奇跡講座ダイアリー

絵本作家展でいただいた言霊

2018-10-22

絵本作家の友人の『作家五人展』へ

昨日は、友人と『源氏物語』の一回講座に出た後、一緒に別の友人の絵本作家さんのグループ展を覗いた。

 今年でデビュー20年なんだという。

絵本作家だけで生活するのは難しく、他の仕事をやりながら作家業をやっている。初めは文章だけだったけど、数年前から絵も描いている。

えらいなぁ、と思う。

自分の旗をしっかりあげて自己表現し続けていること。

私はどこかしら自己表現にブロックがあるらしく、だれかに聞いたことをまとめることは数多くやってきたけど、自分の名前で発表したことはほとんどない。(このブログはそれに当たるかな?ちがうか)

だから、続けるのは厳しいと言いながら作品を出し続けている彼が、眩しく思えるのだ。

「出版社へ持ち込み」道を開く

私が彼と話しこんでいる間、友人は別の若い女性作家さんに「デビューのきっかけ」を聞いていた。

「出版社への持ち込み」なのだと言う。

ああ、そうだよね、そうやって道なきところを切り開いて、実績を積んでいくんだよね。

若い頃、世界を舞台にチャレンジしたいと思っていた、その頃の自分をふと思い出した。

最近の私は、気がつくと老い先ばかりを考えている。。。

その作家さんが描く世界は、やわらかくあったかく、明るくてまさに子どもの世界だった。

…思えば、私、自由なんだ!

私は、思いつきで惣菜店を作るなど無鉄砲なところがある一面、自分が本心で思うことを表現したり実行することには、驚くほど臆病でもある。言い訳ばかりしてきた。

自信が持てない。

まだ、キャリアが足りない。

今は…。

もう歳だ。

じゃあ、いつやるというんだろう?

そして、実のところ、何がしたいのだろう??

今、私は、自由なんだよぉーー!

「ネコの言霊」もらった、意味未だ不明

私の友人作家は、「ネコの言霊」という企画をやっていた。

ガラポンひいてその番号によって、それぞれ彼が手描きで描いた絵ハガキをくれる。「当てたカードが、今、あなたがもっとも必要としているメッセージ!」というもの。1回500円。

私は、その種のことは今はもう興味がなくなっていたけれど、彼の頑張りに1票投じるようなつもりで、やってみた。

出てきたメッセージは…、

「おとなりさん

フクローさんとミミズクさん」

ん?なんじゃ??

一緒に来た友人も引いてみたが、それは「愛されるために生まれてきた」という言葉が書かれた黒猫だった。

そういうのならわかるけど、

「おとなりさん」とは、何ぞや。

まったく思いつかない。これから起こる何かのヒント?

興味ないと言っていたくせに、言霊の解釈をあれやこれや謎解きしたくなるのだった。

ACIMレッスン216-レッスン196の復習

2018-10-20

メロン色のネグリジェ

おととい会った友人が、引っ越し祝いとしてネグリジェをプレゼントしてくれた。

料理上手で手づくりのパンやリンゴジャム等々も一緒にくれた。

さっそく昨日着て寝たら、ガーゼ地が軽くてやわらかくて着心地満点だった。

初見では、えっ、寝る時に蛍光色!?と思ったけど、メロン色。。。かわいい。

友人によると「若葉色」で、私のイメージカラーなのだとか。

そういえば、母にも幼い頃から「あんたは緑色が似合う」と言われ続けていたっけ。その緑はオリーブグリーンだった。

私、みどり??二人だけの統計では精度は低いけど。

黄色みがかったグリーン。平和でニュートラルでいい。

ちなみに好きな色はマゼンタ(ピンクに紫を混ぜたような色)。女性的で華やかな色。

自分の顔色に似合わないのは知ってる(^_^;)

レッスン216―レッスン196の復習

(レッスン196)私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

攻撃というのは(誰に何に向かってする場合でも)実のところは、自分に向けられている。

私たちが他者を攻撃する時、その根底にあるのは、神への恐れである。

神は罪ある者を罰する、だから神から自ら離れた罪ある者が罰せられるべきだと考えているのだ。

その恐れが、他者に投影され、批判や攻撃につながる。

しかし、神には一切罰するという観念はない。根拠もない。

神はいっさい関知しない。

神はただ在る。

他人を攻撃することで自分自身を救いだせるというわびしく絶望的な考えが、あなたを十字架に釘づけにしてきたのである。」(L196-5-1)

それは救済のように見えたかもしれない。しかしそれは、神に対する恐れが実在するという信念を表していただけである。」(L196-5-2,3)

批判している時、実は自分を責めている

世の中には間違ったように見えることや、理不尽なことが蔓延している(ように見える)。

そして世界は様々な問題をクリアしながら成長している(ように思える)。

その中で生きる私には、批判ぐせがついている。無意識に、悪いところや欠けたところに目が行ってしまう。

テレビでも新しい“スケープゴート”が現れると、一斉に非難の矛先を向ける。

だれかの“悪事”を裁いている時は、正義感も感じて少しの間いい気分でいられるし、つい同調してしまう。

でも、その批判や攻撃が実は自分に向けられているとは!!

