『奇跡講座』 ワークブック

レッスン117-レッスン103、104の復習

2017-06-15

夢分析とモラトリアム

昨日の晩は月一度のカルチャーの「ユング心理学講座」だった。2002年の5月から参加させてもらっているから、気づけばもう15年になる。月1度とはいえさすがに15年も受講しているから、人見知りの私でも気をおかずに行ける、数少ないありがたい場だ。

昨日は最近見た夢の分析をしていただいた。

持っていた何枚かの服を捨て置きながら、私が連れと円形劇場に入り込む、観客として舞台を見ていたが、舞台上にいた演出家らしき人に突然話しかけられ、即興でやりとりをする、途中から親戚のおばさんが出てきて完璧な答えを返すという夢(なんのこっちゃ)。

先生はこの夢が、何らかの仕事上のことを意味し、そこでは私が即興でもやりとりができ、私の分身であるおばさんは「完璧な答え」も持っている、とおっしゃった。「あなたが60代位というこの夢の演出家になんか思い当たることない?」と言われ、今、契約をせず無報酬のままお手伝い(?)している会社の社長が思い浮かんだ。

どんなかたちで関わることができるのかわからず、商品化する力がないから、今のところただ言われるがまま打ち合わせや研修に参加したり、ちょっとした調べ物やレクチャーをしたり。自分でも交渉力も企画力も乏しく無能だな、と思う。

一方で、自分に来たものをリアクションモード(受身)でその時できる範囲でただやっていくとどうなるのか、というそのことが、私にとっては実験のような気もしている。

先生は私が無意識では「その仕事に乗り気で自信も持っているのだ」とおっしゃった。自信なく逃げ腰の私には意外だったが、「そうなのか」と少し気が楽にもなった。

今の私は、いろんなことが不確かなまま進んでいる。今だけではなく、これまでの人生自体がモラトリアムのようにも思う。だから、ACIMのようなものに惹かれるのかなと思う一方、単なる「世逃げ」の言い訳にしているのかなと思うこともある。

レッスン117-レッスン103、104の復習

l103)神は愛なのだから、幸福でもある。

 愛がすなわち幸福であり、それ以外の何ものも喜びをもたらさないということを、私が覚えていられますように。だから、私はいかなる愛の代替も迎え入れるつもりはない。

l104)私は真に私に属するものだけを求める

 愛は私が受け継いでいるものであり、私はそれとともに喜びも受け継いだ。これらは父が私に与えた贈り物である。私は真に私のものであるすべてを受け入れたい。

ワークをして

ワークの形式が変わっても、いつも同じようなことを感じている・

すなわち、私は心の奥にずっと自己嫌悪を抱えて生きてきたんだ、ということを確認している。

それはもちろん父なる神を蹴って「自分でやるから」と離れてしまったことに対する自己嫌悪だ。

それは実は起っていない勘ちがいだけど、やっかいなのはそれが無意識にあるから、それと知ってもすぐには正しようがないことだ。

自分に認めない(否認)→否認したものを他者の内に見る(投影)

→ゲンジツで心がざわついたり嫌な気分になったり、あるいや嫌な結果を作る

という一連の流れを作ってしまう。

心の中のこの、実はありもしない“悪業”を無に流せるのは、無意識が意識に上がってきた時だけ。つまり、心がざわついたり嫌な気分を感じた時しかない。

これを正しい見方で見て、修正する。

自分に、それは実は起らなかった、起っていないのだ、と教える。

それによって、意識できた分だけ消えていく。

起っていなかったことを赦すこと。そして起っていなかったこと=神と今も共にあることに感謝すること。

こうした修正が必要なことを思い出した。

でも、この考えは、この世で人と関わったり、あるいはただ生きている時でも、すぐに忘れてしまう。そして、ざわざわや嫌な思いを引きずったり深堀りしてしまう。

最近ワークから少し離れていたから、特にそう…。

とにかく止めてしまわず、何とかACIMにつながりつつ、くりかえすことかな?私はACIMのワークはこの世での生きるという実践の上でも役立つと思っているのだから。

アファメーション

愛がよくわからない、愛を意識してみようか。

レッスン116-レッスン101、102の復習

2017-06-10

昨日までの三日間ACIMワークから完全に離れ、ある会社向けのプレゼン資料づくりに寝食削り没頭していた。それはそれでゲーム感覚で楽しかった。夕方プレゼン終了後疲れと爽快感からくる心地よさを感じた。こういう感覚は久しぶりだった。

…、たった3日なのにACIMの感覚が遠くなっていて、びっくりした。

また、のれんをくぐって「よろしく」と改めて中に入る感じだ。ダイアリーを書き終わったら思い出せていると思う。

レッスン116-レッスン101、102の復習

l101)神の意志が私に望むのは、完全な幸せである。

 神の意志、私の完全な幸せである。私が苦しむことがあるとしたら、それは唯一、神の意志とは違った別の意志があると信じているからである。

l102)私に幸せを望む神の意志を、私も共有している

 神の子である私に対する父の意志を、私も共有している。父が私に与えたものが、私の浴するすべてである。父が私に与えてくれたものが、実在するすべてである。

ワークをして

前にも何度も書いているのかもしれないけど、昔は(私の悪事をすべて知っている)神が怖かった。レッスン101の本文に書かれているとおり、人生のどこにいようともいつかのタイミングで見つけられ、私の番として罰せられる。そう思っていた。今も少し思っている。

その典型的なものが、老い・病気→死だ。

ただ、今は、「神は私に幸福だけを望んでいる」という文言が前より信じられるようになった。

私たちはこの世で苦しむ必要はいっさいない。

私たちはみな幸せであっていい。

いや、完全に幸せであることこそ神が私たちに望んでいることであり、

神とは完全なる幸せそのものだ。私たちはそこから生まれ、今なおその一部だ。

ただ、それをリアルに感じられるためには、幻想を幻想として、見抜き赦さなければならない。

この習得は、やっぱり理屈というより練習なんだろう。

泳ぎをマスターするように、顔を水につけバタ足をして息継ぎを覚えて…といった具合に赦しも習慣化して身につけていくことだ。

小林麻央さん

このところ、小林麻央さんのブログを拝見している。食事ができなくて痩せ細った姿を気丈にもブログに載せておられる。当然ながらのすっぴんのお顔が美しいと思う。

ワークのミニ瞑想をしていても気になっているのか彼女のイメージがでてきた。

ACIMでは病んでいようと健康であろうと肉体はただの夢、実相は変わらないという。苦痛は肉体的な機能ではなく無意識で自らが自らを攻撃したり、自分自身を憎んだり罪悪感を抱いたりした「結果」だという。

