奇跡講座ダイアリー

レッスン174-レッスン157、158の復習

2018-02-11

内覧者現る、だいじょうぶだろうか

『奇跡講座ダイアリー』というより『マンション売却ダイアリー』になっている、ここ最近 (^_^;)

きのう初の内覧のお客さんがお見えになった。

昼ごろ不動産屋さんから「本日3時にお連れしてよろしいですか」と電話があり、猛然とそうじし始めた。

70代と思しき女性と50代のように見える男性。夫婦と聞いていたけれど、えらい年の差カップルだなと思っていたら、あとで親子だとわかった。

とても人のよさそうな方々だ。「あら気持ちがいい部屋だね」と言ってくれたお母さんにはとくに親しみを感じた。

具体的に住まれるかもしれない方を見て、急に心配になってきた。

だいじょうぶだろうか。

ここは、

・交通、買物至便。

・角部屋、日当たり、通風、眺望良好

と、古いけれど、住みやすい部屋だと思う。

ただそれは、「管理組合の役員にならねば」という条件つきだ。役員になったとたんに、住人の一人から激しい攻撃の対象になってしまう。

この人たちが買ってくれたとして、後々ここを選ぶんじゃなかったと後悔することになるんじゃないか。

最近このあたりの中古マンション購入の半数以上は中国の方の投資目的だという。投資物件としてなら役員は回ってこない。そういう方に買ってもらえるなら、そっちの方が…?

自分が転居することばかり考えていたけれど、やはり具体的な購入見込者を見て不安を感じてきた。

ワークから感じたこと

こうした私の心配に対して、最近のACIMワークから感じたことは、

「そぐわなくなったものが剥がれ、そぐうものが嵌るだけ。見えている(ようにみえる)範囲がごくごく一部でしかないものを、誤って判断し小さい心でこじらせるな。」というものだった。

これは聖霊のメッセージ的なものだろうか。あるいは私の自己欺瞞か。

感じたのは、「困った住人がいて、それに振りまわされて自分が動くのだと見れば、その見方はまちがっている。あなたは“問題”と見せられたものを現実化している。」

「そうではない、これは単なる後押しにすぎない。」

「それより、購入希望者として現れる同胞のことを心眼ヴィジョン で見るようにしたら、それはよきものを残すことになるのだから、まっすぐでいてよい」

「“うまく”やる必要はない」

「具体的にどうしたらよいかわからなくなったら、ただただ、ひたすら周りに感謝すること」

「決して怒らず、人を批判することなく、よいと見えることにもよくないと見えることにも、ただ感謝すればいい」と。

ほんとうかな。

自分が感じたと思う「メッセージ」を書いていることも、イタイことなのかもしれない。

レッスン174-レッスン157、158の復習…誰のことも肉体としては見ない

レッスン174は、レッスン157とレッスン158の復習。

L157)今、私はキリストの臨在の中へ入っていく。

L158)今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。

復習するべき主題概念の高潔さと私の現状には大きなかい離があると思う。とくにL157は今はぴんと来なかった。

L158は、啓示と心眼ヴィジョン について説明して、啓示は直接共有することはできないけれど、心眼は共有できると説いている。ACIMを学ぶ者は聖霊から受け取った心眼で見ることによって、それを与えることになる、と。

「キリストの心眼には一つの法則がある。それは、肉体を見てもそれを神が創造した神の子と見間違うことはない。それが見るのは、肉体を超えた光であり、触れることのできる有形のものを超えた一つの想念である。(L158-7-1,2,3)」

「そしてその心眼は、あらゆる人々や状況や、すべての出来事や事件の中に、まったく陰ることのない光を見る。(L158-7-5)」

心眼…未だ習得できていない。

「今日あなたが与えるものとは、誰のことも肉体としては見ない、というこのことである。誰のことも神の子と認めて挨拶し、聖性の中で彼は自分とひとつであると認めなさい。(L158-8-3)」

「今日あなたが出会う兄弟一人ひとりが、キリストの心眼をあなたの上に輝かせ、あなたに神の平安を与える新たな機会をもたらしてくれる。(L158-10-5)」

今日も午後4時に、別の不動産会社の方がお客様を連れて内覧の予定だ。

その方々のことを、「肉体としては見ない、同じ神の子と認めて挨拶する」ということを試みてみようかと思う。

だれが演者なのか

2018-02-09

不動産屋はみんなウソつきの演者!?

マンション査定に来てくれた4件目の不動産屋さんから、「不動産屋はどんないい人に見えても、みんな基本ウソつきです、だまされちゃわないように」と聞いてから、これまで来てくれた方を「そうなのか」と観察するようになった。

え、あの最初に来てくれた、実直を絵に描いたようなベテラン営業マンも?

「ここ、昨年末中国人にHマンションを買い負けたお客さんにちょうどいいんじゃない?」って話し合っていた、男女ペア営業も?

とくに女性は色白ぽっちゃりのかわいい方で、澄んだ瞳で「うちにお任せください」って言ってくれてたよ。

独立して地域密着で頑張ってるって不動産屋さんは、声がソフトですごく話しやすかったし。

「業界人はみんなそう。いや、ウソつきって言ったら、語弊あるな。“演者”“役者”なんですよ。お客さんの前では別人。僕も入社したばかりの頃はびっくりしましたから」

「見込み客なんて…、いくらでも社員をサクラに仕込めます」

…業界ウラ話に、私は身構えた。

無知で弱者な私 vs 狡猾な不動産屋さん、の構図があったかに見えた。

しかしー

落ち着いてくると、違和感があった。

はたして、演者はだれなのかー

私があえて伝えない売却理由

私がここを売って引っ越したい、と思ったわけは複合的なものだ。

①故郷でひとり暮らしをする母の足腰が弱くなっており、いつでも母のところに行ける準備がしたい。

②ここは築年数が経っていて、今後工事計画など管理を必要とすることが増えるだろう。

③だけど、世帯数が少ないうえ高齢の方もいて、任期が来ても役を降りられない感じ。

④管理組合の活動すべてにヒステリックに反対する、モンスター住人がいる。

不動産屋さんには、①~③のことは伝えたけれど、④ついては触れていない。私の主観だし。「モンスターみたいな方いますか?」と直接聞かれたわけじゃないし、と。

だけど、これこそがここを去らねばならないと感じている最も大きな要因だった。私は、正直ババ抜きでババを持っているような気分なのだ。だれか、引いてくれ。

もちろん不動産屋さんは管理組合のヒアリングもするから、すでに知っているのだろう。

でも、私は、しれっとしている。

内覧の方がいらしても、にっこり笑って会釈するくらいだろう。

演者は、はたしてだれなのか。

もしかしたら、未来の私の住まいの売主さんも、私のような思いで買主となる私を待っているのだろうか。

仕事のためならウソをつくキャリア

思いを巡らしていったら、若かりし自分を思い出した。

当時もフリーランスで働いていた私は、時々「ミステリーショッパー(覆面調査)」という仕事を請け負っていた。

お客のふりをしてお店に行き、その店の見せ方や接客を調査してレポートにまとめるというものだ。対象となるのは高額商品を扱う店が多く、店内のヴィジュアル面での見せ方から、接客員の服装、言葉遣い、トイレの美しさまで、しっかと見てまとめる。

