っている。小さな粒状の固体や、鋭い針で血管に注ぎ込まれる液体が、病気や死を寄せつけずにいられると、本気で思っている。

このようなことを考えるのは狂気である。」(L76-3-2,3、4-1)

罪悪感がないところで病気が生じることはありえない。病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。

病人を癒すことは治癒ではないので、贖罪は病人を癒さない。病気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。そしてそれがまさしく治癒である。」(L140-4-3,4,5)

ACIMによれば、病気の原因は罪悪感であり、薬が病気を治すのではなく、その基となる罪悪感を取り除くことこそが治癒をもたらすという。

それでも、この世のあるものには薬効が認められ、それで病が治るのだから、そこには因果があるように見える。

もし根底の罪悪感がそのままならば、ある幻想をもう1つの幻想に取り換えただけということになるかもしれない。

そうであっても、取り除きたかった最初の幻想が取り除かれることは、大きな望みをもたらす。

『奇跡講座』の教えをこの世でどう適用するか

要するに、私は、『奇跡講座』のこの世への適用(方法、程度)がよくわかっていないのだ。

この世はエゴが神に対抗して見せている幻想…、そして、その幻想からめざめることが、『奇跡講座』。その訓練がワークブック。

だけど、その幻想は私たちに多大な影響力があるから、幻想であってもよりよい幻想がいい、と思う。

幻想だからといって、ご飯を食べない、骨折しても幻想だからそのまんま、お医者さんも薬も投げ出す、というわけにはいかない。

どの部分を幻想と受け流し、どの部分はここでの仮の自分を維持するために大事、と捉えるかの塩梅がわからないのだ。

こんなことを考えている私は、ばかなのかな。

ACIMは正しいと思う。だけど、肉体を持ってこの星にいる私は、どう適用したらいいんだろう。

そうこうしているうちに、この世で生きるスキルらしきものの低下が著しいことに気づく。あ゛…(・・;)

おそらく答えは「聖霊の導きに従う」ということだと思う。(←今思いついた。なんて、自己完結的なんだ)

そうそう、いつも言われている。聖霊に聞く、だ。

聞いて、塩梅も打診しながら進むんだよなー。その練習かー。

や~~っと、ダンベルを再開、定着なるか

2018-09-28

運動の秋?

一度途絶えた運動習慣をもう一度定着させるのは、意外と難しい。

とくに元々怠け者で運動苦手、さらに年々体を動かすこと自体がおっくうになっている、私ならばなおのこと!

それが、、、やぁ~~っと、ダンベルを再開。昨日で3日目だ(ふぅ)。

今回は定着させることができるか?

そもそも、フリーランスで自宅で働いていたため、部屋Aから部屋Bへの通勤で済んでしまうため、あまりに運動不足だったのがきっかけだ。

10年位前GW帰省した際、早朝ウォーキングしていた両親に付き合ったらとても気持ちがよかった。

そこからウォーキングを始め、その後ダンベルのDVDを買い、昭和の香りがするセットを背にしたお姉さん達と一緒に毎晩約20分ダンベルをしていた。

血の巡りが良くなるからか、やると体がすっきりする。

だけど、忙しい、疲れた、ぎっくり腰になった、など何かの理由で2、3日休むと気づいた時には、習慣が消えている。そしてお腹周りにはお肉が(ということが何度か。そして今も…)。

関係するかどうかわからないけれど、去年は生まれて初めて健康診断で血圧値が引っかかってしまった。

ACIMでは肉体を重視すべきではないと言うけれど

ACIMでは、肉体は、エゴが神から分離した(と思いこんでいる)神の子に、無意識に渦まく恐怖感と罪悪感から逃げ込める場を与え、さらに個々の存在を示すことで分離をリアルに見せるための装置だとしている(解釈、大丈夫かな?)。

だから、肉体を重視すべきではない。肉体に固執することは、幻想をリアルに見せてしまい、手放すべきエゴの世界に繋ぎとめられてしまうことになる。

理屈はそうなのだけど、私は半年位前からワークをした時、ちょいちょい、「姿勢を良くすべし←そのために体幹を鍛えるべし←そのためにダンベルを再開すべし」という感じを受けていた(参考:4月17日の日記)。

このメッセージがACIMの聖霊からのものか、私のエゴなのかはわからなかった(未だに区別ができない(^_^;))。

聖霊さんが、肉体についてのそんな具体的なアドバイスをするもんかな?

でも、運動不足を自覚している者がちょこっと体を動かすことが悪いわけはない。

…、で、なんとか再開したのが、今年4月20日

しかし!あえなくその翌日にぎっくり腰になってしまい、再開二日目にして、また中断。その後慢性の腰痛持ちになってしまった。

それからはや5ヶ月…。季節は巡って秋だ。

やっぱり体幹、少しは鍛えるべきだよね。。。

そして、やぁ~~っと、再びダンベル再開。

くしくも?今は復習Ⅵの最中。復習Ⅵを貫く機軸となる概念が、

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから」(復習Ⅵ序3-3,4,5)というもの。

だけど、それとは矛盾しないよねぇ??と「私は肉体ではない、私は自由である」と声に出してリズムを取りながら、ダンベル体操をしている。

今度こそ、定着させられるか…。

自信、ない。

中秋の名月をながめて

2018-09-25

昨日は「中秋の名月」だとニュースで言ってた。

さてと、中秋の名月。よく聞くが、それは何ぞや?

