歯医者さん治療終了

2016-05-21

■またまた一週間

前回のログインからまたまた一週間も経ってしまった。

先週末、もっともキンチョーする類の仕事を無事終えることができた。張り詰めていた気持ちの糸が緩み、まったり幸せ感に浸り、それからようやくまた次のプロジェクトにとりかかるところ。その間たまに瞑想はしたけど、『奇跡講座』の学習はまったくできなかった。結局ワークをしていないと、こうなってしまうのかな。

『奇跡講座』的な世界観もものの見方も、すこし薄れてきているような気がする。こつこつと学びたいが、3月中旬位までやるべきことがいろいろあって、がっつり、『奇跡講座』の世界に入るのはむずかしいかもしれないな~。

■やっぱり怖かった歯医者さん

今日は、一昨年夏から通い始めた歯医者さんの治療の最終日だった。たくさんあった虫歯を抜いたり、詰めものの歯を作って入れたり、インプラントを2本したりして、一年半。長かった。達成感というか解放感というか…ようやく治療終了までこぎつけることができた。よかった。

「歯医者さんに行く」ことは、この10年位毎年、「新年の目標」だった。しかし、トラウマなのか何なのか歯医者さんに強い恐怖心があって、毎年、達成できずじまいだった。毎年「今年のいつか行こう」と思いつつ、気づけば翌年を迎えていた。

それが、一昨年、一大決心をして行くことになったのは、単に虫歯が痛み出して、だんだん我慢できなくなったから。

いろいろネット検索して、通いやすくてよさげな歯医者さんを選んで行った。

開けた口の中でキーンと響きわたる金属音やふいにくる神経の痛みは、やっぱり怖かった。あまりに体を強張らせているため、息もできない。歯医者さんは、「ここは、もう神経がないから、痛くないよ」と削る手を緩めようとしないが、神経のあるなしは知らない、とにもかくにも怖くて怖くて。歯医者さんの診療日は朝から緊張しまくっていた。

また、治療中盤には、歯科衛生士さんが付けてくれたインプラントの仮歯が8回も取れてしまうという“事件”もあって、歯医者さんに対する信頼感が揺らぎ、他の歯医者さんに替えたいとも思った。だけど、なんとか通いきれた。人から見れば、「いい歳をして」ということになると思うけど、理屈じゃない。怖いものは怖い。

■これは現実じゃない、消えろ

『奇跡講座』の観点から言えば、この世で感じる恐怖は現実ではない。われわれが神から分離したと勘ちがいしているために抱く、罪悪感と、いずれ神から離れた罰を受けるだろうという恐怖から来るものだ。それを自分がこの世に投影して見ている。

それはわかっている。だから、歯医者さんの椅子の上でも「これは現実ではないんだ、幻だ、消えろ消えろ」と心のなかで唱え続けていた。けど、やっぱり怖かった。『奇跡講座』のワークをまじめにやっていたつもりだったけど、私は依然世界をまったくの二元性で見ており、ぜんぜん成長できてないんだな~と確認したのだった。

そして、仮歯が何度も取れて、それをつけ直すたびにお金を時間がかかることに腹立たしさを覚えるとともに不安に駆られ、信頼できないと思ったことも、後になれば、神に対する罪悪感が見せたものかな、と思えた。それを無意識で否認しているから、歯医者さんに投影して、その歯医者さんが信じられず怖くなるというー。

