実家は新たな赦しの機会の宝庫

2018-01-02

お正月行事でフレッシュスタートする

故郷で母と二人の元旦。子どもの頃から馴染んだ味のお雑煮を食べて、ああ、お正月だな、としみじみ感じた。わが家は浄土宗で、毎年正月二日には、お寺さんが家にお経をあげに来られる。今日は尼さんの力強い澄んだ声のお経を聴きながら、心の中ではACIMの復習をしていた。心が清められた気がした。

お正月行事などいらないし別に平生のまんまでいいと思っていたけれど、神棚を掃除して仏壇も掃除して、新年の掛け軸をかけて花を活けてと昔からの方法でお正月を迎え、年のくぎりを意識できた。気持ちも一新できた。母がいるからできていることだが…。

瞑想中、声をかけてきた母にいらだつ

元日の夜、母が寝室に入ってから、自分が寝床にしている居間でひとりくつろぎ、瞑想ワークをしていた。

そこに、突然母が「まだ寝んがけ?」と声をかけてきて、中断した。

安心していたひとり時間が破られ、また、いらっとしてしまった。

実家には自分だけで安心して過ごせる時間と空間がないことが致命的だ。

せっかくひとりになれたと思っていたのに、なんで侵入してくるかな。

私は、自分の内に踏み込まれるのが大の苦手で、いったん気持ちが乱れるとなかなか収まらない。いったん腹を立てると、腹だったことに執着したくなってしまう。

でも、ワークを再開したら、次第に落ち着いてきた。

本当は瞑想中に声をかけられたからと言って、猫が毛を逆立てるみたいに怯えたり怒ったりすることじゃないだろう。

母が来たから→心が乱れ、いらだった

と思ったけど、そうではなくて、私が私の人生映画を作っているんだ、

私の中に攻撃的な気持ちがあるから→引き金となるゲンジツを作って怒っているだけなのだ。

私のゲンジツを作っているのは私の思考

そして、私の思いの裏には、「私の外はすべて敵」という前提の思い込みがあるのかもしれない、と思い当たった。その大前提の思考をもとに自分がゲンジツを作っている。

保守的な土地柄の故郷では、子どももいないバツイチ単身者の中年娘は肩身が狭い。

私の従妹の息子さんが結婚が決まったとか、私の同級生に孫ができるなどという話を聴いて、「ほんとはそういう年なんやね」とつぶやく母にどこかしら罪悪感を感じ、同時に責められているような気持ちになってしまう私。

申し訳ない、居場所がない。

この思いが先、なんだ。

そして、これはエゴの正当化だし、幻想だし、まちがっている!

これこそが、私が赦すべきことなんだな~と思った。

実家は赦しの機会の宝庫⁉

怒りはどんなことがあっても正当化されない。

私の心の内側には手つかずの怒りと罪悪感がまだいっぱいある。

故郷では閉じていた心のフタが刺激を受けてぱかぱかする。

心乱されていることすべてが、「神との分離」という誤解の、私バージョンの投影なんだ。

これは、新たな赦しのチャンスを与えてくれていること。

そういう意味では、実家は赦しのチャンスの宝庫かもしれない。

先のことはわからないけれど、気づいたらひとつずつ赦していこう。

そして、なるたけ、ACIMの源から離れないでいたい。

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