背筋を伸ばし、肩を下げて胸をひらく

2018-08-07

「姿勢を正せ」というメッセージ

「聖霊の声が聴こえないと言うのはやめよう」っと決めた。聖霊からのものかどうかわからなくとも、心にアンテナを立ててそれに従ってみようと。

私がワークでくりかえし“聖霊の声”として感じていたのは、「姿勢を正せ」ということだ。

いつ頃から感じていたのか、ノートを振り返ってみたら、今年の2月にはすでに「ワーク中感じたメモ」に、「姿勢を正す」と記されている。

「私たちは肉体ではない」と教えるACIMの導き手である聖霊が、体についてのアドバイスをするかな?と思っていた私は、さほど気にも留めていなかったけれど、その後何度もくりかえし感じた。

聖霊でなくとも、私が無意識に感じていた必要性が表面化したのかもしれない。

4月には、より具体的に、「猫背を正して背筋を伸ばす←そのために体幹を鍛える←そのためにダンベルDVDを再開(そのDVDには腹筋運動も組み込まれている)」と感じ、なんとか再開したものの、なんとその翌日ぎっくり腰に。

そのまま、ダンベル再開プランは頓挫していた。

猫背は防御であり戦闘態勢!?

先月の引っ越し後に再びぎっくり腰になりそのまま腰痛が慢性化している。やはり体幹を鍛えねば。

家でできる腹筋体操付きダンベル、そろそろ再開したい。

最近のワークでは、さらに、「肩を下ろせ、胸を開け」というようなことを感じた。

それによると、私が猫背なのは、それ自体が防御であり、戦闘モードで身構えているのだと。

そして、私は上がり症で緊張しいなのだが、それについて「身構えるから、テンパる」と指摘(されているように感じた)。

猫背になっていると気づいたら、意識的に肩を下ろして胸を開くこと、と。

そう言われてみれば、さもありなん。

その後、猫背になっているとか、テンパっていると気づいた時、意識的に肩を下げて深呼吸するようにした。

姿勢が変わると周りも変わる?

これは、効果てきめん。

一拍置くことで気が落ち着く。

驚いたのは周りの対応が変わること。少し丁寧に扱われるのだ。

おそらく肩を下げて胸を開いた姿勢が、猫背でうつむき加減より自信があるように見えるからかもしれない。

凛として静かで、涼やかであれ。

姿勢を正せというのは、姿かたちというより、在り方なんだろう。

出所はわからなくても、適用はできる。

感じてよさげと思ったことは、やっていこうと思う。

ACIMレッスン195-愛は私が感謝の内に歩む道である。

2018-08-06

ACIMレッスン195-愛は私が感謝の内に歩む道である。

レッスン195のテーマは、「感謝のうちに愛の道を歩むこと」。

引っ越しの直前と、引っ越し後1ヶ月余りのブランクの後にやっていたワークで、ワーク時「難しい」と感じていたが、改めて読んでも難しく感じた。

感謝と不平不満は対極にあると思う。

私は元々グチっぽく不平不満が多い質だ。気づけば、何かしらに不具合や不満を感じている。

つまり、感謝が下手だ。

ACIMと出会い、ようやく下手なりに、感謝を学び、練習している。

真の感謝は、神とひとつであることに対して捧げられる

レッスン195には、この世における一般的な感謝と、真の意味での感謝の両方が書かれている。

この世での感謝は、「せいぜい自分自身が他人よりましな状態にあると見なすこと」だという。つまり、他人の苦痛を根拠に感謝するのだと。

これは、平安や豊かさにはかぎりがあって、それを私たちが同胞と奪い合っているという見方をベースとしている。

兄弟があなたよりも不自由だからといって、それはあなたが神に感謝を捧げるべき理由にはならない。また、自分より彼のほうが自由であるように思えるという理由であなたが怒りを感じることも、正気の沙汰ではない。」(L195-4-1)

ACIMが言うところの感謝については、次のように説明されている。

私たちは一つのことについてのみ、父に感謝する。すなわち、生きとし生けるものから私たちは分離しておらず、だから神とひとつであるということだけに感謝する。」(L195-6-1)

さもなければ無に対して感謝することになり、神から私たちへの贈り物を認識しそこなうからである。」(L195-6-2)

この一般的に言う感謝と、ACIMの「神とひとつであるということだけに感謝する」という感謝の違いが、わかるような、わかっていないような?

私は、希望する住まいがなかなか見つからなかったが、今のマンションに出会えて契約できたことをとてもありがたいと思っていたけれど、その気持ちは感謝と言えるのだろうか?

