奇跡講座ダイアリー

いろんなかたちの恐怖と、それを赦すこと

2017-09-15

再びのミサイル発射と恐怖心

今朝7時、北朝鮮がまたミサイルを発射した。

初秋のさわやかな風を感じながら、ウォーキング中、信号待ちでスマホのニュースを見たら、このニュース…!今度は北海道上空を通過って…。

だけど、びっくりした…と同時に慣れっこにもなりつつあった。

「日本を核爆弾で沈める」「米国を焦土化」…昨日北朝鮮が発表した声明もさらに過激になっている。どういう勝算シナリオがあって、こんなこと続けるんだろう。金正恩の心がアメリカに対する恐怖と羨望でいっぱいなのはわかる。いったい、若い指導者は北朝鮮の国民を連れてどこに向かおうとしているのだ。

そして、これは私自身の投影でもあるのだと思い出す。

私の人生に映し出されるすべてのことは、赦すためにあるという、ACIMの教えを思い出す。恐れは、その心が恐れたものをその心にとって実在化して、恐怖をさらに大きくしていく。百害あって一利なしだ。

わかっていても、恐れている心は恐れに飲み込まれる。恐れるがあまり、思考停止に陥ればもっとも愚かな行動をとってしまう。小さな不安からパニックまで対象や大きさはちがっても、恐れの本質を知ってそれを手放すというというのは、私たち人間にとって大きな普遍的テーマだ。

聴いてもらって楽になった

一昨日は、月1度のカルチャー講座、ユング心理学の日で、講座後、先生と受講者みんなで喫茶店に行き夕ご飯を食べた(みんな、といっても4人だけど)。

雑談のなかで、私はついついフリーランスの仕事が減ってこのままでは生活が回らないことや、最も難度が低そうな近所の小さな会社の在宅仕事に応募したけれど面接まで至らず落ちたことなどなどを話した。

これも不安や恐れの気持ちが根底にある、いわばグチだから、誰かに話すことは、「それを自分が認め、リアルにしてしまうこと」で、良くないこと、慎むべきことだと思っていた。だから、話すこと自体がなかなかできなかった。

だけど、話をして聴いてもらったら、なんだかスッキリ、楽になった。堅かった心がほぐれたというか…

話していくうちに、ずっと前から経済的に不安定ながら細々とでも奇跡的に回ってきたこと、必要な時には必要なものがただで手に入ったことなども思い出した。

先生は、私がずっと『奇跡講座』を勉強していることを知っておられ、「あなたケチよ、わかちあいいなさい」とおっしゃった。また私のことを「自閉ね」とも。(いろいろ言われたけど、それだけ覚えている)。

ケチ、自閉…というのは、そんなに自分が素晴らしいと思っているACIMをただ密かに内に籠って勉強していることを指しているのかな?

その日は久しぶりに自分の感情を話したので、テンションが上がってしまい、いただいたアドバイスをちゃんと聴くということができなかった。そもそも人と要件以外を話すこと自体が久しぶりでもあった。

でも、よくわからないけれど、帰りには、ゆるく甘い私の話を聴いてもらって、何だかうれしいな、ありがたいな、という気持ちになっていた。

そこに愛とかわかちあいとか、感じた。

次のお題は、自閉を脱し、自分の本音をわかちあうことかな。

私にとって手放すべき恐怖は、経済的不安というより、人と触れ合いわかちあうことへの恐怖なのかもしれない。

レッスン148-レッスン135、136の復習

2017-09-13

1つめの求人、落ちた

9月10日のダイアリーに応募したと書いた「在宅ワーク」の仕事は、面接までたどりつくことなく、あえなく落ちてしまった。

在宅で出来高制の単価が安い内職的仕事。自宅から歩いて10分位のところにある小さな会社。ネットから名前、住所、年齢で申込んだ。

「慎重に協議いたしましたが、誠に残念ながら、
今回は採用を見送らせていただくことになりました。
ご希望に添えず恐縮ですが、なにとぞご了承くださいますよう
お願い申し上げます。」

4日後に来たメールにはこう書いてあった。「慎重に協議」といっても、名前と住所と年齢だけでの申込み。やはり50代という年齢で、会うに及ばずとなったのかな。

ここ10年位、フリーランスで活動していて会社自体が敷居が高い私にとって、最も低い「敷居」だと思ったけど、それすら超えられなかった…

まあ、会ってから断られるより、楽といえば楽だ。

一方で、フリーランスの仕事のほうで、ある会社から「相談したいことがある」という依頼メールが来た。たった一回の相談で生計が成り立つものではないけれど、ありがたい。下請け、孫請けで仕事をすることが主な私にとっては、直接会社からの依頼はレアケースだ。

ただ、その「相談」内容は私がとくに強い分野ではないので、約束日時までに勉強が必要。「専門ではないですが」と断りを入れることもできたけど、そうはしない。

来るものは拒まず。受ける。

レッスン148-レッスン135、136の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン148の2つの復習

L135)自分を防衛するなら、私は攻撃される。

L136)病気は真理に対抗する防衛である。

ワークをして

9月11日、12日にした。復習課題の本文を読んでみると、改めて、すごいことが書いてあるな~と思った。特に今の私のアンテナに引っかかったのは、レッスン135。

未来の計画、過去のふりかえり、現在を整えようとすること、これらすべてを防衛だと指摘しているからだ。

癒された心は計画を立てない。自分のものではない叡智に耳を傾け、そこから受け取る計画を実行する。」(L135-11-1,2)

現在の信頼だけを防衛とし、それに未来の方向を決めさせなさい。」(L135-19-2)

今後の生活費をどうしよう、貯金を食いつぶしている、このままではいられない、と求人サイトを見て、世に溢れる、だけど私は求められていない求人情報を前に「とにかく何とかしなくっちゃ」と気が動転していた。

いったん不安のスイッチが入ると、パニックになり考えがまとめられなくなってしまう。そもそもどうしたくて、どういう仕事ならば私でも先方に受け入れられるか、どういう働き方だったら続けられそうか、という前提さえ、落ち着いて考えられなくなっていた。

しかし、レッスン135の言うとおり「現在の信頼だけを防衛とし、それに未来の方向を決めてもらう」姿勢を選ぶべきなんだよなと、ワークをして少しだけど、我に返った。

「何らか計画を立てて、ちゃんと対処しなきゃ」と思っていたけれど、落ち着いて聖霊に委ね、その導きを待てばいいのかと思えてくる。

ちょうど在宅ワークの求人に申し込んだその日に、フリーランスの方の「相談依頼」が入った。それは聖霊さんが与えてくださった仕事なのか?

