日々のこと・きもち

小さなこころ旅 ②

2018-11-03

月曜、バイトの面接に行くことに

11月1日慌てて、ささやかな一日旅に来たのには、もう一つわけがあった。

月曜日バイトの面接に行くことになったのだ。

31日ネットの求人サイトで家の近くの募集を目にして、ポチっと押してしまった。そしたらその日のうちに、月曜日に面接にいらしてください、というメールが。

フリーランスの仕事がここ数年で減少、それをそのまんまにしていたことは前にもブログに書いたと思う。

複数の依頼先の仕事をこなすのは難しくなっていたし、仕事でACIMワークが中断することが何度かあって、時間ができたことを喜んでいた。そして気づけば無職状態に。印税とかたまーに昔やった仕事の収入が入るけどほぼ無収入。

今年はマンション住み替えの(プラスの)差額が思いのほか出て、それを使いながら生活している。これを食いつぶす前に、在宅で何かできる収入の得方はないか、と思いつつ、工夫や試行錯誤ができず形になっていない。

まぁ、生きられるうちはいいや、と、やりたいことだけやって自由を楽しんでいたのだ。

それが、面接!?

今の時代は、電話も要らず、ポチっとするだけでいいから身構えなく応募できる。

会ってくれるというありがたさと、キンチョーと。

週3日のアルバイトとはいえ、私に務まるんだろうか。気力、体力なし。いまやすっかりわがまま放題で、協調性もトボシイ。

面接こわい。もし、もし、勤務することになったら…

そういった諸々のキンチョー感から、心のプチ旅なら今!と思って、翌日空を見上げて、飛び出して来たのだ。

学生時代の町に行けば、自分が好奇心とやる気と人生に対する期待感に満ちていた、そのカケラを感じられるかと思ったけれど、年月が経ちすぎたためか、見つからなかった。

その頃の自分は、もはや自分じゃない、前世のようだ。

鶴巻温泉の足湯でじんわりあったまる

そして、近場で手軽に旅気分が味わえるところ、というので、鶴巻温泉の足湯へ。

秦野市の市営で2年前にできたらしい。大人10人くらいが入れるスペースで、女性ばかり4,5人入っていた。

靴下を脱いで入口で足を洗ってから、長めのスカートをたくしあげて、そろそろ足を入れる。

あったかーい。

温度は少し高めかな、あとで調べたら40℃とのこと。

は ふぁ~、気持ちいい。

10分も入っていたら、額にはじんわり汗が。ふらっと来てあったまっていけるこんな足湯ありがたい。

私が来る前からおいでで、出てもまだ入っておられた83歳だというおばあちゃまが「私、人見知りでね…、この前足がつってね、この温泉で治ったの」と来る人来る人に同じ話をくりかえしていた。

向かい側に入っていた、これまた常連だという女性が、にこっと笑って目配せした。

秋の平日の3時すぎ。なんか平和だ。

(小さなこころ旅 ③へつづく)

小さなこころ旅 ①

2018-11-02

秋晴れに誘われて、こころの旅

きのう、旅に行った。一日だけの小さな旅。

だれかがどこかに行ったという話を見聞きするたび、私もどっか行きたいなと思っていたのだ。

10月は、お盆帰省時の交通費のカード引き落としがあったり固定資産税の支払いがあったりと出費が多くて、1日だけとはいえ出かける気になれなかった(幻想!)。

そしてきのう11月1日。

空はぴっかーんと秋晴れ。

時計は11時。

いつも以上にトイレが近くて体調はイマイチすぐれないけど、すべてが万全に整うのを待っていられない。まごまごしてたらお昼になってしまう。

…、で、外へ。

行き先は、自分が18、19歳と短大時代2年間住んでいた神奈川県の町。新宿から約1時間だ。

別のところでもよかったんだけど、新しい場に行くのは緊張する。観光目的ではなく、少しだけ非日常気分を味わいたい、という気持ちだったから。

ビア&カフェBERGでランチ

まずは新宿駅で腹ごしらえ。

東口にあるビア&カフェBERGへ。

お昼時だし立席しか残ってないかと思っていたけど、すんなり座れた。いっつもすごい混雑で中に入るのも大変だったのだが、人の流れが変わったかな。

頼んだのは、一日限定30食?のエッセンセットに自然卵のゆで卵つけて。(842円+57円)

ずっと行きたくて行けてなくてイメージが先行し過ぎてた。コ―フンして、味がよくわからなかった。もっとゆっくりいただけばよかった。

健康志向のためか味が薄くなりすぎてたような。レバーパテはおいしかった!

