2017-12-08
お赤飯ときんぴら
昨日、マンションの理事会と修繕委員会(大型修繕工事のための会)があり、いろいろと紛糾したいへんだった。
…がそれとは別に、ちょっとしたサプライズが…!
それは役員でもある私の階下に住むおばあちゃまが、手づくりの赤飯ときんぴらごぼうを下さったこと。
理事会でもまったく発言することなく、私とも、10数年前引っ越してきてからほとんど話したことがない。一昨年、私のユニットバス下の配管からの水漏れで大迷惑をかけたし、目が合うと逸らされるからてっきり嫌われているのだろうと思っていた。
だから、理事会終了後に「赤飯炊いたから、あげる」と、パックが入った袋を差し出された時は、びっくり。
え、私に?
嫌われてたわけじゃ、なかったんだ…
そして、そのお赤飯はほのかに塩味が効いてとってもおいしかった。
冷蔵庫には、先日他の年上の友人にいただいた栗ご飯ときんぴらがまだ、ある。そして、お赤飯と新たなきんぴら…と、手づくりがいっぱい。
なんだか、寒夜にまた、ほっこりした。Thanks!
レッスン164-私たちは今、私たちの源である神とひとつである。
ワークの日記がなかなか更新できなかった。もともと未だに何を書いていいかわからなくて、気合いがいる。
レッスン164をやったのが、母が上京する前の11月16、17日と、ちょっと飛んで帰った後の11月28~30日。どんなワークだったっけ、とワークブックとメモを見て思い出すところから。
私たちの源である神とひとつになり、私たちの五感に頼るものの見方ではなくて、キリストの見方を習得するのが、このレッスンの目標であり、ワークブック全体を通しての目標でもある。
このレッスンには「キリスト」という文言が何度も出てくるが、これはイエスキリスト個人ではなく、聖霊と一体化したわたしたち自身の神性をさしている。
この世界をキリストのまなざしで見ることによって、この世界の無意味な騒音をスルーすることができる。その神性、聖性はすでに自分の自分の中にある。この世の雑事、雑音に囚われず、静かに心を開くことによって、自らの内なるキリストを開きさえすれば、この世で感じている悲嘆や苦しみは天国と交換できる…というようなことが書いてある(と思う)。
キリストの四角の前では、この世界はたやすく消えていく。(L164-2-1)
この日、悲嘆は捨て去られる。なぜなら、キリストが与える時間を今日、受け入れるあなたには、外の世界よりもはるかに身近な内界から生じる光景や物音が明確になるからである。(L164-3-4)
あなたの中には、罪の想念が一度も触れたことのない聖性の感覚がある。このすべてを、あなたは今日思い出す。(L164-4-3)
私たちは、この世には辛く悲しく厳しいことが多いと思っているけれど、それは単に私たちが内なるキリストを開いていないからだという。それさえしっかり身につけれれば、この世の辛く悲しく厳しいことはかすかに聞こえる雑音のように感じられるのだろう。
私たちが見るもののすべては、その聖性の内に私たち自身の聖性を反映するので、ただ私たちの喜びを増すばかりである。(L164-7-4)
練習の間、自分が欲していると思っているものをすべて手放すことによって、カーテンを開きなさい。あなたのとるに足らない宝物を片づけ、清浄で開かれた空間を、心の中に空けておきなさい。そうすれば、キリストが訪れて、救済という宝を差し出してくれる場所となる。(L164-8-1,2,3)
ワークをして
大事なのは、自分の今の見方を一回捨てて心に清浄な空間を作ることだ。
だけど、ちょうどこのワークをやっていた前後は、母を迎える準備と滞在中母に合わせることで、いっぱいいっぱいでまったく心の空きスペースが持てなかった。また、帰省後もあることで心がざわついていた。
そういう特別なタイミングでなくとも、一般の大人にとってこの世は「目標(やりたいこと)」や「問題(解決すべきこと)」で溢れていて、何もないスペースを作る余裕はほとんどないだろう。「本当の我に返る」ということなく、目先のお題に追われてあっという間に一年過ぎてしまう気がする。
むしろ、逆で自分を麻痺させて大事なことに気づかないために、あれやこれや「問題」と「目標」を創り出しているのかもしれない。
本当に大事なことに気づいたら、自分を変えなくてはいけない。それに抵抗があるから。
毎日の地道なワークは急速な変革というわけではなく、薄皮を剥ぐように自分を変えてくれるといいと思う。それにしても、もっと毎日まじめにワークしないと。
このワーク時のメモ(感想)には、
「神さまの正体は感謝である。」
とある。神さまに対して「正体」とは失礼な書き方だけれど、本質やエッセンスという書くより真に迫っている気もする。
「神さまの正体は感謝である。
だから、神とつながるには感謝すること。
神に。そして神を映すすべてのものに。
記絵とは、すべてのものの中に神を見ること。
その目をやしなう。」とある。
また別の日には
「自分の好きなことと仕事を一致させてもいい。
好きなことではたらき、おカネを得てもいい。
神の子は、そのままで愛されて、満たされていい。
神が私に感謝している。
私がここにいることに。
私が神に思いを巡らして、神と通じたことに。
神さまは誤解されている。
その誤解を解くというのもしごとだ。」
とある。
神さまと感謝との関係?にこのところずっと関心がある。
いいことがあった時に感謝するのはたやすい。
自分にとって良くないことがあって、そこでも感謝するのが大事なんだと思う。「良くないこと」=幻想、であり、そこを見破りスル―して、感謝することこそ神さまと通じることだと思うから。