ほぼほぼ自我の私の恐れ

2021-03-04

「紀元前・紀元後」

ふと、2年前のちょうど今頃ゲイリー・レナ―ドさんのワークショップを見つけて参加申し込みをしたんだった…と思い返していた。

ふりかえると、ゲイリーさんのワークショップに参加する前と後では、私の『奇跡講座』学習環境が大きく変化した。私の中ではまるで「紀元前・紀元後」くらい感覚的な隔たりがある。

参加当初は、初めて会うゲイリーさんにドキドキし、また初めて生身の学習者の方々を見てこんなみんな熱心に勉強しているんだ、と目を見張った。

それから、奇跡的にトベちゃんに声をかけてもらえて数人でお茶した。

それがきっかけで、すでにワプニック先生のACIMテキスト解説本『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』をひとり読み進めていたMさんから、「いっしょに読んで定期的にシェアしない?」と提案があって、この電話帳みたいな本が私の世界に登場した(今は電話帳も死語かな)。

学習仲間と、テキスト解説本…。

この2つが、私の2年間に与えた影響はものすごいでかい。ある意味2年間パニくってたような。

こうした展開の扉がゲイリーさんのワークショップに参加したことで開かれたと思うと、何だか感慨深い。

自我の恐れ

ワプニック先生の本、なかなか進まないけれどこれまで読んだ章に幾度となく、自我の恐れ(贖罪の原理に対する恐れ、贖罪を選ぶことに対する恐れ、一体性を選ぶことに対する恐れなど)についての節が出てきた。

手を変え品を変え、同じことが述べられている。

で、ようやく自我と一体化している自分の中のその恐れをチラ見しつつある。

自分の肉体にも執着はある。でも、霊魂のようなものが肉体を抜けるイメージまでは許容できる。

でも「自分」(個)はそもそもない、というのに抵抗がある。

肉体を抜け出て目に見えなくなっても「私」があってほしい。もし、別の肉体のなかに入ることになっても…と思っている自分がいる。

ワプニック先生が解説本8章2節で「自分を自分たるものに特徴づけている考え、感情、経験といった特別性を失いたくないから(智識を望ましいものではないと本音では捉えている)」と説明なさっていたとおりだ。

「我思う、ゆえに我あり」の「我」がぐずっている。

神の子はたったひとり…、そもそも「私」も「我」もない。

ワプニック先生解説本をちくちく読んで、何度もくりかえし自我の抵抗について読み、自分の抵抗感をぼわ~んと重く感じている。

何年間か『奇跡講座』を勉強してきたつもりだけど、私はほぼほぼ自我だ。

その自我が恐れている。

停滞しているのかもしれない。

あるいは少しだけ進んだのかもしれない。

 

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