何より、仮歯が8回も取れてしまったこと、そのことが、何よりも「分離」の象徴ではないかー。後になって、そう思ったのだった。

こうした考察も、治療が終わった今となっては、懐かしく、かわいくも感じる。

久しぶりに歯科衛生士さんの「磨き残しチェック」を受けたら、前より歯磨きがヘタになっているらしく注意を受けた。

歯医者さんでのできごとを一元性の世界観でふりかえって納得できたところで、恐怖心は一朝一夕には消せそうにない。

もう歯医者さんに厄介にならないに越したことはない、虫歯を作らないようにしなきゃ、歯磨きちゃんとしよう、と気を引き締めるのだった。

ゲンジツでの仕事

2016-02-16

■たまの仕事、講師業

前回、ブログを更新してからもう五日が経ってる。

私は、フリーランスとしてゆるいながら仕事をしていて、たまに「話をする」仕事がある。土曜日がそれで、4時間のセミナー講師の仕事だった。ジャンルは「経営」に入る。

事前準備にかなりの時間をかけ、誠実にやったつもり。

だけど、ふだん人と話さない生活をしているから、「話すことがますますヘタになっている」と感じた。

そして、それ以上に、『奇跡講座』を学び始めてから、この世でのゲンジツをうまく行かせることに余り頓着できなくなってきたから、話が上滑りしているのではないかとも、案じた。

もちろん、ゲンジツ社会のビジネス原則に則って真剣に話をした(そうでないとあやしい人になってしまう)。けれども私の深いレベルの本心は、「この世のゲンジツは自己の想念の投影である」「神から離れたという勘違いがこのゲンジツの幻を見せている」というもの。ビジネスでの競争にいかに勝ち抜きビジネスを成功に導くかとは、かけ離れた世界観だ。

■仕事減、どうやって稼いでいこう

そうしたことから、ワークを初めた2年半くらいまえから、ゲンジツの仕事と私のソリが合わなくなってきている(正確には、もともとぴったりとは合ってないソリの“合わなさ度”が増している)。セミナーでは人生観や考え方をお伝えできる部分もあるから、私なりに「ゆるし」を応用した考えも含めてはいるけど、それを前面に出してはニーズと合わなくなってしまう。

そうこうしているうちに、前からぐうたらだったけど、「仕事をいただきたい」という姿勢がより弱くなった。それと、これまで仕事をくださっていた方々の状況がそれぞれ、定年退職、配置換え、年金が貰える歳になったから仕事は趣味でも等…と変化し、結果的に私が受注する仕事が減ってきた。

いつも、仕事の締め切りに追われては、ワークが中断していたから、これは「困った」というよりは「幸い」として、『奇跡講座』のワークや勉強に費やしてきた。まあ、数ヶ月は生きられそうだから、いっか、って感じだったのだ。

でも、ワークも終わり、気づけば収入になる仕事は激減。ひとり暮らし、フリーランスの私は…、どう考えてもまずい、もう一回ちゃんと稼ぐことを考えなくてはいけない時期に来ている。

しかし、この「不安」もまた「エゴ」によるものなのかな。もっと聖霊のメッセージが受け取れるようになって、安心してそれに従えるよう訓練すべきなんだろうか。

■聖霊のメッセージ

ちなみに、今朝の瞑想中、次回セミナー(このセミナーは2回コース)へのアドバイスを聴いてみたら、受け取ったのは、

「伝えるべき情報や知識の部分、段取りを準備でしっかり抑えておくこと。そうすれば不安感が減り、エゴが前に出る部分も減り、そのスペースを聖霊(ハイアーセルフ)に明け渡せて自然に本質が伝えられるから」というものだった。

先のことはわからないけど、次回のセミナー、しっかりやって受講者の方、主催者の方々に満足してもられるようにしたいと思う。

小保方さんの『あの日』

2016-02-11

『あの日』を読んだ

小保方晴子さんの著書『あの日』を読んだ。

この本は発売直後からアマゾンのレビューを覗いていたのだが、そのレビューがどんどん増え、最初は☆1つが多かったのが、そのうち☆1つと☆5つの両極に分かれた(現時点では総レビュー数ちょうど400、うち☆5つ 213、☆1つ 107、残り83が☆2~4)。

レビューの内容も☆1つが「あいかわらず虚言癖、人格障害」や「お金もうけ」「本を書くより科学で証明しろ」、☆5つが「真実がわかった」「科学の世界の闇」「小保方さん、がんばれ」「黒幕は若山教授」等。

本を読んでいないレビューも多く、書籍に対するレビューというより、小保方さんとこの騒動そのものに熱く反応しているのだった。

一体何が書いてあるんだ?

だんだん気になって、ついに日曜近所の書店で買って一気に読んだ。

「STAP細胞」騒動の真相は?