そう考えるのは調子がよすぎるか。

最近ひとり暮らしの人の「貧乏・節約ブログ」をよく見ている。それが、中高年以上のシングル女性だとよけいに親近感がわく。みんな、よく頑張っているな~、と思う。私は、甘々だ。

昨日の夜のワークでは、終わりに

「自信をもて」と感じた。

その自信は、これまで細々とだけれどACIMを続けてきたことと、特別な専門分野があるわけではない私が経営がらみの仕事にフリーランスでずっと関わってきたこと、その両方に対する自信を含んでいるようだった。

そう、私に必要なのは、「自信」なんだ。そして、本物の自信は、自分を導く聖霊への信頼、なんだと思う。

アファメーション

自分を邪魔をしているのは自分だ。本当の自分に委ねよう。

レッスン147-レッスン133、134の復習

2017-09-11

レッスン147-レッスン133、134の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン147の2つの復習

L133)私は無価値なものに価値を置かない。

L134)私が赦しをありのままに知覚できますように。

 

ワークをするにあたって改めて、該当する復習の本文を読むとむずかしい。そして意味深い。。とくにレッスン133に反応した。

無価値なものに価値を置かない。

私たちは肉体とその寿命を持ってこの幻想の世に生きていて(と思っている)、その維持のために必要なことはやっぱり「価値がある」と思うから。たとえばACIMは「食べ物」まで無価値だから手放せと言っているわけではないだろう。食べ物が必要なら、それを得るためのおカネや仕事も必要…となる。

それらを幻想だと見抜き、ただ必要だけ満たし、そこに頓着しないこと。ACIMが言っているのはそういうことなんだろうと思うけど、ワークブックの言葉をどの程度「文字どおり」に受け止めたらいいのかわからない。

この世の永続しないものすべてを「無価値」だと思うと、経営支援がらみの仕事なんて、その幻想世界でいかに勝つかみたいなゲームに思えてきて、心はどんどん遠ざかるばかりだ。

いや、もしかしたら、私の解釈がまちがっているのかな。私の仕事に対する関わり方や思いが変わったら、それは価値あることに変えることができるのだろうか。

自我(エゴ)のゴールは「探せ、しかし見つけるな」だから、この世のどんな成功や栄誉を追求しようとしても、決して「満足」という知覚で終えられることはない。そういうものだ。

自我のゴールには、求めた結果が得られないだけれなく、傷みが伴う。それを追求者は自我の性質ではなく「自分がだめだから」と自分の罪と見なす。

そうではなく、自我のゴールを実在のものと勘ちがいして求めたところにまちがいがあるのだけど、まちがいとは捉えず罪と捉え、自己処罰の思いが残る。自我のワナだ。この世の人生という道のりは、頑張れば頑張るほど自我のワナに落ちるようにできている。

ワークをして

8日と10日にレッスン147をやった。ここ最近おカネの不安から求人サイトを見て、そこから「世間」を覗き見ていた。

ワークをして浮かび上がったのは、私が仕事に応募すること自体にすごく強い恐怖があるということ。それが何に対する恐怖なのかと感じてみたら、

・もうその仕事の募集が終わってしまっていること

・年齢が高いこと他で会う前に落とされてしまうこと

・履歴書を書くこと(過去の自分に直面)

・面接で人と会うこと

・落とさせること

・決まったとして、仕事や人になじめず嫌な思いをするリスク

・自分の貴重な時間を取られてしまう、その割に大したおカネにならないリスク

などなど諸々あった。が、その奥に根幹となる「自分のエゴが傷つくのが怖い」があるのがわかった。エゴはプライドと読みかえることもできる。

これこそ、私が動けていない元凶であり、私がいま赦すべきことなんだとわかった。

おカネの心配、仕事の応募に対する不安…。もう使えるおカネない、仕事探さなきゃ。これできる?これはどう?…でも応募するのも怖い。アクセルとブレーキを同時に押す→固まる。。。

そうして気ばかり急いて目の血管を切って、文字どおりの「血まなこ」になっていた。

赦すということは、存在しないことを認め手放すことなんだよね。渦中にいる時にはすっかり忘れてしまう。

赦しは、この世の幻想性の中で真理を象徴する唯一のものである。」(L134より)

赦しさえすれば、そして聖霊に委ねさえすれば、道は開かれる。そう思ったら、少し心安らかになった。

アファメーション

思い出したら、そこで赦そう

2017-09-10

あこがれはネットビジネス!?

土曜日は前週、昨日とパソコンのウェブサイト管理ソフト「Dreanweaver」の講習だった。3日間コースだから来週で終わりだ。

引きこもり傾向のある人ならだれでも一度はインターネット経由で収入を得ることを考えたことがあるんじゃないだろうか。こもる傾向のない人でもいるかもしれない。

私は十年位前から「ネットでビジネス」に関心があり、何をやるかのアイディアはないけれど、ホームページをさっくり作れるくらいにはなりたいな、と、HTMLやCSS、Dreanweaverなど東京都の安い講習を受けている。

今回の講座、実は去年もおととしもこの講習を受けた。でも全然使いこなせるようにはなっていない。同じ講習を何度も受けるのは恥ずかしいと思ったけれど、身についていないのだから「講習の恥はかき捨て」とばかり、また紛れこんだ。

講習を受けている時は、操作についていくのが精いっぱい。ついみんなから遅れ、手を挙げて補助の講師の先生を呼ぶ。反応が人一倍遅い。

スキルはあとで自分のサイトを作るなどして復習しないと一生身につきそうにない。できる人は独学でもどんどんやっていくから、単にセンスがないのだろう。

働く場所や時間に制約されない収入のしくみが欲しいな、と思いながら、そのための試行錯誤もせずに、もう何年も経ってしまっている。

毎年のように受けている講習でも説明される内容が変わってきていて、ネット社会もどんどん変化していると感じる。

もしも技術が身についたとしても、ネットを使ってそこから収益を得られるようになるまでにだどり着けるかな。収益を得るのは無理でもホームページだけは作れるようになりたいな。

求人の方は先週住んでいる町内の「在宅ワーク」の募集を見つけ、とりあえず申し込んでみた。時給でなく出来高で働く仕事。もしかしたら、年齢で落とされ、面接までもたどり着けないかな。

中高年のひとり暮らしの方々のブログを読んでいると、「みんな頑張っているな~、えらいな~」と思う。私はこれまで恵まれていたとも気づく。

常に欠けた部分を見て不安や心配を感じてしまうけれど、こうしたことを赦し、今を喜びたいと思う。

レッスン146-レッスン131、132の復習

2017-09-08

「戦闘モード」で赤目に!?