私の役は、商品知識に乏しい30代の独身女性。買わせようとプッシュする販売員と、買いたいそぶりを見せながら観察する私。

いずれが、きつねか、たぬきか。

ある調査後、夜自宅に戻った時には玄関ドアの前で販売員が「今日決めてもらおうと思って」と待っていた、その仕事熱心さにびっくりした。(見積もりまで取ってもらうこととの指令で、住所も氏名も書いてきていた)

その仕事で、私はクライアントからはそこそこの評価を得ていた。

そう、私は「仕事のためならウソも平気な演者」という意味では、キャリアが長かったのだ。

ACIMをやるずいぶん前から、そういう仕事は自然となくなっていったが。

はたして、今回だれが演者なのかー。

「自分の兄弟の中に見るものは自分自身にほかならない」

ACIM的に見たら、話はまったくちがってくる。

全部、全部がつくりもの。

私はエゴ・テーマパークの「マンション住み替え」アトラクションに興じるひとつの体にすぎない。キャストの不動産屋さんは、十分な訓練も受けていてまるで本物のお城を案内してくれているようだ。

私はすっかりアトラクションに魅了されており、家に帰ることを忘れている。

今朝は、レッスン174で、レッスン157、158の復習。本文には

「自分の兄弟の中に見るものは自分自身にほかならないということを覚えてさえいれば、このレッスンも習得するのは難しくない。」(L355-10-2)とある。

…、みんな私のひとり芝居なのか。

いったいだれが演者なのか。役からおりたら、だれになるのだろう。またちがう役を演じるのかな。貼りついた役はいくつあるだろう。

自分ははたしてだれなのか。

レッスン173-レッスン155、156の復習

2018-02-07

気が休まる水曜日

なんだか解放的な気分で、気が休まっている。

なぜかというと、水曜日―不動産屋さんの定休日、だから。

今日は契約した不動産屋さんからの電話も、未契約で「ぜひうちとも契約を」という不動産屋さんからの電話も訪問もないはず。

おととい、一括査定に参加してもらったけれど早々に断っていた不動産屋さんから電話がかかってきた。

「ネットで見ましたよ。なんだ、専任契約じゃないんですね。一般だったらうちとも契約してくださいよ」

ドキッ

そうだよね、そう思うよね。私も専任にするつもりだったんだ。結果的に一般になったけど。

あ、でもね、今のところ契約する会社をこれ以上増やすつもりはないんだ。

過剰反応する必要はないけど、契約した不動産屋さんから、「契約を求める新規の不動産屋さんがいつ直接訪ねてくるかわかりませんよ」と聞いて、どこかしら身構えていた。

「私が言うのもなんですが、不動産屋はありとあらゆる手段を使って契約を取ろうとしますから、気をつけて」と念押ししていったし。

私は自分から出ていく方はそうでもないのだけど、自分の空間に来られるのはキンチョーが高まる。いつもはしないドアチェーンもおとといから、しっかとかけた(ACIMでいう「防衛」である)。

でも、今日は大丈夫。不動産屋さんはお休みだ。大いに羽根を伸ばして休んでほしい。

こんなクローズドな性質で、興味を持った買い手候補の方に家の中をお見せする「内覧」を何回もこなせるのか、不安だ。おそらく一回ごとにキンチョーするんだろう。あまり今から身構えないでおこう。

内覧希望者がまったくなかったら…。

そっちの方がかなり心配だ。

レッスン173-レッスン155、156の復習

レッスン173は、レッスン155とレッスン156の復習。

L155)私は一歩退いて、神に導いてもらう。

L156)私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。

このレッスン173では、レッスン155と156の文言で、神さまと聖霊とをコンパスとするこの世での生き方をもう一度確認する。

この両方のレッスンとも、本文の一番最後の宣言がエッセンスだと思う。

L155「私は一歩退いて、神に導いてもらう。私は神に至る道を歩きたいのだから。」

L156「私は完璧な聖性の中で、神とともに歩む。私は世界を照らし、私の心を照らし、私とひとつのものとして神が創造した心のすべてを照らす。」

「神は愛であり、だから私も愛である。」

このワークでは、復習Ⅴを総括するフレーズ「神は愛であり、だから私も愛である。」をより意識した。

このフレーズは、短いながら、私たちの意識を動かす強力な2つのフックがあると思った。

1つは、文字どおり「神は愛である」というところ。

これは、私たちが神に対して無意識に投影している「罰する神」「恐れるべき神」というイメージを根幹から上書きする役割を果たす。

もう1つは、「だから、私も愛である」というところ。

「神は愛」「だから私も愛」という2つの文は、今の私には強引とも感じる。この文で、神と私はつながっているんだ、と潜在意識にしみ込ませる。

復習Ⅴを通して、この文言を唱えることで、古い心のOSの更新を図っているのだ。

…私ははたして愛になりうるんだろうか。

今世では無理かな、と、はなから投げ気味だ。

ワークをしていて感じたのは、私はやっぱり感謝が足りないということ。言葉で「ありがとう」を言うのはけっこう慣れてきたけれど、心がね。。。

「本当にありがとう」と心から感じている時は、逆に言葉にできなかったりする。

コメントもらう。すごくうれしかったけど、その前に固まった

2018-02-06

コメントもらった、固まった

この『奇跡講座ダイアリー』にコメントをもらった!

同じ『奇跡講座』の学習者だという、くさちゃんさん ♪

先月の18日のことだ。

すごくうれしかった!!

でも、その前にびっくりの方が大きくて固まってしまった。それで、「どうも。よろしく」みたいな返信しかできなかった。

私は数年前にACIMに出会って、心惹かれワークを始めて、それからひとりでワークをしていて、何かしら発信したりシェアしたいと思ってこのブログを作ったはずだった。

だけど、同時に「世間」が怖かった。

世の中から見るとACIMの考えは極端に見えるし(極端どころか、「世界はない」と言っている)、根幹の「赦し」という概念も、「じゃあ、悪い事や悪い人をそのまんまにしておけってこと?」「ただの現実から逃げているだけじゃないの?」などと言われそうで、そうした意見に対する答え方もよいかわからなかったから(自分自身の心の声だ)。

元々うまく自分の意見を言えない質なのだ。

つながっていない架空のブログ?

メジャーなブログの会社のブログは人目にさらされてしまうかな。WordPressならそんなに目立たないか。

見てもらいたいから、作るブログなのに、見られた反応が怖い…。でも、ここにもACIMの学習者がいると声をあげたい。そんな複雑な気持ちがあった。

だけど、私の心配をよそに、インターネットの大海原の中で『奇跡講座ダイアリー』の小船が発見されることはなく、何も変わらなかった。

ずっと前に英語のコメント、何かの宣伝なのかな?そういったのを30個くらいもらったけれど、意味が理解できず放置していて、その後コメントはなかった。

いつしか私は、パソコンの向こうの鍵付きダイアリーをこそっと開けて日記を書いている気分になっていた。以前お笑いタレントのフルーツポンチ村上さんがお笑い番組で、どこにもつながっていない「架空のブログを書いている」と話して、皆にきもがられていたが、私もそんな感覚に陥っていた。

でも!

私のブログはつながっていたんだ!

