「聖霊の声が聴こえない」と言うのはやめよう、っと

2018-08-04

今朝、散歩して帰ってシャワーを浴びていた時、ふと気づいた。

私、ここに聖霊さんの導きで来たんだった…

今住んでいる家を見つけたのは「父が私の家を作ってくれている夢」を見た日。

夢の中の父は亡き父であり聖霊の象徴でもあると感じた私は、現住まいを聖霊の導きによるものだと感じていたのだった。その思いはこのブログでも書いていた。

昨日「聖霊の声を聴けているかよくわからない」と書いたけど、少なくともここへの引っ越しはメッセージがキャッチしてのことじゃぁ?

せっかく聖霊さんが私でもわかりやすいように夢のメッセージを送ってきてくれて、それで満足できる転居が実現したというのに、「聴けているかわからない」じゃあ、失礼ではないか。

実際、聖霊のメッセージを受け取るぞ、と心に耳を澄ましても、よくわからないのは事実だけど、一刀両断で「わからない」では恩知らずだと思った(「罰あたり」ともいうが、これはACIM的ではない)。

この引っ越しPが私にとってすごくラッキーだったのは、旧居が築40年になる古い物件だったにもかかわらず東京五輪決定後、土地代が上がったらしく、買った時よりもかなり高く売れたこと。

仲介料や登記料など諸々の諸経費を引いても「利益」が出たので、感じていたおカネの不安(パニック)が治まっている。

仕事と収入が不透明で先が見えない私に、いろんな意味で猶予が与えられたのだ。

「私は未来を神の手にゆだねる。」

このレッスン194に身をゆだねる絶好の機会ではないか。

聖霊のメッセージがわからない、は織り込み済みで。

聖霊の声が普通に会話するように聴けたら、それはまた別のはなしだ。

聴けなくても、聖霊はさまざまな方法で私に呼びかけてくれている。

そのことを信頼して耳をふさごうとするのではなくて、真摯にキャッチする気持ちで心にその場を作っていたら、どうだろう。

少なくとも「聖霊の声が聴こえない」と声高に訴えるのはやめよう、と思った。

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