おととい夜、歯磨きの際鏡を見たら、白目が真っ赤。充血とかではないレベル。ネットで見たら「結膜下出血」というらしい。

昨日会った人には「私もなったことある。お医者さん行ったら、老化現象だって言われた」と。動脈硬化や高血圧、糖尿病などが隠れている場合もあるとか。

ここ数日、自分の中では、新たに収入源を見つけねば…と頭に気が上り「戦闘モード」になっていたから、血圧が高くなっていて、ブチっと眼の血管が切れたとしても不思議はない。

バイト探し→面接を急ごうと思っていたけれど、この赤目は怖い。第一印象が大事な面接では避けるべきだろう。具体的に動くのは来週か。

困ったと思う一方、ほっとしている自分もいる。見栄えが良くない。早めに治したい。

そもそも戦えるスペックがないのに戦闘モードとは…!疲れるだけだ。戦う対象はない、まったくACIM的ではない。

この世を作っているのは、実は自分自身だ、神の子が困るはずはないと鷹揚に日々感謝して構えていればよいのだ。

だが、そこまで身についていない。いつまで経ってもACIMビギナーだ。

レッスン146―レッスン131、132の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン146の2つの復習

L131)真理に到達しようとして、それに失敗する者はいない。

L132)これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ。

ワークをして

9月6日と7日にやった。朝と夜のワークはできたけれど、毎時間のワークはほとんどできていない。でも、それにこだわるとまったく前進できそうになかったので、「二回目だし、いっか」と自分に甘く、よしとした。

復習Ⅳの序に書かれている「その日に復習する概念が運んでくる贈り物を、受け取りなさい」という、その「贈り物」がよくわからない。

受け取ることができているのか、いないのか…。はっきりとしたメッセージ等はわからず。

ワークをすると、上がっていたテンションが下がり穏やかな気持ちになれる。だから、本当は日中もちゃんとできればいいのだけれど、時間がなく、ざわざわしてワークに向かえない。

昨夜のワークで感じたのは、この世界自体が生け贄だということ。

何の?

私(私たち)がエゴに捧げた生け贄。エゴという偽神にささげた生け贄。

そして、私たちはその生け贄のおこぼれをいただいているというわけだ。(ほんとかな)

でも、それもまた幻。

昔ばなしで、たぬきからおまんじゅうをもらった、と思ったけれど、後で見たら枯れ葉になったいた、…みたいな。

これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、世界を解き放つとは、自分サイドからみたら、世界的な位置づけをスルーするということだ。

楽しむのはかまわない。だけど、捉われてはいけない。

それは、たぬきの葉っぱだ。

だまされるゲームに興じることができるのは、若さのゆらぎであり、人生の午後には幻を見通すことが必要だ。

…そう感じた。(なんかえらそうに書いているけど)

私はたぬきの葉っぱをたくさん集めている(^_^;)

アファメーション

この世界は私がつくって見せているのだ。脚本を書いたのは私だ。

日々のワークの追加版

2017-09-07

最近、日々のワークの際に一緒にやっているのが、

1.自分の中に「絶対死なない部分」を見つけること、と、

2.祈りの瞑想、

3.プロセス

だ。長い時間をかけるわけではなく合わせても数分。順番はこのとおりではなく、3→1→2とでやって、それから日々のワークへと移ることが多い。

1.自分の中に「絶対死なない部分」を見つける

自分の中に「死なない自分」を見つけるとは、へんな言い方だけど、7月ごろから私が勝手にやっているワーク(?)だ。心の中のホーリースピリットの住みかをイメージしようとしてやりだした。

レッスン143のダイアリーにも書いていたけど、やっているのは次のとおり。

目をつぶって自分はそもそも身体ではないんだ、死なない、身体はいずれ滅びても自分の中には「絶対死なない部分」がある、と考える。

そして、その部分を自分の内に探す。ぴったりそうかなと思えなくても、ここがそうかな、と思うところを見つける。

それから、その部分の性質を考える。それは、神の子である私の本当の性質だから、神と同じようだろう。

私の場合は、①無限にやさしく、②無限に感謝に満ちて、③無限に誠実で、④無限に穏やかで、⑤無限に喜びに溢れ、⑥無限に豊かだ、と感じる。最近、⑤の「無限に喜びに溢れ」が加わった。これ以上長くならないようにしようと思う。

この性質は今の私の性質とはちがっていてもお構いなし。神の子、私の理想形であり、本質なのだから。

それから、この性質を十分感じ、それとはそぐわない今の自分の部分を削ぐ、流す、手放すイメージをする。言葉はいろいろ、それぞれみんな自分が腑に落ちる言葉があるのかもしれない。

これを今の復習Ⅳは朝と夜にワークがあるから、その時に一緒にやる。そうすると、気持ちが落ち着く。

おそらく私が「自分の中の絶対死なない部分」を探すきっかけは、私が死を恐れているからだと思う。だからこそ、私は身体ではない、肉体の死は服を脱ぐようなもので死はないのだ、と思いたいのだ。

いつかホーリースピリットの見方がしっかり身につけば、こういう考え方は必要なくなるのかもしれないけれど、今は自分が何者か、どういう者か思い出すのに役立っている。

2.祈りの瞑想

2の「祈りの瞑想」は『神の使者』で紹介されていたものだ。検索してみたら、今年の7月28日のダイアリーに書いていた。

今、自分が「困った」「問題」だと思っていることに囚われてそれをこじらせてリアルにしないように、それを神の祭壇に委ねてしまう方法だ。その「問題」の答えはある時、ホーリースピリットの導きによって直感や目にする本や人からの情報、ネットなどからもたらされるという。

繰り返しになるけれど、やり方はざっとこんな感じ。

①ホーリースピリットとともに内なる神の祭壇に行く(イメージをする)

②自分の問題や目標や、偶像を、贈り物として神の祭壇に捧げる。心の外に出し、自分は忘れる。

③神に深い愛と感謝を捧げる。神とひとつになる。

④その喜びを感じる(祈りの瞑想の一次的効果)

⑤その後に、ふと、自分の問題や目標についての、解決策や方策のヒントが与えられることがある(祈りの瞑想の二次的効果)。

3.プロセス

3の「プロセス」は「ザ・マネーゲーム」から脱出する法で紹介されている方法。

この本は『奇跡講座』関連書籍ではないのだけれど、私はこの本を副読本としている。すばらしい本だと思う。

考え方がACIMとすべて一致しているわけではないけれど、この世が実は現実ではない、そこから抜け出すことで自分が作っている制約から自由になれるという考えは共通するものがある。

そして、この世界の幻想性を破る手法の一つとして「プロセス」を紹介している。私は「赦しの実践」に、この本のやり方をアレンジしてやっている。

「ザ・マネーゲーム」から脱出する法』については、また別の機会に書きたいと思う。

以上、日々の瞑想ワークのアレンジでした。やり方なんて自分でも意識しないうちにしょうっちゅう変わっちゃうから、とりあえず「今」を記録。。。

レッスン145-レッスン129、130の復習

2017-09-06

1%未満

預金をガンガン切り崩す生活が続いていて、自分の中のここまでというラインを超え9月に入り、いよいよどうしよう、と不安になっていた。昨夜は夜も寝つけなかった。

こうした不安は、まさにエゴからこの世に「神からの分離」恐怖を投影したもので、まさに赦すべき対象だと頭では知っていたけれど、元々テンパリやすくビビりな私は一回スイッチが入ると、上がってしまった気がなかなか下りない。何かに煽られているような気がして考えもまとまらなくなってしまう。

