レッスン112-レッスン93、94の復習

2017-05-30

長い夏のはじまり

東京はすでに初夏の陽気だ。少し動くと汗ばむ。

これから長い夏が始まる。

春と秋はあるにはあるけど、10月初旬まで残暑を感じるようになっていて年々短くなっている気がする。この暑さが終わったと思う頃には今年ももうそろそろ終わり、と思うのかな。早すぎる。

世の中のテンポと体内時計がずれている感がして久しい。歳のせいかな?東京の街なかに住んでいるせいもあるかな?

そういえば、深夜、大声でどなるような声が続いて寝つけなかった。窓からそっと見下ろすと、ランニングシャツ一枚のおじさんが片肘で頭を支えた肘枕で道路で寝そべって誰かに大声で怒鳴っていた。相手は学生?こっちは小さくて何を言っているかわからない。

あ゛~。再びふとんにもぐりこんだけど、声は夜闇に響き渡っている。時計は2時半。これも私のエゴが見せる投影⇒すなわち赦しの対象なんだろうけど…、こうして「結果」としてこの世に出てきたものに、どう対処したらいいのか…。術をまだ身につけていない。

いろんな人の声が混ざって聴こえてくる。30分位して静かになったので覗いてみたら、おじさん、消えてた。誰かに“撤去”されたのか。

レッスン112-レッスン93、94の復習

l93)光と喜びと平安が私の中に宿っている。

 私は光と喜びと平安が住む家である。私は神の一部なので、神と共有するわが家にそれらを迎え入れる。

l94)私は神が創造したままの私である。

 不変なるものによりそれ自身と同じものとして創造された私は、永遠に創造されたときのままであり続ける。だから私は神とひとつであり、神は私とひとつである。

ワークをして

以前よりこうした考えが「信じられる」と思うようになっていると気づいた。

真実のところ「私は光と喜びと平安でできている。」のだと思う。

では、それ以外の神の性質と合わないものはすべてやり過ごそう。赦し、囚われることなく通り過ぎよう。

たとえば、おカネ…というものはほんとうはない。だから、ものを買ったときでも、おカネとものとの交換=取引実行と思うのではなく、私によきものが与えられた、そのこと自体にただ感謝を示すことにしてはどうだろうか。

ますます浮世離れするか(^_^;)

言葉では表せないけれど神の表現に用いるような、平穏さ、安心、静けさ、喜び、幸せ、無限の愛、感謝、豊かさ…そういうものだけが、(真に)在ると思って(それ以外は非存在、赦しの対象)、日常の生活をしてみたら、どうだろうか。

言うは易し行うは難し… だろうけど。

もちろん、この世であるかぎり、身体を維持する必要やここでの生活を維持するための要請もあって、それはそれでこなしつつ、自らに関わる人やできごとのなかに、平穏さ、安心、静けさ、喜び、幸せ、無限の愛、感謝、豊かさだけを見て生きてみてはどうか。

それを完璧にやるのは無理だとしても、近づけるようにする。

“嫌なこと”“不都合なこと”が自分に降りかからないかぎりはできるかもしれないけど、何かあったらたちまち崩れるんだろうな。

それでも、ACIMのワークを始めてから4年近くになるから、もうACIMをまったく知らなかったときのようには世の中を見られなくなっている。

これまではACIMの世界観を心のどこかにあるピュアな憧れの世界、といった位置づけで生きてきたように思うけど、ここにきて、やはり、この現実に広がっている実際に在る世界として生きたいと思うようになっているのだ。

だから、真に在る神なるものをこの世に見たい。

アファメーション

小さな不快感でも気づいたら、すぐゆるそう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

← 戻る