レッスン167-一なる生命があり、それを私は神と共有している。

2017-12-20

レッスン167-一なる生命があり、それを私は神と共有している。

このレッスンは、生命いのちについて述べられていることから、改めて「死」についても言及されている。

この世では生命があることの対極は死だが、実相では、

生命…神が創造したすべてのものが共有する一なる状態。いのち

で、その対極はない。だから、死もない。

私たちが死を通常肉体に関することだと思っているのに対し、ここでは死は「一つの概念」であり、心の中にあるものだという。

そして死には、「至高の幸福」以外のすべての感情が含まれる。すなわち、悲しみ、損失、不安、苦しみや痛み、不快感…。これらすべてが「死」という概念を根っこに持つのだという。

また死の概念を感じられることは、神との分離を真実としているからだという。

神と一体であれば、死という概念はリアリティがないはずなのだ。

「死が生命いのちから生じることはありえない。」(L167-5-1)

心が眠っているだけ、だから目覚めよ

そして、私たちにとって死がリアルなのは、たんに「心が眠っているから」だと説明されている。

「心は自分が眠っていると考えることができるが、それだけである。心は自分が目覚めている時の状態を変化させることはできない。」(L167-6-1,2)

ワークブックを通した根幹の考え「想念はその源を離れない。(L167-3-6)」が、ここでも強調されている。

心が眠っているから、寝とぼけた想念が出て私たちをかき乱しているだけ。心が目覚めさえすれば、想念は真っ当になり、至高の幸福だけがある。

だから、目覚めよ。

「時間という夢(L167-9-3)」から覚めよ。

…というのが、このレッスンのテーマだ。

やっぱりいつもと同じ、「神との分離」の幻想をあっちからこっちからとりなし、それは起ってはいないのだから、夢から覚めよ、と私たちを揺さぶっている。

こういうことは一度聞いたからといって、あたかも怖くてトラウマになっているかのような恐怖心を取り去ることはできない。だから、くりかえしくりかえし言い含めて再教育していくしかないんだろう。

何かの理由で水が怖くなってしまった人が、パシャと顔に水をつけるところからその恐怖心を克服するように、また何かの事情で高い所が怖くなってしまった人が大丈夫と思える安全な場所から少しずつ挑戦してまちがった条件付けを取り払うように、神との分離というすさまじい恐怖も、その恐怖感が出てきたたびに、「そうではない、思いこみにすぎない、それはリアルではない」と言い聞かせて恐怖の薄皮を一枚ずつ剥いでいくしかない。

それがゆっくりでも早道なんだろうと思う。

「死に対する恐怖」が少し減った気がする

9月にワークの流れとして、追加的にやっていることとして「自分の中の絶対に死なない部分」を感じ、その性質を感じるということをやっていると書いた(2017年9月7日)。

そして、そういうことをやっているのは、人以上に死(肉体の死)を怖れているからだとも書いた(2017年11月29日)。

最近前よりは死というものが怖くなくなった気がする。私は体であるという執着が薄くなり、そもそも私は霊的な時を超えた存在であるように、徐々にだけれど感じられるようになっている。

それも、肉体に新たな不具合が発見されたら、まったくそうは思えなくなってしまうのかもしれないけれど。でも、前よりは怖くなくなった。

そして、心の磁石の真北をいつも「感謝と豊かさと喜び」の方に向けていられたら、ちゃんと行くべきところに導かれるのではないか、とも思った。

まあ、言うは易く行うは難し…なんだけど(^_^;)

目に見えない恐怖を自分で培養してでかくしてそれにがんじがらめになっていた以前の自分。それよりは、言うだけ、思っているだけ…でもよしとしよう。