ACIMレッスン195-愛は私が感謝の内に歩む道である。

2018-08-06

ACIMレッスン195-愛は私が感謝の内に歩む道である。

レッスン195のテーマは、「感謝のうちに愛の道を歩むこと」。

引っ越しの直前と、引っ越し後1ヶ月余りのブランクの後にやっていたワークで、ワーク時「難しい」と感じていたが、改めて読んでも難しく感じた。

感謝と不平不満は対極にあると思う。

私は元々グチっぽく不平不満が多い質だ。気づけば、何かしらに不具合や不満を感じている。

つまり、感謝が下手だ。

ACIMと出会い、ようやく下手なりに、感謝を学び、練習している。

真の感謝は、神とひとつであることに対して捧げられる

レッスン195には、この世における一般的な感謝と、真の意味での感謝の両方が書かれている。

この世での感謝は、「せいぜい自分自身が他人よりましな状態にあると見なすこと」だという。つまり、他人の苦痛を根拠に感謝するのだと。

これは、平安や豊かさにはかぎりがあって、それを私たちが同胞と奪い合っているという見方をベースとしている。

兄弟があなたよりも不自由だからといって、それはあなたが神に感謝を捧げるべき理由にはならない。また、自分より彼のほうが自由であるように思えるという理由であなたが怒りを感じることも、正気の沙汰ではない。」(L195-4-1)

ACIMが言うところの感謝については、次のように説明されている。

私たちは一つのことについてのみ、父に感謝する。すなわち、生きとし生けるものから私たちは分離しておらず、だから神とひとつであるということだけに感謝する。」(L195-6-1)

さもなければ無に対して感謝することになり、神から私たちへの贈り物を認識しそこなうからである。」(L195-6-2)

この一般的に言う感謝と、ACIMの「神とひとつであるということだけに感謝する」という感謝の違いが、わかるような、わかっていないような?

私は、希望する住まいがなかなか見つからなかったが、今のマンションに出会えて契約できたことをとてもありがたいと思っていたけれど、その気持ちは感謝と言えるのだろうか?

自分ではそのつもりでいても、単に物質的なものに対する満足にすぎないのかもしれない。

愛は感謝以外の道を歩くことはできず、私たちもそのように進んでいく

愛は比較しない。そして、感謝は、愛とつながっているときにのみ、真摯なものでありえる。」(L195-4-2)

感謝とは、すべての被造物の源である愛の一つの側面にほかならないからである。」(L195-10-3)

「愛」も「感謝」も抽象的で、実感としてはよくわからない。

でも、こういう時思い出すのは、「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」といった文言。

『なまけ者のさとり方』という本のなかにあった。(そんな気がしていたけど、本をぺらぺらめくってみたけれど、見つけられず。勘ちがいか?)

「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」

「感謝することがわからなければ、そのわからない自分に感謝しなさい」

感覚としては間違っていないと思う。

レッスン195の最後の文、「神に対するあなたの感謝は、あなたに対する神の感謝とひとつのものである。愛は感謝の道以外の道を歩くことはできず、神への道を歩む私たちも、そのように進んでいく。」(L195-10-5,6)

とても深い。

あまりに崇高で、恐れ多い。

 

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