2018-08-27
暑さが終わったら、今年もおわり~!?と、焦る
お盆を過ぎた頃ふっと涼しい日々があり、「また暑くなるんでしょうけど、私的にはもう夏は終わったと思ってます」と言っておられた方がいた。
私もそれに習って、お盆後「夏終わり、もう秋」とした。
だけど、ここ数日猛暑がぶり返していて、暑い…。
また、暑い、暑い…と言って、そのうち涼しくなったと思ったら、今年もあと○○ヶ月ですね、となって、ハロウィーン、クリスマス…と商戦で町が賑わい、あ゛~、今年も終わり…だ
…と、焦る(*_*;
なぁ~んにも、してない、、、私。
時間なんて、意味ないはずなんだけど。
暑くても、できることやろう。
ACIMワーク200-神の平安のほかに平安はない。
レッスン200は、私たちは常に平安を求めているが、それを探す場所を間違えている、と言っている。
世間的に、平安につながると思われている、社会的な成功や達成、名声、権力、おカネ、美貌、魅力…、そうしたものは、一時的な快楽や喜び、興奮を与えてくれるかもしれないが、私たちが心から求める永続的な幸福感や平安をもたらしはしない。
平安は神に拠らねば満たされない。
…と言っている。
なぜなら、そうとは見えなくても、神以外はすべて幻想だから。錯覚にすぎないのだから。エゴの煙幕にすぎない。
だから、そうしたものに惑わされて無為にさまようのではなく、ダイレクトに平安の源である神に拠りなさい。
そのために、赦しなさい。
幻が、本来ではありえない不安や恐怖、罪悪感、嫉妬、怒りが自分の心の内にあるのを見せてくれた時には…。
それが、錯覚から正気を取り戻す唯一の道なのだから。
常に同じ中身だけど、たぶんこういうことを伝えているのだと思う。
要は、渦中でも赦しを思い出すこと
やはり、要は赦しなのだ。
「赦しは何をするのだろうか。真理においては、それは何の機能もなく、何もすることもない。なぜなら、赦しは天国では知られざるものだからである。
それは地獄においてのみ必要とされ、そこでは強力な機能をする。」(L200-6-1,2,3,4)
「神だけが確かであり、神が私たちの歩みを導く。」(L200-9-4)
神様だけが現実。そのための赦し。
この考え、自分としては「わかっているつもり」だけど、それも「何かが起こるまで」。
何かがあると、不思議とこの世が幻想とは思えなくなる。
一瞬で圧倒的ゲンジツ感の渦中に巻き込まれ、神さまはぶっ飛ぶ。
そして、その時の自分の感情が正当なものと感じられる。
そして、ワークの中身が遠くおぼろげになる。
不思議。
だからこその、ワークであり、練習なんだろうけど.
今ここでは、まず「暑さ」を赦すことかしらん?
「忙しさ」について感じたこと
このワークをやっていた時、「忙しさ」についても感じるところがあった。
忙しくしないこと。
「忙しくするのは、電車の中で走っているようなものだ。」と。
これも、社会的な一般論とは異なるから言いにくいところはあるけれど、忙しさをよしとする背景には、神を忘れる、死を忘れる、罪悪感を晴らす、といった無意識の目的があるのかもしれない。
平安でいいのだ。
頑張らなくても、忙しくしなくても、ありのままで平安でいいのだ。
これを実践してみたい。けど、まだ怖くもある。