中秋の名月…明治以前の日本で使われていた太陰太陽暦で8月15日の夜に見える月のことを指します。中秋の名月をめでる習慣は、平安時代に中国から伝わったと言われています。(国立天文台ウェブサイト

日本人は平安時代からこの季節にお月見をしていたんだ…

私もベランダから月を見上げた。丸くてぴかぴかしてとっても綺麗だった。スマホで撮ってみたが、輪郭がぼやけ月の独特の美しさは写せなかった。

9月は誕生日月だから、自分へのプレゼントに小さな月のライトが欲しいと思っていたけれど、必需品ではないから躊躇して結局買えないでいる。

一時期『ムーンマトリックス』という本に嵌っていた。そこには「月は人工的に作られた衛星で、人類の気分を操っている」と書かれていて、「え、まさか?」と思いながらも、それを信じていた。

その後、『奇跡講座(ACIM)』を学んで、月が人工物どころか宇宙自体が幻想ということになり、月が人工物かどうかはどうでもよくなった。

地球にぜったい裏側を見せないようにずっと廻っている月って、思えば不思議だ。

先週ZOZOTOWNを運営するスタートトゥディの前澤友作社長が、2023年民間人として初めて月旅行に行くということで、話題になった。

成功した起業家というのは、思いっきり外交的だから、関心がどんどん外側に向くんだろうか。ダイナミックな話だ。

私はZOZOTOWNで買物をしたことはないけれど、前から株を持っている。いきなりあかべこや、365日から始まるカウントダウンカレンダーなど不思議なものを送ってくる(引っ越しで全部捨ててしまった)。遊び心があってずいぶん余裕がある会社なのだなぁと思っていた。

去年いただいた大漁旗デザインのバスタオルみたいなものは、この夏私のお腹を冷えから守ってくれて、今も活躍している。

前澤社長の月旅行は正しくは、月の周りをくるっと廻る月の周回旅行らしい。

せっかく近く?まで行くのだから、廻るだけじゃなくて、月に降り立ってほしいな。で、また英語で笑顔でスピーチして…

ACIMでは、私たちが神の子であることはくりかえし述べられるが、あくまでひとりひとりの内面からの赦しが強調されている。

それはそうだけど、私はこの世の中を眺めて、いろんな人がいておもしろいなーと思っている。

月に行きたい人、テニスがすごーく上手な人、とびっきり美しい人、歳を重ねて味が出る人…、私は昔から人の「個性」というものが大好きだったのだ。

今はその好きな「人の個性」というものを手放しつつある、と気づく。

10月も中盤をすぎると、ハロウィン商戦で慌ただしくなる。それから、クリスマス…。

あっという間だな(別に世間に合わせる必要はないのだけど、影響を受けやすい)。

もうしばらく、静かで深まる秋を楽しみたいな。

「6月20日」

2018-09-22

自分をふりかえりたくなる秋

たまに、あれっ、なんで私ここにこうしているんだっけ?

と、自分をふりかえりたくなるときがある。

あんなに暑かった夏が過ぎ、誕生月ということもあってか、ちょうど今がそんな気分だ。

『奇跡講座』を知る前と後では人生変わったな、と思う。

その瞬間はわからない。だけど、引きで見ると、あれはターニングポイントだったと思う、そんな出来事のひとつだ。

6月20日は節目日!?

そこで気づいたこと。

意を決してACIMワークを始めたのが、2013年の6月20。

敬愛する父が亡くなったのが、2015年6月20日。

そして、昨年末引っ越しを思いつき、ありがたいことに旧居を買ってくれるという方が見つかって、その売却契約をした日が今年(2018年)6月21日。

いろんな節目があるからこじつけとも言えるけど、どうも私は6月20日前後に自分に影響がある出来事が起きやすいパターンがあるようだ。

父の命日とマンション売却日のつながりは意識したことがあったけど、ワーク開始日までは意識したことがなかった。

あの母が上京してきて契約した日、ワーク開始から丸5年が過ぎた時だったんだな、と感慨深く思った。

今はもうMy course in Mirackeの6年生か。

少しは進んでいるのか否か。

理屈はなんとなくわかったけれど、もっとも大事な赦しの実践はまだまだだ。

水泳の理論を本で学んで、でもいざ水に入って顔に水がかかっただけでビビって結局畳の上でバタバタ手足を動かして泳ぎを習得しようとしている人みだいだ。

赦す機会があってこその学びだから、快適ゾーンに籠ってばかりいてはだめだなぁ、と。これは2年前くらいからずっと思っている。

 

身に覚えのない、なぞの出荷メール

2018-09-19

知らないとこから、出荷メールが来た

今朝、メールチェックしたら、kateという知らない女性からメールが来ていた。

Hiに続いて、私の名前。そして、

「Your order was shipped by Priority Mail service. Here is the tracking #○○○○○○.
Thank you for the order.

Regards,」

??

自動翻訳のボタンを押してみたら、

「ご注文は、プライオリティメールサービスによって出荷されました。追跡番号は#○○○○○○です.
注文ありがとうございます。

よろしくお願いします。」

へっ???

注文!?私が?

