奇跡講座ダイアリー

ACIMレッスン209-レッスン189の復習

2018-09-24

えー、もう年賀状!?

暑さ寒さも彼岸までというけれど、あの猛暑の日々が遠くなり、朝は肌寒く感じることも。

お盆に帰省した時、母から来年の年賀状を作ってほしいと言われた。

「このくそ暑いのに?もー年賀状!?」とのけぞった。

何でも去年私が母用に作ったのが派手派手しくて好きじゃなかったらしい。ぎりぎりになってからでは落ち着かないと言う。

スル―していたけど数日前また電話で年賀状のことを話していたので、昔ながらの絵柄のをデザイン案を2パターン作り官製はがきに印刷して出してきた(ほんとはイノシシのイラストがいいんだろうけど、母のいう昔ながらのが見つけられなかった)。

郵便屋さんは「謹賀新年」の文字を見て、何事かと思ったかな?いちいちそんな反応しないか。

母は昔からいわゆる仕事ができるタイプで、何でも前倒しで片づける。大事なことでも先延ばしして現実逃避しがちな私とは対極だ。

平成31年ー平成最後の年賀状。

平成の次の元号の時代には、年賀状なんてものが消えているかもしれない。わざわざ紙で挨拶ってー、と。

母にはそんなに生き急がないで、と言いたい。

レッスン209―レッスン189の復習

(レッスン189)私は今、自分の中に神の愛を感じる。

私たちには、幻想を通り越した心の内に、神の愛を宿している。

しかし、それは大概この世の暮らしでは忘れられている。

神の愛は、この世を愛で照らす光である。

この光を通して見れば、世界は愛で溢れたものとなるが、この光が感じられなければ、この世は攻撃や憎悪に満ちたものに見える。

あなたは何を見たいだろう。その選択はあなたに与えられている。だから、「人は自らの内に感じているものを見ることになる」という知覚の法則を学び、自分の心にそれを忘れさせてはならない。」(L189-5-1,2,3)

そして、レッスン189では、その内なる愛に到達しようと努める。愛と愛がもたらす視覚を感じようとする。

その方法は、「あなたの心が、真実だとか偽りだとか、よいとか悪いとか思っているすべてのもの、価値があると判断する想念、あるいは恥じているすべての概念を取り去り、あなたの心を空にしなさい。」(L189-7-2)

求めなさい。そして、受け取りなさい。しかし神にあれこれと要求してはならない。」(L189-8-5)

わからなくていい、心を空にする、受けとる

私はこの世を幻想と見ることには熱心だったけれど、愛する、愛の目で見る、愛を運ぶ、といった点についてはあまり意識を向けてこなかった。

私には「愛」という抽象名詞が遠い。好きだ、優しい、あったかい、愛おしい、はまだなじみがあるけど。

つまりは、愛がわからない。

でも、「あなたへの道を知っているのは神のほうではないだろうか。あなたが神への道を知っている必要はない。」(L189-8-1,2)という。だから、ただ、心を空にして自分で自分の邪魔をせずに、求めよう。

神に至る道はただ神を神のままに在らせることである。そのようにしてあなたの実相も宣言されるからである。」(L189-8-7,8)

心を空にする、秋。

これが難しいんだな~、つい過去を振りかえったり四の五の分析したくなっている。

「6月20日」

2018-09-22

自分をふりかえりたくなる秋

たまに、あれっ、なんで私ここにこうしているんだっけ?

と、自分をふりかえりたくなるときがある。

あんなに暑かった夏が過ぎ、誕生月ということもあってか、ちょうど今がそんな気分だ。

『奇跡講座』を知る前と後では人生変わったな、と思う。

その瞬間はわからない。だけど、引きで見ると、あれはターニングポイントだったと思う、そんな出来事のひとつだ。

6月20日は節目日!?

そこで気づいたこと。

意を決してACIMワークを始めたのが、2013年の6月20。

敬愛する父が亡くなったのが、2015年6月20日。

そして、昨年末引っ越しを思いつき、ありがたいことに旧居を買ってくれるという方が見つかって、その売却契約をした日が今年(2018年)6月21日。

いろんな節目があるからこじつけとも言えるけど、どうも私は6月20日前後に自分に影響がある出来事が起きやすいパターンがあるようだ。

父の命日とマンション売却日のつながりは意識したことがあったけど、ワーク開始日までは意識したことがなかった。

あの母が上京してきて契約した日、ワーク開始から丸5年が過ぎた時だったんだな、と感慨深く思った。

今はもうMy course in Mirackeの6年生か。

少しは進んでいるのか否か。

理屈はなんとなくわかったけれど、もっとも大事な赦しの実践はまだまだだ。

水泳の理論を本で学んで、でもいざ水に入って顔に水がかかっただけでビビって結局畳の上でバタバタ手足を動かして泳ぎを習得しようとしている人みだいだ。

赦す機会があってこその学びだから、快適ゾーンに籠ってばかりいてはだめだなぁ、と。これは2年前くらいからずっと思っている。

 

ACIMレッスン208-レッスン188の復習

2018-09-21

「なぞの出荷メール」のその後

おととい来た「身に覚えのない、なぞの出荷メール」の「お荷物追跡番号」にはリンクが付いていた。

知らない所からのメールのそういうのは押しちゃいけない、と思ったけれど、実存する配送業者名のようだしどうにも気になって今朝iphonからポチっと押してみた。

実際の荷物の追跡ページに飛んだ。そして、

「Delivered(配達済み)」と。

えっ、配達済み?いつ?

