いろんなかたちの恐怖と、それを赦すこと
2017-09-15
再びのミサイル発射と恐怖心
今朝7時、北朝鮮がまたミサイルを発射した。
初秋のさわやかな風を感じながら、ウォーキング中、信号待ちでスマホのニュースを見たら、このニュース…!今度は北海道上空を通過って…。
だけど、びっくりした…と同時に慣れっこにもなりつつあった。
「日本を核爆弾で沈める」「米国を焦土化」…昨日北朝鮮が発表した声明もさらに過激になっている。どういう勝算シナリオがあって、こんなこと続けるんだろう。金正恩の心がアメリカに対する恐怖と羨望でいっぱいなのはわかる。いったい、若い指導者は北朝鮮の国民を連れてどこに向かおうとしているのだ。
そして、これは私自身の投影でもあるのだと思い出す。
私の人生に映し出されるすべてのことは、赦すためにあるという、ACIMの教えを思い出す。恐れは、その心が恐れたものをその心にとって実在化して、恐怖をさらに大きくしていく。百害あって一利なしだ。
わかっていても、恐れている心は恐れに飲み込まれる。恐れるがあまり、思考停止に陥ればもっとも愚かな行動をとってしまう。小さな不安からパニックまで対象や大きさはちがっても、恐れの本質を知ってそれを手放すというというのは、私たち人間にとって大きな普遍的テーマだ。
聴いてもらって楽になった
一昨日は、月1度のカルチャー講座、ユング心理学の日で、講座後、先生と受講者みんなで喫茶店に行き夕ご飯を食べた(みんな、といっても4人だけど)。
雑談のなかで、私はついついフリーランスの仕事が減ってこのままでは生活が回らないことや、最も難度が低そうな近所の小さな会社の在宅仕事に応募したけれど面接まで至らず落ちたことなどなどを話した。
これも不安や恐れの気持ちが根底にある、いわばグチだから、誰かに話すことは、「それを自分が認め、リアルにしてしまうこと」で、良くないこと、慎むべきことだと思っていた。だから、話すこと自体がなかなかできなかった。
だけど、話をして聴いてもらったら、なんだかスッキリ、楽になった。堅かった心がほぐれたというか…
話していくうちに、ずっと前から経済的に不安定ながら細々とでも奇跡的に回ってきたこと、必要な時には必要なものがただで手に入ったことなども思い出した。
先生は、私がずっと『奇跡講座』を勉強していることを知っておられ、「あなたケチよ、わかちあいいなさい」とおっしゃった。また私のことを「自閉ね」とも。(いろいろ言われたけど、それだけ覚えている)。
ケチ、自閉…というのは、そんなに自分が素晴らしいと思っているACIMをただ密かに内に籠って勉強していることを指しているのかな?
その日は久しぶりに自分の感情を話したので、テンションが上がってしまい、いただいたアドバイスをちゃんと聴くということができなかった。そもそも人と要件以外を話すこと自体が久しぶりでもあった。
でも、よくわからないけれど、帰りには、ゆるく甘い私の話を聴いてもらって、何だかうれしいな、ありがたいな、という気持ちになっていた。
そこに愛とかわかちあいとか、感じた。
次のお題は、自閉を脱し、自分の本音をわかちあうことかな。
私にとって手放すべき恐怖は、経済的不安というより、人と触れ合いわかちあうことへの恐怖なのかもしれない。