日々のこと・きもち

思い出したけど、忘れてしまったこと

2018-09-09

北海道の地震で東日本大震災時を思い出した

6日に起きた地震は、「北海道胆振東部地震」と名称づけられた。震度は震度6強から震度7へと訂正され、亡くなった方は37名、まだ安否不明の方もおられる。

一方、北海道全域で停電となったブラックアウトは2日後にはほぼ回復、新千歳空港では国内線に続いて国際線も再開、町に活気が戻りつつあるという。

でも液状化で家が傾いたり物が壊れたり、被災された個々人の生活は厳しいものがある。

私は、北海道地震の報道を見て、東日本大震災のことを思い出していた。

企業のテレビCMが消え、ACのCMがくりかえしくりかえし流され異様だったこと。

津波がすべてを飲みこんでいく怖ろしい映像。その後わかった福島第一原発の事故。そして政府や東電の対応。

テレビでは当初「メルトダウン」という言葉は決して使われず、「専門家」が「メルトダウンなどしていたら大変なこと」と何度も説明していた。

実際には翌日にはすでに1号機がメルトダウンしていたと思われる。原子力発電はCO2を出さずクリーンでしかも低コストと言われていたけれど、低コストどころか制御不能な怪物だった。

いかに自分の生活が電気に頼っているか。ひとたび地震を初めとする災害が起これば、電気や水が使えなくなり、店からは物が消えたちどころに生活が立ちいかなくなってしまうー。そのことに、あの時初めて気づいた。

「変わらなくちゃ」と思ったが、変わらずじまいだった

人間は頭がよくて、どんどんすごい道具を使って進化してきたはずだったけど、引きで見たら回し車をくるくる回しているねずみと変わらない。

動力は競争に勝つことだから、手段は変わってもそれが激しくなるだけなんだ。

東日本大震災の時、「大元でまちがっていた」「変えなくちゃ、変わらなくちゃ」と強く思ったのを覚えている。

だけど、どう変えなくちゃーと思ったのか、今ではすっかり忘れてしまっている。あの頃(2011年3月24日)、心と頭を整理するのに書いたメモがあったと、引っ張り出したが、あの頃感じた気持ちがおぼろげにしか思い出せない。

あれだけのことがあったのに、私はそこから学んで変わることはしなかった(できなかった)。見たくないことをフェイドアウトさせ易きに流れてしまった。

あの頃は、『神の使者』とも『奇跡講座』ともまだ出会っておらず、災害はあるいは神の意志で浄化の一環なのか?と思っていた。

震災時、一瞬真っ当になって思い出したこと。それが思い出せない。

あれから『奇跡講座』に出会った。

神には一切関係ない。神はただ在る。

赦しにはレベルの差はなく、大きなことを赦すのもささいなことを赦すのも同じだと学んだ。

テキスト1-1-1には、「奇跡に難しさの序列はない。一つの奇跡がもう一つの奇跡よりも『難しい』とか『大きい』などということはない。」とある。

けれど、大災害が起こって辛い方、悲しい方、大変な思いをしている方々を見て、そう考えるのはやはり申し訳なく思う。

幻想ではあると知ったけど、あの東日本大震災の時感じたことや思い出したことで、私にとって、とっても大事なことがあった気がする。

だけどそれが思い出せない。

大災害で頭をなぐられ、一瞬だけ真っ当になったんだ、あの時。あの感じ。

一瞬思い出したことで、また忘れてしまった大事なこと。それって何だっけ。

欲しかったものが降ってきた

2018-09-03

「欲しいと思っていたものだ、これ」

欲しかったものが目の前に降ってきたという体験をした。

先週のこと。

朝、住宅街をウォーキング中、何かが上から降ってきて頭に当たり足元に落ちた。

ん?

小枝だ。

どこから?道の脇に植えてあった木から落ちたのかな?と見上げる。

2,3秒して気づいた。

あ~、これ!

私が欲しいと思っていたものだ!!

カフェカーテンのポールに使えるんでは?