てか、どこに??

配達時間は、September 20,2018 at 3:03pm

お届け先には、NEW YORKという表記と番地が…。

「Tracing History」には、日本の宅配業者と同様、出発地の場所と時間と営業所など途中の経由地の発着も記載してある。

よくわからないけれど、荷物は無事配送されたらしい。

? ? ?

私は手配した記憶がないのだから、誰かが私のメールアドレスで手配して、カリフォルニア州のビスタというところにある会社からニューヨークへ何かを送った、らしい。

(・・?

ぶきみだ。

でも、深追いしないことにしよう。

これからも送られてくるようだったら、その時に考えよう。

レッスン208―レッスン188の復習

(レッスン188)神の平安は今、私の中に輝いている。

…でしょうね。

その神の平安は記憶から遠くて、かすかに細ーいクモの糸みたいなものでつながっているかいないかくらいの、心もとなさだ。

それでも、私が『奇跡講座』に惹かれたのは、それが真実だと感じたからだ。

この世の中は不合理なことや無意味に見えることばかりだったけれど、『神の使者』や『奇跡講座』を知って、それが言うことを受け入れると、スッキリパズルのピースが嵌る。

たぶん、そうなんだろうと思う。腑に落ちる、という感覚。

悟りとは認識にほかならず、変化のことなどではない。」(L188-1-4)

これもそうか、と頷ける。

ただ、その認識がとっても難しいんだよなぁ。

いっくら、この世も自分の体も幻想だって言っても、空気も水もまた幻想で、そういうものがここに自分としている間、やっぱり要るし。

お腹だってすくし、痛いのやだし。

その認識の変化には、うんと真剣な長い訓練がいるのだ。

訓練の間には、エゴがガタつき大騒ぎする。

今は、その両方の間を行ったり来たりしている感じなのかな?

というより、どうひいき目に見ても、圧倒的にエゴがまだ優勢、ほぼエゴに牛耳られている。

それでもACIM的なものから離れるとフェイドアウトしてまったく忘れてしまうから、離れないようにすることをやっている。

昔、羊毛ボウルを作るというワークショップに出たとき、ボウルの芯になる部分をしっかり作るのがコツと聞いた。

それを思い出す。

今世は芯づくりだけで終わっちゃうかもしれないな。

彼は自分の中の真理を認識したからこそ赦すのである。神の平安は、今あなたの中に、そして生きとし生けるものの中に輝く。静けさの中でそれはあらゆるところに認められる。あなたの内なる視覚が眺めるものが、すなわちあなたの宇宙についての知覚だからである。」(L188-5-4,5,6)

いつか、こういう視覚を手に入れて、この世を眺めてみたい。

神の平安は今、私の中に輝いている。

その平安の中で、すべてが私を照らしますように。

私が自分の内なる光により一切を祝福できますように。」(L188-10-6,7)

身に覚えのない、なぞの出荷メール

2018-09-19

知らないとこから、出荷メールが来た

今朝、メールチェックしたら、kateという知らない女性からメールが来ていた。

Hiに続いて、私の名前。そして、

「Your order was shipped by Priority Mail service. Here is the tracking #○○○○○○.
Thank you for the order.

Regards,」

??

自動翻訳のボタンを押してみたら、

「ご注文は、プライオリティメールサービスによって出荷されました。追跡番号は#○○○○○○です.
注文ありがとうございます。

よろしくお願いします。」

へっ???

注文!?私が?

発送地はアメリカカリフォルニア州ビスタの会社となっている。

最近とみにボケているとはいえ、まさか私、注文してないよね?

何かのいたずらとか詐欺のメール?

でも、少なくとも先方は私の名前やメールアドレスは知っているってことだ。

会社名で検索してみる。

その会社のサイトがあって、住所はメールのものと同じ。電話番号も合ってる!

追跡番号の記載した配送サービス会社も実在するみたい。。。

何か送られてくるのかな?不気味だ、まさか私が注文?

えーっ!私ー、注文?(゚o゚;) 

何を?

それはどこに送られてくるの?

おカネはどうなっているの?

もうすでにカードかなんかで支払われているの?

以前ネットバンキングで詐欺未遂にあったことがある。その時は怪しく感じた銀行の方から「中国のリさんに送金しましたか?」と確認の電話が来て、「リさん?いいえ知りません」となって、振込直前でストップされ事なきを得た。

まさか、まさか…もう、支払われているの?

慌てて今使っているカードの利用明細をそれぞれネットで調べてみたけど、了解済みのものだけだった。現段階では使われていないらしい。

代引きなのかな?

えー!

「ご注文は出荷されました」という前に、「ご注文内容」をお知らせするメールが欲しいよ。

「送りつけ商法」というやつなのかな?

||´・д・)

でも、まだ送りつけられてもないのに、誰に相談していいのかもわからない。

会社名と「送りつけ商法」を併記して検索してみたけど、ヒット数:0

このまま、何もなくファイドアウトしていくのかな?

そうだったらいいけど。

いや、よくないか?

なんか来ちゃったらどーする??