発送地はアメリカカリフォルニア州ビスタの会社となっている。

最近とみにボケているとはいえ、まさか私、注文してないよね?

何かのいたずらとか詐欺のメール?

でも、少なくとも先方は私の名前やメールアドレスは知っているってことだ。

会社名で検索してみる。

その会社のサイトがあって、住所はメールのものと同じ。電話番号も合ってる!

追跡番号の記載した配送サービス会社も実在するみたい。。。

何か送られてくるのかな?不気味だ、まさか私が注文?

えーっ!私ー、注文?(゚o゚;) 

何を?

それはどこに送られてくるの?

おカネはどうなっているの?

もうすでにカードかなんかで支払われているの?

以前ネットバンキングで詐欺未遂にあったことがある。その時は怪しく感じた銀行の方から「中国のリさんに送金しましたか?」と確認の電話が来て、「リさん?いいえ知りません」となって、振込直前でストップされ事なきを得た。

まさか、まさか…もう、支払われているの?

慌てて今使っているカードの利用明細をそれぞれネットで調べてみたけど、了解済みのものだけだった。現段階では使われていないらしい。

代引きなのかな?

えー!

「ご注文は出荷されました」という前に、「ご注文内容」をお知らせするメールが欲しいよ。

「送りつけ商法」というやつなのかな?

||´・д・)

でも、まだ送りつけられてもないのに、誰に相談していいのかもわからない。

会社名と「送りつけ商法」を併記して検索してみたけど、ヒット数:0

このまま、何もなくファイドアウトしていくのかな?

そうだったらいいけど。

いや、よくないか?

なんか来ちゃったらどーする??

この世のすべては、実は自分がプロデュースしているのだ、と言ってみても、ここにいる生身の私はあずかり知らぬことばかり。

ちょっとしたことでも、ひとりでドギマギ。あ、これも、もちろん赦すべきことなんだろうけど。

恐怖感がつよいタイプ

2018-09-17

秋…旅もいいかも?

秋口に入って、いろんな方の旅の話を聞くにつれ、「あ、いいな、私もどっか行きたいかも」と思った。

これまで「旅」というのが私に入ってこなかったのは、引っ越ししてこの方自分があたかも旅をしているような非日常的な気分だったからだ。そして、「旅もいいかも」と思ったということは、ここに慣れてきて、いつしか日常モードになっているんだな、と気づいた。

恐怖心がつよいタイプ

話がまったく変わるのだけど。

私は恐怖心がつよい質だ。

とくに、(怖いものが)来るぞ、来るぞ、という感覚にめっちゃ弱い。

若い頃は、お化け屋敷で入ったとたんに足がすくんで固まってしまい、おばけ役のお兄さんも呆れるなか、一緒に入った同僚に引きずられてなんとか出てきた。

「もー、おばけより、たまちゃん方がよっぽど怖いよ」(ごめん…)

歯医者さんも怖いものの一つで、恐怖のあまり途中で治療放棄して以来虫歯の進行を知りながら、10年以上歯医者さんに行けなかった。

意を決して(もうどうにもならなくなって)歯医者さんに行ったのは4年前。すでに『奇跡講座』のワークを始めていたが、その時も恐怖感はすさまじかった。

あのウイーーンと歯を削る?耳元の金属音に恐怖と緊張がMaxになっていまい、その緊張状態に耐えられない。30秒くらいで一回スイッチを切ってひと息つかせてほしいのだけど、その要望がうまく伝えられなかった。

歯医者さんは、「痛かったら、左手をあげてください」とおっしゃる。

私が恐怖でもうどうしようもなくなって、左手をあげたら、機械を止めてくれた。けど、

「あれ、でも、これ、もう神経抜いちゃってる歯だよ。痛むはずないじゃん。騙されたなぁ、もう」と言って、口を開けたままアワアワしている私ヾ(゚□゚;)ノに対して、それからは手を挙げても、騙されることなく、ガーッ、ガーッと削り込まれて失神しそうだった。

ワークを続けていけば、恐怖を感じなくなるかな

心の拠りどころは、若くてチャーミングな歯科衛生士さんで、いつも膝かけをお願いしてた(それがあると、すこーしだけ安心できる)。

ある時、歯石を取ってくれていた歯科衛生士さんが、

「あれ、たまさんて、痛みに弱いのかと思ってたけど、そうじゃないんですね。むしろ強いかも、これ、絶対痛いと思うけど?」とおっしゃった。

痛いといえば痛いけど、平気だよ。怖くはないから。

痛いのと怖いのがごっちゃになっていたけど、そういえば、「金属音が耳に響いて、鋭い痛みが来る、来る~」というがだめだけど、鈍い痛みには意外と強いのかもしれない。

どっちにしても、こういう私は、「神との分離」と「その神による罰」という幻想が無意識にしっかと根付いているだろう、と思う。

一方で、ワークを始めたおかげで、無意識のなかの恐怖心がすこーし減ったからこそ歯医者さんに通い出すことができたんだよなぁ、とも思っている。

いつか精進して精進していけば、怖いという感覚も減っていって、歯医者さんやお化け屋敷も平気になるかな?