私は今の家で、流し台に向かいあうような形でキッチンボードを置いている。キッチンボードの裏をリビングに向けることになるが、梁があるからそこしか置けない。

そのキッチンボードとキッチンの壁の40㎝くらいの隙間に、目隠しとなるカフェカーテンみたいなものを付けたいと考え、ホームセンターで生地を買ってきていた。

一緒にカフェカーテン用のポールも買ったが、ほんの狭いスペースに存在感ありすぎた。太めで手持ちのフックにも収まらない。

もっと華奢でナチュラルなものがないかーと思っていたのが、まさに前の日。

そうそう、この枝!

これがちょうど使えるんでは?

私は小枝を拾い、小学生の男子がするようにぐるんぐるん回しながら、家まで帰った。

そうして、カフェカーテン用の布に通してみた。

うん、細さはちょうど。ナチュラル感もある。

ちょうどよいみたい。ラッキー♪

イメージしたものが得られたことが自信に

たった小枝ごとき。

人から見たら、単にゴミみたいなもんが頭に落ちてきた出来事だけど、私には自信になった。

おカネが介在しなくても、イメージしたものがまさに手に入った経験。おそらくこんな枝はホームセンターで探しても見つからない。

これから、どうやって収入を得ていこう?

どうやって生きていけば?

不安を感じていた私に、「必要は満たされる」とのメッセージのように感じたからだ。

勘ちがいかもしれない、おめでたいかもしれない。でもいいのだ。ラッキー、満足。感謝!

そして、ふと、人工的なものはたいがい直線でできているけれど、直線ばかりだと不自然で緊張度を増してしまうのかな?

直線は、うまい曲線の組み合わせが難しいから直線となっているだけで美しい曲線の代用品なのでは?とも感じた。

前住人の方のお家と思って遠慮がちだった空間…ふと見回せば自分になじむものになってきている。

若さへの執着というより、自分への執着を捨てなさい

2018-09-02

「自分は捨てなさい」とメッセージ?

昨日は、久しぶりにパソコンの講習だった(Dreamweaver)。9時~16時半までという長丁場だったけど、刺激を受け楽しかった。今度こそ使いこなせるまでになりたい、と思った(去年もそう思った)。

帰り道、急な土砂降りとカミナリに見舞われた。今年は本当に天気が極端だ。幸い日傘を持っていたので、日傘をさしバッグを抱えて家路を急いだ。

今朝は雨が上がって曇り。少し涼しい。秋だ。

今朝のワーク中、「私は、若さや美が幻であるにも関わらず、そこに執着しそれをリアルにしているんだろうか(参考日記:『奇跡講座』学習者らしからぬ!? 買物)」と自問した。

そうしたら答えのようなものを感じた。メモしておこうと思う。

     *    *    *    *    *    *    *

「すべてを捨てても、あなたは美しい。

“問題”があるとすれば、あなたの若さや美への執着というより、

自分自身への執着だ。

「自分」は捨てなさい。

小さな「自分」があるから、人の反応や言動が気になる。

あなたは「神」より「自分」に執着している。

そして個として、神に近づきたいと思っている。

だが「神」と「個としての自分」は両立しない。

個として立つ自分はいない。

自分じゃない、神なんだ。

自分という個から、自由になれ。」

そして最後に

God is.

という余韻を感じた。

自分を捨てるとはどういうことだろうか。

果たして、そういう感じにまでなれるものだろうか。

「自分を捨てる」これがこれからの私の大きなテーマなのかな?

「この世で神を見る」ゲームに意識的に参加する

またこうも感じた。これは感じたというより、私が思ったこと。

現代はゲームが大人気で、多くの人がゲンジツから離れて様々なゲームを楽しんでいる。社会全体がゲーム化しているとも言える。

「2022年 アジア競技大会」では、コンピュータゲームの腕を競い合うeスポーツが正式なメダル種目になるとかならないとか?

でも考えてみたら、この世界自体すでにゲームなんだ。リアルじゃない。

だとすれば、趣味でサバイバルゲームに参加する人みたいに、もっと意識的にこの世を徹底的に巨大ゲームだと思ってやってみたらどうだろう?