そうはいっても…。いや、そうだとしても…。

毎日、今日は更新はあるかと見てしまう。それは私が彼女の病に囚われてしまっているからかもしれない。

それで、彼女の病気を赦した。

そして「罪と恐怖のシンボルにはならないでください。幸せと癒しのシンボルであってください」とメッセージを送った。

だれか他の人の病であっても、それを目にしているのが自分なら、それは助けを求める自分の内なる声だ。それを癒すことだ。癒しと赦しは同じものだ。

それで、私が見ている彼女の病気のイメージを赦し、手放した。

人間はいずれ肉体を離れるとしても、病気になることも老いて苦しまなければならないこともない。

罪悪感がなれければ苦しむことはできない。

神と一体である私たちには罪はなく、あるのは完全な幸せだけである。

アファメーション

幸せであることは神の意志を生きること。

レッスン115-レッスン99、100の復習

2017-06-06

おくればせながらの『アナと雪の女王』

ちょっぴり空気がひんやりして過ごしやすい。昨日は晴れという天気予報に反して夕方から雷雨となった。やっぱり東京は亜熱帯地方になったんだ、と思いながら濡れて帰った。

週末、おくればせながらDVDを借りて『アナと雪の女王』を観た。我ながら、遅っ。2014年3月から日本公開されあんなに話題になったのに観ておらず、先日地上波発とテレビでやっていたのをチラッと見て、いいかも、と借りてみた。

おもしろかった。

なんであんなに女性人気があったのか、わかった気がした。ネットのある解説には主題歌「レット・イット・ゴー」が本来は「流れにまかせて」といった意味なんだけど「ありのままで~」と訳されて松たか子さんが美しい声で歌い、それが「ありのままでいいんだ」と日本女性のこころのツボになって大ヒットした、といったようなことが書かれていた。

たしかに「ありのままで~」というのは耳ざわりのいい言葉だからそうだろう。だけど、いつも弱くて助け出されるような姫ではなく、愛の力で状況を打破できた王女アナに、女性はわが身を投影し自信をつけたのではないかと思った。

もう「私は弱くてだめなの、助けて、お願い」と言わなくてもいい。ありのままの力を認めても、認められてもいい。それは武力や権力ではなく愛の力だ、と解放した。

映画を観た女性はそういうメッセージを受け取ったのでは?だから男性にはイマイチ受けず女性に大人気だったんでは…と。そう思えた。

解釈が古いかな?

しかも、もう3年も前の映画…。ははっ。

レッスン115-レッスン99、100の復習

l99)救済が、ここにいる私の唯一の機能(はたらき)である。

 ここにいる私の機能(はたらき)は、私が犯したすべての誤りについて、世界を赦すことである。そのようにして、全世界とともに、私がそれらの誤りから解放されるからである。

l100)私の役割は神の救済計画に不可欠である

 私は世界を救済するための神の計画に不可欠である。神は、私が世界を救えるようにと、その計画を私に与えたからである。

ワークをして

救済とは、この世の幻想性に対する徹底的な赦し。そして、出会う兄弟姉妹に神の子という真の姿を見て愛すること、だと思う。

レッスン99には、「赦しと救済は同じものである。あなたが自分で作り出したものを赦せば、あなたは救われる。(w99-10-6,7)」とある。

レッスン100には、「あなたの喜びなしでは神の喜びは不完全である。あなたの笑顔なしに世界は救われない。(w100-3-2,3」、

今日私たちは、喜びがここでの自分の機能(はたらき)であることを理解しようと試みる(w100-6-1)」とある。

ならば、究極的には、この世での私のはたらきは、

L99赦すこととL100喜ぶことだ。

そして、救済すれば、救われるのはこの私だ。

 

テレビでは連日ヨーロッパを中心としたテロのニュースが流れてくる。テロがこんなに頻発するなんて…。

これもまた誤解が私に見せる幻影だ。

だけど幻影だから対処しなくていいのか…と罪悪感のようなものを感じる。

だけどそれに感情的にネガティブに反応してしまうのは、その幻想をリアルにしてしまうこと。

じゃあ、心のレベルでゆるすということを、この世のかたちのレベルではどうふるまえばいいのか。そこがまだよくわからない。

 

レッスン100の本文「あなたは今日、神の使者である。あなたは、自分が見るすべての者に神の幸せを運び、あなたを観てその幸せに満ちた顔に神のメッセージを読みとるすべての者に、神の平安を運ぶ。(w100-6-4,5)」というフレーズに反応してノートに書き写した。

今のじぶんは全然ちがうのだけど、

これを人生の目標にしたいからだと思う。

アファメーション

苦しむ必要がある人なんて、この世にいない。

レッスン114-レッスン97、98の復習

2017-06-03

雑談できる友のありがたさ

まだ梅雨入り前なのだけど、梅雨が明け本格的な夏が到来したかのように錯覚する強い日差し。紫外線がことさら気になる思秋期だ。

昨日は久しびりに友だちと会って、新宿の東郷青児 美術館で開催されていた「ランス美術館展」(フランスにあるランス美術館のコレクションをご紹介する展覧会)と、自由が丘で開催されていた「柳本浩市展」(46歳の若さで昨年急逝されたデザイナー、ディレクター柳本さんの追悼展)に行ってきた。

芸術的刺激もよかったが、何より老いていく親のことや自分自身の健康など、50代の定番とも言えるおしゃべりができて楽しかった。ネット化が進んで仕事でもプライベートでも直接会うということが減って久しい。フリーランスでひとり暮らしの私にとっては、こうした雑談ができる友とその機会というのはほんとうに貴重だ。

そのことを夫婦で暮らしている友だちには言えなかったけど、目的がないとりとめのないおしゃべりができる関係というのはしみじみありがたいと思った。

ひとりはいいけどひとりでいすぎるのは…。私が年を重ねますます内向的になっている自分のライフスタイル、やはりどうにかすべきかも、という反省も感じた。

レッスン114-レッスン97、98の復習

l97)私は霊である。

 私は神の子である。肉体は、私の霊を封じ込めることはできず、神が創造していない制限を私に課すこともできない。

l98)私は神の救済計画における自分の役割を引き受ける

 神は私を、永遠に変わることのない私として創造したのだから、その神の言葉を受け入れること以外に、私にどんな機能(はたらき)があるだろうか。

ワークをして

先週の金曜、土曜にやったワークだ(やっと少しだけどワークとダイアリーが縮まった)。思ったのは次のようなこと。

私が霊なら、他の人も霊だ。

どこで読んだか忘れたけれど、私たちの肉体は霊をくるむ肉の毛布みたいなもの、という表現を思い出した。それはあたかも、スヌーピーのライナスがいつも持ち歩いている毛布みたいなものだ。

この男の子の名前を確認するのにネット検索したら、その毛布のことを「安心毛布(security blanket)」と言うそうだ。安心毛布は「人が物などに執着している状態を指す」ともあった。

私たちの肉体もまさにこれなんだ。肉毛布。

もちろんここに生きている以上、肉毛布は必要だけれど(ないと幽霊になるのか?)、人と接するときはなるたけ肉毛布をやり過ごして、同じ神の子という本質と意識しようと思った。

 