くさちゃんさんから、2度目にコメントをいただいた時、少し「びっくり」が治まって「喜び」のリアクションができた。

「鏡のむこうとこっち」から次のステージへ

私は、知らないうちにACIMの世界とこの世のゲンジツの間に鏡でも置いていて、その二つの世界を分けていたようだ。それこそが、ACIMのいう「分離」の世界観なんだろう。

観念の世界のACIM。心の中の聖域。

やっぱりACIMは私にとってゲンジツからのシェルターになっていたのか。

その鏡の向こうから、くさちゃんさんが「こんにちは!」と出てきた。

私の返信に対して、くさちゃんさんは、ACIMのワークをしていることをより具体的に書いてくれて、やっとゲンジツ感が湧いてきた。

ああ、つながっていた…

ACIMの教えどおり、このコースはひとりで歩む道ではない。わかちあってこそ習得できる道なのだ。

いつまでも、鏡のなかの個室にこもって拗ねて体育すわりをしていてはだめだ。

くさちゃんさんはブログも書いていることを発見。まだ心の筋肉はキンチョー気味だけど、そのうちに遊びに行けるかもしれない。単に本やワークブックを通しての学びじゃなくて、次のステージに行こう。

私は自分のきもちを表現するのが得意じゃないが、じつは感激しているんだ。

鏡の向こうからの「こんにちは」に!

レッスン172-レッスン153、154の復習

2018-02-05

自宅マンション、売りだし開始

自宅マンションの一括査定をお願いした後、どの不動産屋さんに仲介を依頼をするか迷っていたが、ようやく決めて契約を済ませた。

1社とだけ契約する「専任」という契約と、複数社と契約できる「一般」という契約があって、「『一般』はいろんな不動産屋さんが『うちも契約を』と直接訪ねてくるよ、やめたほうがいい、オートロックもないマンションで」と聞いていた。

また、1社だけに絞り込んだ方が不動産屋さんもがぜんやる気になる、と。

だけど、2社まで絞り込みもう一度その2社の担当者とあったが1社に絞りきれず、結局「一般」での契約をお願いした。

そして昨日から不動産仲介サイトへの掲載がスタートした。

自宅内の写真も載っている。自宅のキッチンやお風呂をネットで見るのはヘンな気分だ。愛着のあった住まいが私の手によって、売りに出されている。

売ったおカネから諸経費を引いて買い替えができるところって、どこかな?20代の時ならいざ知らず、中年になって住まいのエリアを変えるって大きなことだな。とくに最近とみに体力気力が衰えている私にとっては、一大事業だと感じる。

レッスン172-レッスン153、154の復習と防衛する私

レッスン172は、レッスン153とレッスン154の復習。

L153)防衛しないことの中に、私の安全がある。

L154)私は神の司牧者のひとりである。

自分から仕掛けたことだけれど、私はマンション売却・住み替えに恐怖を感じていた。

一括査定に来た不動産屋さんは口々に、自分も不動産業なのに「不動産屋はしれっと平気でウソをつきますから、他社さんにだまされないでくださいよ」と言っていく。

「このエリア限定で去年から買いたがっている女性がいる」とある不動産屋さんに聞いて気をよくしていたら、次に着た業者さんが「そんな人、実在するわけないじゃないですか」と言い、「え、そういうもの!?」と思う。

「高値で査定する会社は、専任契約を取るためのテクニックで、契約が取れたら『高すぎて売れない』と段階的に数百万円価格を下げさせて、結局一千万円近く値引きしてさせたあげく、提携業者に買い取らせるシナリオがあるんです」と別の営業の方。

各営業マンから不動産業界の「裏側」の話を聞かされ、短期間のうちに「こいつも、もしやウソをついているのか」とすっかり「不信のメガネ」をつけて不動産屋さんを見るようになっていた。

だまされるなんて、ジョーダンじゃない!

私が「専任」を選べず「一般」にしたのも、一社だけに囲いこまれることにリスクを感じたからだった。

でも、ワークをして、「ありゃ、これこそが防衛だな」と気づいた。

私は、草食動物の私を狙う肉食の不動産屋さんと闘っているような気になって「そうは思うようにさせるか」と思っていたけれど、これは「勝ち負け」ではないんだった。

つい、内に持っている「好戦的」なところが出てしまう(^_^;)。

闘うのではなく、「聖霊さんに導いてもらう」のだった。

恐ろしいゲームをする必要はない

救済とは、幸せな子どもたちの楽しむゲームに喩えられる。それは、ご自身の子どもたちを愛する神によって計画された。その神は、恐ろしい玩具を片づけて楽しいゲームを与え、恐ろしいゲームは終わったと教える。」(L153-12-1,2)

そうだ。そもそも、恐ろしいゲームをする必要などない。

「あなたは自分の父から見捨てられて、望みを失ったというゲームをしてきた。罪と罪悪感で気が狂っている恐ろしい世界で、たったひとりで恐怖に震える役を演じてきたあなたは、今、幸せになりなさい。」(L153-13-1)

うん。穏やかで幸せなゲームでいいんだ。

そして、ワークで感じたことは、

「ここを売って引っ越しできる可能性自体が、大きな恵みなんだということ」だ。母との共有名義のマンション、15年もの間こうしてここで快適に過ごしてこれたのも、母のおかげだし天の恵みだ。

日当たりもよく、すごく心地よいところだった。

この空間に護られていたことも、感じた。

復習Ⅴへ & レッスン171-レッスン151、152の復習

2018-02-01

復習Ⅴへ

復習Ⅴには、全体を通して唱えるテーマがある。

「神は愛であり、だから私も愛である。(復習Ⅴ 序 4-3)」

毎日の復習はこの概念とともに始める。そして、この概念とともに終える。この概念とともに眠りにつき、朝目覚めてからもまずこの概念を意識に上らせる。

「愛である私」という自己概念を強力に育てていくことが、この復習のテーマなのかな、と思う。それは今後出会う周りの人に「愛である私」を伝えて「愛である私」を呼び起こしていくしごとのためでもあるんだろう。

イエスは、この復習の序文で「この復習を私への贈り物としてほしい。なぜなら、私が必要としているのはただ、私が語る言葉をあなたが聞き、それを世界に与えることだけだからである。(復習Ⅴ 序9-1) 」と言っている。

そして「私は真の自己からあなたに呼びかけているが、その自己はあなた自身の自己にほかならない。(9-4)」と言う。

この自己への道は、兄弟と歩む道、私たちはいずれ各々真の自己となり神とひとつになる。

「それならば、生きているもので、あなたとひとつでないものなどあるだろうか。(9-9)」

このフレーズが心に響いた。

このゲンジツの私は、他者を「搾取する者」や「うまくしてやろうと思っている者」に見えているからだろうか。

レッスン171-レッスン151、152の復習

レッスン171は、レッスン151とレッスン152の復習。

L151)すべてのものごとは神を代弁する声のこだまである。

L152)決断の力は私にある。

実生活では、マンション売却のための一括査定をお願いしたのち5社の不動産屋さんに訪問査定をしていただき、短期間のうちに見ず知らずの男性が相次いで家を訪れ部屋を覗き込んでいく(それが査定だ)という状況に、強いストレスと緊張を感じていた。

また、その査定結果は安いところと高いところには1,500万円もの差があって、「いったいここは本当はいくらが妥当で、いったいどの不動産屋さんに仲介をお願いすればいいの?」と、訳がわからなくなっていた。