この世のすべては、実は自分がプロデュースしているのだ、と言ってみても、ここにいる生身の私はあずかり知らぬことばかり。

ちょっとしたことでも、ひとりでドギマギ。あ、これも、もちろん赦すべきことなんだろうけど。

ACIMレッスン207-レッスン187の復習

2018-09-18

レッスン207―レッスン187の復習

(レッスン187)私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。

ここでは、この世での知覚と真の知覚の違いが述べられている。

・この世 ⇒ 持っているものを与えるとなくなる

・真理の世界 ⇒ 与えることは増やすこと

この理屈がなりたつのは、この世にある形あるものは、それを作り出す想念を表現しているから。

なので、

・形あるもの → いずれ、変化する、なくならない

・想念 → なくらならない。与えることで強化される

となる。

実は、与えている相手は自分である。

神の子である私たちは個々それぞれが存在しているかのように見え、そのそれぞれの角度からこの世を見ているが、本当はひとつだから。

もし、犠牲という概念があるようなら、誤っている。それは赦すべきこと。

その奥には、神からの分離という誤解と、それがもたらす恐れがある。

私たちは、自らを祝福する。

だから、その目に映る世界は祝福されたものとなる。

ACIMワークを知ることと実行することの間に乖離あり

自分が価値を置く一切を与え放つことによって、それを守りなさい。」(L187-4-1)

喜んで与えなさい。それにより、あなたはただ得るのみである。想念は残り、与えることによって強化され、さらに強力なものになる。」(L187-5-1)

とあり、これらの文言には、なるほど~と思うけれど、いざ実行を迫られると、その信念はふにゃふにゃなものだと気づく。

数年前元だんなさんに大金を貸していた時、なかなか約束通りには返されず(それができない状況にあったらしい)、「ACIMの教えによれば、これは“手放すべきもの”では?」とも考えたけど、そうは簡単には手放すことはできなかった。

その時は、その背後にある想念もまた、彼への執着だった(このレッスンの例としてはふさわしくないとも思うけど、なんとなく思い出した)。

その執着とは、彼に投影した私自身のエゴへの執着だったか。

特別の愛と、特別の憎悪と、おカネそのものへの執着と、赦すべき事柄のオンパレードだった。

今もそんなに変わってないかな?

赦して穏やかになったというより、対象が遠ざかったから反応しなくて済んでいるだけというのが、正しい気がする。

そして、今もいろんな不安や恐怖感がある。

神への恐怖をこの世に見ているんだと思う。

それでも玉ねぎの皮を剥くように、少しは落とせてきているんだろうか。

ワークブックを読んでいると、とても私にはできそうにないことばかり書かれていて、空恐ろしくなる。。。ことがある。

恐怖感がつよいタイプ

2018-09-17

秋…旅もいいかも?

秋口に入って、いろんな方の旅の話を聞くにつれ、「あ、いいな、私もどっか行きたいかも」と思った。

これまで「旅」というのが私に入ってこなかったのは、引っ越ししてこの方自分があたかも旅をしているような非日常的な気分だったからだ。そして、「旅もいいかも」と思ったということは、ここに慣れてきて、いつしか日常モードになっているんだな、と気づいた。

恐怖心がつよいタイプ

話がまったく変わるのだけど。

私は恐怖心がつよい質だ。

とくに、(怖いものが)来るぞ、来るぞ、という感覚にめっちゃ弱い。

若い頃は、お化け屋敷で入ったとたんに足がすくんで固まってしまい、おばけ役のお兄さんも呆れるなか、一緒に入った同僚に引きずられてなんとか出てきた。

「もー、おばけより、たまちゃん方がよっぽど怖いよ」(ごめん…)

歯医者さんも怖いものの一つで、恐怖のあまり途中で治療放棄して以来虫歯の進行を知りながら、10年以上歯医者さんに行けなかった。

意を決して(もうどうにもならなくなって)歯医者さんに行ったのは4年前。すでに『奇跡講座』のワークを始めていたが、その時も恐怖感はすさまじかった。

あのウイーーンと歯を削る?耳元の金属音に恐怖と緊張がMaxになっていまい、その緊張状態に耐えられない。30秒くらいで一回スイッチを切ってひと息つかせてほしいのだけど、その要望がうまく伝えられなかった。

歯医者さんは、「痛かったら、左手をあげてください」とおっしゃる。

私が恐怖でもうどうしようもなくなって、左手をあげたら、機械を止めてくれた。けど、

「あれ、でも、これ、もう神経抜いちゃってる歯だよ。痛むはずないじゃん。騙されたなぁ、もう」と言って、口を開けたままアワアワしている私ヾ(゚□゚;)ノに対して、それからは手を挙げても、騙されることなく、ガーッ、ガーッと削り込まれて失神しそうだった。

ワークを続けていけば、恐怖を感じなくなるかな

心の拠りどころは、若くてチャーミングな歯科衛生士さんで、いつも膝かけをお願いしてた(それがあると、すこーしだけ安心できる)。

ある時、歯石を取ってくれていた歯科衛生士さんが、

「あれ、たまさんて、痛みに弱いのかと思ってたけど、そうじゃないんですね。むしろ強いかも、これ、絶対痛いと思うけど?」とおっしゃった。

痛いといえば痛いけど、平気だよ。怖くはないから。

痛いのと怖いのがごっちゃになっていたけど、そういえば、「金属音が耳に響いて、鋭い痛みが来る、来る~」というがだめだけど、鈍い痛みには意外と強いのかもしれない。

どっちにしても、こういう私は、「神との分離」と「その神による罰」という幻想が無意識にしっかと根付いているだろう、と思う。

一方で、ワークを始めたおかげで、無意識のなかの恐怖心がすこーし減ったからこそ歯医者さんに通い出すことができたんだよなぁ、とも思っている。

いつか精進して精進していけば、怖いという感覚も減っていって、歯医者さんやお化け屋敷も平気になるかな?

