ゲンジツはワークの応用編

2016-02-03

 解体工事、お風呂本体の組立工事…と続いたお風呂のリフォーム3日目。

 昨日と一昨日、家には職人さんがいてまだ作業中だと思って家に戻ったら、とっくにその日の工事を終わらせていて、家には誰もおらず、鍵も開いたままだった。

 工事監督の担当者は「私がいますから大丈夫です」と言っていたのに!…と連絡したら、数分して「今日の作業は終わりました」と顔を出した。(近くに止めた車の中にいたから、それで)問題ない、と思っていたらしい。

 私はといえば、ゴミだしの短い時間でも鍵をかけていく方だから、近くにいるとはいえ鍵もかけずに家を空ける感覚が信じられなかった。しかし、まともに異議申し立てもできなかった。

 そして、そのことが気になったのか、深夜目が覚めそこから寝付けなくなってしまった。

 「やっぱり家の鍵を開けたままで放っておかれるのはいやだ」「明日は私が戻るまでちゃんと家の中にいてくれるよう頼もう」「嫌な感じにならずに、ちゃんと言えるだろうか」…考えだしたら、ますます眠れなくなった。

 待てよ、家にたいしたものはないけど、母から去年“形見”としてもらった指輪があるんだった、それはちゃんとあるだろうか。ふとんを抜け出して、調べてみる。あった!

 そんなに危なくはないのかな、まぁ、確かに工事担当者の方に一人で家で待ってもらうのもそれはそれで落ち着かないし。いや、やっぱり鍵を開けっぱなしのまま離れられるのはイヤだ…と再びぐるぐるしだす。

 要するに、私は、腹を立てていたようだ。

 いいかげんなんだな、という工事担当者の方への怒り。それをちゃんと伝えることができなかった自分自身への怒り。

 『奇跡講座』には、怒りは決して正当化されない―、という考えがある。

 もともと私たちは今も神の元に在り、なんらの心配もない無限の幸福のなかにある。それが本当の姿だが、私たちは、「神の元から離れてしまった」という勘違いをし、そのために神の怒りにふれると恐怖を感じ、罪悪感を持っている。そして、その罪悪感と恐怖を投影したのが、「この世」だ。これが『奇跡講座』の世界観だ(たぶん)。

 そして、罪悪感や怒りを手放し、本来の姿である「神はある(それ以外はない)」という一元性のものの見方を身につける訓練。それが『奇跡講座』のワークだ。

 ワークの世界に入り込み、人とまったく接しないでいれば、心は平安であり、それは素晴らしい考え方のように、思える。

 しかし、ひとたび「この世」の一プレーヤーとして立ったとたん、私は、こんなささいなことにさえ動揺して眠れなくなってしまう。これは「幻影」であり、私の怒りや罪悪感の投影として映し出される世界にすぎないと知っているはずなのに。

 今日の工事作業中は予約してあった美容室に出向いた。夜更けに所在確認した母の指輪もしっかり持って。そうして、どうか今日の帰宅時は家が無人開け放しでありませんように―と祈りながら。

 夕方、家に戻ったら、大工さんが一心に角材を切っておられて、よかった!と思った。

 ワークは基本編なんだな、それをこの世で自分に起こることに適用できるようになるのが、応用編か。

 これから、どんなことが起きても、それを自分のエゴの投影と思いだして、ゆるす、手放すことが私の課題。

 それは、多くの方が言うとおり、シンプルだけど易しくはない。訓練が必要だと改めて思う。

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