これまでACIMワークから学んできたつもりだったけれど、エゴが氷山だとすると、その一角にかすり傷をつけたようなものでその1%すら解体できていないのだな~と、感じた。1%に満たないとしてもしないよりはよいと思うけれど。

私が感じている不安は、まさに赦すべきものだ。

ワークをするとそのことを思い出してしばらく落ち着く。その後、また不安がよみがえり、ドキドキしてしまう。そんなことを繰り返していた。

ふと思いついたのは、ブックオフで本の買取をしてもらうこと。宅配買取価格が30%アップになっていたのを見て申し込んだ。

物がないわが家だけど、本だけはけっこうある。本当ならば、『奇跡講座』と『神の使者』シリーズだけ手元にあればいい。だけど、そこまでは手放せず今回は1箱だけ。

とにかくわずかでも換金化しようという発想か…とにかく売れるモノを…と本に目がいった。もっと考えるべきことがあると思うけど。でも、とりあえずの一歩?。。。

レッスン145―レッスン129、130の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン145の2つの復習

L129)この世界を超えたところに、私の望む世界がある。

L130)二つの世界を一度に見ることはできない。

ワークをして

ワークの内容と、自分の日常とが乖離しているな~。まぁいつものことではあるけれど。

あなたをとらわれの身としておくためにこの世界が並べ立てている卑小なものごとから自分自身の心を解き放つとき、それを入れ替わりに訪れる世界が、ここにある

虚無に価値を認めないという選択をすることで、あなたがどんな損をするのだろう」(ともにレッスン129より)

私が感じているおカネや未来への不安こそ、虚無であり私を「とらわれの身としておくためにこの世界が並べ立てている卑小なものごと」なんだろう、私にとってはそうは思えないけれど。

でも、神の世界で不安はありえないことでそれは虚無でしかない。この不安に価値を認めないことこそ、ワークで求められていることなんだな~と思う。

あなたが見ているものは、あなたの思考を反映している。

あなたが見ていると思っている一切を作り出したのは、恐れである

そう、恐れなんだ。

そしてそれは自分が肉体であること、この世界がリアルであることを前提としたものだ。

どのように重複することもない二つの世界が、両方とも一度に見えるということはありえない。…(中略)…実在か非実在か、それだけが選択できるすべてであり、それ以外に選択肢はない。」(ともにレッスン130より)

私は非実在を選んでいるのだなぁ。

今抱いている不安は、赦すべきもの。非実在、ないものであり、手放すべきもの。ただ、私の心の中にだけあるものだ。それを世界のスクリーンに映し出してみている。

だから本来ならば、不安から行動するのではなく、何かやりたくなったりインスピレーションを感じた時にそれをやるべきだ。

おカネはなく、あるのは神の豊かさなのだから。そして、豊かさは神の子である私の元にも必ず訪れているのだから。

こうしたこととともに、感じたのは、2013年からACIMワークを初め、ことに2015年、2016年は社会と関わるより内に籠ってワークをすることが重点になっていた。ACIMに沿った「本当の私」を内側に認めることに、時間を使ってきたのかもしれない。

これからは、その私をもう少し社会で鍛える、磨く時期に入ってきているのかもしれないな~と思った。

相変わらずホーリースピリットからのメッセージというのは受け取られているのかどうかわからない。

アファメーション

状況わるくない。見方によってはパーフェクト。(好きなことば、今浮かんだ)

レッスン144-レッスン127、128の復習

2017-09-04

求人サイトを覗く

9月に入ってぐっと涼しくなった。涼しいというより肌寒いくらい。

求人サイトをちらっと覗いたらいろんな形態のいろんな仕事があってぼーっとなってしまった。

50代となり体力気力に乏しく最近さらにどんくささに拍車がかかった私、しかもひとり生活が長くかなりわがままになっている私。そんな私に務まる仕事はあるだろうか。フリーランスとの仕事との兼ね合いはどうしよう、短期的に凌ぐためなのか、少しでも将来的に役立つものにするとしたら…などと考えだしたら、一歩も前に踏み出していないのに、ぐるぐるしてきた。

知らない間にひきこもりになっていて、世間自体に対する引け目がでかくなっている。この世を赦すどころか逆にリアルにしてしまっている。そういう自分になっていることに、改めて気づかされる。

対人恐怖、対世間恐怖…。表面上は何事もなくふるまっているけれど、実はそうなんだ。

ありがたいことにフリーランスの方では小さな仕事が入ったから、これをやりながら考えようと思う。

たかがバイトなのかもしれないけど、されどバイト。

自分の貴重な時間を何に費やすかは大事。だけど、人生の終わりを意識するようになり自分時間を大切に思う私と、労働者としての価値が下がり労働市場で求められない私の間には、大きなギャップがあるなぁ。

誕生日がある9月。おとめ座の時期。毎年、同じおとめ座の友だちとこの時期に会うのが恒例になっていて週末夕食をともにした。自分が思っていることを言葉して口にすると、友人のリアクションや言葉から気づくことが多い。コミュニケーションって大事だな(何をいまさら、だけど)と思う。

ひとり暮らし、フリーランスでは人と接する時間があまりにも少なく、それは私のようなわがままな内向性の者には楽なことではなるけれど、やはりよくないのかもしれないと思った。

私はきっともっと話しもっとコミュニケーションをとりたいのだ。そういう時期に来ているということかな。

レッスン144―レッスン127、128の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン144の2つの復習

L127)神の愛のほかに愛はない。

L128)私が見ているこの世界には私が望むものは何もない。

ワークをして

ワークをするにあたって、レッスン127と、128の本文を読み返したら、127はすんなり入ったけれど、128の方にはやはり抵抗感があった。

神の愛のほかに愛はない。

これを前提とすると、世の中で愛と言われているもののほとんどが愛ではないことになる。

私はいまだに「愛」がわからないけれど、暫定的に「無限に優しく」「無限に感謝に満ち」「無限に誠実な」と思ってイメージしている。

神の愛のほかに愛はない。

そして、私もその愛に含まれている。

そして、神の愛はわかち合われることで、この世で愛となるのかな~、とふと感じた。

仕事を探そうと考えてから、テンパってしまって、気持ちがざわざわしていた。ワークをすると少し落ち着く。

私が生活で直面することの次元と、ACIMのワークを行う次元というのも、けっこう遠いかな、と思う。

在宅ワークが主で会議や調査なども含む時給のよい仕事があって、昨日が説明会だった。興味はあったけれど、この世にがんがん攻めていくアグレッシブさが求められており気遅れがして、結局説明会にさえ申し込めなかった。