各社からの電話やメール攻勢にも緊張し、あげくの果てには胸が締めつけられるように痛くなってきた。

ワークをしていても、「不動産屋さん、どこにしよう、早く決めなきゃ、どうしよう」がチラチラ出てきてしまい、ざわざわする。すべてエゴ的反応だ。

「あなたには判断するということができない」

レッスン151、152の本文を読んだ。

「どうしてあなたに判断することなどできるだろう。あなたの判断は、五感が差し出す証拠に基づいている。ところが、これ以上に間違った証拠というものはほかにあったためしがない。(L151-3-1,2,3)」

あ゛… そ…

「これまであなたは、自分で判断することを控えるようにとたびたび勧められてきたが、その理由は、それがあなたにふさわしくない権利だからではない。あなたには判断するということができないからである。(L151-4-2,3)」

あや…

これらの文言が、「不動産屋さん、どこにしよう」と迷っていた私の頭をコーンと叩いた。

そうか、私には判断できないのか。

査定価格、会社の力、手数料割引や売り方、担当者の第一印象、キャリア、手腕などなど「細かく分析」し「総合的に判断」しようとしていたつもりが、「五感はあてにならない」し「判断するということができない」のか、と。

特にいくらで売ってくれるつもりがあるのかという査定価格には、大きく心を動かされていたけれど、そもそも「おカネ」なんてものはないはず。

あるのは、神の豊かさだけ。

私たちはそれを自我という制限のプロジェクターを通してこの世というスクリーンに映しているだけ。

神はこの世を作ってはいない。

自我という影と制限、罪悪感と恐怖を映しているだけなのだ。

大事なのは聖霊の存在を感じ、その導きを受け入れていくだけなんだ。

「誰がパートナーなのか」

何日かこのワークをしていて感じたのは、

「やっとここまできたか」という誰かの声。これが聖霊さんの言葉なのか。

マンションの大型修繕計画やモンスター的住人、役員でごたごたしそうで、「引っ越ししよう」と思ったが、もしかしたら一連のできごとは、故郷にいる親のことが気になけつつ動けないでいるがに、何らかの変化をもたらすために私の無意識が引き起こしていることか…

そもそも聖霊さんの後押しのプロジェクトなのか…?と感じた。

それは、この先どういう展開になるのか私からは見えない、だから私には何もわからないが。

そして、「誰がパートナーなのか(不動産屋か、聖霊か)」と問われている気がした。

もちろん正解は「聖霊」だ(正しい見方を覚えていれば、そのはず)。

レッスン152本文の冒頭には、「自分の決断に因らない限り、誰も損失を被ることはありえない。苦痛を被ることを自ら選択しない限り、誰も苦痛に苦しむことはない。(L152-1-1)」とあり、

また「あなたの身に起こることで、あなたの願望を表していないものは一つもなく、あなたが選んだもので、そこから省かれるものも一つもない。ここに細部にわたって完結したあなたの世界がある。(L152-1-5)」ともあった。

そうなのだ、困ったや苦痛を感じたとしたら、それは私が作ったもの。すべては私が描く世界なのだ。

上手にワークしているつもりでいたけれど、差し迫るゲンジツの前ではすっかりこういう教えを忘れていた。

そして、今覚えているつもりでも、またすぐに忘れるんだろう。

ただ、このマンション脱出&住み替えプロジェクトには聖霊さんの導きがあるようにも感じた。

恐れないでひとつずつ進もう。なるたけ耳をすまそう。

私が私のじゃまさえしなければ、すべてはうまくいく。

マンション売却・住み替えプロジェクト進行中

2018-01-26

東京にも雪

気づけば、またブログから遠ざかっていた。ワークは1月9日から1月17日までレッスン170で足踏み(次の復習Ⅴの序文の原文解釈に時間がかかってしまった)。1月18日からはワークそのものから遠ざかっていた。

その間(1月22日)には東京に大雪が降って、一日で「ここ、東京?」と思うくらい雪が積もった。私は富山で買った、靴底のギザギザの彫が深いショートブーツで、がしがし歩いた。

「闘うか、逃げるか」で、逃げるをえらぶ

実は、昨年末から始まったらしい「マイプロジェクト」あって、そのゲンジツに翻弄されていた。

それは、「マンション売却・住み替えプロジェクト」だ。

それは去年末に、同じマンションに住む方との立ち話から始まった。

「私たち、たま(私)さんに、来年も理事やってもらおう、って話してたの」と、古くからいる上の階の女性。

えー、そんな!

来春2年の任期がようやく終わるというのに~。

役員は当番制だがなかなか理屈どおりには進まない。今回のお役も何人か飛び越して、いりなり総会の議案に名前が載せられて「聞いてないよ~」と思ったけれど、多数決で可決。私の番になった。

古いマンションだから、これから大型修繕工事が必要だしそのための多額の借入も必要、やるべきことはたくさんあるが、「問題児」住人もいて、そうは物事が簡単にいかないことは火を見るより明らか。

やっと解放されると思ったけど、何らかの「政治力」で埋められてしまいそうだ。

逃げるか、闘うか。

…、で「逃げる」を選んだ。

今年は、マンションのことにかかずらあうより、何かあったらすぐ母の元に迎える態勢を作りたいのだ。

「マンション一括査定」―どの不動産屋さんを選ぼう?

そう思ってから、しかしもう築年数が40年の古マンション、いったい売れるのか、売れたとして住み替えができる価格なのか、不動産売却・購入にかかる費用はどれくらいなのか、引っ越すとしてどこに?などなど、いろんなことが頭をぐるぐるしていた。

今は「マンション査定一括サイト」なる便利なものがある。自分の物件概要を入れて「ポチっと」押すと、不動産屋さんに一斉に情報が渡り数社が査定に名乗りをあげる。

私は、最初1社の査定を受けた後、1社だけではわからん、とポータルサイトをポチっと押し、結局先週5社の訪問査定を受けた。

査定金額はあくまでも査定で、その金額で売れるという保証ではない。しかし、その査定金額、1,000万円~2,500万円と上下1,500万円も幅があり、いったい査定金額ホントはいくらなんだかわからなくなってしまった。

売値によっては住み替え、できそう。買い替えのためには、できるだけタイミング良く高く売りたい。

「昨年このエリアで探していて、中国人の方に買い負けてしまった方がおられるんですよ」という話を聞いて、そこがいいと思ったが、次に査定に来た営業マンに漏らしたら、「その人は実在するんですか」と言われた。「この業界、平気で見込み客といってサクラぐらいも仕込みかすからね」

へ!? そーなの?

いったい誰のどんな情報を信じていいのか、頭がぐるぐるになってしまった。

どの不動産屋さんを選ぼう?仲介手数料は「価格の3%+6万円」、価格が2,000万円と仮定すると70万円以上も払うことに。売りも買いも同じところでやるとしたら、手数料だけでその倍…、150万円。

どの人、どの会社が売る力があって信頼できる??

営業マンからはプッシュの電話。どうしよう??

