2018-08-24
祝準優勝、金足農業が見てた人みんなの「ひたむきスイッチ」押した!?
第100回の高校野球決勝が終わって三日。
やっぱり、高岡商業を破った(三回戦:3-1)大阪桐蔭は強かった。史上初の二度目の春夏連覇だという。すごい…
しかしながら、ニュースなどで報道され注目を集めているのは、むしろ敗れた秋田の金足農業の方だ。
日本人はえてして判官贔屓だ。全国49の参加校の中で公立高はわずか8校、その中でも唯一の農業高校に肩入れしたくなるというものだ。
ピッチャーが3人が分担して投げた大阪桐蔭に対して、金足農業は吉田君ひとりが予選から頑張って投げ抜いたという。
決勝まで知らなかったけれど、見れば吉田君は爽やかイケメンだし、名前が「輝星」というのもまんま。絵に描いたようなヒーローだ。
努力と根性が報われた昭和時代のノスタルジーも喚起させ、みんなが深層心理で求めるひたむきなストーリーにばっちり嵌っていた。
勝負の世界は二元性の代表だし、勝ちもあれば負けもある。だけど、勝負を超えて人々の「ひたむきスイッチ」を押したのではないかな?
同校には寄付金が1億9000万円も集まったという。そのひたむきスイッチを押してくれた善意のお礼ではないのかな。
スポーツオンチだけど、そして、これもまたこの世の幻想の一つだと知っているけれど、スポーツが生み出すストーリーには惹きこまれる。
ACIMレッスン199-私は肉体ではない。私は自由である。
さてさて、レッスン199。
お盆帰省前にやっていた。
「私は肉体ではない。私は自由である。」
短いフレーズだが、これも極めて重要な、ACIMの根幹の考え方だ。
肉体は本来はひとつであった神の子が分離した(という誤解の)結果の幻であり、
「肉体は一つの制限である。」(L199-1-2)
「心が自由になれるのは、自らを肉体の中に存在するものと見なさなくなったときであり、自分が肉体にしっかりと固定され、肉体の存在によってかくまわれていると思わなくなったときである。」(L199-1-4)
スポーツは肉体をベースにして高みをめざすものだから、スポーツ自体、自我のものなんだろうか。
それを言ったら、この世にあるすべてがそうなのだけど。
このワークは私には特に難しく感じられる。
私は人一倍自分と自分の体に執着がある方だと思うから。
その性質がACIMの学びを阻んでいるのは気づいている。
そうは言ってもなかなか… 。
学習が進むにつれ、聖霊に従いたい自分の部分と、肉体をまとった自我(エゴ)チームが先導する部分と、両方の自分がせめぎ合っているのを感じる。ある時は聖霊に委ねようとしているが、おおむねエゴが牛耳っていると感じる。
肉体に執着したい私は、死を恐れる私でもある。
まだまだ私には、赦しの経験が必要だ。
「この概念が自我にとってはまったく狂気だということは気にかけずにいなさい。
自我は肉体の中に住み、自分が作り出した家と一体化して生きているので、肉体を非常に大切にする。」(L199-3-2,3)
「ここに自我は隠れており、ここに自我の正体が見てとれる。あなたの無罪潔白を宣言しなさい。そうすれば、あなたは自由になる。」(L199-4-1,2)
私がACIMの道を進むためには、ここをちゃんと超えていかなければならない…
「存在感の美しいひと」への憧れ
ACIMの教えとは逆行するのかもしれないけれど、私は、ずっと「存在の美しいひと」「存在感の美しいひと」に憧れがあり、そこには見た目の美しさも入っている。
具体的にどんなふうかとなると、よくわからないのだけど、余分なものが削がれていて、細部まで神経が行き、聖なるイメージ。
自分の中の「存在の美しいひと」と、ACIMは相反するものなんだろうか。
また改めて考えてみようと思う。