できるなら、もう二度と歯医者さんには行きたくないと思っているくらいだから、まだまだ道は果てしない…

ACIMレッスン206-レッスン186の復習

2018-09-14

攻撃を感謝で交した大坂なおみさんって、すごいな

テニスの全米オープン女子シングルスで優勝した大坂なおみさんが、帰国された(いつもはどこに住んでおられるんだろ?帰国でいいのかな?)。

 
 
 
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一躍時の人になって大人気だ。

日本人(だけじゃないだろうけど)の心の刺さるのは、やっぱり決勝でセリーナ・ウィリアムズさんに勝った後のコメントだ。

I know that everyone was cheering for her and I’m sorry it had to end like this.....

I just wanna say thank you for watching the match. Thank you.

(みんながセリーナを応援していたことは知ってます。こんな終わり方ですみません。ただ、試合を見てくださって、ありがとうございます。)」

あれだけ大きな会場で大勢の人の不満(攻撃性)が渦巻くなか、そのフックには引っかかることなく、感謝だけを述べられた。

その対応にふいを突かれ、瞬間みな正気を取り戻した気がする。振りかざされた剣は下ろされた。

なかなかできることじゃない、と思う。

およそ邪気がない。

飾り気もなく、これがこの人の質なんだろう。

すごいな。尊敬する。

ワークで始終「赦し、赦し」と唱えながらも、電車で人に押されただけでも一瞬えっ!?と反応してしまう私。見習わなくては。

人は歳を重ねて成長する、っていうけど、そうとは限らないな。

いくら努めても、私はあの精神性には届きそうにない。

トップレベルでの勝負の世界にいながらも、そこから一歩離れれば謙虚でシャイ、無邪気。

それってやっぱりすごいことだなぁと思う。

トップになってもそのまま変わらないでいてほしいな、なんていうのは、まったく余計な杞憂だよね。

レッスン206―レッスン186の復習

ワークのダイアリーを書くつもりが、前段が長くなってしまった。

(レッスン186)世界の救済は私にかかっている。

えらく大げさな言い回しだけど、この理屈は、私には信じられる。

私自身の想念が映しだして見せてくれる世界なのだから、と思えば。

ただそう覚えていられるのは、自分が何かの渦中に入るまで。

渦中に入ったら、それが小さな渦でもたちまち飲まれてわからなくなってしまう。

あなたはあなたの自己像のように弱くはない。」(L186-6-3)

今回改めて、レッスン186を読んで印象に残ったところ。

そうかな?

私は、学習し出した頃よりACIMの理解度は深まっているとは思う反面、仕事もしておらず社会的な立場がなく、逆に(社会的には)自信がなくなり萎縮している。だから、これが気になったのかな。

自信が持てず萎縮している自分というのは、ACIMでは「傲慢さ」となるんだろうか。

聖霊が話すとき、あなたの自己像は自らの土台が崩れるのを感じて戦慄し、自分の知らない脅威に向かって攻撃しようとする。それが消え去るままにしておきなさい。」(L186-7-2,3)

聖霊の考えとエゴの考えはあまりにも違うから、私は今や両方のマーブル状だ(それとも、どちらでもなくまったく間違えたところに入りこんでいるのか…)。

どういう価値判断が正しいのかわからない(判断がエゴのものだとしても、それなくしてはここでやっていけない)。

秋口のせいか、揺ぐ。考えがまとまらないけれど、ともかく目先のマイプロジェクトを進めようと思う。

ACIMレッスン205-レッスン185の復習

2018-09-12

新パソコンその後

新パソコンにおそるおそる電源を入れたら、「いっしょに設定しましょう」と女性の声に話しかけられ、一瞬固まる。

そうか、今はいきなり話しかけてくる仕様なのか…。

言われるがままに、wifi機器の暗号みたいなのを探して入力したらインターネットにつながった。以前に買ったセキュリティソフト会社のサイトにログインしたら(3台まで可だった)セキュリティ完了、ネットで調べて「リカバリーメディア」なるものも作った。

Windows10に慣れず、タッチパッドに慣れず…だけど、電源を入れるまでが一番ハードルが高かった。おいおいに慣れていこう。

パソコンを買い替えることができたのも、住み替えによる「差益」のおかげ。ありがたい。

レッスン205-レッスン185の復習

(レッスン185)私は神の平安を欲する。

もし神なる平安があるならば、それを望まない人はいないのではないか。

ただこれを本気で望むとなれば、話は別。

神の平安を望むと本気で言うことは、一切の夢を放棄することである。」(L185-5-1)

ここがとっても、とっても難しい。

今いるここは、自分の想念が映しだす影絵のようなところで、結果の世界だ。結果の世界で夢をやりくりするのではなく、原因(想念)の世界を変えなければ、とどのつまり結果は変わらないのだと学んだ。

でも、やっぱり、自分は体を持ってここにいるように見えるし、結果の世界をいじくることでも満足度が高まる経験をしているから、一切を放棄するとなると躊躇してしまう。

今日の練習ではあなたが依然として大切にしている夢を探しだすために、心の中を念入りに検索する。」(L185-8-1)

              ⇓

何が自分に慰めと幸福をもたらすと信じているのかだけをよく考えなさい。」(L185-8-4)

              ⇓

…一つの問いがなされなければならない。

『これが、天国や平安のかわりに私が望んでいるものだろうか』と。」(L185-8-7)

