レッスン17-19

2016-06-10

水曜日深夜、東京の家に帰宅。

遠距離を動くと、ここ10年位だけど、とても疲れてしまい、なかなか動けない。なんとか既にある予定だけこなして、後はごろごろしてた。この“動けなくなる症”には慣れていて、キンチョー状態が長く続くと決まってそうなってしまう。

ただ動けないだけで動かないでじっとしていると回復するから、楽といえば楽。まるで携帯電話の充電みたい。単に怠け者なのかもしれないけど。おとなしく動かずにいたら、少しずつチャージされてきた感じがして、動ける感じがしてくる。今回も、かなりチャージできてきて、あと少しだ。

ブログの更新はできなかったけど、ACIMのワークは毎日した。

レッスン17-私は中庸なものを見ていない。

レッスン18-私の見方がもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

レッスン19-私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

父の一周忌のため帰省した故郷では、こころに仕舞ってあるいろんな思いがうずいたけど、それはまた機会があれば…。

とりあえず、ブログから離れてしまわないように、更新。なんとかできた。

私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。すなわち、私の考え、心の持ちようによって、私が見るこの世のゲンジツが変わる。「原因と結果は分離しないので、思考とその結果は実は同時に起こっている」(レッスン19)

つい生前の父を思い、また父にもっと幸せを感じてもらえたはずなのに、と過去の世界に入り込んでたそがれたり、後悔を感じた週だった。故郷の町のひと気のなさに昭和時代にぎわっていた商店街の活気はどこに行ったんだろう、みんな、生まれて成長しパワーを謳歌するもそのうち老いが来てそのパワーを失いいずれ死ぬ、この人生のサイクルにどんな意味があるんだろうと思った。

この世のゲンジツは私のエゴの投影であり幻想の中にしかないと頭では知っているけど、父や母のことや故郷のことでは、すぐに幻想に浸かってしまう。執着があるんだな。

親が亡くなると、やっと子どもは精神的に大人になれると聞いたけど、私は、まだまだ子どもで、いい歳のおばさんなのに、精神的には大人になりそこね、途方に暮れて一人立っている感がある。

この世のゲンジツからは浮いているし、一方、実相を感じられるまでにも至らず。