できるなら、もう二度と歯医者さんには行きたくないと思っているくらいだから、まだまだ道は果てしない…

新パソコンを開く

2018-09-10

引っ越し時、テレビとパソコンを買った

6月の引っ越しに際して、家電を2つ新調した。

テレビとノートパソコン(引っ越しに関係ない)。

いずれもAmazonのタイムセールで買った。

家電屋さんを覗いてみたものの、どれを買っていいのかわからなかった。店員さんに話しかけて聞くのも躊躇して、結局パソコン画面の情報とレビューを見てポチっとした。

Amazonの創業者兼CEO、ジェフ・ベゾス氏が、世界一のお金持ちと聞いたけど、さもありなん。

ささやかなひとり暮らしの引っ越しでも、照明器具も、収納棚も、一番おカネを使ったのがAmazonだったから。

テレビは、説明書を見ながら足みたいなやつをつけて、背面に線をつないだら難なく見ることができた。映像が鮮明なのに感心した。

問題はパソコンの方だ。

今使っているデスクトップパソコン、買ってもう10年以上になるので、非日常に紛れて、えいっと新しいのを買ったはいいけど、まだスイッチが入れられてない。3ヶ月そのまんまだ。

秋、新パソコンを設定して使えるようにしたい

おそらく、使う前になんか設定みたいなの要るんだよね?

5、6年前母のノートパソコンを買った時は、家電屋さんに別料金でなんかやってもらった…。もっとも安い松竹梅の梅コースにしたら、親切な店員さんが、あとはお客様の方ででリカバリーなんとかを作ってください、とやり方のメモまで書いてもらったっけ?

あれはー、何をしたんだっけ?お店では何をして自分では何をしたのかー?使うまでに何をしなくちゃいけないんだっけ?

もちろんGoogle先生に聞けば、教えてもらえるだろう。

でも機械にはすこし苦手意識があるから、少々気合いがいるな。

20代の頃、おばさん達が機械が苦手で…と自虐的に言っていた。それに、いい歳をして…とイライラしたものだが、今なら共感できる。

気づけば、自分もまた同じ生き物になっている。

機械類だけじゃなくて、ツイッターやインスタといったSNSにも疎くて、それもちょっとしたコンプレックスだ。

この前会った友だちとは「うちら、古いOSで頑張っている旧式パソコンみたいなもんかもね」と自虐的に笑い合ってた。

もっともっと世の中が“進化”して、もっともっと置いてかれるんだろうなー(「置いてかれる」とキーボードで打ったら「老いて枯れる」と出て、うまい!と思った)。

まぁ、SNSはさておき、この秋はパソコンの設定?をクリアして、パソコンの引っ越し?もして、新しいパソコン、使えるようにしたい。

もたついても、一つずつやっていけば、できるはず。

思い出したけど、忘れてしまったこと

2018-09-09

北海道の地震で東日本大震災時を思い出した

6日に起きた地震は、「北海道胆振東部地震」と名称づけられた。震度は震度6強から震度7へと訂正され、亡くなった方は37名、まだ安否不明の方もおられる。

一方、北海道全域で停電となったブラックアウトは2日後にはほぼ回復、新千歳空港では国内線に続いて国際線も再開、町に活気が戻りつつあるという。

でも液状化で家が傾いたり物が壊れたり、被災された個々人の生活は厳しいものがある。

私は、北海道地震の報道を見て、東日本大震災のことを思い出していた。

企業のテレビCMが消え、ACのCMがくりかえしくりかえし流され異様だったこと。

津波がすべてを飲みこんでいく怖ろしい映像。その後わかった福島第一原発の事故。そして政府や東電の対応。

テレビでは当初「メルトダウン」という言葉は決して使われず、「専門家」が「メルトダウンなどしていたら大変なこと」と何度も説明していた。

実際には翌日にはすでに1号機がメルトダウンしていたと思われる。原子力発電はCO2を出さずクリーンでしかも低コストと言われていたけれど、低コストどころか制御不能な怪物だった。

いかに自分の生活が電気に頼っているか。ひとたび地震を初めとする災害が起これば、電気や水が使えなくなり、店からは物が消えたちどころに生活が立ちいかなくなってしまうー。そのことに、あの時初めて気づいた。

「変わらなくちゃ」と思ったが、変わらずじまいだった

人間は頭がよくて、どんどんすごい道具を使って進化してきたはずだったけど、引きで見たら回し車をくるくる回しているねずみと変わらない。

動力は競争に勝つことだから、手段は変わってもそれが激しくなるだけなんだ。

東日本大震災の時、「大元でまちがっていた」「変えなくちゃ、変わらなくちゃ」と強く思ったのを覚えている。

だけど、どう変えなくちゃーと思ったのか、今ではすっかり忘れてしまっている。あの頃(2011年3月24日)、心と頭を整理するのに書いたメモがあったと、引っ張り出したが、あの頃感じた気持ちがおぼろげにしか思い出せない。