気づけばこの世のゲンジツにどっぷり浸かっていた。

これは私が脚本・監督のゲームのはず、ゲームから脱出せよ

すごい深刻な状況というわけではない。恵まれている中での小さな判断と言えなくもない。

そもそもACIM学習者の目で見れば、いずれも幻想。自分が入り込んでいる幻のゲームか映画。

映画の登場人物が、マンションをいくらで売ろうと関係ないはず。

大事なのは、自分がしている幻のゲームに気づいてそれを手放し、神と聖霊に心の焦点を合わせること、のはず。

だけど、今の私は、自分が演出したであろうゲームの主人公に成りきって、どの不動産屋さんがいいか、そのゲームの選択肢に迷っている。

少しは時間をかけて学習したつもりになっていたけど、まったく、、、だな~

目をさませ、ゲームから脱出せよ。聖霊さんの声に耳をすませ。

 

とりあえず今日から復習Ⅴへ。

レッスン170-神に残酷さはなく、私にもない。

2018-01-12

ワークとダイアリーブログの意味

新年のワークは元旦のレッスン169からスタートした。実家でのワークだったので、瞑想中母から声をかけられ、イラッとしてしまったことをダイアリーに書いた。

途切れつつも去年一年になんとか90個やったワーク。

ワークをしてダイアリーを書くことは、だれに向けたものでもなく中途半端なことをしていると自分でも思うけれど、私にとっては旅の小さな塚のようなもの、あるいはスタンプラリーのハンコみたいなものだし、ACIMと私を繋ぐものとして、役にたっているんじゃないかなと思う。

ワークの内容を復習することにもなるから。

レッスン170-神に残酷さはなく、私にもない。

レッスン170は実家で原文の読解をして、3日からワークしたもの。その後、東京に戻って気が抜けて呆けていたが、また9日から再開した。

「正当防衛で攻撃していると考えるとき、あなたは残酷になることが保護であり、残酷さのおかげで自分は安全だと思っているのである。それは、他者を傷つけることが自分に自由をもたらすと信じる、と言っているのである。(L170-1-3)」

「恐れから身を守ることと攻撃することが同じだという考え方は、徹頭徹尾、狂っている!そこでは恐れが生み出され、血をすすりながら大きく育ち、膨れ上がって猛威を振るうようになる。(L170-2-1)」

恐れと攻撃、残酷さについて書かれたレッスン170の冒頭を読んで、真っ先に、北朝鮮の最高指導者、金正恩氏が浮かんできた。

アメリカに攻撃されてしまう前に、何とか「正当防衛力」をつけようと去年ミサイル発射と核兵器の実験を繰り返している、その人。兄・金正男氏が暗殺されたのが遠いことのようだけど去年2月のこと。やはり関与があったのか。

その心は、恐怖と疑心暗鬼でいっぱいなのだろうと想像できる。

恐怖を前提とすると、周りがみんな敵に見える。そうして攻撃してくるように見えるから、防衛する。その防衛が過剰になると「やられる前にやってしまえ」が正しく見えてくる。

だれの心の中にも、「小さな金正恩」がいる。

空想上の正当防衛が展開されるための前提

レッスン170では私たちの「空想上の正当防衛が展開されるための前提」として、次のような考えが挙げられている。

1つは、「想念はその源を離れる」という誤った前提だ。

神は攻撃しない。正当防衛と名付けつつ攻撃を正当化したこの考えは、「想念はその源を離れない、ゆえに私たちは今も神とともにある」とするACIMとまったく異なっている。

2つめは、私たちは「愛ではなく、恐れに向かって慰めを求めているのだ」ということ。そして逆に愛が敵となる。そして愛が敵となる一方で、恐れから来る残酷さが自分の拠りどころ、神となる。

レッスン170では、私たちが崇めてしまっている残酷さを手放す訓練をする。近年は昔より「やられる方がバカなんだ、やられるよりやってしまえ、残酷が勝つ」といった風潮が強くなってきている気がしているが、それは私だけだろうか。

北朝鮮の最高指導者ほどではなくでも、私たちには恐怖と防衛心がある。だから、残酷さも防衛も捨てることは、荒野にひとり丸裸で取り残されるかのような、怖さがある。

レッスン170は、怖さの本質についても記述されている。

「恐ろしくて乗り越えることなどできないかに見えるその妨げとは、神ご自身に対する恐れである。」

私たちは残酷さを崇めており、神にその属性を被せて、恐れの象徴として神を見ている。これが私たちの無意識に在って私たちを支配する「ボスキャラ」なのだ。

心の奥底の神への恐れはすさまじく、レッスン170のような、自分の残酷さを捨てて代わりに愛を見るワークは、数回やったくらいでは全然効かないんじゃないかと思う。

イライラ…因果は逆

実家でワークをしている時は、ひとりになれる安全なワーク空間が守られないとイライラしていたけれど、ワークをしていて、イライラする状況は、私が「怒りたい」「溜まった攻撃エネルギーを発散させたい」がために、その状況を創り出しているのだと気づいた。因果は逆なのだ。

今はいらいらしたり、腹立たしく思った時は、これを思い出して、なるたけ早く手放すようにしようと思っている。

レッスン169-恩寵により、私は生きる。恩寵により、私は解放される。

2018-01-10

恩寵とは

昨年末12月27日に英語と日本語版でレッスン169の本文を読み終え、帰省後の29日~31日にかけてワークをした。

本文が長かったのと、「恩寵」という言葉にいまいち馴染みがなく恩寵とはどういうものかが引っかかり、難しく感じた。

「恩寵」は原文ではgrace。辞書では、恩寵、神の愛、恩恵とある。

大畑学さんの『A Course in Miracles Workbook精読』では、「神の恵み」と訳され、主題概念は「私は神の恵みによって生きる。私は神の恵みによって解放される」となっている。こちらの方が言葉としては易しい。

レッスン169本文では冒頭「恩寵(grace)とは、神の愛の一側面であり、真理の単一性の中に充溢している状態に似ている。」と説明があり、続いて「それは完全にこの世を超えたところまで導くものなので、恩寵を目指すことは世界で最も崇高な志である。」と加えられている。

それからずっと恩寵の説明が続くけれど、わかったような、わからないような…。いややっぱり、わからない…。

読みすすめるにつれ、禅問答ってこんな感じかな?という気分になってくる。

第2パラグラフには、「恩寵とは、憎しみと恐れに満たされているかに見えるこの世の中で、神の愛を受け入れることである。」とある。恩寵とは「神の愛を受け入れること」、そうすれば「もはや恐れの世界の実在性を信じることはできない。」(L169-2-2)

「恩寵とは学べるものではない。(L169-3-1)」とも書かれているが、学んだ結果の最終段階を超えた、その結果として気づいたり感じとれたりりするものなのかもしれない。

「神、在り」そして、この世はない

ACIMの学びは最終的には「神、在り」という一点に行きつく。「そして、神の実存のうちに、神はあらゆるものを包含する。心の中には神以外に何もない。私たちは『神、在り』とだけ言って、その後は口をつむぐ。(L169-5-1)」

この「神、在り(それ以外には何もない)」、概念としては受け入れているけれど、実感としてはわからない。恩寵とはこれが実感として感じられるようになることだろうか。

「世界は一度も存在したことはなかった。永遠が、恒常の状態であり続ける。(L170-6-6)」

「私たちは以前から何度も繰り返してきたが、あなたはすでに終わっている旅をしているにすぎない。(L170-8-3)」

今の私にはわからなくても、旅はすでに終わっている。神という恒常だけがある。私たちは、すでに撮影済みの映像をくりかえしくりかえし見ているにすぎない。それが実感としてわかる時がある。

