レッスン117-レッスン103、104の復習
2017-06-15
夢分析とモラトリアム
昨日の晩は月一度のカルチャーの「ユング心理学講座」だった。2002年の5月から参加させてもらっているから、気づけばもう15年になる。月1度とはいえさすがに15年も受講しているから、人見知りの私でも気をおかずに行ける、数少ないありがたい場だ。
昨日は最近見た夢の分析をしていただいた。
持っていた何枚かの服を捨て置きながら、私が連れと円形劇場に入り込む、観客として舞台を見ていたが、舞台上にいた演出家らしき人に突然話しかけられ、即興でやりとりをする、途中から親戚のおばさんが出てきて完璧な答えを返すという夢(なんのこっちゃ)。
先生はこの夢が、何らかの仕事上のことを意味し、そこでは私が即興でもやりとりができ、私の分身であるおばさんは「完璧な答え」も持っている、とおっしゃった。「あなたが60代位というこの夢の演出家になんか思い当たることない?」と言われ、今、契約をせず無報酬のままお手伝い(?)している会社の社長が思い浮かんだ。
どんなかたちで関わることができるのかわからず、商品化する力がないから、今のところただ言われるがまま打ち合わせや研修に参加したり、ちょっとした調べ物やレクチャーをしたり。自分でも交渉力も企画力も乏しく無能だな、と思う。
一方で、自分に来たものをリアクションモード(受身)でその時できる範囲でただやっていくとどうなるのか、というそのことが、私にとっては実験のような気もしている。
先生は私が無意識では「その仕事に乗り気で自信も持っているのだ」とおっしゃった。自信なく逃げ腰の私には意外だったが、「そうなのか」と少し気が楽にもなった。
今の私は、いろんなことが不確かなまま進んでいる。今だけではなく、これまでの人生自体がモラトリアムのようにも思う。だから、ACIMのようなものに惹かれるのかなと思う一方、単なる「世逃げ」の言い訳にしているのかなと思うこともある。
レッスン117-レッスン103、104の復習
l103)神は愛なのだから、幸福でもある。
愛がすなわち幸福であり、それ以外の何ものも喜びをもたらさないということを、私が覚えていられますように。だから、私はいかなる愛の代替も迎え入れるつもりはない。
l104)私は真に私に属するものだけを求める。
愛は私が受け継いでいるものであり、私はそれとともに喜びも受け継いだ。これらは父が私に与えた贈り物である。私は真に私のものであるすべてを受け入れたい。
ワークをして
ワークの形式が変わっても、いつも同じようなことを感じている・
すなわち、私は心の奥にずっと自己嫌悪を抱えて生きてきたんだ、ということを確認している。
それはもちろん父なる神を蹴って「自分でやるから」と離れてしまったことに対する自己嫌悪だ。
それは実は起っていない勘ちがいだけど、やっかいなのはそれが無意識にあるから、それと知ってもすぐには正しようがないことだ。
自分に認めない(否認)→否認したものを他者の内に見る(投影)
→ゲンジツで心がざわついたり嫌な気分になったり、あるいや嫌な結果を作る
という一連の流れを作ってしまう。
心の中のこの、実はありもしない“悪業”を無に流せるのは、無意識が意識に上がってきた時だけ。つまり、心がざわついたり嫌な気分を感じた時しかない。
これを正しい見方で見て、修正する。
自分に、それは実は起らなかった、起っていないのだ、と教える。
それによって、意識できた分だけ消えていく。
起っていなかったことを赦すこと。そして起っていなかったこと=神と今も共にあることに感謝すること。
こうした修正が必要なことを思い出した。
でも、この考えは、この世で人と関わったり、あるいはただ生きている時でも、すぐに忘れてしまう。そして、ざわざわや嫌な思いを引きずったり深堀りしてしまう。
最近ワークから少し離れていたから、特にそう…。
とにかく止めてしまわず、何とかACIMにつながりつつ、くりかえすことかな?私はACIMのワークはこの世での生きるという実践の上でも役立つと思っているのだから。
アファメーション
愛がよくわからない、愛を意識してみようか。