ACIMレッスン198-私の咎めだけが私を傷つける。

2018-08-21

ACIMレッスン198-私の咎めだけが私を傷つける。

レッスン198は、とても力強いメッセージだ。

傷つくということはありえない。

しかし、自分が咎めをリアルにするなら、それはありうる。

自分から咎めを取り除くことが、自らを赦し癒す。

真理に咎めはないのだから。

これを受け入れて、咎めを手放すことができれば、楽になる。

だけど、それには「赦し」という訓練が必要だ。

それが、ひどく難しい。

あっという間に何かが起こり、感情の渦にいる。

毎度。毎度。

どうして、咎めにしがみつきたくなるんだろう。

やはり、赦し

特に気になったところは、赦しの重要性を述べたところ。

咎めるなら、あなたは幽閉される。赦すなら、あなたは解放される。」(L198-2-1,2)

幻想は幻想を作り出す。だが例外が一つだけある。赦しは幻想ではあるが、ほかのすべての幻想への回答となる幻想である。」(L198-2-8,9,10)

赦しはほかのすべての夢を一掃すると同時に、それ自体は夢であっても、ほかの夢を育てはしない。」(L198-3-1)

ナビゲーターは、エゴか、聖霊か。ひどく長そうな道のり。

赦しを実行するためには、聖霊とのつながりを保ち続けることだ。

事あることに聖霊の言葉に耳を傾けること。

聖霊の言葉には効果がある。聖霊の言葉は救済する。」(L198-6-1)

私は、聖霊の言葉に耳を傾けること自体に、長いこと恐れがあった(今もある)。

不都合なことを聴いてしまいそうだから。

誰にとって?

私。

その私とは?

私のエゴ。

でも、エゴと一体化する方法では、すでに行き止まりだと知っている。

エゴか、聖霊か。

二者択一で、その中間はないんだ。

私の中では、未だエゴの圧勝、かな?

今日は、あらゆる形の苦しみは、必ず、赦そうとしない想念を隠しているということを忘れてはいけない。

そしてまた、赦しが癒せないどんな形の苦痛もないということも、忘れてはいけない。」(L198-9-5,6)

神の子の中にはどんな咎めもないと宣言するこの一つの幻想を受け入れなさい。」(L198-10-1)

私は、聖霊の声を受け入れる練習をするところからだ。

ひどく長そうな道のりに、気持ちも萎える。だけど、だからといって、エゴがおすすめする成功万歳、とは思えないところにいる。

「うまくあれ」から卒業したい

2018-08-21

額装した色えんぴつ画をグループ展会場に持っていったら、すでにたくさんの絵があり、みんな、すごーく、うまい。

はーっ、すごいな~(・-・`* と、いくぶん気落とされ圧に飲まれて帰ってきた。

採点されるわけでも、競っているわけでもないのにね。

帰り道、

しかしー、「うまい」とは何ぞや、と自問する。

写実性をうまいとするなら、写真の方が上だろう。

じゃあ、私にとっては、どうだったらうまいのかな?

幼稚園の頃は好き放題に絵を描いていたのに、その自由さを失ったのはいつからだろう。

私、仕事でも人生でも「うまく」あろうとし、でもどうだったら「うまい」のかもわからずに、何かに忖度してきた気がする。

でもその何かと本質的に合わなくて、40すぎたあたりから、落ち着きどころを模索しているような?

だったら、もう「うまくあれ」から、卒業したらいいのにね。

いつも、周りの顔色が気になって、自分であることを手放してしまう。

それこそ、クリアしたらいいのに。

もしかしたら、その自己表現の力をつける、そのために絵を描いているのかな?