神の平安を選ぶのでなければ、夢を求めたことになる。」(L185-9-4)

あ゛…、そうですよね  |゚ェ゚;)、

私は、健康や若さを求めている。

それを平安や天国のかわりに求めているのか。

平安への道具として求めているつもり。でも、そこに執着して、やはり仮想をリアルにしているんだろうか。

この世のフィールド(レイヤー?)に立つのではなく、

その下に、自分なりの、聖霊に従ったフィールド(レイヤー?)をこの世で作る。

罪悪感と恐怖を手放し、感謝と豊かさ、愛で廻るフィールドを。

言うは易しだけど…。

私が扱えるのは、自分の無意識から意識に浮かび上がってきた部分だけだから、嫌なこと、腹立たしいこと、怖いこと、後悔、罪悪感などが浮かんできたら、なるたけ、手放していこう。

平安こそが自分が望むすべてである、と本気で言う心は、必ずほかの心とつながることになる。ほかの心とつながることが平安を得る方法だからである。」(L185-6-2,2)というレベルにいずれ行きたいなぁ。

新パソコンを開く

2018-09-10

引っ越し時、テレビとパソコンを買った

6月の引っ越しに際して、家電を2つ新調した。

テレビとノートパソコン(引っ越しに関係ない)。

いずれもAmazonのタイムセールで買った。

家電屋さんを覗いてみたものの、どれを買っていいのかわからなかった。店員さんに話しかけて聞くのも躊躇して、結局パソコン画面の情報とレビューを見てポチっとした。

Amazonの創業者兼CEO、ジェフ・ベゾス氏が、世界一のお金持ちと聞いたけど、さもありなん。

ささやかなひとり暮らしの引っ越しでも、照明器具も、収納棚も、一番おカネを使ったのがAmazonだったから。

テレビは、説明書を見ながら足みたいなやつをつけて、背面に線をつないだら難なく見ることができた。映像が鮮明なのに感心した。

問題はパソコンの方だ。

今使っているデスクトップパソコン、買ってもう10年以上になるので、非日常に紛れて、えいっと新しいのを買ったはいいけど、まだスイッチが入れられてない。3ヶ月そのまんまだ。

秋、新パソコンを設定して使えるようにしたい

おそらく、使う前になんか設定みたいなの要るんだよね?

5、6年前母のノートパソコンを買った時は、家電屋さんに別料金でなんかやってもらった…。もっとも安い松竹梅の梅コースにしたら、親切な店員さんが、あとはお客様の方ででリカバリーなんとかを作ってください、とやり方のメモまで書いてもらったっけ?

あれはー、何をしたんだっけ?お店では何をして自分では何をしたのかー?使うまでに何をしなくちゃいけないんだっけ?

もちろんGoogle先生に聞けば、教えてもらえるだろう。

でも機械にはすこし苦手意識があるから、少々気合いがいるな。

20代の頃、おばさん達が機械が苦手で…と自虐的に言っていた。それに、いい歳をして…とイライラしたものだが、今なら共感できる。

気づけば、自分もまた同じ生き物になっている。

機械類だけじゃなくて、ツイッターやインスタといったSNSにも疎くて、それもちょっとしたコンプレックスだ。

この前会った友だちとは「うちら、古いOSで頑張っている旧式パソコンみたいなもんかもね」と自虐的に笑い合ってた。

もっともっと世の中が“進化”して、もっともっと置いてかれるんだろうなー(「置いてかれる」とキーボードで打ったら「老いて枯れる」と出て、うまい!と思った)。

まぁ、SNSはさておき、この秋はパソコンの設定?をクリアして、パソコンの引っ越し?もして、新しいパソコン、使えるようにしたい。

もたついても、一つずつやっていけば、できるはず。

思い出したけど、忘れてしまったこと

2018-09-09

北海道の地震で東日本大震災時を思い出した

6日に起きた地震は、「北海道胆振東部地震」と名称づけられた。震度は震度6強から震度7へと訂正され、亡くなった方は37名、まだ安否不明の方もおられる。

一方、北海道全域で停電となったブラックアウトは2日後にはほぼ回復、新千歳空港では国内線に続いて国際線も再開、町に活気が戻りつつあるという。

でも液状化で家が傾いたり物が壊れたり、被災された個々人の生活は厳しいものがある。

私は、北海道地震の報道を見て、東日本大震災のことを思い出していた。

企業のテレビCMが消え、ACのCMがくりかえしくりかえし流され異様だったこと。

津波がすべてを飲みこんでいく怖ろしい映像。その後わかった福島第一原発の事故。そして政府や東電の対応。

テレビでは当初「メルトダウン」という言葉は決して使われず、「専門家」が「メルトダウンなどしていたら大変なこと」と何度も説明していた。

実際には翌日にはすでに1号機がメルトダウンしていたと思われる。原子力発電はCO2を出さずクリーンでしかも低コストと言われていたけれど、低コストどころか制御不能な怪物だった。

いかに自分の生活が電気に頼っているか。ひとたび地震を初めとする災害が起これば、電気や水が使えなくなり、店からは物が消えたちどころに生活が立ちいかなくなってしまうー。そのことに、あの時初めて気づいた。

