わんわん泣きながら、少し溶ける

2019-09-12

「すべてがユルい春子の日記」で涙!?

今朝、すっかりファンになっているブログ「すべてがユルい春子の日記」を読んで、なぜか涙が出てきた。そして気づけば、声をあげてわんわん泣いていた(深夜に更新されるブログ、展開ぎ気になりそれだけ朝イチで見ちゃう)。

どこに反応したんだろう?こんな声をあげて泣いたの、いつぶり?

ふとしたことがきっかけで急に怒り出すひとがいる。心の地雷を誰かに踏まれちゃたんだろう。今朝の私は、その“涙版”みたいだった。

春子さんは57歳。独身。ひとり暮らし。いわゆる自分探し、ライフワーク探しを経て、この春から某芸術大学受験を目指し先生に付いてピアノレッスンを再開している。どうも13歳のときに親に急にピアノを止めさせられたというそのことが内なる心のしこりで、還暦も近づいた今、そこに立ち戻って自分育てをしているようだった。

私はふとしたきっかけで、4月頃からこのブログを知って読み始めた。

春子さんの「44年ぶりの和解」

今朝読んだ記事は、「44年以上も不和だったヒトとの和解」。

子どもの頃習っていた「怒ってばかりいた」ピアノのS先生に対する気持ちが、ピアノレッスンを再開したことで変わってきたこと。その気持ちの気づきを、

「要するにワシはあのS先生のことがすごく好きだったんだと気がついた。

とても好きなヒトに怒られて悲しかったんだよね。
ごくたまーに先生の笑顔を見たら、すごくうれしかったのを思い出した。

そしたらさ、S先生はもしかするとワシのことをそれなりに案じてくれてたのかもしれないって思った。
怒るのもタイヘンだもんね。そんなに怒るって、じつは愛情だったのかもしれない。先生なりに私のことをかわいがってくれたんだよね。」と。

「“和解”というのは“終活”のメインテーマでしょ?
だから、ワシのココロに宿っているS先生がやっとにっこりしてくれて、ようやくホッとしたよ。…S先生からは卒業だね。やっと。」とも。気づかせてくれた今のピアノの先生に対する感謝とともに書いておられた。

それが「44年ぶりの和解」だ。

春子さんブログのどこに反応したのか

いったい私はこのブログ記事のどこに反応したんだろう?

その昔とっても怖かった自分の母とS先生を重ねたんだろうか?

何度か(何度も?)ブログで書いているが、私は物心ついた頃からとても母がとても怖しく、表面上は言うことを聞きながらも、ずっと心のなかでは憎んでいた。そして中学生頃、「大人になったら絶対に仕返ししてやる」と心に誓った。

そして、60近くになった今振り返れば、自分の人生の前半は“仕返し”だった。ヤンキーがグレるみたいな派手なことはできない。私は、親が望むような人生を歩まない、自分が幸せにならない破滅的な人生を選ぶ、ということで、自分では気づいていなかったが、復讐を果たしていたのだ。

30代半ばから「それではいかん」とカウンセリングを学んで自己治癒に務めた。奇跡講座を知って、こういうことのすべてが「神との分離」とそれにまつわる罪悪感と恐怖の投影であり、「それは決して起こらなかった」と学んだ。

すべては、赦しの対象だ。母との関係はずいぶんよくなった。

しかし、心の奥底にある幼少期の「被害者意識」と、復讐してしまったという「加害者意識」は、無意識のなかにまだまだあるようだ。

それが、春子さんの「44年ぶりの和解」を読んで、なんかのボタンが押されたみたいに上がってきて、涙になったらしかった。

春子さんがS先生にいだいた気持ちとおんなじ。私もおかあさんが大好きだったし、他の大人に見せる笑顔をいいな、眩しいなと思っていた…

何かが溶けて流れた

大正生まれだったというS先生はおそらくもうご存命ではないのだろう。春子さんの心の見方が変わったことで、心の中のS先生が変わった。ゆるせた。それを和解と書いておられる。

この「ゆるし」は、この世をこの世のまま捉えたもので「許し」なんだろうけれど、どこか「赦し」にも通じているように感じる。“終活”と絡めておられるからだろうか。

私は、春子さんとどこかシンクロしゃっているのか、春子さんが「ココロに宿っているS先生がやっとにっこりしてくれて、ようやくホッとしたよ。」と言っておられるのを見て、幼少期の辛かった被害者気分の自分と、大人になってから自分も周りも幸せにしなかった加害者としての自分を思い出した。そしてわんわん泣いているなかでその両方が溶けていった。それは手放していいんだ。本当は起こってはいないのだからー。

そして癒された。

エゴを明け渡す覚悟がない…と昨日書いたわけ

ここまで書いて、『Journey through the Text of A Course in Miracle』8月分の備忘録(8月31日日記)のワプニック博士の言葉を思い出した。

第1巻P31「後に続く章は確かに難しい内容です。というのは、そこでは私たちは罪悪感でいっぱいの自我の思考システムの汚水に飛び込むよう求められているからです。さらには特別な関係の殺人を目にすることになり、時にそれは身の毛もよだつほどこと細かく描写されているからです。加えて、私たちが被害者である状態とは実のところ何を意味するのかを暴露しています。それは苦しんでいる私たちが自ら自分につけた仮面なのだと。」

そうだ。私、これを恐れていたんだ。

だから、昨日「ACIM学習者のはしくれですらないかも」と、自分のエゴを見てそれを明け渡す覚悟なんてない…と書いたんだ。

でも、もしかしたら、聖霊さんはそんな私を春子さんのブログを使って導いてくれたのかもしれなかった。

自分じゃ、自分のエゴを覗けない。恐ろしすぎる。そう思っていたけど、あまり自分だけで何とかしようと思わずゆっくり旅を続けようと思う。

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