そのために今は、(わからずとも)自分に割り当てられている配役を果たすだけ。そう言われているようだ。

「だから、あなたには自分の役割を果たすために為すべきことがあるということだけで、充分としよう。(L170-11-1)」とある。

恩寵を感じられるようになるためには、これまたくりかえされていることだけれど、聖霊の導きにしたがって、赦しを実践すること。ここに行きつくようだ。

恩寵―私の考え

ワークブックの文章は抽象的で、読んでいるうちに意識が上滑りしていて、腑落ち感もイマイチない。

ワークをして、恩寵とはわかりやすくいうと、感謝なんだ、と思った。

神の恩寵、恵みが感じられるようになった状態はおそらく感謝に溢れた状態ではないだろうか。この世の醜いところ、残酷さ、怖れ、罪深さ…といったものが意識から離れ、ただただありがたい、そういう状態が恩寵を受けた状態ではないだろうか。

感謝ということばは、どこかしら下から上へ、施された者から施した者へと向かう印象があるが、そうではない。上下なくすべてに在るものであり、この世で表れうる最高のものではないだろうか。

言葉の「ありがとう」だけじゃなくて、心から感謝を感じること。感謝を感じられることが恩寵なんじゃないかな、と思う。

私は元々愚痴っぽくて、感謝が足りない。今は「ありがとう」と口にするよう意識しているけれど、心から言っているかといえば、そうじゃないことも多い。

今年は感謝できる能力をアップしたい。

2018年、新年のきもち

2018-01-09

東京と故郷・富山には時差がある!?

年末年始は母と二人濃い時間を過ごすことができた。

5日に東京に戻ってきた後、ぼーっとしてしまって東京の生活リズムを思い出すのに時間がかかった。

今朝、毎年もらっている銀行の一年カレンダーをしごと部屋に貼り付け、ようやく2018年に立った気がした。

故郷と東京を行き来した際はいつも“時差”があるかのように感じてしまう。私にとってあまりにも世界観がちがって、それに反応して自分の在り方も変わってしまうからだ。“時差”ならぬ“地差”とでもいうべきか…

実家では母の家で母からの刺激に対してリアクションしているだけ。何日かいっしょに過ごすと“自分”がわからなくなってしまうのだ。そもそもこだわらねばならない自分なんてないのかもしれないけど。

ACIMワークのほうもしばらく休んでいた。今朝しばらくぶりでワークをした。東京でACIMを学んでいた自分の感じも、少し思い出した。心が落ち着きすっきりした。

80代ひとり暮らしの母のことが気にかかりながらも、一つ屋根の下に暮らす決心は持てないままという現状は今年も続きそう。

80代の母、iPad miniの練習をしYou Tubeにハマる

よかったのは、年末年始いっしょに母の歩行練習をしたりストレッチをしたりして、室内や安全な場所ならば100~200mくらい歩くのは問題ないことがわかったこと。母も「歩けるようになったね」と顔が晴れやかになった。

冬は雪があるから買物に出るのは難しいけれど、新たに生協に加入し、生協にないものは私が買いに行った。元々備えあれば憂いなしタイプの母は生協の注文量が半端なく、ひとり暮らしなのに冷蔵庫3台を稼働させ、冷凍肉魚や缶詰など今や丸一ヶ月籠れそうなくらいたっぷり備蓄がある。

それでもひとりで時間を持てあますのでは?と、母に買ったiPad miniに新しく音楽をダウンロードしたり電子書籍を買ってみたり、インターネットで検索するのを練習したり、You Tubeをいっしょに見たりした。

好奇心旺盛で美術や建築が好きな母はYou Tube上の建築や庭の動画に食いつき何時間でも見たがった。インターネットの検索の方は高齢者だからか、ネットに溢れる情報から、どこを見るべきかがイマイチわからず、広告などへんなところに引っ張られてしまうきらいがあるけれど、前よりもできるようになった。

「Wikipediaっていうのは、インターネット上にある百科事典で、みんなで自由に書いたり編集したりするらしいよ」と私が言うと、「じゃあ、私も書きたい」と言い、私をびっくりさせた。おいおい、見る方じゃなくて書く方なの?

私はネットやiPadに詳しい方ではないのだけど、母の要請に従ってあれやこれややることで新たに知ることも多く、「(母のように)やりたいことや好きなことがはっきりしている人って、強いな」と思った。

母のiPad miniと私のiPhone間で、Face Timeの練習もした。私が電話をauからmineoに替えたので母との通話料が高くなってしまったから。Face Timeならただだ。家の端と端でFace Timeの画面を覗きながら「元気にしてる?」と昔の糸電話みたいに話をした。

こうしたiPad miniの刺激がいつまでもつか、また母一人になってひとりで使いこなせるものかどうかわからない。2018年も各々ひとり暮らししつつ昨年より帰省の回数を増やして様子見を継続することにした。

2018年、幸せな時を紡ぎたい

母はやはり一緒に暮らしたいようだった。ただそれは私が「娘役」に徹し母に合わせているからだと思う。私の方は「実家は母の世界、ここに自分の時間と空間はない」と感じてしまう。どこか近くに私だけの部屋が持てればもっと近くにいられるかも、と思ったりもしたが、その分追加コストが必要になる。母にその必要性の意味は理解できないだろうし。

そもそもそれ以前に、今や限りなく無職に近いフリーランスの私。貯金の切り崩しで生きるにも限度がある。私はこの先どう稼ぐのか。

その場にいて働かなくてもネット上のしくみを利用した収入源を探したい。時間がかかるかもしれないけれど、少しづつでもなんかできないかな、と思う。

東京に戻ってほどなく母からFace Timeがかかってきていた。気づかなかったらしく不在着信になってしまっており、今度は私からかけたが、今度は母が取らなかった。固定電話をかけてそれから、お互いFace Timeの操作をして話した。

今はちゃんと使いこなせれば便利が道具がいろいろある。一瞬、母がえらく使いこなして、しょっちゅうFace Timeがかかってきていたら怖いな、と思ったけれど、こうして母とやりとりできる今は、有り難く幸せだ。今年のお正月もすばらしく幸せだった。

2018年も、イレギュラーなかたちでいいから、自分なりのハッピーを紡いでいきたい。

実家は新たな赦しの機会の宝庫

2018-01-02

お正月行事でフレッシュスタートする

故郷で母と二人の元旦。子どもの頃から馴染んだ味のお雑煮を食べて、ああ、お正月だな、としみじみ感じた。わが家は浄土宗で、毎年正月二日には、お寺さんが家にお経をあげに来られる。今日は尼さんの力強い澄んだ声のお経を聴きながら、心の中ではACIMの復習をしていた。心が清められた気がした。

お正月行事などいらないし別に平生のまんまでいいと思っていたけれど、神棚を掃除して仏壇も掃除して、新年の掛け軸をかけて花を活けてと昔からの方法でお正月を迎え、年のくぎりを意識できた。気持ちも一新できた。母がいるからできていることだが…。

瞑想中、声をかけてきた母にいらだつ

元日の夜、母が寝室に入ってから、自分が寝床にしている居間でひとりくつろぎ、瞑想ワークをしていた。

そこに、突然母が「まだ寝んがけ?」と声をかけてきて、中断した。

安心していたひとり時間が破られ、また、いらっとしてしまった。

実家には自分だけで安心して過ごせる時間と空間がないことが致命的だ。

せっかくひとりになれたと思っていたのに、なんで侵入してくるかな。

私は、自分の内に踏み込まれるのが大の苦手で、いったん気持ちが乱れるとなかなか収まらない。いったん腹を立てると、腹だったことに執着したくなってしまう。

でも、ワークを再開したら、次第に落ち着いてきた。

本当は瞑想中に声をかけられたからと言って、猫が毛を逆立てるみたいに怯えたり怒ったりすることじゃないだろう。

母が来たから→心が乱れ、いらだった

と思ったけど、そうではなくて、私が私の人生映画を作っているんだ、

私の中に攻撃的な気持ちがあるから→引き金となるゲンジツを作って怒っているだけなのだ。

私のゲンジツを作っているのは私の思考

そして、私の思いの裏には、「私の外はすべて敵」という前提の思い込みがあるのかもしれない、と思い当たった。その大前提の思考をもとに自分がゲンジツを作っている。

保守的な土地柄の故郷では、子どももいないバツイチ単身者の中年娘は肩身が狭い。

私の従妹の息子さんが結婚が決まったとか、私の同級生に孫ができるなどという話を聴いて、「ほんとはそういう年なんやね」とつぶやく母にどこかしら罪悪感を感じ、同時に責められているような気持ちになってしまう私。

申し訳ない、居場所がない。

この思いが先、なんだ。

そして、これはエゴの正当化だし、幻想だし、まちがっている!