他者を攻撃したり非難したい気持ちが湧いた時、この心理メカニズムを思い出すことができて、「私は自分を罰したいのだ、これは誤解だ、必要ない」と気持ちを手放せたら、一歩、愛に近づける。

赦しとは“キャッチ&リリース”

けど、至難の業だな~、とも感じている。

だって、実際に・・・ ことは起こっていて、この巻き込まれたトラブルをいかに切り抜けるかという現実感でいっぱいになっているから。

無意識から、批判や非難といったネガティブな気持ちが起こってきた時こそが、投影の引きもどしのチャンスだ。

赦しは、釣りでよく使われる“キャッチ&リリース”という言葉が合うと思った。

キャッチ(認識)し、

リリース(手放す)。

なんかいつも同じこと書いている気がするけど、

赦しに向けて、

今日の一日なるだけ遠くに行こう。

「人生は末広がり」ー友人の人生観

2018-10-18

友人と小石川植物園へ

きのう仲のいい友だちと会った。

いっしょにお昼を食べた後バスで小石川植物園に行った。東京ドーム3.5倍という広い都会のオアシス。平日だからか人はまばらだった。

ベンチに座って缶コーヒーを飲みながら、いろいろおしゃべりした。

いつも前向きで努力家の友人。

少し年下だけど、つい加齢や健康、老いじたくやこれからの人生の話になった。

そこで感じ入ったのは、友人の死生観だった。

人生は「末広がり」なものだと捉えているという。

そして、「死は避けられ感じられないもの」。だから、それまで毎日よいと思える日をこつこつ重ねるのだと。そして末広がりだと感じられるよう努力するのだと。

その口ぶりから、いわゆる死への恐怖は感じられず、あたかも死もステップの一つという感じを受けた。

その「前向きさ」は、まだ彼女が自身の死を現実的に感じることがないくらい若いからだろうか。

死とはオセロゲームで最後に逆転されるようなもの?

世の中に若さや健康を前提とした幸せや豊かさを象徴するグッズは、山ほどある。

だけど、いかに人生を豊かに生きられたかどうかは、晩年の人生観や姿勢が大きくものを言うような気がしている。

芸能人や著名人の方で、若い頃いけいけどんどんで(死語?)権勢、栄華を極めるも、最晩年に別人のようにきびしい死を迎える例がある(私の見え方)。

それは、まるでオセロゲームで、どんどん白(黒)を増やしていたのに、最後に角を取られて全部裏返されてしまってゲームオーバー!のように、私には見える。

それは、私が人生を勝ち負けや白黒といった二元論で見てしまいがちな証拠なのかもしれない。

人生を勝ち負けで見てしまうと、健康や若さは勝ちで、老いや死は負けになるだろう。

でもそう考えてしまうと、老いや死は誰にでも自然に訪れるものなので、みーんな最後は負け!になってしまう。

それでは、人生はなんとも儚いものになってしまう。浮かばれない。

そういう自分の考え方から、脱したいとどこかで思っていたから、知らず知らず『奇跡講座』に惹かれたのかもしれない。

罪悪感が少なく死への恐怖も少ない友人は、『奇跡講座』のことは知らなくても、私よりずっとコース(A Course in Miracle)の先を行っている感じがした。

道の行き方はいろいろ。

人生のこと諸々話せる友だちの存在がありがたい。

ACIMレッスン215-レッスン195の復習

2018-10-16

レッスン215―レッスン195の復習

(レッスン195)愛は私が感謝の内に歩む道である。

レッスン195には、愛と感謝のことが書いてある(ように思う)。

私は、未だ、「愛」がわかるようなわからないような。

好き、はわかる。

大事、はわかる。

愛おしいも、わかる。

離れたくない、もわかる。

それが愛? 情ではなくて?

とか言いだすとわからなくなる。

この世で愛と言われているものはその多くが、「所有権」や「執着」なのかもしれないと思い始めると、愛という言葉を使うのにも躊躇してしまう。

そういう私にとって、レッスン195は少し難しく感じられる。

私にとっては、感謝の方がわかりやすいから、愛はさておき感謝から学ぼうかと思っている。

他の人が苦しんでいる時に、わが境遇に感謝することは、感謝ではない

愛は比較しない。そして、感謝は、愛とつながっているときにのみ真摯なものでありえる。」(L195-4-2,3)

これは、私たちが「自分の方がましだ」と他人の苦難を見て「感謝」しがちなことへの諌めだ。

感謝は他者との比較から生まれるものでは、決してない。

絶対的なものなのだ。

それは、神と自分との関係を表すものだから。

私たちが、他人と比較して一喜一憂してしまうのは、神の愛や豊かさ、よいことには、一定の量があり、それをみんなで奪い合っているという妄想があるからだ。

エゴが主導する幻想の世はそうかもしれないけれど、神はゼロサムゲームではない。

感謝は神との関係において、ただすること

私たちは一つのころについてのみ、父に感謝する。すなわち、行きとし生けるものから私たちは分離しておらず、だから神とひとつであるということだけに感謝する。」(L195-6-1)