始発列車の列に並んで、席に着く。

『神の使者』は何度も再読しているけど、こころの旅のお供はやっぱりこれ。分厚い本を開いて読み始める。

ゲイリーの家にいきなりアサンディッド・マスター、アーテンとパーサが現れて…30分位読んでいたが、

気づくとゆらゆら心地よい揺れを感じながら、うとうとしてた。

少しずつ緑が増えてきて、40年近く前に住んでいた町に着く。

学生時代の自分を訪ねるタイムトラベルでもあったが

初めて、母からの過干渉を離れてひとり暮らしを始めた町。初めてアルバイトをしたり、初めて男の子と二人で出かけてみたり。

これから自分を生きるんだ~、と高揚していた時代。ここに来たのには、そういう若かりし自分のカケラを見つけてみたくて、というのもあった。

駅前のシンボルだった魚屋さんが消えていた。

私のアパート(コーポ)はまだあった。屋根とドアはカフェオレ色に塗りなおされていた。

アパートから少し上った一面りんご畑だったところには家が並び、なぜか柿畑になっていた。それにしても空が澄んでいる。

衣料スーパーの前には、10円入れて動く子どもの乗り物があり、店頭ではお皿50円で売っている。“昭和感”が半端ない。もうすぐ平成も終わるけど。

なつかしいけれど、私の記憶力が悪いのとあまりにも日が経っていて、そこまでの感慨はない。

思えば…50代も後半。やっぱりえらい遠くに来ちゃったんだ、私。

18歳当時の私が、やが~ておばさんになった私が自分を訪ねてくると知っていたら、ちょっとしたホラーだな、と思った。

当時は自分が年を取ることを考えすらしなかった。

そして、『神の使者』に出会い『奇跡講座』のワークを始めてからは、あれもこれも、幻想…。

町をぐるっと回ると、小一時間でもう行くとこはなくなった。

で、となりの駅に無料の足湯ができたらしいことをネットで見て、行ってみることにした。

(小さなこころ旅 ②へつづく)

自分が見ている世界を赦すー安田純平さん解放で感じたこと

2018-10-29

「自己責任論」と「社会的使命論」で論争!?

シリアの武装勢力に拘束されていたジャーナリストの安田純平さんが、先週解放されたとのニュースがあった。

3年4ヶ月もの長い拘束。どんなにかきつく暴力と恐怖にさらされた生活だっただろう。

私は、単純に、助かってよかった、と思った。

テレビで、ネットを中心に「自己責任論」が起こっている、と知った。わざわざ政府も止めているのにそんな危ないところへ行ったのだから、自業自得、自己責任だという。

一方で、ジャーナリズムは報道しなければならないという「社会的使命論」もあり、両者の間に大論争が起こっているという。

解放時のコメントで、安田さんが「荷物がすべて奪われたのでそのことが頭にきている」「日本政府には借りを作りたくない」等と述べたらしく、「ご心配おかけしてすみません。ありがとうございました。」といったコメントを無意識のうちに期待していた私たちが裏切られたように感じたことも一因だと思う。

私はどちらかといえば、「自己責任論」には反対の方だ。

善し悪しはわからないけれど、今心身への暴力で衰弱し尋常ではないだろう人に、さらに平和な国の私たちが追い打ちをかけてどうする、と思う。

でも、「自己責任論」を唱える人も、「社会的使命論」を支持する人も、武装勢力に対する思いは同じだろう。

ACIM的観点から、ものを言ったらどうなる!?

ここで、ふっと思う。

私が、「これは実際起ったように見えるけれど、実際には起ってないんです。私たちは幻想の次元でものを見ているだけなんですよ。

だから、私たちは“起っていない”ことと、それに加わった同胞を赦しましょう。私たちは常に神とともにあり平和です。」と言ったら…、と。

私は、著名人でも見識者でもないからだれも相手にしないけれど、これをテレビに出ている立場がある人が言ったら、論争をしていた両方のエネルギーがいっせいにその人に向かい、「何、無責任なこと言ってるんだ。頭おかしいんじゃないか」ということになるだろう。

そして、あやしい宗教にハマった人のレッテルを貼られ、社会的立場を失うだろう、と想像した。

…これが、私が見ている世界だ。

そして、これが私の恐怖だ。

これこそ、私が赦すべきことなんだ。

ここに行きついた。

そして、ACIMについて考えを述べていく時には、世の中が幻想というだけでは足りない、相手がどう受け取るかは別として、この世の言葉で説明したり表現したりする力も必要だと感じた。