前半は早稲田大学に入って研究者への道を志し、のちにSTAPと名づけられる細胞の変化を見つけ出す若い女性の人生への期待感と野心、後半はあの世紀の発見⇒ねつ造と、一転どんどん袋小路に追い詰められていくサスペンス感、文章も読みやすく本としてはかなりの出来だと感じた。

小保方さんの主張は、STAP現象はある。だけど、「STAP細胞の成功・存在の証明は常に若山先生がいなければなしえないものになっていた(P92)」、その若山先生が会見後いち早く被害者役となって小保方さんにねつ造を押しつけた、それは理解できない、というもの(たぶん)。後半にいくにつれ若山先生の責任を追及する論調が強くなった。

私はどちらかというと「小保方さん、がんばれ」という気持ちがあって本を手に取ったが本を読んだかぎりでは、あの騒動の真相まではわからなかった。

魔女裁判みたい

ただ、どなたかがレビューで書いておられたけど、医学界やマスコミによる「中世の魔女裁判」さながら、といった印象は受けた。

早稲田大学の博士号まではく奪されてしまうのは行き過ぎのような気がする。一度は審査して通ったのだから、教育的措置を施したあと、取り上げる必要まではなかったんじゃないかと。

小保方さんは、たしかに何らかの「魔力」は持っていたと思う。前半、大学から研究者としての人生で、えらい人(年長の男性)と出会うたび「うちに来ませんか」とあれよ、あれよといううちに出世していく。それは、「わらしべ長者」のお話みたいでもあり、発端は実力というよりは「魔力」みたいに感じた。

その彼女が「STAP現象」を発見する。そして「若山先生からの指示を受け~(中略)~論文にまとめ投稿をはじめていた(P96)」

そして笹井先生の助力も得て、ついに、ネイチャー誌の論文受理まで得てしまう。小保方さんが科学的裏づけのない、単なる魔力の使い手だとして、並みいる優秀な頭脳をそこまで騙せるものなんだろうか。そもそも騙し続けられる勝算がないなら、小保方さんの「ねつ造」の動機は何だったんだろう?

「魔力で登りつめた」ハシゴはあろうことか、共著者の一人、若山先生に外されてしまって、後はまっさかさまに落ちてしまう。そこからは、やっぱり「魔女裁判」だ。

その後の検証実験のさまの描写では、まさに「(小保方の)『魔力を使うことを防ぐために』監視カメラや立会人による24時間の監視に加え、行動のすべては立会人によって記録された。…壁にある釘の跡のほんの小さな穴も、セメントで埋められた」(P217)と実験の際のきびしさを記述した部分が続く部分では、ちょっと笑ってしまった。

もしかしたら?

小保方さんの本を読んだ話を何人かの知人に話したが、みんな一様に反応は厳しい。小保方さんの人となりに対するバッシングがすごくて本の話をすること自体がむずかしい。

もう科学者としての道具をすべて剥ぎ取られ消された人だ。この本はそんな人のいわば「たわごと」だ。それをどうして、こんなに本気でやっつける必要があるのかな。小保方さんの何が、人をこんなに不安にさせるんだろう。

もしかしたら、「STAP細胞」は本当に、ほんとうにあるのかな。

そう思ったりもする。

『奇跡講座』の視点から

『奇跡講座』の視点から見たら、魔女裁判は『不死というあなたの現実』でも書かれているように「無意識の罪悪感の投影の典型的な例」といっていいだろう。不安や恐怖を自分以外の投影しやすい人に投影する。いったんやり玉にあがった人は、さらに投影を受けやすくなる。

そして、これは、私が見ている「映画」の一場面でもある。小保方さんを非難するのは論外だけど、どっちが正義だと論じるのもまたちがうのかもしれない。個人的にはどんなメッセージが読み取れるのだろう。

また余裕ができたら、再読してみたい。

だれにむけて、何を?