「変わらなくちゃ」と思ったが、変わらずじまいだった

人間は頭がよくて、どんどんすごい道具を使って進化してきたはずだったけど、引きで見たら回し車をくるくる回しているねずみと変わらない。

動力は競争に勝つことだから、手段は変わってもそれが激しくなるだけなんだ。

東日本大震災の時、「大元でまちがっていた」「変えなくちゃ、変わらなくちゃ」と強く思ったのを覚えている。

だけど、どう変えなくちゃーと思ったのか、今ではすっかり忘れてしまっている。あの頃(2011年3月24日)、心と頭を整理するのに書いたメモがあったと、引っ張り出したが、あの頃感じた気持ちがおぼろげにしか思い出せない。

あれだけのことがあったのに、私はそこから学んで変わることはしなかった(できなかった)。見たくないことをフェイドアウトさせ易きに流れてしまった。

あの頃は、『神の使者』とも『奇跡講座』ともまだ出会っておらず、災害はあるいは神の意志で浄化の一環なのか?と思っていた。

震災時、一瞬真っ当になって思い出したこと。それが思い出せない。

あれから『奇跡講座』に出会った。

神には一切関係ない。神はただ在る。

赦しにはレベルの差はなく、大きなことを赦すのもささいなことを赦すのも同じだと学んだ。

テキスト1-1-1には、「奇跡に難しさの序列はない。一つの奇跡がもう一つの奇跡よりも『難しい』とか『大きい』などということはない。」とある。

けれど、大災害が起こって辛い方、悲しい方、大変な思いをしている方々を見て、そう考えるのはやはり申し訳なく思う。

幻想ではあると知ったけど、あの東日本大震災の時感じたことや思い出したことで、私にとって、とっても大事なことがあった気がする。

だけどそれが思い出せない。

大災害で頭をなぐられ、一瞬だけ真っ当になったんだ、あの時。あの感じ。

一瞬思い出したことで、また忘れてしまった大事なこと。それって何だっけ。

ACIMレッスン204-レッスン184の復習

2018-09-06

北海道で大地震、備えていない私

目覚めてスマホ画面を見て、びっくりした。

最大震度6強、とある。

地震?

北海道…? 午前3時8分…。

今度は地震?…、と思ってしまった。

テレビを付けたら、土砂崩れ、液状化、家屋倒壊といった怖ろしい映像が映った。被害はまだ明らかではない。もっと広がるだろう。

このタイミングで…だけど、9月1日は防災の日だからだろうか。マンションの管理組合さんから、各住戸に水と乾パンが配られた。

備蓄していたものの賞味期限が近くなってきたため、各戸に配って新しいものを買うのだとか。

「この乾パン、けっこうおいしいらしいよ」と管理人さん。

東京など人口が多いエリアで大地震が起こったら、人が多すぎて、救助どころではないだろう。中枢の交通網やインフラにダメージが起こったら、人も流通も大混乱。もうそれだけでパニック、カオスではないだろうか。

まず電気が止まった段階で、エレベーターは使えない。水もダメとなると…。

東日本大震災後、一時人気が落ちたタワーマンションだが、再びここ数年都心湾岸で人気↗、都心の地価上昇に一役買っていた。大丈夫かな?

…というより、私だ。

災害への備え…まったくしてない。

備蓄。料理に使うサバ缶とシーチキンくらい(備蓄とは言わないか)。

いくらずぼらでも…、

これだけあちこちで災害が起きているのだから、少しずつでも準備しよう。

レッスン204-レッスン184の復習

(レッスン184)神の名は、私が受け継いだ賜物である。

このレッスンでは、この世における「名づけ」の意味が示されていた。

名つけとは、

1.自分と切り離して認識するための手段であり(分離化)、

2.名づけることによって、自らが統治でき(自らを神とする)、

3.幻想に現実味を付与する。

すなわち、この分離した幻想社会を形づくるための有力な手段だという。

そして、私たちは幼い頃から長い時間をかけて、名づけられたものを習得してきた。それこそが、ここでの学びでありコミュニケーションの手段だ。

でも、ここで大事なのは、それをリアルとはしないこと。

自分が世界を作ったと考えてはならない。幻想ならば確かに作り出した!しかし地においても天においても真実なるものは、あなたによる命名を超えたものである。」(L184-8-1)

闇の世界を描写する卑小な名称や象徴はいくらでも使ってかまわない。しかしそれらをあなたの実相として受け入れてはならない。」(L184-11-1)

無数の名づけによって成立しているこの世で、たくさんの名を用いながらも、それを超えて真実を見る。

意志疎通コミュニケーション と真の 親交コミュニケーションは別のものだ。

周りの人のなかに神の子を見る。

神に名はない。

ただすべてが、つまるところ神に集約されていき、ただそれだけになる、という意味で、それは一なるものの象徴であり、一なる名である。

それはまた、私たちにそもそも与えられている、備わった名だ。

肉体でない、だけど健康づくりはしたい

復習Ⅵとして、それぞれのレッスンの復習とともに軸となる概念を学んでいる。

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私だから。

私は肉体ではない。

私は引っ越して落ち着いたらいくつかの身体の不具合に対処したり(病院苦手で先延ばししてきた)、筋トレ・ストレッチなどの体づくりをしたいと思っていた。

そして、今もやはりそう思っている。

肉体ではないと思うことと、体への配慮は矛盾しないよね?

それも、また体をリアルにしてしまうことなんだろうか。

ACIMレッスン203-レッスン183の復習

2018-09-05

台風21号去る

あ゛…、コーヒー…、今日もやってしまった。(参考日記:レッスン202-レッスン182の復習

粉を少なめにした上に溢れされてしまい、今日も薄いコーヒーになった。二日連続…、不調なのかな?