『奇跡講座』の考えを、理屈で考えて整合性がある、正しいにちがいない、と思っている一方で、まだまだ感情的には受け入れがたいとも思っている私。

今「踏み絵」を差しだされたら、何くわぬ顔で踏んでしまいそうだ。

ひとり鍋の季節到来

2018-10-27

だんだん肌寒くなってきて、あったかいものが恋しくなってくる季節。

ほぼ自炊の私にとっては、ひとり鍋の季節到来だ。

昨晩は皮きりにキムチ鍋を作った。

ちょっと卵、火を通し過ぎたか。

食後は体がぽかぽかした。

鍋は、

  • あったまる
  • 手間がかからない(使う食器も少なくて済む)
  • 野菜が取れる
  • 材料を使いまわせる

と、サイコー。

ひとり暮らしだとそれに胡坐をかいて?、鍋が続くことに。

和洋中と味を材料を変えながら、冷える心身をあっためてもらう。

ひとり鍋の本も、(引っ越しの後適当にしまいすぐには出てこないけど)何冊か持っている。

これを「わびしい」と思うかどうかは、人それぞれだけど。

私は、慣れっこになっているから、感じない。

気候温暖化のためか、夏がすごーく長くなった気がする。

暑さがようやく過ぎたと思ったら、ありゃ、今年も残りあと…?とかいう感覚。

12月は鼻っから煽られ感満載で、慌ただしいし。

ホントは、春と秋が長くて、夏と冬はスパイス程度にあるくらいでいいのにな。なんて、思ってしまう。

暑かろうと寒かろうと、家族があろうとなかろうと、ささやかに、自分なりに、暮らしを楽しみたいな。

 

「超」整理法による私のノート

2018-10-24

またコーヒーを溢れさせてしまった

あ、またやってしまった。

コーヒーがマグカップから溢れている。

コーヒーを入れているとき無意識に溢れさせてしまうことがあるのだ。(参考:2018-9-4 コーヒーが占う心模様

自分では気がついていない感情が溢れていたり、気がかりがあったり。

これは無意識からのイエローカード。気をつけよう。

そして、少し薄めのコーヒーを飲むことになる。

1冊に何でも書く私のノート

唐突だけど、ノートや記録のはなし。

私の整理法は、25年前のベストセラー『「超」整理法』だ。

超管理法のエッセンスはシンプルで、「整理すること=分類」というそれまでの観念を脇に置き、すべてのものを時系列に並べるというもの。

分類するから分類方法に迷ったりいざという時にどう分類したかが思い出せなくなる。「時系列」というのは、意外と人の記憶に残るものだという。

だから、ヘタに分類しようとせず、何でも手元ノートに書く。

毎日ノートを書くようになったのは、2002年4月から。

その当時読んでいた『ずっとやりたかったことをやりなさい』という本に、「脳の排水を出す」ために毎朝なんでも頭に浮かんだことを書くということを推奨していた。

それは「モーニングページ」と名づけられていて、私はモーニングページを書くため「モーニングページノート①」をスタートさせたんだった。(略してMPノート!)

そのノートがそのまんま続き、今では130冊目になっている。

初めはB5の罫線入りだったけど、そのうち無地になり、今はA4の方眼と、それなりに変遷している。

ノートは心の友

ノートにはその日の行動をメモする。レコーディングダイエットじゃないけど、食べたメニューまで書いている。買物した時にはその商品詳細を貼り付けることもあるし、旅の計画や引っ越しの段取りなどもノート上でやる。