自分を取り巻く社会や環境で、

神以外のものをやりすごし、

神を見つけ、神を感じ、愛し、感謝する。

そういうゲームだって。

この世は、まがいもんに足を救われず、神を見つけるゲームだ!

そして、私は分厚い玉ねぎみたいな衣装を着て参加しているけど、まがいもんに足を救われず、そこで神だけを見ることができたら、その皮を一枚剥くことができる。

そうして、少しずつ軽く自由になりながら、個の身体を離れるまで身軽になる…

また残暑がぶり返すかな?

短い秋を楽しみたい。

『奇跡講座』学習者らしからぬ!? 買物

2018-08-31

表情筋を鍛えるPAOを買った~

ふだん質素に暮らしている反動か、引っ越しのどさくさに紛れて財布のひもが緩み、いくつか引っ越しとは関係のない買物もした(実は浪費グセもある)。

それの一つが、これ、

PAO(パオ)

バーの真ん中あたりにマウスピースを付け、それを口に加えて振ることで顔の表情筋を鍛えるという、フィットネス器具だ。

私は、ブランド品も貴金属もまったく持っておらず着飾ることには関心がない方だが、一方中身の体のアンチエイジングには、かなり関心がある。

前はビデオでフェイスストレッチングしていた

特に顔の筋肉を鍛えることには関心が高く、何年も前からフェイスストレッチングのビデオを見ながら一緒にストレッチをしていた(今は、顔ヨガっていうのかな?)。

約30分のこの時間は、顔の筋トレ&ストレッチをしながら英語の勉強をしたり、一日を振り返ったり、なかなかリラックスできる時間だった。

世はDVD&ブルーレイ化。以前「このビデオをDVD化したいのですが」と専門業者に問い合わせるも、「著作権にかかわる」ということで拒否され断念。地デジ化に移行したのちも、家のテレビデオでせっせとストレッチしていた。

しかし、ついにビデオが壊れて、できなくなりー。

そんなおり久しぶりに会った母の一言

あんたも、ぽっぺた弛んできたね

ガーン(´・ω・|||)

そぉ、やっぱり?

家族ほど正直なものはない。

加齢はあたりまえ。だけど、もう少し若さにしがみつきたい。

PAOの存在は発売当時から知っていたけど、1万円を超える価格はやっぱり高い…。

口に加えて振るっていうのも、なんか滑稽?、いくら若さって言ってもねぇ、と思っていた。

だけどフェイスストレッチングビデオに代わるものが欲しい。

で、買った。

そいで、毎朝ぷるぷるしている。

なんか鍛えられている感はある(フェイスストレッチングの方が好きだけど)。

若さと肉体への執着&『奇跡講座』の学習で、分裂中

しかしー。

なんという若さと肉体への執着!

『奇跡講座』学習者としてあるまじき買物では!?

最近やっているワーク復習Ⅵには全体を貫く機軸の概念があって、それは、

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから。」というもの。

この概念を朝、夜、そして毎時きっかりにくり返す、とある。

PAOでぷるぷるしながら、

「私は肉体ではない。」

もー、完全に分裂しているヾ(- -;)

私は、この世は幻想であり、自分の肉体もまた幻想で、別の所からの投影で見ている(と思っている)ことを知っている。

だけど、だけど、

同じ幻想なら、こぎれいな幻想でいたい。

…あっさり手放すことはできない。

エゴの思う壺にはまっているのか。

あ゛~

私の道(My Course in Miracles)は果てしなく遠そうなのだ。

女ひとり暮らしの限界を感じた日

2018-08-28

本棚の上に、転倒防止グッズの代わりに棚を入れることにした

今年の夏、とくに7月は、今思い返しても暑かった。6月中に引っ越しが終えられて、本当によかった。

引っ越しの荷物の片づけ中に、圧倒的にひとり暮らしの限界!を感じた日があった。

7月収納棚を本棚の上に乗せた日だ。

仕事スペースに置いた本棚に地震対策の転倒防止ツッパリ棒みたいなのが要るかと思っていたが、どうせ収納が足りないのだから天井までぴったりの高さの収納家具があればいいのでは?