あれだけのことがあったのに、私はそこから学んで変わることはしなかった(できなかった)。見たくないことをフェイドアウトさせ易きに流れてしまった。

あの頃は、『神の使者』とも『奇跡講座』ともまだ出会っておらず、災害はあるいは神の意志で浄化の一環なのか?と思っていた。

震災時、一瞬真っ当になって思い出したこと。それが思い出せない。

あれから『奇跡講座』に出会った。

神には一切関係ない。神はただ在る。

赦しにはレベルの差はなく、大きなことを赦すのもささいなことを赦すのも同じだと学んだ。

テキスト1-1-1には、「奇跡に難しさの序列はない。一つの奇跡がもう一つの奇跡よりも『難しい』とか『大きい』などということはない。」とある。

けれど、大災害が起こって辛い方、悲しい方、大変な思いをしている方々を見て、そう考えるのはやはり申し訳なく思う。

幻想ではあると知ったけど、あの東日本大震災の時感じたことや思い出したことで、私にとって、とっても大事なことがあった気がする。

だけどそれが思い出せない。

大災害で頭をなぐられ、一瞬だけ真っ当になったんだ、あの時。あの感じ。

一瞬思い出したことで、また忘れてしまった大事なこと。それって何だっけ。

欲しかったものが降ってきた

2018-09-03

「欲しいと思っていたものだ、これ」

欲しかったものが目の前に降ってきたという体験をした。

先週のこと。

朝、住宅街をウォーキング中、何かが上から降ってきて頭に当たり足元に落ちた。

ん?

小枝だ。

どこから?道の脇に植えてあった木から落ちたのかな?と見上げる。

2,3秒して気づいた。

あ~、これ!

私が欲しいと思っていたものだ!!

カフェカーテンのポールに使えるんでは?

私は今の家で、流し台に向かいあうような形でキッチンボードを置いている。キッチンボードの裏をリビングに向けることになるが、梁があるからそこしか置けない。

そのキッチンボードとキッチンの壁の40㎝くらいの隙間に、目隠しとなるカフェカーテンみたいなものを付けたいと考え、ホームセンターで生地を買ってきていた。

一緒にカフェカーテン用のポールも買ったが、ほんの狭いスペースに存在感ありすぎた。太めで手持ちのフックにも収まらない。

もっと華奢でナチュラルなものがないかーと思っていたのが、まさに前の日。

そうそう、この枝!

これがちょうど使えるんでは?

私は小枝を拾い、小学生の男子がするようにぐるんぐるん回しながら、家まで帰った。

そうして、カフェカーテン用の布に通してみた。

うん、細さはちょうど。ナチュラル感もある。

ちょうどよいみたい。ラッキー♪

イメージしたものが得られたことが自信に

たった小枝ごとき。

人から見たら、単にゴミみたいなもんが頭に落ちてきた出来事だけど、私には自信になった。

おカネが介在しなくても、イメージしたものがまさに手に入った経験。おそらくこんな枝はホームセンターで探しても見つからない。

これから、どうやって収入を得ていこう?

どうやって生きていけば?

不安を感じていた私に、「必要は満たされる」とのメッセージのように感じたからだ。

勘ちがいかもしれない、おめでたいかもしれない。でもいいのだ。ラッキー、満足。感謝!

そして、ふと、人工的なものはたいがい直線でできているけれど、直線ばかりだと不自然で緊張度を増してしまうのかな?

直線は、うまい曲線の組み合わせが難しいから直線となっているだけで美しい曲線の代用品なのでは?とも感じた。

前住人の方のお家と思って遠慮がちだった空間…ふと見回せば自分になじむものになってきている。

若さへの執着というより、自分への執着を捨てなさい

2018-09-02

「自分は捨てなさい」とメッセージ?

昨日は、久しぶりにパソコンの講習だった(Dreamweaver)。9時~16時半までという長丁場だったけど、刺激を受け楽しかった。今度こそ使いこなせるまでになりたい、と思った(去年もそう思った)。

帰り道、急な土砂降りとカミナリに見舞われた。今年は本当に天気が極端だ。幸い日傘を持っていたので、日傘をさしバッグを抱えて家路を急いだ。

今朝は雨が上がって曇り。少し涼しい。秋だ。

今朝のワーク中、「私は、若さや美が幻であるにも関わらず、そこに執着しそれをリアルにしているんだろうか(参考日記:『奇跡講座』学習者らしからぬ!? 買物)」と自問した。

そうしたら答えのようなものを感じた。メモしておこうと思う。

     *    *    *    *    *    *    *

「すべてを捨てても、あなたは美しい。

“問題”があるとすれば、あなたの若さや美への執着というより、

自分自身への執着だ。

「自分」は捨てなさい。

小さな「自分」があるから、人の反応や言動が気になる。

あなたは「神」より「自分」に執着している。

そして個として、神に近づきたいと思っている。

だが「神」と「個としての自分」は両立しない。

個として立つ自分はいない。

自分じゃない、神なんだ。

自分という個から、自由になれ。」

そして最後に

God is.

という余韻を感じた。

自分を捨てるとはどういうことだろうか。

果たして、そういう感じにまでなれるものだろうか。

「自分を捨てる」これがこれからの私の大きなテーマなのかな?

「この世で神を見る」ゲームに意識的に参加する

またこうも感じた。これは感じたというより、私が思ったこと。

現代はゲームが大人気で、多くの人がゲンジツから離れて様々なゲームを楽しんでいる。社会全体がゲーム化しているとも言える。

「2022年 アジア競技大会」では、コンピュータゲームの腕を競い合うeスポーツが正式なメダル種目になるとかならないとか?

