ACIMワーク276-私が語るようにと、神の言葉が私に与えられる。

2019-07-14

ACIMワーク276-私が語るようにと、神の言葉が私に与えられる。

神の言葉とは何だろうか。それは、『私の子は私自身と同じように清らかで神聖である』という言葉である。」(W-pⅡ.276.1:1,2)

自分が神の愛の中で創造されたことを否定するなら、自分の真の自己を否定することになる。

自分が誰なのか、誰が父なのか、何のために私たちはきたのかについて、確信がもてなくなる。

だが、私たちを創造したときにご自身の言葉を授けた神を認めさえすれば、私たちは神を想起し、自己を思い出すことができる。」(W-pⅡ.276.1:6,7)

このレッスンは私には何となくぼんやりとした感触で、曖昧にやりすごした。

こういう時は1回目のワーク時(2015年6月)のノートを見てみよう。

このワークをした時のメモとして、

「私は自己表現(自分の思いを伝えること)に恐れがあるんだな~。」とあった。そして、

「表現した時には、つい相手を責めることになってしまいがち。

相手を責めたり怒りをぶつけたりすることなく、自分を大切にする方法を学びたい。」とあった。

「責めたり怒りをぶつけたりすること」と「自分を大切にする」とがどうつながるのかよくわからないが、こう感じたらしい。

背景には、当時通っていた歯医者さんで歯科衛生士さんに付けていただいた仮歯が8回も取れてしまって、そのたびに料金も払っていることに腹を立てていた(最終的には10回も取れた)。他の歯科衛生士さんにやってほしいと言いたかったが、飲み込んでしまい伝えることができないでいた。

自己表現に自信がない、恐い、は、この時に限らず言っている。

神の子であることの否定というより、ありのままの自分でいることへの否定が根深くて、いつも(本来の自分ではない)何かにならねば、とやってて、自分のモノサシや軸がふにゃふにゃなのだ。

今はどうだろう?

相変わらず、かな?

真の自己=神に創造された自己

この感覚も最近はなんか曖昧になってきている。

ありゃりゃ…

わからなくなったときの定番…『神の使者』をまた通読しようか。

ひきこもりではあるんだけど…

昨日はWordpressもくもく勉強会に参加。昨日のブログもそこで書いた。

先々月このブログにまっさらなテーマ(テンプレート)を上書きしてしまい、懇親会の席で主催者さんに1時間かけて直していただいたという、大失態をしでかした勉強会だ。

前月は都合で行けなかったから、今月はぜひとも行けねば、と出かけた。今月参加して、改めて「ありがとうございました」と言わなければ、もうこのもくもく会には行けなくなるような気がしたのだ。

とりあえず行けて、主催者Yさんと「また次参加することが感謝を表す一番の方法だよ」とアドバイスくださったWさんにお礼を言うことができた。ほっとした。

先週のNishikiもくもく勉強会に参加されたOさんもお見えで、WさんやOさんとたわいないおしゃべりをしていたら、何だかすごく楽しくなってしまった。

あまりにも幼いと言えば幼いが、近年社会的な自分のあり方がわからなくなっていてずっと内向きでいたけれど、私は実はけっこうおしゃべり好きでもっと人とも関わりたいのかもな~、と思った昨日だった。

ACIMと出会ってなかったら、この社会でどうしていただろう。

何がわからないのかわからないのだけど、なんかぼわーんとしている。

“肺の影問題”をとりあえず棚上げというか先延ばしにできて、安堵して疲れが出ているだけかもしれない。

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