そして、「神の救済計画における自分の役割を引き受ける」ことについては、私の役割はまず赦すこと、愛すること。

それ以外にこの現世での役割は何か。

やはり、

ACIMとこの世をつなぐこと、と

ACIMをわかりやすく伝えること、

という2つが思い浮かんだ。

これまで経営のお手伝い的な仕事をして生計を立てていたけれど、できたらいずれ、何らかACIMのことをしごとにしたいと思う。

でも、それはすなわちACIMに関する何かをしておカネを稼ぐということ?と思うと、具体的なイメージが想像ができずそこでおしまいとなった。

夜のワークでは、この学習ブログはコースを歩むストックみたいな役割として役だっているけど、「だれかに何かを伝えるもの」にはなっていない。ACIMをまったく知らない人向けのブログがあってもいいのかもなぁ、と思った。

それはまだ先のお話なのかもしれないけど。

アファメーション

人を、肉毛布をやり過ごして、霊として感じてみよう。

レッスン113-レッスン95、96の復習

2017-06-01

紫陽花

お~、6月に入った。

朝の散歩道に咲く紫陽花のうすむらさきいろに癒しを感じる。紫陽花というのは、咲くまでは存在感がない。梅雨の季節に咲いて初めてそこに紫陽花が植わっていたのだと気づく。

紫陽花というのは咲いてないときはどうしているのかな~と、50も半ばになってから子どもっぽい疑問が湧いた。それで今年の冬、意識して紫陽花を見てみたら、からっからに枯れた木の枝から小さな緑の芽が出ていた。それが次第に葉っぱとなり春にはどんどん緑を増やしていった。

あたりまえだけど花をつけるまでも他の植物と同じように、春に芽が出て成長して秋には枯れて…というサイクルをくりかえしていた。

ほう、とちょっぴり感動した。

紫陽花は色がいい。ピンクから紫、青としっとり控えめな色味で、花々のグラデーションも美しい。小さな花を覗くと、花びらと真ん中の取り合わせもなかなかいい。今、調べてみたら、花びらだと思ったものはがくで、真ん中の小さいのが花そのものみたい。

この6月は紫陽花をみよう、とふと思う。

レッスン113-レッスン95、96の復習

l95)私は創造主と一体の一なる自己である。

 私は一なる自己であり、完全に全一で、被造物のすべてとも、神ともひとつであるから、安らかな静けさと完璧な平安が私のものである。

l96)救済は私の一なる自己から訪れる。

 一なる自己の智識は今も私の心の中にとどまっており、その自己のもとから見れば、私のための神の完璧な救済計画が完璧に成就されていることがわかる。

ワークをして

ワークをしたのが5月12日。もう半月以上前のふりかえりということになる。

この95、96のワークでは神と一体の「一なる自己」にフォーカスが当たっている。

改めて本文を読んでみると、

あなたが見ている自分自身は、神の被造物を模倣した滑稽な紛いものである。すなわち、弱く、意地悪く、醜く、罪深く、哀れで、苦痛にさいなまれるものである。それが、あなたが自分で作り出したあなたである。」と、

神から分離したと思いこんだ私たちがエゴの主導のもと作り出した私たちの自己像が描かれている。

そして、それは間違いだから「あらん限りの確信を抱いて」以下のように唱えて手放すようにと強く命じている。

私は一なる自己である。創造主とも、被造物とも、被造物のあらゆる側面ともひとつである自己、無限なる平安と力がみなぎる一なる自己である。」(レッスン95)

レッスン96では、本来私たちは一なる自己のはずなのに、幻想の自分(エゴ)と本来の自己(ホーリースピリット)が共存しているため、私たちは常に葛藤にさらされていると説明されている。

それは同じテーブルの上での葛藤ではない。一方は真理であり、一方は幻想―ないものだから。私たちはその両方を握ったままでは真に救われることはない。

幻想を手放さなければ真理は得られず、真の愛、幸福、穏やかさ、喜びの状態になることはない。

そうはいってもなかなか…

ここに住んでいる以上、ここでの諸々があるし…。

理屈はわかるようになりつつあるけど、それを日々の暮らしのなかでどう生きるか(応用編?)、いま一つ会得できていない。

私のワークの感想メモには、

「心は身体より大きい(あたりまえだけど)。

それが身体をやぶって躍動したがっている感じ。」

とあった。

とにかくACIMは習得系なのだから、筋トレや水泳と同じ、コツコツやるしかない。しばらく離れて忘れたら、またそこから再びやるしかない。

どうしても、この世でいいことばかり起ってほしい、と思うけど、嫌なことや理不尽なことが起こった負荷がかかった時こそが、力をつけるチャンスなんだよな。わかっているけど…。

アファメーション

ACIMは筋トレ。こつこつ続けるが肝要。

レッスン112-レッスン93、94の復習

2017-05-30

長い夏のはじまり

東京はすでに初夏の陽気だ。少し動くと汗ばむ。

これから長い夏が始まる。

春と秋はあるにはあるけど、10月初旬まで残暑を感じるようになっていて年々短くなっている気がする。この暑さが終わったと思う頃には今年ももうそろそろ終わり、と思うのかな。早すぎる。

世の中のテンポと体内時計がずれている感がして久しい。歳のせいかな?東京の街なかに住んでいるせいもあるかな?

そういえば、深夜、大声でどなるような声が続いて寝つけなかった。窓からそっと見下ろすと、ランニングシャツ一枚のおじさんが片肘で頭を支えた肘枕で道路で寝そべって誰かに大声で怒鳴っていた。相手は学生?こっちは小さくて何を言っているかわからない。

あ゛~。再びふとんにもぐりこんだけど、声は夜闇に響き渡っている。時計は2時半。これも私のエゴが見せる投影⇒すなわち赦しの対象なんだろうけど…、こうして「結果」としてこの世に出てきたものに、どう対処したらいいのか…。術をまだ身につけていない。

いろんな人の声が混ざって聴こえてくる。30分位して静かになったので覗いてみたら、おじさん、消えてた。誰かに“撤去”されたのか。

レッスン112-レッスン93、94の復習

l93)光と喜びと平安が私の中に宿っている。

 私は光と喜びと平安が住む家である。私は神の一部なので、神と共有するわが家にそれらを迎え入れる。

l94)私は神が創造したままの私である。

 不変なるものによりそれ自身と同じものとして創造された私は、永遠に創造されたときのままであり続ける。だから私は神とひとつであり、神は私とひとつである。

ワークをして

以前よりこうした考えが「信じられる」と思うようになっていると気づいた。

真実のところ「私は光と喜びと平安でできている。」のだと思う。

では、それ以外の神の性質と合わないものはすべてやり過ごそう。赦し、囚われることなく通り過ぎよう。

たとえば、おカネ…というものはほんとうはない。だから、ものを買ったときでも、おカネとものとの交換=取引実行と思うのではなく、私によきものが与えられた、そのこと自体にただ感謝を示すことにしてはどうだろうか。

ますます浮世離れするか(^_^;)

言葉では表せないけれど神の表現に用いるような、平穏さ、安心、静けさ、喜び、幸せ、無限の愛、感謝、豊かさ…そういうものだけが、(真に)在ると思って(それ以外は非存在、赦しの対象)、日常の生活をしてみたら、どうだろうか。