今では毎朝モーニングページを書くという習慣はなくなったけど、考えごとをするときにはまずノートを開く。

白いページを前にいろいろ書いているうちに、頭が整理されすっきりしてくる。

ノートは親友のようなものだ。

本棚の一角には、ずらーっとMPノートが並んでいる。

これだけのボリュームになると、ちょっと邪魔。だけど「あれ、あの時どうだっけ?」というのを知るのにけっこう役に立つ。

たいしたことは書いてない。人にとってはな~んの価値もないものだ。だけど、その時その時の自分が詰まっているから私にとっては大事。

誰にも見られたくない。

そういえば、最近は、何も考えずだらだら思い浮かんだことを書くモーニングページ、やってないなぁ。

だから、「脳の排水」が溜まっているかなぁ。

深まる秋はノートに向かう最高の季節かもしれないなぁ。

と思う。

絵本作家展でいただいた言霊

2018-10-22

絵本作家の友人の『作家五人展』へ

昨日は、友人と『源氏物語』の一回講座に出た後、一緒に別の友人の絵本作家さんのグループ展を覗いた。

 今年でデビュー20年なんだという。

絵本作家だけで生活するのは難しく、他の仕事をやりながら作家業をやっている。初めは文章だけだったけど、数年前から絵も描いている。

えらいなぁ、と思う。

自分の旗をしっかりあげて自己表現し続けていること。

私はどこかしら自己表現にブロックがあるらしく、だれかに聞いたことをまとめることは数多くやってきたけど、自分の名前で発表したことはほとんどない。(このブログはそれに当たるかな?ちがうか)

だから、続けるのは厳しいと言いながら作品を出し続けている彼が、眩しく思えるのだ。

「出版社へ持ち込み」道を開く

私が彼と話しこんでいる間、友人は別の若い女性作家さんに「デビューのきっかけ」を聞いていた。

「出版社への持ち込み」なのだと言う。

ああ、そうだよね、そうやって道なきところを切り開いて、実績を積んでいくんだよね。

若い頃、世界を舞台にチャレンジしたいと思っていた、その頃の自分をふと思い出した。

最近の私は、気がつくと老い先ばかりを考えている。。。

その作家さんが描く世界は、やわらかくあったかく、明るくてまさに子どもの世界だった。

…思えば、私、自由なんだ!

私は、思いつきで惣菜店を作るなど無鉄砲なところがある一面、自分が本心で思うことを表現したり実行することには、驚くほど臆病でもある。言い訳ばかりしてきた。

自信が持てない。

まだ、キャリアが足りない。

今は…。

もう歳だ。

じゃあ、いつやるというんだろう?

そして、実のところ、何がしたいのだろう??

今、私は、自由なんだよぉーー!

「ネコの言霊」もらった、意味未だ不明

私の友人作家は、「ネコの言霊」という企画をやっていた。

ガラポンひいてその番号によって、それぞれ彼が手描きで描いた絵ハガキをくれる。「当てたカードが、今、あなたがもっとも必要としているメッセージ!」というもの。1回500円。

私は、その種のことは今はもう興味がなくなっていたけれど、彼の頑張りに1票投じるようなつもりで、やってみた。

出てきたメッセージは…、

「おとなりさん

フクローさんとミミズクさん」

ん?なんじゃ??

一緒に来た友人も引いてみたが、それは「愛されるために生まれてきた」という言葉が書かれた黒猫だった。

そういうのならわかるけど、

「おとなりさん」とは、何ぞや。

まったく思いつかない。これから起こる何かのヒント?

興味ないと言っていたくせに、言霊の解釈をあれやこれや謎解きしたくなるのだった。

「人生は末広がり」ー友人の人生観

2018-10-18

友人と小石川植物園へ

きのう仲のいい友だちと会った。

いっしょにお昼を食べた後バスで小石川植物園に行った。東京ドーム3.5倍という広い都会のオアシス。平日だからか人はまばらだった。

ベンチに座って缶コーヒーを飲みながら、いろいろおしゃべりした。

いつも前向きで努力家の友人。

少し年下だけど、つい加齢や健康、老いじたくやこれからの人生の話になった。

そこで感じ入ったのは、友人の死生観だった。

人生は「末広がり」なものだと捉えているという。

そして、「死は避けられ感じられないもの」。だから、それまで毎日よいと思える日をこつこつ重ねるのだと。そして末広がりだと感じられるよう努力するのだと。

その口ぶりから、いわゆる死への恐怖は感じられず、あたかも死もステップの一つという感じを受けた。

その「前向きさ」は、まだ彼女が自身の死を現実的に感じることがないくらい若いからだろうか。

死とはオセロゲームで最後に逆転されるようなもの?