自分ではそのつもりでいても、単に物質的なものに対する満足にすぎないのかもしれない。

愛は感謝以外の道を歩くことはできず、私たちもそのように進んでいく

愛は比較しない。そして、感謝は、愛とつながっているときにのみ、真摯なものでありえる。」(L195-4-2)

感謝とは、すべての被造物の源である愛の一つの側面にほかならないからである。」(L195-10-3)

「愛」も「感謝」も抽象的で、実感としてはよくわからない。

でも、こういう時思い出すのは、「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」といった文言。

『なまけ者のさとり方』という本のなかにあった。(そんな気がしていたけど、本をぺらぺらめくってみたけれど、見つけられず。勘ちがいか?)

「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」

「感謝することがわからなければ、そのわからない自分に感謝しなさい」

感覚としては間違っていないと思う。

レッスン195の最後の文、「神に対するあなたの感謝は、あなたに対する神の感謝とひとつのものである。愛は感謝の道以外の道を歩くことはできず、神への道を歩む私たちも、そのように進んでいく。」(L195-10-5,6)

とても深い。

あまりに崇高で、恐れ多い。

 

「聖霊の声が聴こえない」と言うのはやめよう、っと

2018-08-04

今朝、散歩して帰ってシャワーを浴びていた時、ふと気づいた。

私、ここに聖霊さんの導きで来たんだった…

今住んでいる家を見つけたのは「父が私の家を作ってくれている夢」を見た日。

夢の中の父は亡き父であり聖霊の象徴でもあると感じた私は、現住まいを聖霊の導きによるものだと感じていたのだった。その思いはこのブログでも書いていた。

昨日「聖霊の声を聴けているかよくわからない」と書いたけど、少なくともここへの引っ越しはメッセージがキャッチしてのことじゃぁ?

せっかく聖霊さんが私でもわかりやすいように夢のメッセージを送ってきてくれて、それで満足できる転居が実現したというのに、「聴けているかわからない」じゃあ、失礼ではないか。

実際、聖霊のメッセージを受け取るぞ、と心に耳を澄ましても、よくわからないのは事実だけど、一刀両断で「わからない」では恩知らずだと思った(「罰あたり」ともいうが、これはACIM的ではない)。

この引っ越しPが私にとってすごくラッキーだったのは、旧居が築40年になる古い物件だったにもかかわらず東京五輪決定後、土地代が上がったらしく、買った時よりもかなり高く売れたこと。

仲介料や登記料など諸々の諸経費を引いても「利益」が出たので、感じていたおカネの不安(パニック)が治まっている。

仕事と収入が不透明で先が見えない私に、いろんな意味で猶予が与えられたのだ。

「私は未来を神の手にゆだねる。」

このレッスン194に身をゆだねる絶好の機会ではないか。

聖霊のメッセージがわからない、は織り込み済みで。

聖霊の声が普通に会話するように聴けたら、それはまた別のはなしだ。

聴けなくても、聖霊はさまざまな方法で私に呼びかけてくれている。

そのことを信頼して耳をふさごうとするのではなくて、真摯にキャッチする気持ちで心にその場を作っていたら、どうだろう。

少なくとも「聖霊の声が聴こえない」と声高に訴えるのはやめよう、と思った。

ACIMレッスン194-私は未来を神の手にゆだねる。

2018-08-03

ACIMレッスン194-私は未来を神の手にゆだねる。

これも6月中旬の引っ越し前にやっていたワーク。引っ越しが差し迫ってばたついていた頃で、ワークもどこか流していた。

改めて本文を読んでみたら、シンプルだけどとても重要な概念だと感じた。

ACIMは表現や視点をさまざまに変えながら同じ原理原則を説明しているが、誰にでも、響きやすく、とくに真実を思い起こさせてくれる表現があると思う。

私は未来を神の手にゆだねる。

私にはこれが響く。

そうすれば、あなたはあらゆる不安や地獄や絶望の間も、罪の想念も、罪悪感がもたらす荒廃も。すべて通り抜けたことになる。」(L194-2-1)

ただ未来を手放し、神の手にゆだねることだけが求められている。」(L194-4-5)

頭ではわかってもなかなかできない。

考えただけで、不安になってしまう。

頑張らないと、身構えていないと、疑わないと、とんでもないことになってしまう、という“常識”もある。

そして、やっぱり私の場合、根っこに罪悪感と恐怖があって、「そんなお気楽でいいのか(神の手にゆだねることが、お気楽とは言えないが)」「何バカなこと言っているの?」「自分が頑張らないことの言い訳でしょ」という、内なるエゴの声がする。

