レッスン29ー私が見ているあらゆるものの中に、神がいる

2016-06-21

梅雨らしくない晴天が続いていたが、今日は雨だった。九州では数年に一度しかないような記録的な大雨で、熊本では土砂災害も起きており亡くなられた方もいる。地震からようやく気を取り直して田植えをしたのに…と茫然とされている方の姿も厳しいものがあった。

ずっと家にこもって仕事をしていたので、ほとんど誰とも口を聞かずずっとパソコンに向かっていた。だのに、仕事も終わらない。

今日は、レッスン29をやった。

「私が見ているあらゆるものの中に、神がいる」

このテーブルの中に神がいる。

この扇風機の中に神がいる。

あのコンビニの看板の中に神がいる。…

と約2分のワークを6回やった。

「今日の主題概念が、心眼(ヴィジョン)のための土台のすべてである」とある。「たとえば、今あなたが見ているとおりのテーブルの中に神は存在しない。「今日は、どうすればすべてのものを愛と感謝と開かれた心で見ることができるかを学び始めよと努めなさい」

神とはものの見方なのだろうか。

「神」という言葉は、なかなか難しい。「神」は特定の宗教と結びつきいろんなコンプレックスが付きやすく自分がこれまで経験した「神」をイメージして逆に引いてしまう人も多いのではないだろうか。

私は「神」という言葉が好きだ。

買物に出た際も、ワークの言葉が頭に浮かんできて、目にしたものを、

この自転車の中に神がいる。

このおじさんの中に神がいる。

この空き缶の中に神がある。

…と心の中で唱えながら歩いていたら、意味もなく楽しくなってきた。私はだいじょうぶだろうか。

たしかにすべての中に神があると思えたら、私自身が神の国におり、神の中におり、安らぎしか感じられないかもしれない。

そして一瞬だけどほんとうに安らかに感じた。

とにかく仕事を仕上げて提出してしまおう。

 

 

 

レッスン28-何にもまして、私はものごとをこれまでとは違った見方で見たい

2016-06-20

今日は父の命日でした。

昨年の今日の旅立ちから丸一年かぁ。げんきんなもので、昼ごろまですっかり忘れてた。ずっと離れて住んでいたから、まだどこか実感が持ててないようなところもある。これからどんどん「なつかしい思い出」になっていくのかな。ACIMの「特別な関係」は、他の人にとってもそうだと思うけど私にとってもかなり手ごわい。ぎゅっと握りしめたままだ。

仕事で心に余裕がなくなっているけど、一応今日の約2分のワーク×6回を行った。

レッスン1~50までは、これまで自分から見える世界観の「解体」で、今日もその続き。

「『何にもまして、私はこのテーブルをこれまでとは違った見方で見たい』というとき、あなたはそのテーブルについての自分の先入観を撤回して」「あなたは真の見方で見ることに献身すると誓っているのである」

「実際、もしテーブルに関する自分の観念のすべてを取り払い、完全に偏見なく見るなら、あなたはそのテーブルだけからでも心眼(ヴィジョン)を得ることができる」

私は、昨年末一度365のワークを終わらせているけれども、まだ心眼というものはわからない。自分なりにはまじめにやってきたつもりだけど、まだまだ。2度目のワークは、私にはとても役に立っていると思う。

一度目はとにかく自分なりにワークをやって進めることしか余裕がなかったけど、2度目は少し視野を広げ、もっとテキストを読み込んだり関連本を読んだり、勉強会みたいなのがあったら参加してみたりしても…と思っていたけど、今のところただワークをやっているのみである。

そんなに先を急ぐこともないんだな。でも、ワークという「ニンジン」を与えられた馬みたいに、脇目をふらず、なんかやっとこさだけどワークを追いかけ、学習ブログを振り落とさないようにしてる。。かんじ。

(あ、今日中に更新、と思っていたけど、また12時を回ってしまった)