世の中に若さや健康を前提とした幸せや豊かさを象徴するグッズは、山ほどある。

だけど、いかに人生を豊かに生きられたかどうかは、晩年の人生観や姿勢が大きくものを言うような気がしている。

芸能人や著名人の方で、若い頃いけいけどんどんで(死語?)権勢、栄華を極めるも、最晩年に別人のようにきびしい死を迎える例がある(私の見え方)。

それは、まるでオセロゲームで、どんどん白(黒)を増やしていたのに、最後に角を取られて全部裏返されてしまってゲームオーバー!のように、私には見える。

それは、私が人生を勝ち負けや白黒といった二元論で見てしまいがちな証拠なのかもしれない。

人生を勝ち負けで見てしまうと、健康や若さは勝ちで、老いや死は負けになるだろう。

でもそう考えてしまうと、老いや死は誰にでも自然に訪れるものなので、みーんな最後は負け!になってしまう。

それでは、人生はなんとも儚いものになってしまう。浮かばれない。

そういう自分の考え方から、脱したいとどこかで思っていたから、知らず知らず『奇跡講座』に惹かれたのかもしれない。

罪悪感が少なく死への恐怖も少ない友人は、『奇跡講座』のことは知らなくても、私よりずっとコース(A Course in Miracle)の先を行っている感じがした。

道の行き方はいろいろ。

人生のこと諸々話せる友だちの存在がありがたい。

習いごとで、薄ら人とつながっている

2018-10-10

10月10日。私にとっては、やっぱり「体育の日」のイメージが強い。

もう体育の日じゃないんだけど。

義務教育時代は、100mを全速力で走ったけれど、卒業してからいっさいそういうことないな。

逆上がりも跳び箱も大人の世界には無縁だな。

運動が苦手な私にとっては、それだけでも、大人になった価値はあるかな。

 

私なりに質素に生活しているつもりだけれど、同年代のひとり暮らしの方の家計簿と比較したら、まだ差がある。(もちろん、幻想だって知ってるけど(^_^;))

食費も光熱費もさほど変わらないと思うけど。どこが違うのかと思ったら、私の場合習いごとが多かった。

備忘録というわけでもないけど、今習っていることをメモ。。

 

○ユング心理学講座(1回3,500円位)

2002年から。最初は週二回のクラスにいたけれど、今は月1回。『神の使者』を読んだ時、ユング講座のおかげで、無意識や否認、投影などの話が、比較的抵抗なく入ってきた気がする。

○色えんぴつ画(1回1,500円)

2016年から。月1回。友人の色えんぴつ絵の発表会を見に行ったことがきっかけで、同じ先生の別のサークルにまぜてもらった。今は人物画の練習中。(といっても月2,3時間しかできてない)

○英会話(1回500円)

2016年から。月に2回。『奇跡講座』が生まれたのはアメリカだし、いつかどこか英語圏のワークショップに参加してみたい。まだ会話できず。やっとRの発音ができるようになった。

○パソコン(1コース(20時間位)6,500円)

東京都主催の3日間のコースがあって、webサイトつくりに関係があるものに時たま参加。現在はCSSの講座受講中。何年も前から受けているけれど、復習時間が足りないためか、その方面のセンスがないためか、未だサイトづくりできず。

○色彩サークル(1回(0~1,000円)

月に1回。習いごとではなくて自主サークルで、持ち回りで先生役をやっている。色の世界も奥深い。12月に年間の自分のテーマを発表することになっているけど、まだな~んにも手が付けられてない。テーマ何にしようかなぁ。

習いごとは、節約という意味では「贅沢品」なのだけど、今や社会と私をつなぐものになっているから、大事。

分散してくれたらいいけど、月1回とか2回のものって、なんでか第2週に集中している。

パソコンの講座は、今年からwordpressのコースが新設されてぜひ受講したいと思っている。このブログ、テンプレートで作ったはいいけど、どう編集していいかわからず手に余っているから。

今日が応募締切日で、応募した。応募者多数の場合は抽選。結果は数日後?どうかな?

受講できたらいいな。

好きなことだけやっている今の私は、とても恵まれている。不安を口にするのはお門違いだな。感謝しています。

「樋田容疑者、逃走旅行を満喫」に不謹慎にも感心してしまう

2018-10-05

ここで取り上げるのはどうかと思ったけど、、、

8月12日に大阪府警富田林署の接見室から逃走していた樋田淳也容疑者が、9月29日ようやく捕まった。場所は山口県周南市の道の駅、万引き容疑だった。

驚いたのは、その風貌の違いと、逃走の過程。

漠然と大阪府内で逃走時とたがわない姿で潜伏しているのかと思いこんでいたけど、実際には、すっかり日焼けして「自転車で日本一周旅行している人」になっていた。

スポーツタイプの自転車には、たくさんの荷物が積まれていて、大きなリュックには「日本一周中」。サイクリングウェアも板についてそのものに見える。

いったいどうやってここまでの“装備”を手に入れたのかな?