エゴの声だけを聞いて従うには、ACIMの考えも浸透してきており、宙ぶらりん。どっちつかずだ。

「未来を神の手にゆだねる」のに、聖霊の声を聴きわけること

引っ越しを済ませ新居に移り、物もたくさん処分してきた。引っ越し後の家も片づいてきた。

仕事もしていない。

今私には、空きスペースができつつある。

この空きスペースに何が入るのか。何を入れるのか。

空いていること=不安定、でもあるけれど、せっかく空けたのだからへたなもので満たしたくないとも思う。

「未来を神の手にゆだねる」には、聖霊のメッセージを聴いてこれに従うことが不可欠だと思うけど、自信がない。

ちゃんと聴けているのか。

あるいは、聖霊の声と思いつつ、実のところ聴いているのは、エゴの声ということはないんだろうか。

基本的なことだと思うけれど、未だによくわかっていない。。

聖霊の声を聴いてしまったら、それに従わなくちゃいけなくなって困る(←エゴが)、メッセージを聴こうとしながらも、手で耳をふさいだり開いたりしながら、「あー」と声を出しているようなところがある。

そういえば、引っ越し前のワークでずっと感じてきた「姿勢を良く、体幹を鍛えろ」というのは、そのとおりだった。

今回の引っ越し後のぎっくり腰は、いつもとちがって治るのに1ヶ月以上かかったから。

聖霊が、そんな体のことをアドバイスしたりするのかな?と思っていたけど、聖霊の声かどうかはともかく、「姿勢」と「体幹」は私にとって大事なことにはかわりない。

いつでもどこでも、今・ここから

まぁ、ともかく、今・ここから、しかない。

自分にとってメッセージと思えることを聴きながら、自分のゲームを進もうと思う。

彼は、自分の知覚は間違うかもしれないが、それらは必ず訂正されると確信している。」(L194-7-7)

攻撃したくなるときは、私たちの休息を護る聖霊に助けを求め、私たちにかわって誘惑をはるか後ろに遠ざける選択をしてもらう。」(L194-9-5)

本文のこの2ヶ所が救いかな。

暑さと、汗かぶれと、塗りぐすり

2018-08-02

30年に一度の異常な暑さに「自分は体」だと感じてしまう

昨日、気象庁が7月の暑さについて「30年に1度以下の頻度で起こる現象で、異常気象に該当する」と総括した。

「異常気象」という言葉は、この10年位頻繁に聞くような気がするが、それでもやはり7月の暑さは尋常じゃなかった。

8月も続くんだろう、この暑さ。

日中の日差しは、暑いというより痛い。

この日差し、日傘を差すとだいぶ和らぐ。男性で日傘をさしている人はあまり見かけないけれど、この異常の下では体裁より実を取ったほうがいい。体力が温存される。

ACIMでは、体を「エゴの偶像」とし、私たちが神から離れたと思い込んだ罪の意識が肉体を生み出して、それが外部に投影したものだと位置づけている。

そして、自分を肉体だと思うことは止めてそれに対する執着やこだわりは手放すように促されている(おそらく)。

しかしー

この尋常じゃない暑さの下では、逆に自分が肉体であることをまざまざと感じさせられる。

ACIMの理解がもっと深くなったら、暑さに対する耐性も高まるんだろうか。

汗かぶれで、負のスパイラル

今夏、生まれて初めて、「汗かぶれ」というのになった。

首から胸にかけて、痛痒ーい(>_<)

汗もかな?と思ったけど、それとはちがうらしい。

汗も」… 汗をかき続けたりした時に、汗を出す管が詰まり、肌の内部に溜まった汗によって水ぶくれや炎症を起こす症状。

汗かぶれ」… 汗をかいた後に、汗に含まれる塩分やアンモニア成分が肌の表面を刺激して起こる炎症。

汗かぶれは、結局、自分の汗が自分の肌を攻撃することで引き起こされるらしい。肌が乾燥しバリア機能が損なわれるとなりやすいのだとか。

まさに、私が体をリアルに感じるために、外に投影した攻撃性によって引き起こしているのだと言える。

いったん痒いのが気になると何も手に付かない。掻いちゃいけないとわかっているけれど、つい誘惑に負けて掻いてしまう。

ふひゃ~、気持ちいぃ~。

しかし、次の瞬間にはさらなる痛みと痒さが襲ってくる。そして肌はまた荒れる。

“負のスパイラル”だ。

あ゛~、手放さねば…。

私は体じゃない。体じゃない…

自分と同胞を分けている(と思っている)肌を、自らが攻撃して一人のたうっているとは、ひとり相撲も極まれり。

母の塗り薬に癒される

母が上京した際に、ある塗り薬を置いていってくれたことを思い出した。

亜塩華軟膏(あえんかなんこう)。

実家では万能の塗り薬みたいになんにでも使っていたが、名前がおどろおどろしい気がして使ったことはなかった。

おそるおそる塗ってみたら、猛烈に痒かったのが少し治まった。

当たり前にみんなが知っている薬なのか。

母が手書きで名前を書いて貼り付けてくれた軟膏。

それを丁寧に塗りこめていくと、母の愛に癒されていく気がする。

これ、感じているのは「特別の愛」かな?

汗かぶれの専門治療薬「アセムヒ EX」も今年発売されたらしいから、少し様子見して買ってみようかな。

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