言うは易し行うは難し… だろうけど。

もちろん、この世であるかぎり、身体を維持する必要やここでの生活を維持するための要請もあって、それはそれでこなしつつ、自らに関わる人やできごとのなかに、平穏さ、安心、静けさ、喜び、幸せ、無限の愛、感謝、豊かさだけを見て生きてみてはどうか。

それを完璧にやるのは無理だとしても、近づけるようにする。

“嫌なこと”“不都合なこと”が自分に降りかからないかぎりはできるかもしれないけど、何かあったらたちまち崩れるんだろうな。

それでも、ACIMのワークを始めてから4年近くになるから、もうACIMをまったく知らなかったときのようには世の中を見られなくなっている。

これまではACIMの世界観を心のどこかにあるピュアな憧れの世界、といった位置づけで生きてきたように思うけど、ここにきて、やはり、この現実に広がっている実際に在る世界として生きたいと思うようになっているのだ。

だから、真に在る神なるものをこの世に見たい。

アファメーション

小さな不快感でも気づいたら、すぐゆるそう。

レッスン111-レッスン91、92の復習

2017-05-29

レッスン111-レッスン91、92の復習

復習Ⅲでは、前述のとおり、1日につき2つのワークを復習する。

特徴的なのは、ワーク時間のしばりが強いことで、できれば朝目覚めてすぐ、それと夜眠りにつく直前の5分をワークに用いる(無理ならば、午前中と、夜寝る前の1時間以内に)とされている。

その際は、「あなたの心がそれらの概念を、あなた必要なことや、問題だと思えることや、あらゆる気がかりなことに、自然に関連づけていくにまかせる。

また日中のワークでは、起きている間ずっと毎時0分には、2つの復習のうち最初の主題概念を、30分にはあとの方の主題概念を、それぞれ数秒でよいから復習する、とある。

l91)奇跡は光の中で見える。

 闇の中では見ることはできない。聖性と真理の光が私の心を明るくし、内なる無垢性を見ることができますように。

l92)奇跡は光の中で見え、光と強さはひとつのものである。

神からの贈り物である強さを通して、私は見る。神から与えられる神の強さが私の弱さと入れ替わり、その贈り物が、私の弱さである闇を消し去ってくれる。

ワークをして

レッスン111のワークをやったのが、5月10日。もうずいぶん前のことだな。

正直なところ、この日のワークがどうだったかほとんど思い出せないけど、メモには、レッスン91の本文からいくつか文言を書きだしている。

あなたが『自分』だと思っているものは、取り消されるべき信念である。

肉体に捧げることをやめた信仰心を今度はどこへ向ければいいのか、その対象を実感する必要がある。

「(自分についての)真理を体験するよう努める。

たぶん、ここらが気になったんだと思う。

そして、「このコースは学びのコースだけど、理解というより体験・体感こそが学びなんだと思う」と感想を書いている。

夜の就寝前のワークでも、「頭で理解しようとしていたことを、こらからは体感しよう」とある。

そして、レッスン68の「愛は不満を抱かない。」を引き合いに出して、「この不満には、広い意味で心配や不安、いらいら、後悔など、現状に満足していないことすべてが含まれる、と思う。これらはエゴが見せる幻想だから、こうした感情が起こったら、その都度赦そう。そして、聖霊の世界のことが見える真の視力を得られるよう、重ねよう」と書いていた。

問題は、私の心がついACIMを離れてさまようから、学びも3歩進んで2歩下がるみたいな緩慢なペースで、エッセンスが濃くならないことかな。

進んでいるか後退しているのか、自分ではわからない。

アフメーション

神の子が持ちえないネガティブな感情が起こったら、都度ゆるそう。

(「赦す」をひらがなで書いたら、ちょっとやわらかくていい感じがする。)

復習Ⅲへ

2017-05-26

やはり!?戻ってきたiPad mini

そうそう、先々週故郷に帰省して母にあげたiPad miniは「動かなくなった」ということで、宅急便で私のところに送り返されてきてた。数日そのまま寝かせていたけど、おそるおそる電源を入れてみると、Appleのりんごマークが表示されたあと、一行「iPadは使えません」の表示。

これは私には手に負えない、と購入したお店に持っていったら、、本来は設定していなかったパスワードを母が知らずと設定してしまったのか?…はっきりわからないけど、とにかく初期化するしかないとのこと。

で、買ったときのまっさらな姿になって戻ってきた。原因がイマイチ不明でまたヘンになったら…と思うけど、その時はその時。来月父の3回忌の時に持っていくことになった。

81歳、今度は使いこなせるか。

ワーク、復習Ⅲへ

ワークの方はようやく復習Ⅲへ。このACIMワークは、思い返せば昨2016年5月23日からスタートしている。で、今年の5月23日にはレッスン113までやっていたから、このペースで行くとワークは3年ちょっとかかる計算になる。

このブログ、ワークをやることが目的というより、もっと広く深く多角的にACIMを学ぶきっかけにしたいと思っていたけど、実のところは、ACIMを忘れない、かろうじてつながるためのものになっている気もする。

しかも、読み手を設定してもいない自分の確認だけみたいなもの、こんなもの何になるかとも思う。だけどそれでも自分の中のACIMプロジェクトのお皿を回し続けるという意識づけになるだけでもよしとしている。できれば、もっと頻度高くワーク以外のことを書きたいが。

復習Ⅲにおける「特別な形式」

復習Ⅲは、レッスン91~120の復習。毎日2つずつ復習する。

ただ特別なやり方が示されていて、朝起きた直後の5分と眠りにつく前の5分を2つのワークの復習に捧げる。やりたければもっと長い時間をかけてもよい。

それに加え、起きている時間はずっと毎時0分ぴったりに1つめの主題概念、30分ぴったりに2つめの主題概念を復習する。その時間は「それぞれにほんの数秒かけるだけでよい」とされている。

シンプルといえばシンプルなワークだ。だけど、これがなかなか(^_^;)

この期間は特別な形式に従って練習するので、できるだけ厳密にそれを守ることが特に望ましい」とあるけれど、どれほどの厳密さが求められているのか。

つい時計ばかり気にするようになる。もうそろそろかな、と思って時計を見たら、55分、あと5分後か…と思ってふっと気づくと、もうすでに40分経っていて、とっくに2つも飛ばしている…!

