『Journey through the Text of ACIM』⑥-第1章(p35~36あたり)

2019-09-03

8月まとめー時間切れで間に合わなかった分を

一昨々日、『Journey through the Text of A Course in Miracle』の8月分備忘録を書きなぐっていたのは、当日行われるシェアの会の自分なりの準備だった。

原文を英語のまま読んで感想が持つのが望ましいのだけど、英語が暗号にしか見えない私は「英語→日本語→自分にとってのポイントを感じたり考えたりする」という要領が悪いことをしていた。そして、8月帰省があったり趣味の色えんぴつ画の展覧会があったりして時間がさけなかった私は、ぎりぎりまで和訳に時間を費やしていた。

そしたら、そこから「考える・感じる」のが、シェア当日の朝になってしまった(実のところは、ほとんど考えたり感じたりできなかった)。

こういうのを本末転倒とか、目的と手段が混同するとかいうんだろう。私はよくこれをやる。

で、訳はしてあったけど、時間切れで“まとめ”に入りきらなかった分を。

1-5 Atonement(贖罪)

感想ってほどのこともない、ざっくりしたまとめ。

贖罪

p35「『贖罪』とは、自我が為したことを取り消す聖霊の『計画』を意味します。」というワプニック先生の定義づけから始まり、「(贖罪は)訂正の原理の経験であり、自我の思考システムの統治を終わらせます。その計画は、一見分離した断片のように見えている一なる子がそれぞれ赦しのレッスンを完成させるよう要求します。次章ではそれは『自分自身に贖罪を受け入れること』だと説明されています。」と説明がある。

そして、

「赦しのプロセスの集大成である贖罪は時間と空間の世界で経験されますが、その源は時空を超えたものです。」

「『取り消し(undoing)』という語句はこのコースにおいて極めて重要ですが、ここで初めて登場します。」と続く。

p35「私たちの問題はすべて幻想であり、分離の錯覚に起因するので、真の意味で修正が求められているわけではありません。単に『元に戻す』だけです。」

今私たちはこの世で幻想をリアルにしてしまっているが、それを幻想を見ているだけだと知ることで「元に戻し」、神の子としての“ありのまま”の自分を認識するのだという。

p35「贖罪は肯定的なことは何らしません。私たちの心を変えることによって、贖いという聖霊の修正は、私たちがすでにすべてを持っていることを思い出させないようにしている障害を取り除きます。」

(IV.3:6-7)贖罪の目的はあなたに一切を復帰させることである。というよりも、それをあなたの自覚に復帰させることである。他の誰もがそうであるように、あなたが創造されたとき、あなたには一切が与えられている。

ここでワプニック先生が強調しているのは、「修正されるのは、欠乏そのものではなく、幻想であるはずの欠乏を実在させている私たちの信念なのです。ですから、神が創造なさった御子としての本質的な完全性を蘇らせるというよりは、単に私たちは神の子であり生まれながらにして完全であるというその真理に気づくことです。」という点。

要するに、何かするべきことがあるのではなく、「信念を捨てること」「気づくこと」こそが大事だということだ。

(I.34:1-2)奇跡は心を満ち足りた状態に戻す。欠乏を贖うことにより、奇跡は完璧な保護を確立する。

私たちが聖霊の代わりに選んだ自我の思考システムの中核には「欠乏の思考システム」があり、そのため、p36「私たちには何かが欠けているという根幹的な信念があり、そのため不足しているものを何かで埋め合わせる必要性があるのです。」

欠乏を贖う…とは、「神との分離」とそれによる「罪の意識」と「神からの報復」という誤った信念によって欠乏感を現実化してしまっている私たちが、「その信念はまちがいだったよね」と理解して信念を手放すことをさしている。それによって、鏡の曇りが取り払われ、自分の「完全性」がわかる、という。

p36「奇跡も赦しも私たち自身の歪んだ知覚を取り消し、真の神の子としてのアイデンティティーの自覚を回復してくれます。それは、神の子である私たちはすべてを持っているので必要とするものは何もないという自覚です。」

(VI.2:1-2)神からの分離という感覚だけが、あなたが真に正すべき唯一の欠乏である。この分離の感覚は、あなたが真理についての自分の知覚を歪め、それによってあなた自身に欠乏があると知覚したのでなければ、決して生じることはなかった。

p36「訂正を行うにあたっては、『そのレベルに合わせて』なされなければなりません。」とあったが、ここら辺は私には難しかった。

つまり、訓練されていない知覚のまま世界や肉体をリアルにしている者にとっては、訂正は肉体を持つ同胞から同じ同胞への赦しだと認識されるが、本当に訂正がなされるのは心のレベルだということだ。そして訂正をなすためイエスに助けを求めるようにとおっしゃっている。

p36「時空の世界、肉体の生と死の世界は、単に自我の思考システムの非現実的な投影に過ぎません。イエスに助けを求めることで原因となっている心の機能に対する認識が促され、本当の問題である想念(あるいは信念)、すなわち『分離の感覚』を取り消すことができます。それによって、分離を贖いへ、攻撃を赦しへ、自我を神へと換えていけるのです。」と。

贖いは心のレベルでのあり方の訂正→自我に飲み込まれそこから見ている者が自分の知覚だけを頼って行うのは困難→だから、聖霊の力を頼みにしなさい、と言っているようだ。

自分で何かを行おうとするのではなく、「自分」を脇に置き、「ありのままに見ることができますように」と祈り心を静めていること、、、なのかな?

「私」の担当は、しかるべき時にできれば「赦し」を、だけで、あとは聖霊さんにお願いしておまかせ、、なのかしらん?

この「お願い」「おまかせ」の感覚が難しい。

つい、いらん何かして邪魔をしてしまうような…

私の場合、何もしなければ浮いていられるはずの海で、パニックになってバタついて溺れて沈んでしまう…みたいな状況になりがち。

とりあえず8月分はこれでおしまい。気づけば9月が始まってる。

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