仕事とはこの社会の中で対象となるお客さまに何かしら価値あるものを提供する活動だ。

「私が見ているこの世界には私が望むものは何もない。」と唱えながら、仕事探しをする自分の姿は何だかシュールだ。

アファメーション

無限にやさしく、無限に感謝に満ち、無限に誠実で、無限に穏やかで、無限に豊かで。。そういうものに私はなりたい(パクリ)。

レッスン143-レッスン125、126の復習

2017-08-31

雨。ぐっと涼しくなった。ベランダから入る風は秋の風になった。昨朝のウォーキングではツクツクボウシが鳴いていた。

季節は移っていく。私が育った北陸では雪がたへんだったけど、四季があるのはいいなぁ。もっと四季を丁寧に生きたいなぁ。

私のなかの「死なない部分」

最近の私のワークでは、その日のワークのお題と一緒に自分のなかに「死なない部分」を探すのが日課になっている。

目をつぶって心を鎮め自分の中に「死なない部分」を探す。

心のなかに「ここがそれだ」というような感じがあるところを探す。

ぴったりくるような感じではないけれど、何となくここかなと感じるところが見つかる。

おそらく、そこがACIMでいう聖霊(ホーリースピリット)の住みかではないか、そしてそれが本来の自分、ではないか。聖霊、本来の自分というより、「死なない部分」という方が「これが本当の自分なんだ」とイメージしやすい。

そして、それから「死なない部分」の性質を思う。言葉では言い表すことはむずかしいけれど、おそらく神さまの性質を受け継いだところだから、無限に優しく、無限に感謝に満ちて、無限に誠実で、無限に穏やかで、無限に豊かなのではないだろうか。

そうやって、本当の自分を確認する。それから、その性質に自分を浸す。そういう風が私に向かってやってくるようにイメージする。

いつもテンパリがちでささいなことで感情もアップダウンしてしまうが、こうやって朝イメージしておくと、少し落ち着けるような気がする。

その「死なない部分」という自分の芯をどんどん育てて、どんなことにも、穏やかで優しく、誠実で感謝に満ちていられたら素晴らしいと思う。そしてかぎりない豊かさを感じていられたら幸せだ。

レッスン143-レッスン125、126の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン143の2つの復習

L125)静けさの中で、今日、私は神の言葉を受け取る。

L126)私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。

ワークをして

一昨日と昨日、このワークをやった。とはいっても、一時間ごとのワークはできておらず、中間のワークをやったのは2、3回。

復習Ⅳを貫くテーマ「私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。」をイメージする時、気づいたらまったくその時の気がかりごとを考えていることがよくある。

仕事先へのメールの返信をどうしようかとか、打診された仕事はいつ決定するのか、納期はいつ?、バイト、良さげなのを見つけたけど、今すぐには動けない、そのうち埋まってしまうだろうか、「やる気があればどなたでも」とあったけど50代も想定されているだろうか…、面接怖い、バイトは最終的な解決策ではない、、あ゛~、いったいこの先どうやって生きていこう?…とか。ぐるぐる。

「神とともに考えている思い」では決してないことばかりだ。気づいて「もとい!」とするけど、再び気づくとまたさすらっていたりする。

これから、どう生活を支えていけばいいだろうか。そもそもあった「問題」だけど、楽観的に考えて野放しにしてきたことが8月末になって、目前に迫ってきた。

昨日の夜のワークで浮かんできたのは、日曜日に色えんぴつ画の展覧会を見に行った帰りに、一緒にお茶をした心理学のカルチャー講座仲間に見せたスケッチブックの絵だ。それは、10数年前(2003年12月だった)、私がアートセラピーの講座に参加していた時に描いたもので、今アートセラピーを学んでファシリテーターもやっている彼女の参考になるかな、と思い、持っていって見せたのだ。

まず、「不安」を表す絵を描いて、それからそれをポジティブに転換するというお題。その転換した後の絵、それに加えたメッセージが、なんとなくワーク中に浮かんだのだ。

そのメッセージは、

「自分の真の道にしたがっているとき、旅の途中で必要なものはすべて満たされる。」

どこかで見つけたメッセージかな?当時今と同様に経済的な不安を抱えていた私が、自分自身に向けて書いたものだ。

復習Ⅳのワークの序文に、「その日に復習する概念が運んでくる贈り物を、受け取りなさい。」とあるけれど、このメッセージが贈り物なのかな?

それとも、都合のいい私の思いこみか。

そうであって、いい言葉だな。

アファメーション

自分の真の道にしたがっているとき、旅の途中で必要なものはすべて満たされる。

レッスン142-レッスン123、124の復習

2017-08-30

アルバイト探そう

8月ももうすぐ終わり…

残暑はまだまだ続きそうだけど、エアコンなしでも何とか過ごせそうな位になってきた。

これまで何社かの依頼をうけてフリーランスで仕事をしてきた。ACIMワークを始めた翌年位から仕事が減ってたけれど、仕事の波が大きくワークが中断してしまうことも多かったから、これ幸い…と、時間的ゆとりを優先させ預金を切り崩しながらACIMの勉強をし幸せに生活してきた。

前にお手伝いした本の増刷印税収入などもあって働いた以上の収入があり、今年の7月位までは生活費のプールがあった。が、それがもう尽きかけている。7、8月は国民年金もスルーしてなんとかやり過ごしたけれど、さすがに明らかにまずい。

本来ならばフリーランスの仕事を積極的に復活させるべく努力すべきなのだろうが、その方向はどうもできそうにない。新たなクライアントを見つけるのは情熱と時間がいる。すぐ安定的に月々の生活を支えるレベルに達するとも思えない。生活できても、ACIMの勉強ができなくなってしまっては、それもまた求める方向性と違う。

高齢の母がひとり暮らしをする故郷に戻るべきか…などと思いが、東京に新たな根を生やしづらくしているのかもしれない。

いずれACIM関連のことで仕事ができたらいいなと思う。もしそれがかなうとしても、まだまだ先のことだろう。

じっくり自分の大事にしたいこと、優先する順番…これからの方向性を確認したい、、、秋のはじまり。

だけど生活費、、の方はじっくりではいけない。最低限生活を支えられるレベルのアルバイトかパートを探そうと思っている。10月の生活費を得るためには9月はすでに稼働していないと。焦る。でも、雇用されて働くというのが久しくて、なんだか怖い。歳だからかな、世間というものが怖く感じる。

もちろん、この状況と感情もまた赦すべきもの。ではあるが。。

レッスン142-レッスン123、124の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン142の2つの復習