大半は盗品らしいけれど、それにしても…、と思っていたら、リュックの「日本一周中」の紙は、なんと愛媛県庁で職員に作ってもらったものらしい。瀬戸内ではグルメ三昧の記事も。

すごい…

おいおい、楽しみすぎだろ。

隠れるのではなく、「自転車で日本一周」に目を向けさせて目くらましさせるとは。

逃走を許してしまった大阪府警は、このやりたい放題に忸怩たる思いだろう。

それにしても…。

やっていることは悪いことだけど、その厚顔さと行動力たるや…

悪事を働いたわけでなくとも、引きこもり気味なため社会に気後れしている私とは、大ちがいだ。

感心するのは良くないことなんだろうけど。

いや~、すごい。

せっかくのその力をよいことに使えばいいのに、と思うけれど、そうしないから犯罪者なんだよなー

この「すご~い」は、むか~し、ショーン・Kさんの経歴詐称騒動の時に感じた「すご~い」でもある(蒸し返してしまったショーン・Kさんすみません)。

不謹慎かもしれないけど、48日であそこまで印象がちがう人になれるなら、私の自己イメージだって変えられるってことかな、とヘンに「希望」をもらった私。。。

「自分を愛してあげて」 最初のdoは自分を愛すること

2018-10-03

最近は少し意識して聖霊の声を聞こうと思っている。

そんな今朝のワーク。

聖霊さんが私に何か伝えたいことは?…と心の内に耳を澄ますと…

自分を愛してあげてください」と小さな声を感じた(聴こえてはいない)。

「わからなくても、

ただ愛してあげてください。

私は神の子なる私を愛します』と心の中で、自分に伝えるだけでいい。

 

あなたは自己否定しながら、

何かをやらなくては(do)と焦っているけれど、

doの最初の一歩はこれですよ

 

自己否定しながら行うdoと、

自分を愛して行うdoは、

その行き先がまったくちがう。

まず落ち着いて、

自分を愛すると、意識したらどうですか。

 

そうなふうなことを言われた気がした。

働けていない現状に焦りがある。

おカネは不労所得もあって、今すぐ困るというわけではない。

過去の私のパターンからも、勤務するのが正解とも思えない(雇ってもらえるかというのがその前にあるが)。

できれば、在宅で収入を得られる小さなしくみを作れないか、などと甘いことを考えながら、そのスキルも身に付けられないまま時間が経っている。

体力気力ともに乏しく、めまぐるしく変化する世の中に付いていく能力も、コミュニケーション力もない、と思っている。

一方そういった自分を赦そうともしている。

その私に向けてのメッセージだろうか。

 

今朝のウォーキング途中、道の真ん中で70代と思しき男性が、乗っていた自転車に挟まるように倒れていた。

通行人の男性が車によけるよう合図を出しながら助け起こしているが、足が挟まってか男性はまだ立てない。

通勤の人は足早に駅に向かう。

私は足を止めた。大丈夫かな。

…と、その時、私の後ろから、自転車に乗ってきた女性が、自転車を降りてすっと助けに加わった。二人がかりで男性を起こそうとする。さらに別の方向から来た女性が駆け寄って加わった。

三人でおじいさんを持ちあげ、その下の自転車を取り除いている。

私は強い恥ずかしさを感じながら、その場を去った。

私、大丈夫かと思っていただけで、まったく動けなかった。

歩きながら、心配したけど非力な私なんかが近づいてはいけない、逆に足手まといになるという思いがあったのだと、気づいた。

助けに加わったのは、二人とも女性だ。判断はとても素早かった。

私ってば…、この世は幻想…と思う習性が身についたというのもあるのか、何でも一歩引いて見るようになっている。

それもあって動けなかったんだ、と反省した。

 

思えば、「この世は幻想だ」と言いつつ、逆に、私が今在るなかでは、私の方が幽霊みたいに幻想になってしまっているんじゃないか、と思った。

『奇跡講座』が意図するのは、こういうことじゃないだろう。

 

そんなこんながあって、今朝の“メッセージ”なのかな?とも思う。

稼いでいないのは不安ではあるけど、手元にあるおカネを使っているのだから、大目に見てもいいと思っている。

せっかくのこの時間とスペースを、好きに使えていて感謝もしている。

だけどだけど、やっぱり、自己否定があるかな?

それは、幼い頃からの自分のくせでもある。

 

最初のdoは自分を愛すること、かぁ…

まぁ、定番ちゃ~定番だけど、だからこそ、今の自分が意識すべきことなのかもなぁ

 

 

 

 

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