レッスン44-神は光であり、その光の中で、私は見る。

気づいたら、ワークとダイアリーがかい離してた。大げさだ。ワークは、レッスン45を終えたところだけどレッスン44、45の分のダイアリーがまだ、というだけ。

ワークをタイトルとしてダイアリーを書くのは、私にとってよい復習になっている。だけど本当のところは何を書いていいかわからず、迷走を続けている。このままこうして書き続けたら方向性が見えてくるだろうか。

「真に見るためには、光が外ではなく内にあるということを認識しなければならない。」今日の主題概念は、視覚器官によって見るのではなく「真に見る」ため、内なる光を認識し、その光に到達しようと試みる瞑想ワークである。

レッスン44では、自分のエゴを脇に置き、内へ内へ向かい「一切の余念や雑念を静かにやり過ごしながら、心の奥へと沈潜する。」そして神なる光に到達しようと試みる。

このワークをする際には、「強い抵抗感が生じることがあるかもしれない」との説明がある。それは、「自分が今信じている一切のものごとと、自分が作り上げたすべての考えを後にすることになるからである。」エゴから見れば、それは「アイデンティティーを失う」ことだから。

「演習を正しく行っていれば、何からのくつろいだ感覚や、実際に光の中へ入らないまでも、光に近づいていく感じさえも体験するはずである。」

私は抵抗感は感じない一方、瞑想中「見る」ということは未だ苦手。瞑想していて「感じる」ことはあるけど、「見る」というのがよくわかっていない。夜見る夢も、みんなは色つきでいろんな夢を「見て」いるみたいだけど、私はストーリーは感じるけど、それを「見た」というのかイマイチわからない。「ヴィジュアル」能力が低いのかな?

まぁ、でも、なんとなくワークが進んでいく。

ワークが進むのはいいけど、ワークのダイアリーが「溜まる」のはやだな。

ブログは何も考えずに書き始めて書いているうちに自分でも思わぬ方向に話が進んでいくのが、おもしろいと感じている。とりあえずはまだ書くことを楽しめている。

ともかく溜めないようにしなきゃ。。

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