台風21号は、関西空港でタンカーが連絡橋に衝突したのを初め、列島各所に大きな爪痕を残して去っていった。

今朝のウォーキング時にも、大きな植木鉢が倒れていたり、大きな枝が折れて飛ばされていたりしたのを見た。

私が数日前にgetして喜んでいた小枝の類もたくさん…たくさん落ちていた。

最近「異常気象」とか「例年に類のない」といった言葉を「頻繁に」聞くようになった気がする。もはや平時が異常になった時代ー非常時時代ーなんだろう。

台風は去ったが、家の外ではヒューヒュー、ビュービュー、今日もものすごい風の音だ。少し慣れたけど、怖い。特に不意に鳴る高音の風が(>_<)

レッスン203-レッスン183の復習

(レッスン183)私は神の名と私自身の名に呼びかける。

8/24~28頃にやっていたワークで、ワークをした日から日にちが経っているから、何だっけ?となっている。なるたけ乖離を縮めたい。

「神の名を繰り返しなさい。」(L183-3-1)

すべての名は幻想に名づけられたものだが、唯一名があるとすればそれは神であり、神に呼びかける者は自らの神性に呼びかける者だ。

私たちの神性はここで眠った状態だが、神の名を呼ぶことは自らの神性を揺り起こすことに他ならない。

私たちの内に神はある。

神は外に探すものではなく、内に開くものだ。

すでに在るものを解き開くのだから。

宇宙は唯一、父に呼びかける神の子だけで構成されている。」(L183-11-4)

絵を描く目的がわかった…?

このワークをやっていた頃のノートには「絵を描く目的がわかった」と書いている。

ワークをやっていたのは、ちょうど色えんぴつ画の作品展の時だった。

先に色えんぴつ画を習っていた友人の作品展を見て「すごいね~、色えんぴつで描いたとは思えないよ」と言ったことがきっかけで、私も始めることになったのだけど、正直絵を描く目的はなかった。

趣味を聞かれても何も答えられなかったから「月1回で負担も少ないし、これを趣味とすればいいかな」と、やや不純な動機だった。

でも、最近先生が出された題材ではなく自由画を描くようになって、私は「神さまを感じる瞬間」や「神性の癒し」のようなものを描きたいのだと思った。

もしかしたら、他のみんなもそうなのかな?

自分が感じる何か、と描きたいんだよね。

下手でいい。かたちのない神を見えるかたちにする。

私自身が神性を感じた瞬間を集めていくといいかもしれない、と感じた。

ACIMレッスン202-レッスン182の復習

2018-09-04

朝のコーヒーが占う心模様

毎朝自作のマグカップに、プラスチックのドリッパーを乗せてひとり分のコーヒーを入れる。

マグカップは昔むかし区の陶芸講座で作ったもの。講座中作ったもののなかでいちばん不格好だ。でもそれでか逆に癒される。ドリッパーがぴったり収まってコーヒーを入れやすいところも気に入って、もう15年以上毎日使っている。

コーヒーを入れる時、自分の心理状態がわかる。

小さな鍋から少しずつお湯を注ぐのだけど(やかんは持っていない)、自分でも気づかないうちに、心ここにあらずだったり不調な時は、お湯を入れ過ぎて溢れさせてしまうのだ。

今日がその日だった。

あ゛…しまった、こんなに。

気をつけよう。

非常に強い台風21号が来ているというから、それも影響しているのかな。

もはや外は風がびゅーびゅー鳴っている。ベランダのものは全部家に入れた。

7月の豪雨や台風20号のダメージがまだ残っているところも多いだろうに…、なるたけ被害が少なく通り過ぎますように。

レッスン202-レッスン182の復習

(レッスン182)私は、一瞬の間静まり、家に帰る。

レッスン182は、お盆が終わって東京に戻ってきた頃やっていたワーク(ワークと日記が離れすぎ)。その頃は台風19号と20号がいっぺんに近づいていた。今年は台風多い…。

私たちは、この宇宙のなかの地球のここがわが家だと思っているけれど、ここは私たちが本来いるところではない。

遠い記憶のどこかで、私たちはそのことを知っている。

だけど、ここでうまくやるには、そんなことに係ってはいられないとも思っている。だいたいに忙しくてそんなこと考えている暇などない。

でも、心の中には幼子がいて離れた親を探すかのように「ここじゃない、お家に帰りたい」と訴えている。

その子は、私たちの内なる無垢性の象徴だ。

その子は、私たちが急ぐ道がどこにも行きつかないことを知っている。私たちがこの世で役立ちそうな道具ばかり集めるが使わずじまいで身動きが取れなくなっていることも知っている。

内なる子どもの声を聴くには、スペースが必要だ。空間と時間。

そして心。

空いた時間と場所と心があれば、無垢な幼子はいつでもどこでも顔を出す。

思い切ってこの子に道案内を任せよう。

…と、そんなことを言っている(ような気がする)。

「防衛しないことの強さ」が欲しい

幼子の無垢性は素晴らしい。

そして、私が憧れるのは、その子が象徴する「防衛しないことの強さ」だ。

防衛しなければならないと思うがゆえ、常に周りを気にしテンパっていてエネルギーが無駄に必要だった、しかも自分から遠ざかっていた気がするから。

私が防衛するということは、裏を返せば、私には攻撃する気があるということだろう。

その攻撃性を少しずつ減らしていきたい。

その攻撃性は自分に向けられているものでなんの役にも立たないものだと知っているのだから。

自分のなかにいる無垢な幼子を安心させたい。

その幼子が手を引いていくところに向かうとしたら、その子は私をどこに連れて行こうとするだろうか。

欲しかったものが降ってきた

2018-09-03

「欲しいと思っていたものだ、これ」

欲しかったものが目の前に降ってきたという体験をした。

先週のこと。

朝、住宅街をウォーキング中、何かが上から降ってきて頭に当たり足元に落ちた。

ん?