こんなことがしょっちゅうで、ワークになっているんだかいないんだか。誰かと一緒の時はすでに諦めてしまっている。ひとりで外を歩いているときなどは、忘れまいとずっと心の中で主題概念を唱えながら歩くことになる。

これならずっと言っているのだから、0分だって30分だって逃さないだろうと。それでも気づくと注意が他に向かってすっかり忘れて時間が経ってる。我ながら呆れる。

ワークの説明にも「もちろん私たちは、ここで勧められている最良のやり方を、あなたが毎日毎時間、実践できるわけではないことは承知している。

決められた時間に都合がつかず練習できなかったとしても、学びが妨げられることはない。」とある。一方で、「しかし、もしも要請されている時間を練習に捧げるのは嫌だという理由で、あなたが練習を省いてしまうときには、学びが妨げられる。」とクギをさされている。

理由はなんであれ、やりたくなかったので、抜かしてしまった練習は、自分のゴールは練習することだと思い直した時点で、ただちに取り組まなければならない。」とも。

つい何度も抜かしていると、「今日はもういいや」という気になる。「明日は朝からちゃんとやろう」でも、次の日もやっぱり抜かしてしまい「いいや、明日ちゃんと」となり、気づけばフェイドアウトしている。

5月12日にレッスン113で止まってちょうど二週間、今日レッスン114を再開した私がまさにそれだった。

ワーク時間が定められることで精神的負荷がぐっとかかる。無意識でも常にACIMを意識せざるをえなくなって、それに無意識にある抵抗感がぐっと邪魔をするみたいだ。

さっきまで覚えていたのに、ふっと忘れ何時間を経っているというのは不思議だ。私はまだまだACIMを学ぶのには“気合い”が少々必要で、無意識のうちにできるようにはなってないんだなと思う。

他の人はこうしたワークをどれくらいの厳密さでやって、今日はOK、次へ、としているんだろうか。。。

レッスン110-私は神が創造したままの私である。

2017-05-17

チャレンジが大事!? ひとり身だからこそ

“母へiPad mini”プロジェクトは、「こんなもの、もったいない、余計なものを」と言われてしまう危惧もあったけど、2日間の手ごたえはまずまず。興味を持ってくれたみたい。使いこなして、ひとり暮らしの刺激になってくれたらいいと思いつつ、東京に戻った。

iPad miniは私も何年か前にWi-Fiモデルを買ってポケットwifiなるものを契約して使っていたけど、持ちだそうとすると意外に重く感じて実際持ち歩くことはなく、ポケットwifiは2年契約終了を待って解約。

家にはWi-Fiの環境がなかったので、前に入れた大畑学さんの『A Course in Miracles Workbook精読』『A Course in Miracles Text精読 』といったACIM関連の電子書籍を読むためだけのツール(すなわち本)になっていた。けれど、母のおかげで入門書をいっしょに読んで一緒に触って、私も家でいろいろ使えるようになったら楽しいかも、と思った。

50代になって「世の中がひとつ便利になると、自分はひとつ置いていかれ不便に」みたいに思っていたけど、ひとり身だからこそ情報は大事かな、ITやSNS関係のこと、少しずつでもチャレンジしていこうかな、と思えた。

今、ダイアリーを書いているこのブログも、ワードプレスの基本的な使い方やカスタマイズがわからなくて、マズイ状態のまんま放置しているのだった。まずはこれを何とかしなきゃ。

レッスン110-私は神が創造したままの私である。

このレッスン110の主題概念もまた、ACIMの基本となる考えだ。

この言葉だけですべてのことが含まれている。

あなたが神が創造したままであり続けるなら、見かけだけのものが真理に入れ替わることはできず、健康が病気となることも、死が生の代替となったり、恐れが愛の代理になることもありえない。あなたが神が創造したままであるなら、こうしたことのすべてがもともと起ってはいない。

と説明がある。

これは短い言葉でACIMの考え方をわかりやすく示しているように思う。また、

もし、あなたが神が創造したままのあなたであるなら、あなたの心が神から分離したことはなく、あなたの心とほかの者たちの心の間にいかなる分裂もなく、あなた自身の心の中には一体性があるだけである。」とも。

これは私たちが「戻りたい先」を表しているようにも感じる。これは説明があるとおり「もともと起ってはいない」ことだ。

レッスン110のワークでは、

私は神が創造したままの私である。神の子が苦しむことはありえない。そして私は確かに神の子である。」という言葉をしっかり心に抱き、

「神が創造したままの私」=「内なるキリスト」を、心のうちに探し、認める。1時間に5分のワークで、自分のもっとも聖なるところにアクセスする練習をする。

ワークの終わりには、

一日を通し、感謝の気持ちで神を思い出し、今日私たちと出会うすべての者たちに、愛に満ちた思いを抱く。私たちはそのようにして神を思い出すからである。」とある。

これはとても美しい文言だし、実践的なアドバイスだと思う。

ワークをして

シンプルなワークだけど、「私は神が創造したままの私である」と受け入れることが、実はもっともむずかしいんだろうな~と思った。

つい、「そんな…、こんな罪深い私を」といった気持ちになってしまう。心の形状記憶合金があるみたいだ。

でも、私は少しずつだけど、ACIMの考え方が浸透してきているし、エゴをベースにした考え方よりこっちの方が理にかなっていて整合性がある、と感じている。加えて副次的効果として、このゲンジツの世に対してよい結果ももたらすと経験しつつある。

だから、世の中からは狂っているように思われるかもしれないけれど、なるたけACIMの教えに沿って毎日をやってみる、という密かな実験を続けていこうと思っている。赦しの機会に直面した時、それができるかどうか自信ないけれど。まぁそれを気にしていても「赦しの機会は突然に」だから仕方ないし…。

アファメーション

私は神が創造したままの私である。そして私は確かに神の子である。なんとありがたいことよ!

レッスン109-私は神の内に休らう。

2017-05-14

帰省して母にiPad miniを渡す

週末故郷に帰省した。母の顔を見に。そして“母の日”だからというじゃないけど、母用のiPad mini、中古品だけど買ったのでそれを渡しに。

私の母は81歳になるが好奇心旺盛で、何かわからないことがあると電子辞書でしょっちゅう調べている。だけど最近のことや固有名詞は電子辞書には載っていないことも多く、私がiphonで調べて教えると羨ましそうにしていた。それでかねてから母用にiPad miniを買ってはどうかな?と思っていたのだ。

Amazonで手配した無線LANルーターの到着を待って説明書を見ながら設定して、ネットで調べつつ、母用のApple IDを取得して関心持ちそうなアプリを入れて…、基本操作を説明していっしょに練習して…、と機械系が得意でない私にしてはなかなか頑張った。

iPad miniは私自身使いこなしているわけではないし、ふだんひとり暮らしの母が使いこなせるのかどうかわからないけど、母は興味津々。喜んでくれているみたい。今のところは、持ってきたよかった、と思う。

母に対する愛情と懐かしいような、切ないような気持ち、ACIMでいう「特別の愛」だな、と思うけど、なんともできないでいる。やはり特別の思い入れと執着がある。

ここ富山でもワークをしたいと思ってきたけど、母の日常にペースを合わせると、そこはACIMとは別世界で、30分に一度という復習Ⅲのワークはぐだぐだになってしまった。でも人との会話がたくさんの時間は、私が東京ひとり暮らしで黙々とACIMワークをしている時より、見方によっては健全な気もした。

「ACIMは万人向けではない」と言われるが、家族がいてそれなりに満たされていたら、関心が向かないのもわかる気がする。まして母と同じ目線に立って見る生活ではこの小さな町こそが世界だと感じる。