そう考え、本棚から天井までの高さ(58.3㎝)に入る棚を探してみたら、、、あった!

山善(YAMAZEN) フリーボックス ホワイト(3,125円:購入時)

「幅が58㎝」とあるから、これを横にして使えば、ぴったりの計算。

おー、ラッキー。

注文したら翌日すぐに届いた。そして組み立てた。ここまでは順調だった。こういうのは、けっこう得意なのだ。

思ってたより重くて、持ち上げられない

しかーし!

問題はここからだった。

思ったより、すごーく重い!!

どうせ木か紙のチップでできているのだろうし、普通のカラーボックスくらいならお茶の子さいさいだと思ったいたが、とんでもない重量感だ。単に私の筋力が衰えたためなのか(後で見たら11㎏とあった、もっと重く感じた)。

一人ではまったく持ちあげられない。なんとか2秒くらい、片っぽをえいっ、と上げるくらいが限界。

でも、本棚転倒防止のために買ったのだ、乗せるのだ、と管理室から、脚立を持ってきて、うんにゃ、うんにゃ、と棚を引きずり上げようと試みた。

エアコンを付ければいいのにまだ自分の家という感じがしなくて、エアコンに触りづらく、汗だくになりながらひとり棚と格闘した…、これではぎっくり腰も完治しないわけだ。

脚立の上まで引きずり上げたけど、にっちもさっちもいかなくなった

えっさえっさとなんとか脚立の上まで引きずり上げた。頑張ったぁ。

だけど考えてみたら、この棚と棚を置く隙間はぴったりだ。片っぽをえいっと持って引きずり上げる方法は使えない。ぴったりすぎて水平にしないと入らないのだ。

あ゛~(*_*;

もう、棚を置くの諦めたい。

しかし、今となっては脚立に乗せてしまった棚を下ろせない。自分の力では支えられないから、ドスンと落とすしかない。

この重い物を脚立の上から落としたのでは、床に傷が付くこと必至。下の階の方は何事かと思うだろう。ここに至るまでにも、壁紙、タンスとすでに傷つけているのだ。

上げることも、下ろすこともできない。

もー、泣きたい(>_<)

地元の掲示板ジモティで家具を売った際、引き取りに来た女の人はみな連れの夫や男性を手足のように使っていた(ように見えた)。

「35億」と「あと5000万」この地球上に男性がいるというではないか、でも、

この窮地に助けてって言える人、

私にはひとりもいないんだぁ~~~!!(自業自得)

頼れる人はいない、ひとりでなんとかしなくっちゃ

うんと暑くて、そして情けなくって、汗と涙を同時に出さんという時、ん?とひらめいた。

水平にしなきゃ、入らないんなら、脚立の上で水平にしたらいいんじゃ?私は、1,2という2秒だけは片っぽ持っていられるから、その間にここにある本を挟んだらどう?

とりあえず、やってみた。

 

そ~っと、そ~っと、右側に、そして次に左側に、脚立と棚の間に本を差しいれる。大きめのパソコンの本にした。

それで、1冊ずつ入れて、本棚と同じ高さにした。

それから、えいやぁと渾身の力を入れて、本棚の上に滑らせた。

バランスを崩しそうになったけど、なんとか入った!

なんとか乗せられた。

我ながらすごい…

しかし、なんともいやはや…

力尽きた。

 

言われるまでもなく、ひとりでできることには限界ある。

身を持って知った7月だった。

「存在感の美しいひと」

2018-08-25

「存在感の美しいひと」を具体的にイメージしてみたら

昨日「存在感の美しいひと」への憧れがある…、と書いたけれど、それはどんな人なのか改めて考えてみたら、イメージがあるだけで具体像はよくわからなかった。

私は、昔から、きれいな人やかわいい人が好きで憧れがあり、それと重なる部分もあるような、別物のような?

好きな本『アナスタシア』(響きわたるシベリア杉 シリーズ)の主人公、アナスタシアはそのイメージに近いかな?

