レッスン165-私の心が、神の想念を拒否しませんように。

2017-12-11

東京のそらと故郷のそら

とてもよい冬晴れだ。寒いけど澄んだ青空がさわやかで気持ちがいい。

私が育った北陸は日本海側だから、冬は雪や雨が多い。また降らない時でも晴天というのはめったにない。いつも冬はどんよりした空だった。

帰省の列車ではいつも川端康成の『雪国』そのまんま、「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」。トンネルの入り口と出口での、青空から銀世界への変化をすごく不思議に思ったものだ。

最初に東京の冬晴れに驚いたのは、18歳で父と東京に大学受験に来た時だった、と空を見てふと思い出す。その父も今はもういない。

あれからずいぶん遠くに来たんだな。窓から青空を見上げ、一瞬感慨にふける。

けど、生きているかぎり変化はある。

歳を重ねるにつれ平穏になるとわけではなく、変化は常にあって、年齢が上にいけばいくほど、ところてんのように押し出されていくから、世の中が馴染みのない新しいものになるのだと、最近知った。

レッスン165-私の心が、神の想念を拒否しませんように。

レッスン165は、「この世が実在するように見えているとすれば、それには、あなた自身が世界を超えたところにある真理を否定しているということ以外にそんな理由があるだろうか。(L165-1-1)」で始まる。

今、私には、かなりリアルに見えている。

田舎でひとり暮らしをする高齢の母が歩行困難になっていたのは脊柱狭窄症になっていたからだと知ったことや、理事長を務めるマンションの大型修繕工事とそれに伴う借入のこと、自分が月々の生活費をちゃんと稼げておらず預金から引き下ろして生活していること、これからどうやって稼いでいったらいいか見当もついていないこと…

どれもかなりリアルに見えている。

自分のことだけではなく、すもうで貴乃花部屋の貴ノ岩関が横綱・日馬富士に暴行された一連の騒動や、富岡八幡宮の宮司の富岡長子さんが弟に殺害された事件、さらにトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と正式に認め、大使館を当地に移転させるとして国際問題になっていることなど最近のニュースも、けっこうリアルに見えている。

レッスン165によれば、この世が実在するように見えている⇒ということは、すなわち、私が神の想念を拒否しているから、ということになる。

自分の意志で拒否しているから、本当は命の源であり自分とひとつてある、神の想念を感じることができず、神のヴィジョンが見えない。

ACIMを学ぶ一方で、強いエゴへの執着

細々とだけれどワークを続けてきて、「この世はリアルではない」「私たちは自分の想念をスクリーンに映し出して、4D映画をはるかに超えた完璧なバーチャルリアリティの世界を体験しているだけ」と、頭ではわかっているつもりだけど、その世界に何かしらのイベントが起こった時には、いつしかそれが幻想だということを忘れて、すっかり巻き込まれてしまっている。

神の想念をエゴのそれと取り換えたい。

だけど、神を頼り切るのは怖いと思う。

そして、自分が自分だと思ってきたもの(=エゴ)を手放すのも、怖いんだと思う。

ACIMの考えには惹かれる。そしてワークもやる。

でも、それはエゴが許可した柵のなかでだけ…というのが、今の私の状態なのかもしれない。ある一定のところまでワークが進むと、聖霊からのアドバイスを求めつつも、「それを聴きたくない」「聴いてしまって何かを変えなければならなくなるのがいやだ」と思っている自分がいる。と気づく。

これじゃあ、だめだよな~

エゴが傷つかない範囲で、ワークの上っ面をなでているだけだ、たぶん。

それでも、玉ねぎの皮をむくように、少しずつでも、エゴが小さくなっていっていたらいいけど。

レッスン165は次の言葉で締めくくられている。

「確信を得るためには、私たちは自分に頼らず、神を頼りにする。そして神の名において、私たちは神の言葉が指示する通りに練習をする。神の確かさは、私たちのあらゆる疑いを超えている。神の愛は、私たちのあらゆる恐れを超えたところにあり続ける。神の想念は、今もすべての夢を超えて、神の意志の通りに私たちの心の中にある。」

私は、ACIMの素晴らしさに惹かれた一方、エゴへの執着も人一倍強い。だから学習に時間がかかるのだと思う。

ゆっくりでいいから、離れず続けよう。