これこそが、私が赦すべきことなんだな~と思った。

実家は赦しの機会の宝庫⁉

怒りはどんなことがあっても正当化されない。

私の心の内側には手つかずの怒りと罪悪感がまだいっぱいある。

故郷では閉じていた心のフタが刺激を受けてぱかぱかする。

心乱されていることすべてが、「神との分離」という誤解の、私バージョンの投影なんだ。

これは、新たな赦しのチャンスを与えてくれていること。

そういう意味では、実家は赦しのチャンスの宝庫かもしれない。

先のことはわからないけれど、気づいたらひとつずつ赦していこう。

そして、なるたけ、ACIMの源から離れないでいたい。

母と過ごす大みそかと4日目のイライラ

2017-12-31

母へのイライラと、大人になれない中年子どもの私

2017年大みそかの夜、母と紅白歌合戦を見ながら過ごしている。大みそからしい、大みそかとも言える。

おとといは母と過ごせる年末を感謝していたはずなのに、帰省して4日目ともなるとありがたさもどこへやら、イライラが募っている。

家の中でのスリッパの履き分けや洗濯物の干し方といった細かい母ルールがあり、それを押し付けてくるたびにイラっとする。起きてから寝るまでずっと「〇〇って△△やったっけ~?」式に質問が続くことに辟易している。ネットで調べて答えるが、1つ疑問が解けるとまた新たに疑問が湧いてくるらしく次の質問へと続き、連想ゲームのように質問が拡散していくから終わりがない。年末の家事をしている時でも、時間を置かず大声で呼びかけられ、まったく思考がまとまらない。

私も元々ワガママな上に、ひとり暮らしが長く自分のパターンができているから、親とはいえ他人に合わせられる時間が限られているのだ。1日16時間ならば3日が限度だ。

イライラしては、いけない、と飲み込み、母に調子を合わせる。けれど、気づくとまたイライラしている。将来的にいっしょに暮らすことに、まったく自信が持てない。自分だけの空間と時間を確保しないと、同居はきびしいなと思う。ひとり寝床に入る時はへとへとだ。

ただ、今日母が寝ている部屋を大掃除した時、部屋の隅のほこりの多さと乱雑さにびっくりした。

几帳面できれい好きだったはずの母が、こんなほこりだらけの部屋で平気でいるとは…。上から目線と訳知り顔で世の中の改善点を指摘する母は年だけどしっかりしている人だと思っていたけれど、部屋は身の回りの手入れが自分でできないお年寄りのそれだった。

母は私が思っている以上に歳を取っていたんだと気づいた。当たり前と言えば当たり前だ。私のイライラの一因は母の質問があまりにも世間知らずだったり無知だったりすることにもあった。私は母の老いそのものにイラついていた。そして不甲斐ない自分自身にも同様にイラついていたのだ。

大人になり切れず甘えていたい私が気づきたくないだけで、母は年相応におばあちゃんになったたけだった。

母にやさしくしてやさしい時間を過ごすことこそが帰省の目的だったはずなのに、気づけばイライラの渦中にいて今にも攻撃せんばかりになっている私。

それは、昔の無力だった子どもの私が母に「はむかう」感じにも似ていた。結局、歳ばかり取って大人になれない中年の子ども。ただ母が老いただけなんだ。

「はむかう」という漢字を見たら、

「刃向かう」と「歯向かう」とがあって、どちらも攻撃性の強い言葉だった。

「愛は不満を抱かない」(ワークブックL68)とは対極にある私。

明日、元旦くらいは母にやさしく接したい。

小さなふりかえり

今年は中断していたワークを2月から再開、レッスン79からレッスン169まで90個のワークをした。

ゆるゆるのワークだったけれど、ACIMから何とか離れないで続けられてよかった。

今日の母への気持ちのとおり、私は表面的には穏やかにしているけれど、元々気が短い方で内に高い攻撃性を抱えている。その攻撃性を溶かす、赦すことが来年のテーマかなと思った。

また、親の老いと自分自身に迫ってくる老いに恐怖を感じている。その恐怖も赦していくことも。

そして、ささやかでもACIMについて学び続け、発信もできたらいいと思っている。

一年間どうもありがとうございました。

レッスン168-あなたの恩寵が私に与えられています。私は今、それを自分のものとします。

2017-12-29

冬の北陸に帰省

今年はいつもの年より早く27日の夜に帰省した。着いた日の夜は吹雪いていて、街頭に照らされたところだけ降りしきる雪が光ってみえた。しんしんと静かにずっと雪が降り続いていた。雪を踏みながら歩く感触で子どもの頃を思い出した。

11月に上京した際、杖をついてやっと歩いてきた母。その後どうかと気になっていたけれど、MRIの結果、疑いがあった脊柱管狭窄症ではないとのこと。今は家の中は杖も必要なくしゃかしゃかと歩いていて、前のような強い痛みは引いたらしくほっとした。

ただ今年はとくに雪が多くて外を歩くのは大儀そう。生協に加入して日常の食品調達には困りはしないみたいだけれど、自分の気持ちと体にギャップがあってそれにいらいらしてしまうみたいだった。

私は翌朝久しぶりに家の前の雪かきをして、「ああ、自分は元々雪国の子だったんだ」と改めて思い出した。東京の冬は晴天つづきで明るい。けど、私は山の向こうの雪国に根っこがあった。忘れていても心の芯は変わらないのかもしれない。

冬の北陸で母と二人でいると、そのリアリティがすごくて、『奇跡講座』の世界は遠のいてしまう。『奇跡講座』だけじゃなくて、東京生活や東京の自分もぼんやりしてくる。

ただ母の要請やニーズを聞いて、それを実行するだけ。そのために来たのだから。

今日は、母が近所の接骨院に行っている間にACIMワークをしたが、途中3度も電話がかかってその都度中断した。社交的な母には電話をかけてくれる人がたくさんいて、そのことだけでも安心できた。

レッスン168-あなたの恩寵が私に与えられています。私は今、それを自分のものとします。

レッスン168は、帰省の前一週間くらいやった(ちゃんとはできていないかもしれない)。

いつもメモをしているノートも、切り替わり時期で新しいノートを持ってきたから、何をメモしたかわからない(どうせたいしたことは書いてない)。

「神はわが子を愛している。この世界が消えてなくなるための手段を与えてほしいと、今、神に頼みなさい(L168-4-2)」とあるけれど、この故郷の家の世界はやっぱりリアルで、私は母から朝からずっと近所の知らない人の噂話や、その人のこれまでの人生を聞いたりしている。