この話は二元論のこの世をベースにしてはいるものの、アナスタシアの在り方が『奇跡講座(ACIM)』の考えに近いように思えて、勝手にACIMの副読本のような位置づけにして、時たまだけど、くりかえし読んでいる。

何日か前のコメントで、トベさんが「アナスタシア好きです♡」と下さって、そっかぁ、とうれしくなった。

以前親しい友だちにこの本をあげたことがある。読んでくれた友人は「これはファンタジーで、アナスタシアは実在しないと思うわ」と言っていたが、私は実在すると考えている。

アナスタシアのメッセージはとっても素敵だ。ただ、書中に「素晴らしく美しい若い女性」と描写されていることが、やはり影響力を何倍にもしているなぁと思う。

人(私)は、見た目に左右されるのだ。

憧れのソニアさんにはシカゴに会いに行った

40代に入ったばかりの頃は、いわゆるスピリチュアル本をたくさん書いている直感の先生ソニア・ショーケットさん惹かれた。

少し魔女っぽくて、女性的で、華やかさもあって、ポジティブで。

私はシカゴの彼女の自宅にリーディングを受けに行ったくらいだ。もう15年も前のことになる。

素晴らしいメッセージをくれて、大いに背中を押してくれた。そして、その晩シカゴ市内で開催されたワークショップにも飛び入り参加の招待してくれ、とてもエキサイティングな体験をくださった。

 

日本人の方ではどんなだろう

日本の方でイメージに近い人は誰かな?と思ったら、吉永小百合さんが浮かんだ(ちょっと大御所感があり過ぎるか?)。

清楚でやわらかいが、弱さとはちがう圧倒的な美しさ、存在感がある。しかし、出演作等は見たことがない。

どこに存在感の美しさを感じるのか。出演作、たくさんあるのだから、見てみようか。

綾瀬はるかさんも、きれいな人だな、と思った。

いわゆる美人ではないのだけど、透明感(美白ゆえ?)、存在感の美しさが際立っていた。

今は市場で引っ張りだこで消費されている感を感じるが、消耗せずにずっと輝き続けてほしい。

そう書いていたら、前に小林麻央さんのことも、このブログの中で「存在感が美しい」と書いていたことを思い出した。

きびしい闘病のなか、お子さんのこと、ご自分のこと、日常を細やかに見て前向きに愛情豊かにブログを続けられ、その姿勢に頭が下がった。

あたりまえと思っている毎日がとても尊いものだと気づかせていただいた。

憧れの…存在感の美しいひとはみな女性?

わかったような、わからないような?

あ、今、気づいた!

みんな女性だ!!

自分にとってあたりまえすぎて、気づかなかった。

もちろん、男性にも「存在感が美しいひと」たくさんいる。

でも、自分が女人間だから(この世では!)自然と憧れも女性になったのかな?

たとえ、神の子はひとりで個々の存在は幻想だとしても、憧れがあるのは楽しい。イメージしているだけで気分が良くなるから。

「『奇跡講座』ってなぁに?」

2018-08-22

ブログはナイショのプロジェクト!?

私は、機械オンチながら、なんとかホームページを自分でサクサクと作れるくらいになれたらいいなぁ、と思い、年に数回、東京都主催のHTMLやCSSの短期講座に通っている。

その講座で何度か一緒になり、たまにメールのやりとりをするようになった友からメールが来た。

なんでも、「WordPress悪戦苦闘中」らしく、私のサイトを参考にしたいからもう一度アドレスが知りたいと言う。

一瞬だけためらったけど、「『奇跡講座ダイアリー』といいます」、と返信した。

そう、前の講座で一緒になった際、「WordPressでブログを作っている」と話していたんだ。

参考にといっても、これは本の付録として付いていたテンプレートそのまんま使っているもの。古くもなっているのに自分では編集もわからず、往生しているところなのだ。

実は、私はブログをやっていることを、近しい友人2人にしか話したことがない。

「Facebookやってないの?」と聞く人はいるが、「ブログやってないの?」と聞かれることはまずないから、積極的に話すこともなかった。

「奇跡講座ってなに?」

ほどなく、「素敵に作っているね」と返信をくれた。

あ、ありがとう(・・*)ゞ(作ったのはデザイナーさんだけど )

そして、その後、

「ところで、奇跡講座ってなに? 宗教なの?