でも考えてみたら、この世界自体すでにゲームなんだ。リアルじゃない。

だとすれば、趣味でサバイバルゲームに参加する人みたいに、もっと意識的にこの世を徹底的に巨大ゲームだと思ってやってみたらどうだろう?

自分を取り巻く社会や環境で、

神以外のものをやりすごし、

神を見つけ、神を感じ、愛し、感謝する。

そういうゲームだって。

この世は、まがいもんに足を救われず、神を見つけるゲームだ!

そして、私は分厚い玉ねぎみたいな衣装を着て参加しているけど、まがいもんに足を救われず、そこで神だけを見ることができたら、その皮を一枚剥くことができる。

そうして、少しずつ軽く自由になりながら、個の身体を離れるまで身軽になる…

また残暑がぶり返すかな?

短い秋を楽しみたい。

『奇跡講座』学習者らしからぬ!? 買物

2018-08-31

表情筋を鍛えるPAOを買った~

ふだん質素に暮らしている反動か、引っ越しのどさくさに紛れて財布のひもが緩み、いくつか引っ越しとは関係のない買物もした(実は浪費グセもある)。

それの一つが、これ、

PAO(パオ)

バーの真ん中あたりにマウスピースを付け、それを口に加えて振ることで顔の表情筋を鍛えるという、フィットネス器具だ。

私は、ブランド品も貴金属もまったく持っておらず着飾ることには関心がない方だが、一方中身の体のアンチエイジングには、かなり関心がある。

前はビデオでフェイスストレッチングしていた

特に顔の筋肉を鍛えることには関心が高く、何年も前からフェイスストレッチングのビデオを見ながら一緒にストレッチをしていた(今は、顔ヨガっていうのかな?)。

約30分のこの時間は、顔の筋トレ&ストレッチをしながら英語の勉強をしたり、一日を振り返ったり、なかなかリラックスできる時間だった。

世はDVD&ブルーレイ化。以前「このビデオをDVD化したいのですが」と専門業者に問い合わせるも、「著作権にかかわる」ということで拒否され断念。地デジ化に移行したのちも、家のテレビデオでせっせとストレッチしていた。

しかし、ついにビデオが壊れて、できなくなりー。

そんなおり久しぶりに会った母の一言

あんたも、ぽっぺた弛んできたね

ガーン(´・ω・|||)

そぉ、やっぱり?

家族ほど正直なものはない。

加齢はあたりまえ。だけど、もう少し若さにしがみつきたい。

PAOの存在は発売当時から知っていたけど、1万円を超える価格はやっぱり高い…。

口に加えて振るっていうのも、なんか滑稽?、いくら若さって言ってもねぇ、と思っていた。

だけどフェイスストレッチングビデオに代わるものが欲しい。

で、買った。

そいで、毎朝ぷるぷるしている。

なんか鍛えられている感はある(フェイスストレッチングの方が好きだけど)。

若さと肉体への執着&『奇跡講座』の学習で、分裂中

しかしー。

なんという若さと肉体への執着!

『奇跡講座』学習者としてあるまじき買物では!?

最近やっているワーク復習Ⅵには全体を貫く機軸の概念があって、それは、

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから。」というもの。

この概念を朝、夜、そして毎時きっかりにくり返す、とある。

PAOでぷるぷるしながら、

「私は肉体ではない。」

もー、完全に分裂しているヾ(- -;)

私は、この世は幻想であり、自分の肉体もまた幻想で、別の所からの投影で見ている(と思っている)ことを知っている。

だけど、だけど、

同じ幻想なら、こぎれいな幻想でいたい。

…あっさり手放すことはできない。

エゴの思う壺にはまっているのか。

あ゛~

私の道(My Course in Miracles)は果てしなく遠そうなのだ。

女ひとり暮らしの限界を感じた日

2018-08-28

本棚の上に、転倒防止グッズの代わりに棚を入れることにした

今年の夏、とくに7月は、今思い返しても暑かった。6月中に引っ越しが終えられて、本当によかった。

引っ越しの荷物の片づけ中に、圧倒的にひとり暮らしの限界!を感じた日があった。

7月収納棚を本棚の上に乗せた日だ。

仕事スペースに置いた本棚に地震対策の転倒防止ツッパリ棒みたいなのが要るかと思っていたが、どうせ収納が足りないのだから天井までぴったりの高さの収納家具があればいいのでは?

そう考え、本棚から天井までの高さ(58.3㎝)に入る棚を探してみたら、、、あった!

山善(YAMAZEN) フリーボックス ホワイト(3,125円:購入時)

「幅が58㎝」とあるから、これを横にして使えば、ぴったりの計算。

おー、ラッキー。

注文したら翌日すぐに届いた。そして組み立てた。ここまでは順調だった。こういうのは、けっこう得意なのだ。

思ってたより重くて、持ち上げられない

しかーし!

問題はここからだった。

思ったより、すごーく重い!!