この世をリアルに感じるというより、母の存在が圧倒的にリアルだ。それはACIMがちゃんと身についてないということなんだろう。けれど、それがダメだとかイヤだと感じているのではない。

ここにいる間、なるたけ感情的にはならず、できるだけ母にやさしくしたいと思う。あえて言うと「ビジネスライク」にそう思う。

神さまと自分との関係は、この世では親との関係が近いかもしれない。

その親との関係が昔より私の心の中でよくなっていることが、うれしい。

だから本来のACIMの学びとはずれているかもしれないけれど、今私に授けられている「恩寵」は、「母との水入らずの時間」であり、それを「今、自分のものとしている」のだと思う。

それがとてもありがたい。

自分の親にだけ固着するのはまちがっていると思う。

だけどやっぱりお母さんには幸せでいてほしいし、「よかった」「うれしい」「おいしい」「あしがとう」と言ってほしい。

これもまた(いくらリアルに見えても)幻影だと知りながらも、そのつかの間のときを愛おしみたいと思っている。

私にとってのサンタ

2017-12-27

クリスマスが過ぎると街(私にとっての街=スーパー)は一気に年末モードになる。

昨日までは、シャンパンやチキン、ケーキが主役だったところに、正月飾りやおせち材料が並ぶ。

そのたった一日での変化が鮮やかだ。日本の国民がみんなで、大縄跳びを飛んでいる感じ。

そんなクリスマスムードが一掃された昨日、ポストに赤い封筒を見つけた。

見れば、時々一緒にランチをする友人から。何かな?と見たら、クリスマスカードだった。

飛び出す絵本式にツリーが三重になっていて、小さなサンタさんがたくさん。そのサンタさん、ひとりひとりが「ありがとう」と言っている。

てっぺんのサンタは、

「なかよくしてくれてありがとう」

その下のは、

「そばにいてくれてありがとう」

それから、

「助けてくれてありがとう」

「話を聴いてくれてありがとう」

「やさしくしてくれてありがとう」

「はげましてくれてありがとう」

「見守ってくれてありがとう」

「あそんでくれてありがとう」

「ありがとう」

「ありがとう」

「ありがとう」…

 

ありがとうがいっぱいあった。

ひとり身の私はいわゆるクリぼっち。いつもクリスマスはちょっぴり心がさみしくなる季節だった。でも、今年はさみしさも感じなかった。

チキンとケーキとお寿司とピザとお酒を並べてひとりの夕ご飯。本を読んだりテレビを見たり、気楽で自由にしていられて、ハッピー♪ 強がりというのではなく本当にそんな気持ちだった。

でも、26日口々に「ありがとう」「ありがとう」と言ってやって来たたくさんのサンタさんを見て、やっぱりほっこりした。心が和んだ。

さみしかったというわけじゃない、ほっこりがたくさんになったのだ。

ありがたいな。。

サンタさんがみんな笑っていて、ピンチになったり落ち込んだ時に見たら、脱力してふっと笑ってしまいそう。

今年は、「感謝」が自分にとってのキーワードだった気がする。

感謝するということができなかった私が、ACIMワークを通して感謝することを改めて学んでいたような気がする。

だから、締めの時期になって、サンタがたくさん「ありがとう」をもって訪ねてきてくれたことが、ことのほかうれしかったのだ。

土を耕して種を植えていたことが、芽を出しちょっと育ったのかな、という気持ち。

もちろん、まだまだだけど。

でも旅の途中の一里塚としては悪くないんじゃない?と思う。

ありがとう、サンタさん。

そしてありがとう、わが友よ。ありがとう、あなた!

レッスン167-一なる生命があり、それを私は神と共有している。

2017-12-20

レッスン167-一なる生命があり、それを私は神と共有している。

このレッスンは、生命いのちについて述べられていることから、改めて「死」についても言及されている。

この世では生命があることの対極は死だが、実相では、

生命…神が創造したすべてのものが共有する一なる状態。いのち

で、その対極はない。だから、死もない。

私たちが死を通常肉体に関することだと思っているのに対し、ここでは死は「一つの概念」であり、心の中にあるものだという。

そして死には、「至高の幸福」以外のすべての感情が含まれる。すなわち、悲しみ、損失、不安、苦しみや痛み、不快感…。これらすべてが「死」という概念を根っこに持つのだという。

また死の概念を感じられることは、神との分離を真実としているからだという。

神と一体であれば、死という概念はリアリティがないはずなのだ。

「死が生命いのちから生じることはありえない。」(L167-5-1)

心が眠っているだけ、だから目覚めよ

そして、私たちにとって死がリアルなのは、たんに「心が眠っているから」だと説明されている。

「心は自分が眠っていると考えることができるが、それだけである。心は自分が目覚めている時の状態を変化させることはできない。」(L167-6-1,2)

ワークブックを通した根幹の考え「想念はその源を離れない。(L167-3-6)」が、ここでも強調されている。

心が眠っているから、寝とぼけた想念が出て私たちをかき乱しているだけ。心が目覚めさえすれば、想念は真っ当になり、至高の幸福だけがある。

だから、目覚めよ。

「時間という夢(L167-9-3)」から覚めよ。

…というのが、このレッスンのテーマだ。

やっぱりいつもと同じ、「神との分離」の幻想をあっちからこっちからとりなし、それは起ってはいないのだから、夢から覚めよ、と私たちを揺さぶっている。

こういうことは一度聞いたからといって、あたかも怖くてトラウマになっているかのような恐怖心を取り去ることはできない。だから、くりかえしくりかえし言い含めて再教育していくしかないんだろう。

何かの理由で水が怖くなってしまった人が、パシャと顔に水をつけるところからその恐怖心を克服するように、また何かの事情で高い所が怖くなってしまった人が大丈夫と思える安全な場所から少しずつ挑戦してまちがった条件付けを取り払うように、神との分離というすさまじい恐怖も、その恐怖感が出てきたたびに、「そうではない、思いこみにすぎない、それはリアルではない」と言い聞かせて恐怖の薄皮を一枚ずつ剥いでいくしかない。

それがゆっくりでも早道なんだろうと思う。

「死に対する恐怖」が少し減った気がする

9月にワークの流れとして、追加的にやっていることとして「自分の中の絶対に死なない部分」を感じ、その性質を感じるということをやっていると書いた(2017年9月7日)。

そして、そういうことをやっているのは、人以上に死(肉体の死)を怖れているからだとも書いた(2017年11月29日)。

最近前よりは死というものが怖くなくなった気がする。私は体であるという執着が薄くなり、そもそも私は霊的な時を超えた存在であるように、徐々にだけれど感じられるようになっている。

それも、肉体に新たな不具合が発見されたら、まったくそうは思えなくなってしまうのかもしれないけれど。でも、前よりは怖くなくなった。

そして、心の磁石の真北をいつも「感謝と豊かさと喜び」の方に向けていられたら、ちゃんと行くべきところに導かれるのではないか、とも思った。

まあ、言うは易く行うは難し…なんだけど(^_^;)

目に見えない恐怖を自分で培養してでかくしてそれにがんじがらめになっていた以前の自分。それよりは、言うだけ、思っているだけ…でもよしとしよう。

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