と。

そうだよね~、あやしいよね。

私は、

「教祖も組織もないから、宗教とはいえないかな?」

と言い、そういうタイトルのテキスト、マニュアル、ワークブックから成る本があること、それを独学していることを伝えた。

まったく自分本位なブログ

そうそう、そうなのだ。

このブログ!

普通、私が関わっていたビジネス支援の仕事では、事を起こす際、真っ先に「ターゲットを想定する」ということが定石中の定石だ。

しかしー。このブログー、まったく自分本位な学習ブログで、読者が念頭にない。

『「手帳ブログ」のススメ』という本を読んで、日々の記録をブログで綴ることの素晴らしさに共感して、作りたいと思った。

今は、自分の道(My couese in Miracles)の一里塚、あるいはワークのスタンプラリーシートみたいな位置づけでモチベーションアップに繋がっている。記録や復習としても役立っている。

だけど、世の中に晒しているのを考えたらー、

ACIMのことを知っている、ワークをやったことがある人というのは、いったい人口の何%だろう?

圧倒的多数の知らない人にとっては、なんのこっちゃ??、だ。

知っている方に対しても、特段のメッセージ性があるとも思えないし。

それは最初から感じてはいた。

手帳ブログだとしても、なんとも不親切なのだ。

『奇跡講座』のエッセンスをまとめて、伝えてみたい

そういえば、最初に、『奇跡講座(ACIM)』のことを知らない方にもわかりやすいように、ACIMのエッセンスをシンプルにまとめようかな、と思っていたっけ?

しかし、その作業はもっとちゃんと理解しないとできないや、間違った解釈を書いてしまってはいかがなものよ、と思い、手をつけることができなかった。そのまま放置している。

そのことを思い出した。

「ちゃんと理解しないとまとめなんて無理」と思っていると、一生できないだろう。

解釈が違うかも、は、それぞれ異なるのは避けられない。「私による」でいいんじゃ?

学習ブログという位置づけはよしとして、周りにもう少しやさしく、親切でもいいんじゃないか。

いくら内向きな性格で(^_^;)と言い訳しても、本当にそうだったら、そもそもブログなんて作ってないんじゃね?とも思うし。

「うまくあれ」から卒業したい

2018-08-21

額装した色えんぴつ画をグループ展会場に持っていったら、すでにたくさんの絵があり、みんな、すごーく、うまい。

はーっ、すごいな~(・-・`* と、いくぶん気落とされ圧に飲まれて帰ってきた。

採点されるわけでも、競っているわけでもないのにね。

帰り道、

しかしー、「うまい」とは何ぞや、と自問する。

写実性をうまいとするなら、写真の方が上だろう。

じゃあ、私にとっては、どうだったらうまいのかな?

幼稚園の頃は好き放題に絵を描いていたのに、その自由さを失ったのはいつからだろう。

私、仕事でも人生でも「うまく」あろうとし、でもどうだったら「うまい」のかもわからずに、何かに忖度してきた気がする。

でもその何かと本質的に合わなくて、40すぎたあたりから、落ち着きどころを模索しているような?

だったら、もう「うまくあれ」から、卒業したらいいのにね。

いつも、周りの顔色が気になって、自分であることを手放してしまう。

それこそ、クリアしたらいいのに。

もしかしたら、その自己表現の力をつける、そのために絵を描いているのかな?

見えないものを描くのはむずかしいな

2018-08-19

帰省は“昭和”というくにへの心の旅!?

