レッスン174-レッスン157、158の復習
2018-02-11
内覧者現る、だいじょうぶだろうか
『奇跡講座ダイアリー』というより『マンション売却ダイアリー』になっている、ここ最近 (^_^;)
きのう初の内覧のお客さんがお見えになった。
昼ごろ不動産屋さんから「本日3時にお連れしてよろしいですか」と電話があり、猛然とそうじし始めた。
70代と思しき女性と50代のように見える男性。夫婦と聞いていたけれど、えらい年の差カップルだなと思っていたら、あとで親子だとわかった。
とても人のよさそうな方々だ。「あら気持ちがいい部屋だね」と言ってくれたお母さんにはとくに親しみを感じた。
具体的に住まれるかもしれない方を見て、急に心配になってきた。
だいじょうぶだろうか。
ここは、
・交通、買物至便。
・角部屋、日当たり、通風、眺望良好
と、古いけれど、住みやすい部屋だと思う。
ただそれは、「管理組合の役員にならねば」という条件つきだ。役員になったとたんに、住人の一人から激しい攻撃の対象になってしまう。
この人たちが買ってくれたとして、後々ここを選ぶんじゃなかったと後悔することになるんじゃないか。
最近このあたりの中古マンション購入の半数以上は中国の方の投資目的だという。投資物件としてなら役員は回ってこない。そういう方に買ってもらえるなら、そっちの方が…?
自分が転居することばかり考えていたけれど、やはり具体的な購入見込者を見て不安を感じてきた。
ワークから感じたこと
こうした私の心配に対して、最近のACIMワークから感じたことは、
「そぐわなくなったものが剥がれ、そぐうものが嵌るだけ。見えている(ようにみえる)範囲がごくごく一部でしかないものを、誤って判断し小さい心でこじらせるな。」というものだった。
これは聖霊のメッセージ的なものだろうか。あるいは私の自己欺瞞か。
感じたのは、「困った住人がいて、それに振りまわされて自分が動くのだと見れば、その見方はまちがっている。あなたは“問題”と見せられたものを現実化している。」
「そうではない、これは単なる後押しにすぎない。」
「それより、購入希望者として現れる同胞のことを心眼 で見るようにしたら、それはよきものを残すことになるのだから、まっすぐでいてよい」
「“うまく”やる必要はない」
「具体的にどうしたらよいかわからなくなったら、ただただ、ひたすら周りに感謝すること」
「決して怒らず、人を批判することなく、よいと見えることにもよくないと見えることにも、ただ感謝すればいい」と。
ほんとうかな。
自分が感じたと思う「メッセージ」を書いていることも、イタイことなのかもしれない。
レッスン174-レッスン157、158の復習…誰のことも肉体としては見ない
レッスン174は、レッスン157とレッスン158の復習。
L157)今、私はキリストの臨在の中へ入っていく。
L158)今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。
復習するべき主題概念の高潔さと私の現状には大きなかい離があると思う。とくにL157は今はぴんと来なかった。
L158は、啓示と心眼 について説明して、啓示は直接共有することはできないけれど、心眼は共有できると説いている。ACIMを学ぶ者は聖霊から受け取った心眼で見ることによって、それを与えることになる、と。
「キリストの心眼には一つの法則がある。それは、肉体を見てもそれを神が創造した神の子と見間違うことはない。それが見るのは、肉体を超えた光であり、触れることのできる有形のものを超えた一つの想念である。(L158-7-1,2,3)」
「そしてその心眼は、あらゆる人々や状況や、すべての出来事や事件の中に、まったく陰ることのない光を見る。(L158-7-5)」
心眼…未だ習得できていない。
「今日あなたが与えるものとは、誰のことも肉体としては見ない、というこのことである。誰のことも神の子と認めて挨拶し、聖性の中で彼は自分とひとつであると認めなさい。(L158-8-3)」
「今日あなたが出会う兄弟一人ひとりが、キリストの心眼をあなたの上に輝かせ、あなたに神の平安を与える新たな機会をもたらしてくれる。(L158-10-5)」
今日も午後4時に、別の不動産会社の方がお客様を連れて内覧の予定だ。
その方々のことを、「肉体としては見ない、同じ神の子と認めて挨拶する」ということを試みてみようかと思う。