2016-02-08

 先週の金曜日、電車とバスを乗りついで、知人の元経営コンサルタントの先生のところにおじゃました。先生とは直接仕事で関わったというわけではないが、ご縁があって、近年は年に数回お目にかかっている。

 齢80ウン歳だが、いつも前向きで向上心にあふれ、こういう歳の重ね方をしたいと、尊敬している方だ。現在はひとり暮らしで、施設に入居されている奥様を老々介護しておられる。

 その先生が、以前コンサルティングをしていた会社の社長からの依頼で、その会社の社史を作っているのだと、ラフ原稿を見せてくださった。

 そして、私に、「この原稿の校正をしてくれないか」とおっしゃった。

 私は、たまに「文を書く」仕事もしているが、校正はやったことがない。でも「他に頼む人もないし、出来不出来はいいから」と言われ、原稿とデータを預かってきてしまった。

 しかし…何をしたらいいんだろう。これを抱え込んでじっくりやったところで、正確な仕事ができるわけではない。だったら、私のところで止めるより、早さだ、と週末すごい勢いでやっつけた。 (さらに…)

「母の形見」の指輪への執着

2016-02-04

 まだ小さな問題箇所はあるものの、一応お風呂の改修工事が終わった。今日から自宅のお風呂に入ることができる。

 とても小さなお風呂ではあるけど、やっぱり自宅でお風呂に入れるのはいい。真新しい薄ピンク色の湯船に、今夜浸かろう。

 今日は念を押して出かけたので、工事監督担当者はちゃんと家で待っていてくれた。ほっとした。(まあ、工事終了確認もあるし当たり前ともいえるが)

 昨日の私は、再び「鍵開けっぱなし無人状態」で部屋を後にされてしまうのではないかと不安で、母から形見としてもらったサファイアの指輪をしっかとバッグに忍ばせて美容室に出かけた。

 ふりかえれば、これは『奇跡講座』の基本的考えとは反した行動と言えるだろう。

 父母もまたこの世の幻影に過ぎないのだし(両親を言う前に、この体を持った私自身も幻影だ)、両親とその他の人への愛に区別があると感じていること自体、二元性の考え方だから。 (さらに…)

ゲンジツはワークの応用編

2016-02-03

 解体工事、お風呂本体の組立工事…と続いたお風呂のリフォーム3日目。

 昨日と一昨日、家には職人さんがいてまだ作業中だと思って家に戻ったら、とっくにその日の工事を終わらせていて、家には誰もおらず、鍵も開いたままだった。

 工事監督の担当者は「私がいますから大丈夫です」と言っていたのに!…と連絡したら、数分して「今日の作業は終わりました」と顔を出した。(近くに止めた車の中にいたから、それで)問題ない、と思っていたらしい。

 私はといえば、ゴミだしの短い時間でも鍵をかけていく方だから、近くにいるとはいえ鍵もかけずに家を空ける感覚が信じられなかった。しかし、まともに異議申し立てもできなかった。

 そして、そのことが気になったのか、深夜目が覚めそこから寝付けなくなってしまった。

 「やっぱり家の鍵を開けたままで放っておかれるのはいやだ」「明日は私が戻るまでちゃんと家の中にいてくれるよう頼もう」「嫌な感じにならずに、ちゃんと言えるだろうか」…考えだしたら、ますます眠れなくなった。 (さらに…)

日常生活にちょっとでも負荷がかかったら

2016-02-01

 昨年12月の初め、下の階のお家に水漏れが発生した。管理会社が原因を探ったところ、我が家のお風呂の排水管から漏れていることがわかった。もう築30数年の古マンションだから、本来だったら給排水管全体の工事が必要な時期なのだ。毎年、どこかの家から漏れ、つぎはぎの工事が行われている。

 水漏れを解決するにはお風呂全体の交換が必要だということで私にとってはかなりの出費だが、今日から4日間お風呂の工事が行われることになった。2ヶ月くらいとはいえお風呂がない生活だったから、工事が済んで銭湯に行かなくてすむようになるのは、とってもありがたい。

 工事が始まったのはよかったのだが狭い家に人がいる、という状況にキンチョ―しまくり、何も手につかなかった。午前中に早々に“退散”して図書館に行ったけど、今度は家を知らない人に任せっきりで大丈夫か、冷蔵庫の中を見られたり仕事場を覗かれたりしないか、と気になって疲れてしまった。
(さらに…)