レッスン109-私は神の内に休らう。

レッスン109はゴールデンウィーク中の5月4日にやった。

私は神の内に休らう。

このきわめてシンプルな概念のもと心の内に、安息と静けさ、平安と静寂、安全と幸福を感じるよう努める。外界がどんなであろうと、求めれば静けさと平安がいつでも自分の心の内にあるということを、起きている間ずっと1時間のうち最初の5分、文字どおり「神の内に休らう」ことを通して、体験する。

このことが内なる真理を目覚めさせ、すべての人やものの中にある同じ真理を見ることへとつながる。

今日あなたが5分間休憩するたびに、世界は目覚めへと近づく。

そして「あなたは今日、神の平安の内に休らい、自らの安息の中から兄弟に呼びかけ、あなたとともに休らうようにと、彼らを彼ら自身の安息へと引き寄せる。」とも。

ワークをして

ゴールデンウィーク中はいつもはうるさく感じる前面道路の車の往来も比較的少なく、街の空気が緩んでいた。私は一日を通して何度目かになる『神の使者』の再読をしていた。そういう環境だったからか、このワークも心地よく感じられた。

夕方のワークの後感じたのは、なんだかんだ言っても、未だに私はエゴの視点が強いな、ということ。しょっちゅう、不安や問題、不満を感じている。

この世の中の一般的な見方とはまったく違うかもしれないけど、不満、不安、心配などが見えているという時点ですでにエゴの見方に陥っているということだ。こうした感情は、「神からの分離」(神の世界を自分から離れた)という最初の分離(という勘違い)に対する、恐怖と罪悪感の変形バージョンだ。

世界にはいろんな問題があり、連日ニュースでも取り上げられていて「解決すべきこと」も山積だけど、見えている問題は、最初の勘違い(原因)の結果として見えているに過ぎない。

こうした問題に関心を抱かずまったく内向きでいるのは世間的には「よくない」ことなのかもしれないけど、まずは自分の心のあり方のみ注視しようと思った。

具体的には、愛は不平不満をいっさい抱かない、を実践しようと。

いろんなことは「ある」ように見えるけれど、まずは「原因」である自分の心を安らかにするのだ。そのために「神の内に休らう」という今日の概念の実践は最強だと思った。

アファメーション

私は不平不満がいっさいない神の内に休らいでいる。

レッスン108-与えることと受けとることは、真理においてはひとつである。

2017-05-12

カルチャー講座

おとといは月1回のユング心理学のカルチャー講座だった。今は秋山さと子著の『ユングの心理学』の読み合わせをしたり、見た夢の話をしたり。2002年の5月から参加している講座だから、思えばもう15年になる。

先生は秋山先生に直接学ばれ心理学にとどまらず宗教やオカルト的な方面にも造詣が深い。ベテランのカウンセラーでもある。これまで多くを学ばせていただいた。講座に出ていたおかげで、「無意識」や「投影」「否認」「象徴」といったACIMで用いられている概念のベースがわかりやすかったように思う。

一方でユングに限らず他の心理学や宗教とも、ACIMの考え方はまったくちがう、ということも最近ますます感じるようになってきた。

なにせ、すべてが自分の投影でその結果として世界を見ているという考えに立つのだし、「神はある、それ以外はない」となれば、誰とも合わなくなっても仕方ない。ふだん、このACIM的見方を口にすることはない。だけど、私の心にACIM的見方が浸透してきたおかげなのか、自分が浮いているように感じることが増えてきた。

他のACIM独習者はどうなのだろうか。いわゆる世間でうまくやっているかな。

レッスン108-与えることと受けとることは、真理においてはひとつである。

レッスン108は、私たちのこの世とは異なる、真理の世界とそこにおける原理を説明している。

そこでは光に満たされすべての葛藤やまちがった想念が消える。その光とは、肉体の目が見る光ではなく、闇が知覚されることのない心の状態をさす。

ここでは対立するものはなく、すべてが癒され平安を分かち合う。

そして、ここでは与えることと受けとることはひとつ。同じである。

与えることと受けとることの両方が、一なる想念の二つの側面と見なされており」と説明がある。

この「与えることと受けとることはひとつ」ということを体感的に学ぼうとするのが、レッスン108である。

これを体験するために、「自分のものとするために、すべての人に差し出したいと思うもの」について、イメージして、

すべての人に、私は静けさを差し出す。

すべての人に、私は平安を差し出す。

…といった具合に差し出して、その後、自分が与えたものを受けとる。

ワークをして

差し出すものは何でもいいのかな。

まず思いついたものとして、豊かさ、平和、喜び、感謝、穏やかさなどを差し出した。

笑顔、時間…こうしたものは幻想なんだろうか。

健康…からだのことでもいいのかな。

自分が差し出したものは、地球のすみずみまでインターネットの網のように、通っていくようなイメージをもった。

それは、あなたが与えた分だけ、あなたに戻ってくるだろう」と説明されているが、たった5分でも、差し出した方の自分がとっても豊かな気持ちになれるのを感じた。このワークはたとえ短い時間でも心が穏やかになる。

そして何度か5分のワークを繰り返すうちに、「あ、すべての人…は、いないんだ」「私は私に差し出しているんだ」と気づいた。

私は私という個ではなくて、一なる神の子だ。その一なる神の子に差し出しているのだから、当然受けとるのもまた一なる神の子、自分なんだ…

完全に闇が知覚できない心眼(ヴィジョン)が得られたら、この感じはもっともっと明らかになるだろう。

こうやって考えていくと、『奇跡講座』というのは極めて実践的―原因と結果の原因の方を変えることによって、その結果もおのずと変える-だと感じた。

アファメーション

真理の世界をこの世で生きよう。幻想はやりすごし、真理のカケラは自ら発信する。

レッスン107-真理は、私の心の中のすべての誤りを訂正する。

2017-05-08

今ここから、赦す

ゴールデンウィークは、5年前のACIMプロジェクトの原点だった『神の使者』を再読できた。そして、これは邪道なのかもしれないけれど、自分の中でACIMの副読本のように思っている『「ザ・マネーゲーム」から脱出する法』という本がある。これも再読できた。よかった。

「ザ・マネーゲーム」から脱出する法は、言い方、視点こそやや異なるものの、本来の自己に導いてもらい幻想として見ている世界を打ち破って無限の豊かさを感じるという教えが、ACIMと共通するのではないかと考えている。表現が“現代的”でとっつきやすいこともあって、事あることに読み返している。

自分が原点だと感じているこの2冊を読んで、私は勉強しているつもりで、できていない、と改めて思った。“赦しの実践”という最も重要なことを脇に置いたまま、理屈の理解だけをしてきたことに(改めて)気づいたから。

私が今、感じている心配や不安、恐怖感、過去への後悔の気持ち、親への特別な思い、ちょっとしたいらいら、そういったものすべての幻想を赦し、手放し、本来ならばありえない心の雲を払うのが最も大事なはずなのに、そういったものを温存しつつ、それはそれとして理屈を学んでいた気がする。