L123)私は父が贈り物を与えてくれたことに感謝する。

L124)私は神とひとつであることを思い出せますように。

ワークをして

神そのものが大きな感謝そのものなんだ。神は感謝を包含しているのだと思う。

そして私たちはそこから延長された。

だから、私たちが神に感謝するということは、神と私たちがわかちあうこと、祝福することではないだろうか。

感謝によって、自分がほんとうは誰なのかを思い出すことができ、自ら鍵をかけてしまってたギフトを開くことができる。

私たちは、真の感謝によって、神とわかちあうことができる。そして、その感謝はさざめき波状的に広がり、どんどん自分と自分が見る世界のなかで大きくなっていく。

ACIMワークの最も重要な鍵は「赦すこと」だけど、もう一つの鍵は「感謝」なのだと思う。

感謝は神そのもので、私が真に感謝する時、神と神なるものをわかちあい、自分が神とひとつだと思いだせるから。

父の最もすばらしい贈り物とは、「感謝できるこの私」なのかもしれない。そして、それはすでに各々に与えられている。

ただ感謝しさえすれば、そのギフトが開かれ、人生のスクリーンに感謝できる私が投影され、感謝され感謝に満ちた世界が上映されるのかもしれない。

アファメーション

今日、感謝できることをたくさん数えよう。

復習Ⅳへ & レッスン141-レッスン121、122の復習

2017-08-29

復習Ⅳへ

復習Ⅳは第2部への準備らしい。レッスン121~140の復習。毎日2つずつ復習する。

復習Ⅳ全体をつらぬくテーマとして、次のようなものが掲げられている。

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

一日のはじまりにこの想念と5分によって、さまざまなかたちであらわれる赦したくない気持ちや自らを欺こうとする気持ちを一掃し、各々の復習への準備とする。

それだけで、その日が神の定めた道筋にそったものとなり、あなたがその日に受け取るすべての想念を神に一任することになる。

そうした準備の後にその日の復習課題である2つの主題概念を読み、目を閉じ、ゆっくりとそれらを自分に言い聞かせる。

そして、「その日に復習する概念が運んでくる贈り物を、受け取りなさい。」とある。

一日の終わりにも、同じように全体をつらぬくテーマとその日の2つの復習に心を向けて終える。

また、日中は「一時間ごとに、一日のはじめに抱いた概念を心に思い浮かべ、その想念とともに少しの間、静かな時を過ごす。それから、その日に復習する二つの主題概念をゆっくりと繰り返し、そこに含まれているあなたへの贈り物が見えてくるまで充分な時間をかける。

これは、どのくらい厳密にやるのだろう。

1時間に一度、全体テーマと主題概念の復習を繰り返し、そこから贈り物が見えてくるまで充分な時間をかける、というのは、いくらなんでも非現実的な気がするが…。

少なくとも私は厳密にやろうとしたら、ずっと足踏みが続きそうだったので、朝夜はやって、あとはその間できたらやる…でよし、とした。そして、中間にあまりできなかったワークは2、3日かけることとした。

北朝鮮ミサイル発射―朝のニュース

今朝、テレビをつけるや否や、北朝鮮からミサイルが発射され、日本上空、襟裳岬から1180㎞東の太平洋沖に落下した、とのニュースが飛び込んできた。襟裳岬の東1180㎞…が瞬間的にどこかイメージできなかったけれど、キャスターの方は緊迫した雰囲気だ。どの局の画面にも赤い警告みたいな掲示があって、尋常じゃなさを感じさせた。

日本列島上空を通過するなんて、失礼な話だ。いったい何考えてるんだ!やめてくれ

…と思った。かなりまずい状況なのか。ニュースに見入る。

が、その前に朝のワークをやるかと、テレビを消した。そして、復習Ⅳの序を読み返した。

その時、

まずは、真の赦しの欠如を巧みに隠している数多くの形態について理解することから、私たちの準備を始めよう。それらはすべて幻想であるから、その正体の通りに知覚されてはいない。そしてその正体とは、赦したくないというあなたの想念が見えるものとなって認識されるのを防ぐための防衛である。

という文言がひっかかった。

北朝鮮のミサイル…もまた、「真の赦しの欠如を巧みに隠している数多くの形態」の一つなんだろうか。

ワークをして

今日のワークはレッスン143だったけど、今日ダイアリーに記すのはレッスン141。先週土曜日にやった。

レッスン121と122の復習

L121)赦しが幸せへの鍵である。

L122)赦しは、私が望むすべてを与えてくれる。

その日に復習する概念が運んでくる贈り物を、受け取りなさい。」とあるけれど、そんなわかりやすいものがあるのかな、と思いながらやった。

正しいかどうかはわからないけれど、私が受け取ったのは次のことだった。

L121をイメージした時。

「あなた自身を(ほんとうに)赦しなさい。

心の奥で「罪深い」と思っている自分を赦しなさい。

あなたがなぜ赦せていないのか。

それは目に見える他者を「赦そう」という覚悟に欠けているから。どこかであなたは「他者を責めたい」と思っている。

それは、自分を赦したくないと思っている証だ。

起きてもいない罪にしがみつくな。」

そう感じた。

L122をイメージした時は、「もし私がすべて赦されているなら、どう感じるだろう」と想像してみた。

とてもとても幸せで安心感があることだろう。

でも、赦されている状態を私は「if(もし~ならば)」をつけないと想像できないんだな、と思った。

私のエゴが、もしこのままACIMの勉強が進んだら、自分はどうなってしまうのだろう、と怯えているのを感じた。

私は分裂している。エゴが導く私と、聖霊(ホーリースピリット)が導く私。

エゴは、「よしんばACIMが素晴らしいものだとしても、この世で身体を持って自分を守って生きるにはエゴは不可欠だ」とささやく。

そうなのかな?

でも少しずつでもコツコツACIMの勉強を続けよう。

赦しは、私が望むすべてを与えてくれる。

アファメーション

起きてもいない罪にしがみつくな。

レッスン140-救済だけが治癒をもたらすものと言える。

2017-08-28

色えんぴつ画展覧会

去年から始めた月一度の色えんぴつ画講座、生徒及び先生の元からプロになった方々を含めた展覧会があって、私も下手ながら初めて二枚だけ出した。それをユング講座の仲間に付き合ってもらって、昨日一緒に見にいった。

数年前までは生徒数も少なかったらしいけど今はかなり増え、100人以上の生徒が出品していた。自由画だから、風景画あり、静物画あり、人物画あり…で、何を描くかはそれぞれ。それが、おもしろいな、と思った。

私は、家にあった猫のぬいぐるみ、二匹。

講座中、展覧会用の絵を描く時間があったのだけれど何を描くか決まっていなくて、出がけに家にあったぬいぐるみをひっつかんで行ったら、「その題材、おもしろいですね」と先生に言われ、そのままそれにした。

なりゆきで始めた色えんぴつ画だけど、色を塗っているときは無心になれる。またいつも「趣味は…?」と聞かれた時、返答に困っていたけど、この講座に通い始めてからは「色えんぴつ画です」と言えるのが、助かっている。

帰りに付き合ってくれたユング講座の仲間といろいろとおしゃべりできたのが、楽しかった。ひとりでいる時間が長く人と話すのが下手になっている…私。おしゃべりはひとりではできない。私は、人と話すことに飢えているのかもしれない。