どうせ木か紙のチップでできているのだろうし、普通のカラーボックスくらいならお茶の子さいさいだと思ったいたが、とんでもない重量感だ。単に私の筋力が衰えたためなのか(後で見たら11㎏とあった、もっと重く感じた)。

一人ではまったく持ちあげられない。なんとか2秒くらい、片っぽをえいっ、と上げるくらいが限界。

でも、本棚転倒防止のために買ったのだ、乗せるのだ、と管理室から、脚立を持ってきて、うんにゃ、うんにゃ、と棚を引きずり上げようと試みた。

エアコンを付ければいいのにまだ自分の家という感じがしなくて、エアコンに触りづらく、汗だくになりながらひとり棚と格闘した…、これではぎっくり腰も完治しないわけだ。

脚立の上まで引きずり上げたけど、にっちもさっちもいかなくなった

えっさえっさとなんとか脚立の上まで引きずり上げた。頑張ったぁ。

だけど考えてみたら、この棚と棚を置く隙間はぴったりだ。片っぽをえいっと持って引きずり上げる方法は使えない。ぴったりすぎて水平にしないと入らないのだ。

あ゛~(*_*;

もう、棚を置くの諦めたい。

しかし、今となっては脚立に乗せてしまった棚を下ろせない。自分の力では支えられないから、ドスンと落とすしかない。

この重い物を脚立の上から落としたのでは、床に傷が付くこと必至。下の階の方は何事かと思うだろう。ここに至るまでにも、壁紙、タンスとすでに傷つけているのだ。

上げることも、下ろすこともできない。

もー、泣きたい(>_<)

地元の掲示板ジモティで家具を売った際、引き取りに来た女の人はみな連れの夫や男性を手足のように使っていた(ように見えた)。

「35億」と「あと5000万」この地球上に男性がいるというではないか、でも、

この窮地に助けてって言える人、

私にはひとりもいないんだぁ~~~!!(自業自得)

頼れる人はいない、ひとりでなんとかしなくっちゃ

うんと暑くて、そして情けなくって、汗と涙を同時に出さんという時、ん?とひらめいた。

水平にしなきゃ、入らないんなら、脚立の上で水平にしたらいいんじゃ?私は、1,2という2秒だけは片っぽ持っていられるから、その間にここにある本を挟んだらどう?

とりあえず、やってみた。

 

そ~っと、そ~っと、右側に、そして次に左側に、脚立と棚の間に本を差しいれる。大きめのパソコンの本にした。

それで、1冊ずつ入れて、本棚と同じ高さにした。

それから、えいやぁと渾身の力を入れて、本棚の上に滑らせた。

バランスを崩しそうになったけど、なんとか入った!

なんとか乗せられた。

我ながらすごい…

しかし、なんともいやはや…

力尽きた。

 

言われるまでもなく、ひとりでできることには限界ある。

身を持って知った7月だった。

「存在感の美しいひと」

2018-08-25

「存在感の美しいひと」を具体的にイメージしてみたら

昨日「存在感の美しいひと」への憧れがある…、と書いたけれど、それはどんな人なのか改めて考えてみたら、イメージがあるだけで具体像はよくわからなかった。

私は、昔から、きれいな人やかわいい人が好きで憧れがあり、それと重なる部分もあるような、別物のような?

好きな本『アナスタシア』(響きわたるシベリア杉 シリーズ)の主人公、アナスタシアはそのイメージに近いかな?

この話は二元論のこの世をベースにしてはいるものの、アナスタシアの在り方が『奇跡講座(ACIM)』の考えに近いように思えて、勝手にACIMの副読本のような位置づけにして、時たまだけど、くりかえし読んでいる。

何日か前のコメントで、トベさんが「アナスタシア好きです♡」と下さって、そっかぁ、とうれしくなった。

以前親しい友だちにこの本をあげたことがある。読んでくれた友人は「これはファンタジーで、アナスタシアは実在しないと思うわ」と言っていたが、私は実在すると考えている。

アナスタシアのメッセージはとっても素敵だ。ただ、書中に「素晴らしく美しい若い女性」と描写されていることが、やはり影響力を何倍にもしているなぁと思う。

人(私)は、見た目に左右されるのだ。

憧れのソニアさんにはシカゴに会いに行った

40代に入ったばかりの頃は、いわゆるスピリチュアル本をたくさん書いている直感の先生ソニア・ショーケットさん惹かれた。

少し魔女っぽくて、女性的で、華やかさもあって、ポジティブで。

私はシカゴの彼女の自宅にリーディングを受けに行ったくらいだ。もう15年も前のことになる。

素晴らしいメッセージをくれて、大いに背中を押してくれた。そして、その晩シカゴ市内で開催されたワークショップにも飛び入り参加の招待してくれ、とてもエキサイティングな体験をくださった。

 

日本人の方ではどんなだろう

日本の方でイメージに近い人は誰かな?と思ったら、吉永小百合さんが浮かんだ(ちょっと大御所感があり過ぎるか?)。

清楚でやわらかいが、弱さとはちがう圧倒的な美しさ、存在感がある。しかし、出演作等は見たことがない。

どこに存在感の美しさを感じるのか。出演作、たくさんあるのだから、見てみようか。

綾瀬はるかさんも、きれいな人だな、と思った。

いわゆる美人ではないのだけど、透明感(美白ゆえ?)、存在感の美しさが際立っていた。

今は市場で引っ張りだこで消費されている感を感じるが、消耗せずにずっと輝き続けてほしい。

そう書いていたら、前に小林麻央さんのことも、このブログの中で「存在感が美しい」と書いていたことを思い出した。

きびしい闘病のなか、お子さんのこと、ご自分のこと、日常を細やかに見て前向きに愛情豊かにブログを続けられ、その姿勢に頭が下がった。

あたりまえと思っている毎日がとても尊いものだと気づかせていただいた。

憧れの…存在感の美しいひとはみな女性?

