2019-09-18
心の中で過去を手放さなければ、実相世界は知覚できない
レッスン288「今日、私が兄弟の過去を忘れることができますように。」に引き続き、過去を手放すよう促すワーク(のようだ)。
「それ(過去)が私に触れることはできない。」とは、おもしろい表現だ。日本語では思いつかない言い回しだ。英語では…?と見てみたら「It can touch me not.」だった。過去は私に触れない…。
今目にしているものだって、自己映写機がスクリーンに映し出した妄像だ。過去はさらに妄像のなかの妄像なのか。過去から今を自分ストーリーだと根強く思いたい私ー。
「私の心の中で過去が過ぎ去っていなければ、私の視覚は実相世界を捉えることはできない。私が見ているのは、実は存在していない場所である。存在していないものだけが私に見えている。」(W-pⅡ.289.1:1-2)
「それでどうして赦しが差し出す世界を知覚できるだろう。その世界を隠すためにこそ、過去が作り出された。それは今という時にのみ見ることができる世界だからである。」(W-pⅡ.289.1:3-4)
「その世界に過去はない。赦されるべきものは過去だけであり、赦されたなら、過去は過ぎ去るからである。」(W-pⅡ.289.1:5-6)
そうだな~、そうだな~と思い、書き写していたら、1節全部になってしまった。
今はどこに?…過去と未来の間を揺らぐ
実相世界を見せないようにするために過去が作り出された。そうならば、過去に執着がある私はまんまとそのプロデューサー、エゴ氏の思うツボにはまっているわけだなぁ。
過去は常に「罪悪感」と結びついている。未来が「不安感」と結びついているように。
私はつねに「過去の罪悪感」と「未来への不安感」の間で揺れており、「今」には実はほとんどいないのかもしれない。
ここをクリアしないと、いつまで経っても、回り灯篭が映し出す絵を見続けて彷徨っているわけだな~。回り灯篭はきれいでいつまでも見ていたい気もするけどずっとじゃなぁ。
どこか、昔がこうだったから→今こうなった、と思っている自分がいるけれど、その因果も手放さないとなぁ。過去-今―未来軸への依存度を和らげないと、実相はいくら経っても知覚できない。
最近よく「歳だから、衰えた」と思うことが多いけど、これもほどほどにしておかないと時間ゲームに閉じ込められるなぁ。
でも、この世にはこの世なりの因果と思えるものもたくさんあるし、その因果をもとに「社会生活」というものが成り立っているから、その感覚の兼ね合いみたいなものがむずかしいな。
少なくとも、ACIMのことを考えるときには、今にいよう。
「父よ、存在していない過去を私が見ることがありませんように。」(W-pⅡ.289.2:1)