小枝だ。

どこから?道の脇に植えてあった木から落ちたのかな?と見上げる。

2,3秒して気づいた。

あ~、これ!

私が欲しいと思っていたものだ!!

カフェカーテンのポールに使えるんでは?

私は今の家で、流し台に向かいあうような形でキッチンボードを置いている。キッチンボードの裏をリビングに向けることになるが、梁があるからそこしか置けない。

そのキッチンボードとキッチンの壁の40㎝くらいの隙間に、目隠しとなるカフェカーテンみたいなものを付けたいと考え、ホームセンターで生地を買ってきていた。

一緒にカフェカーテン用のポールも買ったが、ほんの狭いスペースに存在感ありすぎた。太めで手持ちのフックにも収まらない。

もっと華奢でナチュラルなものがないかーと思っていたのが、まさに前の日。

そうそう、この枝!

これがちょうど使えるんでは?

私は小枝を拾い、小学生の男子がするようにぐるんぐるん回しながら、家まで帰った。

そうして、カフェカーテン用の布に通してみた。

うん、細さはちょうど。ナチュラル感もある。

ちょうどよいみたい。ラッキー♪

イメージしたものが得られたことが自信に

たった小枝ごとき。

人から見たら、単にゴミみたいなもんが頭に落ちてきた出来事だけど、私には自信になった。

おカネが介在しなくても、イメージしたものがまさに手に入った経験。おそらくこんな枝はホームセンターで探しても見つからない。

これから、どうやって収入を得ていこう?

どうやって生きていけば?

不安を感じていた私に、「必要は満たされる」とのメッセージのように感じたからだ。

勘ちがいかもしれない、おめでたいかもしれない。でもいいのだ。ラッキー、満足。感謝!

そして、ふと、人工的なものはたいがい直線でできているけれど、直線ばかりだと不自然で緊張度を増してしまうのかな?

直線は、うまい曲線の組み合わせが難しいから直線となっているだけで美しい曲線の代用品なのでは?とも感じた。

前住人の方のお家と思って遠慮がちだった空間…ふと見回せば自分になじむものになってきている。

若さへの執着というより、自分への執着を捨てなさい

2018-09-02

「自分は捨てなさい」とメッセージ?

昨日は、久しぶりにパソコンの講習だった(Dreamweaver)。9時~16時半までという長丁場だったけど、刺激を受け楽しかった。今度こそ使いこなせるまでになりたい、と思った(去年もそう思った)。

帰り道、急な土砂降りとカミナリに見舞われた。今年は本当に天気が極端だ。幸い日傘を持っていたので、日傘をさしバッグを抱えて家路を急いだ。

今朝は雨が上がって曇り。少し涼しい。秋だ。

今朝のワーク中、「私は、若さや美が幻であるにも関わらず、そこに執着しそれをリアルにしているんだろうか(参考日記:『奇跡講座』学習者らしからぬ!? 買物)」と自問した。

そうしたら答えのようなものを感じた。メモしておこうと思う。

     *    *    *    *    *    *    *

「すべてを捨てても、あなたは美しい。

“問題”があるとすれば、あなたの若さや美への執着というより、

自分自身への執着だ。

「自分」は捨てなさい。

小さな「自分」があるから、人の反応や言動が気になる。

あなたは「神」より「自分」に執着している。

そして個として、神に近づきたいと思っている。

だが「神」と「個としての自分」は両立しない。

個として立つ自分はいない。

自分じゃない、神なんだ。

自分という個から、自由になれ。」

そして最後に

God is.

という余韻を感じた。

自分を捨てるとはどういうことだろうか。

果たして、そういう感じにまでなれるものだろうか。

「自分を捨てる」これがこれからの私の大きなテーマなのかな?

「この世で神を見る」ゲームに意識的に参加する

またこうも感じた。これは感じたというより、私が思ったこと。

現代はゲームが大人気で、多くの人がゲンジツから離れて様々なゲームを楽しんでいる。社会全体がゲーム化しているとも言える。

「2022年 アジア競技大会」では、コンピュータゲームの腕を競い合うeスポーツが正式なメダル種目になるとかならないとか?

でも考えてみたら、この世界自体すでにゲームなんだ。リアルじゃない。

だとすれば、趣味でサバイバルゲームに参加する人みたいに、もっと意識的にこの世を徹底的に巨大ゲームだと思ってやってみたらどうだろう?

自分を取り巻く社会や環境で、

神以外のものをやりすごし、

神を見つけ、神を感じ、愛し、感謝する。

そういうゲームだって。

この世は、まがいもんに足を救われず、神を見つけるゲームだ!

そして、私は分厚い玉ねぎみたいな衣装を着て参加しているけど、まがいもんに足を救われず、そこで神だけを見ることができたら、その皮を一枚剥くことができる。

そうして、少しずつ軽く自由になりながら、個の身体を離れるまで身軽になる…

また残暑がぶり返すかな?

短い秋を楽しみたい。

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