レッスン162-私は、神が創造したままの私である。

2017-11-10

レッスン162-私は、神が創造したままの私である。

たしか同じ主題概念があった…と思って、ワークブックの目次を見たら、レッスン110に同じのがあった。レッスン162の冒頭でも、次のようにある。

この一つの考えをしっかりと心に抱くだけで、世界を救うことができる。今後、学びの新たな段階に入る折々に、私たちはこの概念を繰り返すことになる。進歩するにつれて、この概念はあなたにとって、今よりもはるかに多くの意味をもつようになるだろう。(L162-1-1,2,3)

この言葉は強力だから、こう思い唱えるだけで、心に大きな変容をもたらすという。

心からこのことばを受け入れられるようになること、それがワークブックを通した目標といっていいだろう。

このワークではこれ以上の抽象的概念は用いずに、この強力な文言を改めて用いて、心の変容を促す。

ワークをして

「神はこの世を作らなかった。

 そして、私は神が創造したままの私である。」

これが真実。じつにシンプルだ。

私が神が創造したままの私なら、私には罪もその罪から受ける罰もなく、悲しみや悲惨なことも起りうるはずがなく、あるのは愛と喜びに満ちた世界だ。

自分がそう信じ、その信じたまま生きることで、同胞をゆるすことにつながり、贖い、救済できる。それが自らを購う道でもある。

この世では毎日いろんなことがある。大きな事件、身近なこと、いいこと、悪いこと、得すること、損すること、くっついて、離れて…、悲しんだり、喜んだり…

でも、すべては流れ、流れて、回り灯篭みたいに、過ぎていく。

今が、過去になっていき、そして新しいものが現れて、古いものは去って、そして新しいものが、今になり、古くなり、過去になり、新しいものが現れて…

その都度一喜一憂して…

生きているって、そういう時間のことだと思っていた。与えられた持ち時間のなかでなるたけ、「よい」ポジションに得て「よい」暮らしをすること、子孫を残すこと…

けれど、もうそういうやり方からは卒業したい。この世の「よい」は「悪い」と対だ。

「よい」をめざすのではなくて、この世で起きていることは見て、過ぎて、真実が見たい。真に在るものだけを見たい。

常に、私は神が創造したままの私だ。

だから、そんなときでも喜びに満ちており穏やかだ。豊かさで溢れており、光り輝いている。

そんなふうでありたい。

実際には、ほんの小さなできごとにも、いちいちカーッとしてしまうけれど。

ACIMにふれれば、真実を思い出すから、細々とでもワークを続けていきたいし、繰り返し繰り返し学びたい。

浮かんだことば

私は、神が創造したままの私である。あの人も、神が創造したそのままの同胞だ。

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