ネガティブな感情が起こったら、常に赦しを実践しよう、と思った。これはこの世を否定することにもつながるから、これに対してもちょっとした恐れがあるけれど。

レッスン107-真理は、私の心の中のすべての誤りを訂正する。

連休が始まる直前の4月28日、レッスン107のワークをした。

真理は幻想を訂正する、というのがこのワークのテーマだ。

そして、真理に近い心の状態について、以下のように説明してくれている。

わずか1分か、それ以下の時間だったかもしれないが、あなたの平安を邪魔するものが何一つなかったときのことや、自分は愛されていて安全だと確信していたときのことを、思い出してみなさい。

それから、その瞬間が、時間を超えて永遠に届くまで引き延ばされたらどうなるか、想像してみなさい。

それからあなたが感じたその静かな感覚を百倍にし、それからさらにもう百倍にしてみなさい。」と。

そうすれば「限りなく微かにではあるが、推し量る手がかりを得たことになる。」この真理が訪れたときはすべての苦痛がなくなっている。

この真理を真摯に求めて得られないものはいない。そもそも私たちのものだから、それを練習で自覚するのだという。

この練習では、真の自己である聖霊の存在を認めて、聖霊に導いてもらう。

真理は、私の心の中のすべての誤りを訂正する。

そして、携えてきた真理はこの世界にも変化をもたらす。

ワークをして

私がこのゲンジツの世で見ているのは、“私の心のあり方”の結果の世界だ。私がここで苦痛を感じたなら、それは“あり方”を正すべし、ということ。すなわち赦しの機会なのだ。

問題はその瞬間にそれを思い出せないことだ。

私は心が狭い。言い替えたら、エゴがでかい。ちょとしたことでもざわざわ、いらいらしてしまう。

ACIMを学びたいと思っている私と、普段生活している私、別人格でいるのかもしれない。だとしたら、それを統合することが課題なのかな。

せっかく設定されている1時間に5分というワークの枠も、ざわついて心のまま時間だけをこなしていることがある。

それじゃあ、エゴはでかいまんまだ。

少しずつでも実践によって皮を剥いでいかなきゃ。そして、ちょっとでも不快に感じたことがあったら、それはエゴの皮を剥くチャンスだ。ありがたく思おう(覚えていられたら)。

アファメーション

今日一日、ネガティブな感情を見つけたら、赦しを実践しよう

レッスン106-私が静まって、真理に耳を傾けられますように。

2017-05-03

世間は今日から5連休。晴れ。街の空気がゆったり感じられる。

このまとまった時間にやりたいと思っていたこともあるんだけど、手をつける気になれないでいる。昨日は『神の使者』の著者、ゲイリー・R・レナードさんの第三弾の本『愛は誰も忘れていない』を再読していた。

なんかゲイリーさんの本が私にとってのACIMテキストみたいになっている…。テキストより理解しやすいから。それでも、すぐ忘れるから、ゲイリーさんの本3冊は少しずつでも常にくりかえし回して読みたい。

それと同時に3冊目の本で勧められているように、テキストも1日数ページずつゆっくり浸透させたい。「ゆっくり」と思っていると、ついフェイドアウトして習慣にならないんだよなぁ。

レッスン106-私が静まって、真理に耳を傾けられますように。

レッスン106が言っているのは、一言でいうと「心の奥の内なる声に耳を傾けなさい」ということ。これを短い文章の中で何度もくりかえし言っている。

エゴの声に耳をかさず、「今日は静かにして、真理に耳を傾けなさい。

そうすれば、神は奇跡を携えて、あなたを訪れる。それが神の約束だ。

神はあなたを通して、真に見ることができなくなった者たちに呼びかける。

あなたは聖霊からあなたのはたらきについて学ぶ。

まず受け取ること。そうすれば与える者になれる。

「与えれば(その分)失う」というのは二元性の見方であり、正しくない。

実相では、受け取ることと与えることは一つであり、それはさらに増幅される。

受け取ることと与えることを学び、神の使者となること。そのためには静まって真理に耳を傾けること。

こんなようなことが書かれていた(気がする)。

ワークをして

ワークを始めにあたって、

私は静かにして、真理に耳を傾ける。

与え、受け取るというのは、何を意味しているのだろうか。

と自問自答する。そこで、私は受け取っても与えてもいないかもしれない、と思った。ただエゴの監視の下で、ひとりでワークをしているだけで。

与え、受け取ることは、とても流動的で先が読めないイメージがあるけれど、私はただ内向きにガードを固めているだけのようにも思う。その奥に潜んでいるのは“不安”かもしれない。

昔は、けっこう冒険やチャレンジ好きのところもあったはずだけど。

自分ではACIMを学んでいるつもりでも、その実、まったくACIMの存在を知らない人よりACIMから遠いところにいるのかもしれない、と思った。

私は、与えることも受け取ることも、苦手だ。

一つには人そのものが恐いから。人からは人当たりがいいと言われるけれど、それは生きる術としてそうしているだけで、気を許せていない。誰かといるときは常にキンチョー気味…。だから、疲れる。ひとりを楽に思う。そんな循環があるように思う(これこそが、ACIMで正すべき幻の原罪だ)。

そして、与えること、受け取ることについても、昔から「ただより恐いものはない」と言われてきたし、ACIMでいうように無自覚ながらエゴの取引的に捉えていたように思う。

また、社会的生き物である人間のコミュニケーション上の潤滑剤のようにも捉えていた、好意を示したり、防御したりするために。つまり与えること・受け取ることを主にツールとしていたように思う。そして、いただいた分はちゃんとお返ししなければいけない。その意味でマナーでもあった。

溢れるような愛からではなかったんだな…。いや、たまには心からあげたいと思ったこともあるし、愛もあったか。

実際に与えたり受け取ったりできるものは真に在るものだけだ。となると愛、平穏さ、静けさ、喜び…といった神の性質だけ…ということになるのかな。

与えることは、自分から減る、ことではない。

受け取ることは、相手から何かが減ってしまう、ことではない。

一元的な見方をすれば、与えることも受け取ることも同じで、分かち合いによって、ますます増幅していく。

なんか取りとめもなく書いてきたけど、今ここからの私のステップは、与えたり受け取ったり、人と分かち合う機会を多くしていくことなのかな、と。そこに行きついた。

「人がこわい」とはまったくACIM的ではない、と気づいた。ACIMを学んで実践しないのではまったく無意味なのだ。

アファメーション

あげよう、受け取ろう。ありがとう、うれしいよ。

(なんとか絞り出したアファメーションがこれだった(>_<))

 

レッスン105-神の平安と喜びは私のものである。

2017-04-28

『「手帳ブログ」のススメ』

2年前ブログを始めてみたいと思った時、最初に読んだ本をざっと読み返した。2006年発刊だから変化が激しいネット社会では化石みたいな本かもしれない。

だけど、ブログ成長期の本だからこそか、自己成長、自己発見のツールとしてのブログの価値を改めて確認できた。書くことによる自己発見はいつの時代でも変わらない。

この本のつくり自体に「コツコツ積み重ねる」ブログから生まれた情報がたくさん盛り込まれていて、画期的というわけではないけど、とっつきやすい良心的なよい本だと思う。

この本の最初の方に、「無理なく書ける4行日記のコツ」という項目があって、
1行目:事実(出来事の記録)

