レッスン25-私は何が何のためにあるのかを知らない

2016-06-16

昨日は15日の夜書いているうちに日をまたいでしまい、16日の日記になってしまった。昨日のワークでは、自分の経済的な「問題」が頭に浮かんできたけど、一方では、それは私自身が、罪悪感や恐れをこの世に映し出して作り出している問題だとも知っている。ACIMではこの世は幻のようなもので実在していないことをくりかえし説いている。しかし、そのこの世に生きている私たち(と思っている私)は、この世のリアリティを否定しては何事も進まないから、そこをこの仮想現実でどうふるまってよいのか、よくわからなくなる(わけがわからないことを書いていないか…(・・;))

今日はレッスン25。

このワークの中心は「自分が自我だという誤った自己認識によって、あなたは何が何のためにあるのかを理解ができなくなっている」というところじゃないかな。

私たちが「私」と認識しているのは「自我」だけど、それは「本当の私」ではない。私たちは自我の観点からものを見てよかれと思う方向に向かっているけど、「本当の自分」から見たら完全に方向性を誤っている。

だから、「すべてについてあなたが自分で設定したゴールを自ら進んで放棄しようという気持ちになることが、あなたの学びにとって決定的に重要なことである」

言うは易し…だけど、これは当然ながら大きな自我の抵抗をもたらす。ワークを始めた最初の頃、多くの者を「あきらめるよう」促されるような気がするのはそのためだ。あきらめるのではなく、ただ意味がないものだと気づいていく、ということなのだけど。

『神の使者』ではゲイリーが、

「ぼくがあきらめたくない物質的なことやこの世の欲望は、真実の代用品として―ぼくが追いかけ崇拝するように―置かれている、すべてが現実だと思い込ませるための偽りの偶像じゃないかな」(2010年発のp212)と言っている。私もそう思う。

今日のワークは、手放すこと自体には踏み込まず、そこへ向かうための第一歩だ。

周囲を見渡して、目に入った対象に対して各々にひとつひとつ目を向け、

私はこのペンが何のためにあるのか知らない。

私はこのパソコンが何のためにあるのか知らない。

…と言っていく。

約2分のワークを6回やった。

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