わかったような、わからないような?

あ、今、気づいた!

みんな女性だ!!

自分にとってあたりまえすぎて、気づかなかった。

もちろん、男性にも「存在感が美しいひと」たくさんいる。

でも、自分が女人間だから(この世では!)自然と憧れも女性になったのかな?

たとえ、神の子はひとりで個々の存在は幻想だとしても、憧れがあるのは楽しい。イメージしているだけで気分が良くなるから。

「『奇跡講座』ってなぁに?」

2018-08-22

ブログはナイショのプロジェクト!?

私は、機械オンチながら、なんとかホームページを自分でサクサクと作れるくらいになれたらいいなぁ、と思い、年に数回、東京都主催のHTMLやCSSの短期講座に通っている。

その講座で何度か一緒になり、たまにメールのやりとりをするようになった友からメールが来た。

なんでも、「WordPress悪戦苦闘中」らしく、私のサイトを参考にしたいからもう一度アドレスが知りたいと言う。

一瞬だけためらったけど、「『奇跡講座ダイアリー』といいます」、と返信した。

そう、前の講座で一緒になった際、「WordPressでブログを作っている」と話していたんだ。

参考にといっても、これは本の付録として付いていたテンプレートそのまんま使っているもの。古くもなっているのに自分では編集もわからず、往生しているところなのだ。

実は、私はブログをやっていることを、近しい友人2人にしか話したことがない。

「Facebookやってないの?」と聞く人はいるが、「ブログやってないの?」と聞かれることはまずないから、積極的に話すこともなかった。

「奇跡講座ってなに?」

ほどなく、「素敵に作っているね」と返信をくれた。

あ、ありがとう(・・*)ゞ(作ったのはデザイナーさんだけど )

そして、その後、

「ところで、奇跡講座ってなに? 宗教なの?

と。

そうだよね~、あやしいよね。

私は、

「教祖も組織もないから、宗教とはいえないかな?」

と言い、そういうタイトルのテキスト、マニュアル、ワークブックから成る本があること、それを独学していることを伝えた。

まったく自分本位なブログ

そうそう、そうなのだ。

このブログ!

普通、私が関わっていたビジネス支援の仕事では、事を起こす際、真っ先に「ターゲットを想定する」ということが定石中の定石だ。

しかしー。このブログー、まったく自分本位な学習ブログで、読者が念頭にない。

『「手帳ブログ」のススメ』という本を読んで、日々の記録をブログで綴ることの素晴らしさに共感して、作りたいと思った。

今は、自分の道(My couese in Miracles)の一里塚、あるいはワークのスタンプラリーシートみたいな位置づけでモチベーションアップに繋がっている。記録や復習としても役立っている。

だけど、世の中に晒しているのを考えたらー、

ACIMのことを知っている、ワークをやったことがある人というのは、いったい人口の何%だろう?

圧倒的多数の知らない人にとっては、なんのこっちゃ??、だ。

知っている方に対しても、特段のメッセージ性があるとも思えないし。

それは最初から感じてはいた。

手帳ブログだとしても、なんとも不親切なのだ。

『奇跡講座』のエッセンスをまとめて、伝えてみたい

そういえば、最初に、『奇跡講座(ACIM)』のことを知らない方にもわかりやすいように、ACIMのエッセンスをシンプルにまとめようかな、と思っていたっけ?

しかし、その作業はもっとちゃんと理解しないとできないや、間違った解釈を書いてしまってはいかがなものよ、と思い、手をつけることができなかった。そのまま放置している。

そのことを思い出した。

「ちゃんと理解しないとまとめなんて無理」と思っていると、一生できないだろう。

解釈が違うかも、は、それぞれ異なるのは避けられない。「私による」でいいんじゃ?

学習ブログという位置づけはよしとして、周りにもう少しやさしく、親切でもいいんじゃないか。

いくら内向きな性格で(^_^;)と言い訳しても、本当にそうだったら、そもそもブログなんて作ってないんじゃね?とも思うし。

「うまくあれ」から卒業したい

2018-08-21

額装した色えんぴつ画をグループ展会場に持っていったら、すでにたくさんの絵があり、みんな、すごーく、うまい。

はーっ、すごいな~(・-・`* と、いくぶん気落とされ圧に飲まれて帰ってきた。

採点されるわけでも、競っているわけでもないのにね。

帰り道、

しかしー、「うまい」とは何ぞや、と自問する。

写実性をうまいとするなら、写真の方が上だろう。

じゃあ、私にとっては、どうだったらうまいのかな?

幼稚園の頃は好き放題に絵を描いていたのに、その自由さを失ったのはいつからだろう。

私、仕事でも人生でも「うまく」あろうとし、でもどうだったら「うまい」のかもわからずに、何かに忖度してきた気がする。

でもその何かと本質的に合わなくて、40すぎたあたりから、落ち着きどころを模索しているような?

だったら、もう「うまくあれ」から、卒業したらいいのにね。

いつも、周りの顔色が気になって、自分であることを手放してしまう。

それこそ、クリアしたらいいのに。

もしかしたら、その自己表現の力をつける、そのために絵を描いているのかな?

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