レッスン140-救済だけが治癒をもたらすものと言える。

レッスン140は先週水曜にやったワーク。

レッスン136、137同様、病いと癒し、治癒に関連する概念を扱っている。

この世の治療法は「病気」という幻想を「治った」という幻想に変えるだけのもので、病気という幻想の原因である心を治癒するものではない。

ACIMの救済=贖罪だけが治癒をもたらすのだという。

罪悪感がないところで病気が生じることはありえない。病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。病人を癒すことは治癒ではないので、贖罪は病人を癒さない。病気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。そしてそれがまさしく治癒である。」と。

なるほど。と思う。

私たちが神から分離したのだと思うがゆえに意識下に抱く罪悪感や恐怖を身体に投影したもの、それが病気だ。

もちろん、本人はそんな意識はない。だけど、今世のなかのどこかで自分が罪悪感を抱いたり恐れたりしたことが、心に認められず身体に現れたもの―それが病いなのだ。

病気は真理を見ようとしないことからもたらされる。真理の下では病気は存在しえない。

幻想を真理のもとへもっていく心だけが、真に変わることができる。これ以外に変化というものはない。

今日、私たちは病気の源について、私たちの心を変えることを目指す。」

「だから、私たちは護符や呪い、魔法の呪文や丸薬など、あらゆる形の魔術的なものを脇に置く。そして、静かにして、癒しの声が聞こえるように耳を澄ます。

ワークをして

病気が、罪悪感や恐怖、偽りの信念を身体に投影したものだという説明は、よく理解できる。今そんな気はなくても、もしかしたら生まれる時に自分で選んできたのかもしれない、そうしたことを含めて、病気はすべて自己決定なのだ。

エゴは私たちに「おまえは罪人だ、神に罰せられるだろう」とささやく。それがしごく尤もに感じる。ならば病気にくらいなるのが当然のようにと思う。

自分がだれかを攻撃したい気持ちがあるけれど、それを認めたくない時、自分が「病人」という被害者になりながら、そのだれかを巻き込むことだってある。

病気を生むのは無意識からだけど、自分の心のあり方が作っているのだから、本当に癒すには、自分の心を変えなければならない。

レッスン140の説明にあるとおり、「聖性が存在しない場所はなく、罪や病気が住みつくことのできる場所はどこにもない。」と。

ACIMを学んでよかったことの一つは、病気は必然ではない。また必要なものではない、と知ったことだ。

私は、ずっと病気になるのが怖かった。とくに、がんを恐れていた。書店や電車内でもその文字の並びに反応する。それはやはり自分は罪ある身でいずれその罰として病気を受けるのが報いだ、という思考がどこかにあったからにちがいない。

そして、実際にそのとおりの病気になった(しかし、幸いなことに症状がなく進行もほとんど見られない)。

未来は自己予言に基づくシナリオのようなものなのかもしれない。

でも、今や、病気には根拠がないことを学んだ。だから、心は晴れやかだ。

本ワークでも、私は自分自身に贖いを受け入れた。救済により、病気を治癒したいと思う。

アファメーション

病いは必要ない。私は贖われた。

レッスン139-天国は私が下すべき決断である。

2017-08-25

いま赦すべきこと

私が帰省していた時はずっと長雨が続いていたらしいけど、ここに来てまた暑い日が続いている。

8月21日と22日とレッスン139をやった。やったとは言っても、朝夜の長めのワークの間の毎時間の練習はできていない。でもこれを完璧にやろうと思うとまったく前に進めなくなりそうなので、いいことにして進む。

すでに一度やっているのだから、、という緩みもある。けど、一度やっていると自負?するわりには、習得度は低い。ACIMの理屈だけ抱えて体育座りして固まっているようではいつになっても習得できない。

この素晴らしい理が体現するものとなって、この世で生きなくちゃ!ひきこもっていないで、外に出なきゃ、と思う。

この考えが世の中の常識と言われるものとあまりに違っていて、それどころか「世界は実在しない」というのだから、一般の人には心理的テロのように世に歯向かうものと受け取られやしないかと恐れている。

そう、私は、ACIMが素晴らしいと思っている自分の考えをオープンにすることに恐怖があるのだ。

その恐怖こそが、私がいま赦すべきことなんだろうと思う。

なんたって、ACIMと出会った今、自分の人生のお題は、①ACIMをより平易にわかりやすく表現すること、と②形而上的、抽象的なACIMをこの世の日常性とつなぐこと、だと思っているのだから。

レッスン139-天国は私が下すべき決断である。

さて、レッスン139は、「自分自身に贖罪を受け入れる」がテーマだけど、その前に「自分は何なのか」について私たちが確信を持っていないことについて書かれている。

私たちの葛藤や迷いは「自分が何であるか」がわかっていないことから来る。そして、それは自分をだましていることだと言う。本当の自分を実は知っているはずなのに、その本当の自分を拒否し、自分をごまかして知らないふりをして、さらにそれ自問しているというのだ。

自分が何であるかについての確信の欠如は、あまりにも大規模な自己欺瞞であるため、その巨大さは想像を絶するほどである。

こうして彼は、自らの生命について確信がなくなる。自分の生命そのものを自ら否定したからである。あなたが贖罪を必要としているのは、この否定のためである。

私たちの心はエゴに支配され、本来の自分が感じられなくなっている。しかし、実はエゴは虚偽。存在すらしていない。存在していないものを拠りどころにしても、残るのは虚しさだけだ。

それをレッスン139で治癒する練習をする。

贖罪が治癒するのは、この奇妙な考えである。すなわち、自分自身を疑い、自分が本当は何なのかについて確信を失うことが可能だという考えである。このような考えは狂気の極みである。

このあとには、すごいことが書いてある。

世界が信じていることで真実なものは何一つない。この世界の目的は、自分自身を知らないと主張する者たちがやってきて、自分とは何かと質問していられる安住の地を提供することである。

この世を「自分とは何かと質問していられる安住の地」と表すとは…!

私たちが、「自分とは何か」と自問したとしたら、そんな自問は本当は成り立たないはずなのだから、それはまさに自分を偽っている証拠なのだ。自己欺瞞であり自己否定だ。

ACIMを学ぶ目的と使命は、この自己欺瞞と自己否定を解消することだ。

それは赦しによって、罪を購うことによってなされる。一度も犯されなかった罪を購う。それが贖罪だ。

自分を赦せば他者も赦される。他者を赦せば自分も赦される。

それが、この世に来た目的と使命でもある。

私は自分自身に贖罪を受け入れる。私は今も神に創造されたままの私なのだから。

ワークをして

自分自身に贖罪を受け入れるということが、簡単そうで実はなかなか難しく、「おまえは罪人だ」と私を責める心が無意識の根っこに在る気がする。そしてそれは根深く大きい。

レッスン101「神の意志が私に望むのは完全な幸せである」のパラグラフ5にも「自分が神の子を悪魔にしてしまったという信念をいつまでも大切にしていないで、開かれた心で贖罪を受け入れなさい。」とある。