2行目:気づき(その事実について気づいたこと)

3行目:教訓(気づきから導き出されたこと、次の行動の標)

4行目:宣言(目標を達成した後の自分をイメージして宣言)

といったような書き方が紹介されていた。

この4項目でまとめるというのは、私のワーク日記のまとめ方としても使えるかも?と思った。

1.事実⇒そのワークの概要

2と3.気づき+教訓⇒ワークをやってみて気づいたことと、気づきから導き出されたこと

4.アファメーション⇒そのレッスンから浮かんだ自分なりの宣言

みたいな3構成で。実際できるかわからないけど。

自分のためのブログはこの本から始まった。また時おり読み返そうと思う。

レッスン105-神の平安と喜びは私のものである。

このところずっと続いていた「幸福」についてのワーク。レッスン105ではストレートに高らかに「神の平安と喜びは私のものである。」と宣言している。

レッスン105のワークはこの贈り物を素直に受け入れることだ。実相では贈り物は私たちが受け取るにつれて増大する」と言う。

おもしろかったのは、「この世界での贈り物」を「罪悪感でなされる取引」とバッサリ切っているところだ。

そのような『贈り物』は、より高価な見返りを期待してつける指値であり、全額返済されるべき利子つき貸付金であり、贈り物をもらった者がいずれは受け取った額より多く返済しなければならない一時貸与である。」と言い切る。

そんなぁ、それは言いすぎだと思うけど。。とツッコミたくなる。

ACIMの一元性の世界では、与えることと受けとることはひとつであり、受けとるためには与えること。与えればそれは増えるばかりだ。

しかし、二元性のこの世では、「与えれば減る」という観念がある(物質は確かに移るから減るが物質はそもそも幻想だ)。だから与えることが恐れを生み出す源となってしまったので、あなたは贈り物を受け取るためのこの唯一の手段を避けようとしている」という。

レッスン105は、もともと自分のものである神の平安と喜びを「私のもの」と受け取るための「受け取ることと与えること」のワークだ。

ここでは、「平安と喜びを、あなたによって拒否された兄弟のことを考えてみよう」と言い、該当する人が浮かぶたびに、

私の兄弟であるあなたに、平安と喜びを差し出します。

それにより、私も、神の平安と喜びを自分のものにすることができるようになります。」と唱える。

そうして、もともと自分のものである平安と喜びを自分に受け入れる。

ワークをして(気づきと教訓)

このワークは中盤、英語がとくに難しく感じた。

ふと3年前にやったノートを引っ張り出してみたら、「平安と喜びを、あなたによって拒否された兄弟」としてワークの対象に、今回選んだのと同じ人を選んでいた!

赦しのためのソウルメイトといったところかな?なかなか根深いものがある。

本来ならば、そういう心の機微、ひだひだをダイアリーに書けばいいんだろうけど、なかなか(^_^;)

一元性の世界では他者はいない。自体一如だ。

他の人のPeaceとJoyを奪ったり邪魔してはならない。それはとりもなおさず、自分が神さまからのPeaceとJoyを拒否しないことだから。自分にPeaceとJoyの資格を認め胸をはって受け取ることになるから。

これまで心ならず邪魔をしてしまった人たちにPeaceとJoyをお返ししよう。

それによって、神さまと私の通りが良くなる。聖霊さんが活動しやすくなる。

時代劇で「かたき討ち」なんて言葉を昔はよく聞いた(今は時代劇自体が少ない)。けど、かたき討ちでは人は絶対に幸せになれない。討つべきかたきなんて、自分の他にはいないのだから。

でも誰かと接して心がザワついてしまうこと、歳を重ねても日常的にある。とにかく覚えていられたら、その都度修正しよう。

わたしのアファメーション

私には神さまからPeaceとJoyを受け取る資格がある。

レッスン104-私は真に神に属するものだけを求める。

2017-04-27

おとといテレビでやってた北朝鮮の“Xデ-”は何事もなくすぎたらしくて、よかった。木々が芽吹き野良猫がくつろぐこの季節に、そういうきな臭い話は最も似つかわしくない。

そもそも“Xデ-”って表現が気になっている。

それでは、「あるかどうか」ではなくて、「いつあるか」みたいな言い回しじゃないか。

ニュースに煽られたりすることなく、心が鎮まっていることが大事なんだろうな。大きいことでも、小さなことでも、自分の世界に現れることに対して。

レッスン104-私は真に神に属するものだけを求める。

レッスン104は、引き続き「幸福=喜び・平安」のテーマを別の角度から説明している。

喜びと平安は私たちの権利である。

だけど、私たちは神からのギフトとしての喜び・平安ではなく、偽のギフトを後生大事にしているから、神からのギフトが受け取れないでいる。

神からのギフトを受け取るために、「私たちは心の中にある神の祭壇の前の神聖な場所をきれいに片づける。」というのがレッスン104だ。

一言でいうと、心の大掃除と浄化だ。

偽のギフトとは、この幻想のゲンジツの中で自分を幸せにしてくれそうに思えるもの-お金や地位、名声、容姿、若さ、学歴、などが浮かんだ。まだまだいろいろあるだろう。ブランド品・高級品やパワーストーンとかも?

ACIMはそれがいけないと言っているというより、それは幻想にすぎないから、それに惑わされて心忙しくして真の幸福をつかみ損ねるなと言っているのだ。

葛藤を静めて、

私は真に私に属するものだけを求める。

神からの贈り物である喜びと平安が、私の望むすべてである。

と心を整える。

ワークをして

いろいろ葛藤があるし、ガラクタと言われても執着したいものもある。一番は自分の身体というか、自分自身だ。

ACIMの理屈を学ぶことと、それを実践することはまったく別のものだなと思う。

私は圧倒的に実践が足りない。

ワークは理論を学び実践をする手助けにはなるけど、実践ではない。プールで泳ぎを覚えようとしながら、ずっとビート版にしがみついているだけみたいな状態かもしれない、と思った。

それでも、このワークをすると、心が静まり一時かもしれないけど、穏やかな気持ちになった。

心の奥底の純粋なところが感じられた気がする。そこで感じた道しるべこそが真の幸福につながっているのかもしれない。

日々の私は生活の不安定さと健康面からくる将来不安に心がかき乱されている。ACIMワークをやってそれを手放しては、また戻ってくるというくりかえし。この仮初めのゲンジツの世での“対策”が十分取られていないがために強い不安というか恐怖を感じているのだ。

だけど、このワークでは、

「舞台は整っている。好きなようにやってみなさい」といったメッセージのようなものを感じた。恐怖で自分を縛りつけていたら、何もできない。「恐怖を捨てて自由になれ」と言われているように感じた。

制限や問題はそもそも100%自分の観念が作って見せているものだ。心の奥底で感じた道しるべに、もう少し頼ってみたいと思う。

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