一昨日、金沢を経由して友だちと会って東京に戻ってきた。これが近年のお盆、お正月帰省のパターンになりつつある。

たった数日母と実家にいるだけで、すっかり東京の自分を忘れてしまう。東京―実家は、他国に行くより遠いような気がする。そんな私にとって金沢は緩衝地帯でもある。

友だちと夕ご飯を食べながら、近況をあれやこれや話すうちに、元の自分の感覚を思い出していく(大げさか(^_^;))。

上野着。深夜12時の山手線には、たくさんの東京人の顔があった。ふだん見慣れているはずの、その顔、顔…。それがちがって見える。

どういったらいいんだろうか。刺激に晒され、順応している顔だ。疲れているだろうが、ぬぼわぁ-んとはしていない。夜の飲み会などの後だからだろうか。

東京と実家はなんて異なる世界なんだろう

私が行っていたところは、富山県の中でも“昭和”というくにだったのかもしれない。私にとって、遠くて近い、近くて遠いところなのだ。

どこかにある…神が降りる場所

昨日は、趣味の色えんぴつ画の生徒作品展のための絵を仕上げていた。

以前、黒部峡谷のトロッコ電車の車窓(といっても、開放車両で窓はない)から撮ったうなうなづき湖が題材だ。

うなづき湖は、黒部ダムのためのダム湖、つまり人造湖なのけど、深い森とエメラルドグリーンの湖水に神聖さを感じて心惹かれた。

8月の色えんぴつ講座はお盆帰省中で、実家にいた私に「先に作品名を知らせて」とLINEが来た。

タイトル…、私の心の中では、「神が降りる場所」「神が遊ぶ場所」なのだ。もちろん、あくまで私のイメージ。

神は物質ではないから、神性を感じる場所、自分の中の聖霊の存在を感じる場所という意味だ。

だけど、とても、そんな大仰なことは言えない。「『うなづき湖①』『うなづき湖②』でお願いします」と返した。

聖霊が喜ぶ、神聖な、というイメージはあるのだけど、それをどう表現したらいいのかわからなかった。

お気に入りの本に『アナスタシア』(響きわたるシベリア杉 シリーズ)があるが、その女神のような主人公、アナスタシアが湖畔に姿を現しそうなイメージを描きたかったんだけど…。

見えないものを肉眼で見えるように描くのは難しいな。

根気が続かず、「なんか違うけど、まぁ、いっか」と額装に世界堂に向かった。

絵を見て、自分が聖霊を思い出せばいいわけだから、目的は達成されているかな。

わりと涼しくて過ごしやすい。天然の風が心地いい。

実家でもエゴトラップにまんまと引っ掛かる

2018-08-17

実家でワークブックを開くも…

帰省前は、家でACIMワークを進めようと、ワークブックをコピーして持ってきた。

しかし、実家では、ほとんどできなかった。

意志が脆弱なためか、実家の空気に飲まれてしまい、その気がなくなってしまう。

母は半分独り言のように、床に就くまで話しかけてくるから、自分の考え自体がまとまらなくなる、というのもある(これを私は「脳ジャック」と呼んでいる)。

今朝こそはと「仕事をするから、しばらく話しかけないでね」と、物置として使っている部屋に入ってドアを閉めたが、まもなく「ちょっと~」と声をかけられて中断。

「なぁに~?」と声を上げると、

化粧をしながら部屋に入ってきて、「日焼け止めって、化粧した後から塗ってもいいかな?」ときて、ずっこけた。

「どっちでもいいんじゃない?」

「そうやね、わかった」と部屋を出ていった。

4,5日ならいいけど、母と一緒にずっと住むのはやっぱり難しい、と思う。

赦すべきお題はちゃんと提示されていた

そうして、再びワークに戻ろうとした時、ようやく気づいた。

母の横やりは、私のエゴの横やりに他ならないと。

それに対して私はいつもイライラしてしまって、まんまとエゴトラップに引っ掛かっているのだ。

それこそが、今ここで赦すべきお題として出てきていたのだった。

実家が、私のACIM(A couese in miracles)から遠いと思っているのは、ACIMをコントロールしたい私のエゴなのだ。神は常にそばにいる。

今朝は猛暑から一転、初秋を含んだひんやりとした東風が窓から入ってきた。

その風の感覚が、生まれてから18年、この地に住んでいた記憶を呼び起こした。

体の細胞に眠っている無意識が揺り動かされる感じ。

ここにも、まだまだたくさん赦すべきことが、眠っている。

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