その大畑学さんの戦士書籍の解説には「罪も罰も幻想だと知って受け入れ、受け流して赦し、幻想を消滅させていまうこと、それがACIMの贖罪である。贖罪とは、まさに罪滅ぼし、罪を滅ぼすことである。」とあって、「なるほど」と唸ったことを思い出した(どこで見たんだっけと検索して調べたらレッスン101だった)。

これは私だけではなく人間が誰しももつ「原罪」で、それが無意識の奥にあるからこそやっかいなのかもしれない。でも、これを対峙しないかぎり天国には入れないのだから、目前に現れたものをコツコツと赦していくことにしよう、と改めて思う。

赦しの機会が目前に現れることすら、チャンスとは思えず、恐れているのだ、今の私はー。

アファメーション

私に起ることはすべていいことだ。なぜなら、それ以外起りえないのだから。

寝苦しそうな夜と無意味なブログ

2017-08-23

暑さが戻ってきて、熱帯夜だ。寝苦しそうな夜。

本当は、ACIMワークの日記を更新したいところだけど、それだけの気力なし。自分の中で大事に思っている『奇跡講座』(ACIM)なのだから、もっとダイアリーブログも頻繁に更新したいのだけど、できてないなぁ。

時々…というか、しばしば、こんなブログはだれか読む人、いるかなぁ?と思う。

いないだろうなぁ。

まったく人の目にふれないブログってー。無意味だよな。

そもそもACIMに関心ある人が少ないだろうし、

関心を持ってACIMワークを続けている人はさらに少ないだろう、

さらに、ワークをやっている人がワークのあらましっぽいことだけ書かれたものを読みたいとも思わないだろうと。

ACIMをやって感じた自分の体験談を生活や人生を掘り下げ晒しながら書いてあったらおもしろいかとも思うけど、そういうことはできてない。。

なんか意味ないことやってるなぁ、我ながら。と思う。

 

でも一方では、こんなに間延びしたくそおもしろくもないブログでも、私の『奇跡講座』の勉強の支えになっている。だから続けていきたいな、とも思う。

もっと、ACIMを平たい言葉でなるだけシンプルにすることが必要なんだ、多くの人とACIMをつなぐには。

説明しようとすると、人が読みたくなくなるものになるから、ACIMのエッセンスのカケラを含んだおはなしとかでもいいのかもしれない。

 

ともかく、自分でも、へんなこと・意味のないこと、中途半端にやってるなぁと思うけど、私の学習の杖のような存在になっているから、ブログを続けていけたらいい。と思う。

レッスン138-天国は私が下すべき決断である。

2017-08-21

母との時間

土曜日、金沢の友人に会って、それから東京に戻ってきた。

故郷での在宅中、起きている間ずっと母が話しかけてくる。普段ひとり暮らしの私は、何時間かで疲れてしまう。「滞在期間は優しくしよう」と心に決めて帰省したのに、だんだんつっけんどんになり、ついいらついた返事をしてしまう。それに気づいては「やってしまった」と思う。

母は年にわりに頭がいいけれど、最近は何かにつけて「これ、おかしいね、おかしいね」と大騒ぎする。年老いた自分の能力が落ちていることを認めにくいのか、自分ではなく自分以外の物や状況が変だと言うのだ。

パソコンもお盆の少し前に、思うように動かず「初期化しますか」との問いにいらついて、「はい」と押してしまったとのことで、まっさらに!私もパソコン苦手だけど、母といると、解決すべきことやこうしたいと思うことがたくさんあって、その都度調べ、そのおかげで少しパソコンやipad miniについて知識を得る機会になる。

帰りしなに会った友人には、「うちの母ったら、こんななんだよ」とつい母のぐちを言ってしまったけれど、今から思えば、「グチりながらのろける」類の話だったんだと思う。

けっこう長い間母と過ごせて大変だと思う一方、楽しかったしありがたかったのだ。やはり母にはいつまでも元気で、今のままでいてほしいと思う。

東京に戻ってきて、自分の部屋に帰るとその静かさに、別の国に来たかのような不思議な感覚になった。今はまだ私だけのこの空間を手放したくないとも思う。いったん崩した東京のリズムを戻していこう。

レッスン138-天国は私が下すべき決断である。

結局帰省中でやったのは、このレッスン138だけだった。これを何日もくりかえした。が、まったくまともにはできなかった気がする。説明の言葉もむずかしく、体感として十分には理解できていないように感じる。けど、先に進もう。

私たちが生きているこの世界では、対立するものが「在る」と思っているけれど、実は神(=天国=真理)だけしか実在していない。

ただ「恐れながら知覚することしかできない場所には、真理そのものは入ってこられない。

「天国という決断を下すこと」は、この世界に、真理と偽り、あるいは天国と地獄の両方があってその一方を選ぶということではなく、その選択肢があるかに見える世界から抜けるということだ。

思い出す必要のあることは、あなたが何千もの選択に直面させられると思っていても、下すべき決断は本当は一つしかないということである。そしてそれさえも、選択のように見えるだけのものである。

そして、この世では、生きることはすなわち数多くの葛藤を抱えて生き抜くことだと見なされているので、「救済は死ぬことだということになる。

こうした間違った信念は無意識にあるため普段意識されることなく、私たちに強い支配力を持っている。

若いうちは幻想の世の成功を追い求めるようにプログラムされ、それを喜び、興奮、挫折に置き換えて過ごす。若さが去り自分もいずれは死ぬ身だと実感しだす中年から晩年は、不安と恐怖を抱きながら時を重ね、最終的にはあらがいながらもれなく訪れる死という救済を受け入れることになる。

この間違った信念を手放して天国を決断するには、世の幻想性が認識され、幻想を意識的に選ばないことが求められる。

レッスン138はその練習だ。

朝と夜に、天国の選択をする5分のワークをして、日中も1時間ごとにその選択を確認する。

ワークをして

旅の供に、ゲイリー・R・レナードさんの第3弾の著書『愛は誰も忘れてはいない』を持っていき道中読んでいた。

そこに、パーサの発言で「とにかく、繰り返しは不可欠よ。『奇跡のコース』(ACIM)の「テキスト」は、六頁分を違う言い方で百回繰り返したものだって言われているわね。」というところがあるけれど、ワークブックもそうだと思う。ただ一つの決断のことを表現を変え、視点を変え、何度も何度も説明している。

そう、天国の決断とは、赦しと癒しを敢行すること、その決断なのだ。

私は、日々のことでいろいろ葛藤があるけれど、それもまた「天国を決断する」というただ一つのことで済む話なのだ。

この世でそう生きるための、聖霊(ホーリースピリット)の声をちゃんと受け取れているだろうか。

田舎に母といた時間は、ACIMからは遠かった気がするけれど、どんな環境にいても、ACIMと聖霊を心に置き、抽象的なACIMの教えをこの世の日常にちゃんと下ろして生きられるようになりたい、ものだ。

アファメーション

細かく分断されている私が、本来の私のもとひとつになれますように。

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