感謝とは、ただただすることだ。

それは、神への信頼を表すことだ。

そして感謝をすればするほど、副次的効果として豊かさももたらされるのだと思う。

それは、神と私たちの間を阻むかのような「雲」を取り払う行為に他ならないから。

神との関係がクリアになり、無限の豊かさ、愛、喜びに近づけるから。

なかなか抽象的で、掴みにくい話だけど。

感謝とは、愛の一つの側面にほかならない。」(L195-10-3の一部)

愛は感謝以外の道を歩くことはできず、神への道を歩む私たちも、そのように進んでいく。」(L195-10-6)

この二つのフレーズは心に残ったところ。

ACIMレッスン214-レッスン194の復習

2018-10-12

Wordpress講座の落選通知が来た

このブログのカスタマイズのためにぜひ受けたいと思っていた東京都主催のWordpress講座は、昨日あえなく落選の通知が来た(参考記事:2018年10月10日)。

え~!

まさか落選とは…!!

29名の募集に対して59名の応募があったらしい。2倍かぁ。。

この東京都の講習に関しては抽選でも落選になったことはほとんどなかった。Wordpress講座は受講者からの要望で新設されて人気だとは知っていたけれど、根拠なく「私は当選」と思い込んでいた。

そっか~。

一瞬残念だった。が、すぐ、これでいいんだな、と思った。なんでこれでいいかはわからないけれど。

ブログのいくつかを修正したいだけなのだから、その気になって、自分で勉強すればいいことだ。

しかし、講座が人気で抽選だろうと心の中で「私は受けられる」と思っていた自らの“強気”に気づいて、ちょっと驚いた。

そして、残念に思ったのは一瞬だけで、すぐ、これはこれでOK、と思ったことにも。

この世は自分の思いが作っているのだとしたら、本当に必要なものは必ず与えられる(自己が自分のために用意する)。そうならなかったとしたら、そっちが正解だ、という考えがかなり浸透しているのかもしれない。

この世の中の価値観と真逆な道を、手さぐりで歩いているから、実のところわけがわからない。

自分がすごーく向上心のないダメ人間になっている気がする。一方、そうではないんだ、とも思う。

レッスン214―レッスン194の復習

(レッスン194)私は未来を神の手にゆだねる。

(くりかえしブログに書いてもいるけれど)私は未来が不安だ。

不安を通りこし、時おり恐怖を感じる。

ひとつには、今おカネを稼ぐことをせず(できず)、手持ちのおカネを減らしながら生きているから。

もう一つは、善きにつけ悪しきにつけ幼い頃から私の世界に君臨し多大な影響力を持っていた母が、ここ1、2年ぐっと老いてきているから。

この二つは、まったく異なることながら、私が「神からの分離」をリアルに感じる、今この世での投影パターンなのだろう。

ここでも、やるべきことは同じ。

まず赦すこと

そして、今ある状況に感謝すること

そして、このレッスン214(194)の-未来を神の手にゆだねること

そうすれば、必要な情報やなすべき行動は与えられるはず。

そう思う。

ただ、手放したはずの不安や恐怖感は、気づくと、またそこにある。

もっとゆったり構えてもいい?

10月初めこのワークをやった時に感じたことは、意外にも、

「もっとゆったり構えていてもいいんだ。

方向は間違っていない。

不安は都度消せばよい。」

ということだった。

表面的にびびりながらも、心の奥ではOKを出しているということか。

また、何もせず過ぎていく日々に感じる焦りには、

「電車の中で走る必要はないんだ。」

「もっと肩の力を抜け。

姿勢を良くして、しゃんと立て。」

とも。

私は行き先にあった電車に乗っているということだろうか。

心奥ではけっこうな“強気”みたいなのだ、やはり。

絶賛、道楽中!?

こりゃー、えらい道楽だな、と思った。

ふと気になって「道楽」の語源を調べてみたら、

「仏教では『ドウギョウ』と読む。楽は願と同義で、仏道を楽(ねが)うのが道楽の原意である。

この『道楽(どうぎょう)』の意味が転じて、例えば『法華経』に『道を以て楽を受く』と説くように、道を修めて得られる『楽しみ』『悦び』を表すようになる。」という文を発見。(教員エッセイ 読むページ「道楽」より

へ~、そうなんだ?

「道を以て楽を受く」

course(道)を歩み、楽を受けられるまでになったら、文字どおりの「道楽」なんだ、とちょっと感心。

 

習いごとで、薄ら人とつながっている

2018-10-10

10月10日。私にとっては、やっぱり「体育の日」のイメージが強い。

もう体育の日じゃないんだけど。

義務教育時代は、100mを全速力で走ったけれど、卒業してからいっさいそういうことないな。

逆上がりも跳び箱も大人の世界には無縁だな。

運動が苦手な私にとっては、それだけでも、大人になった価値はあるかな。

 

私なりに質素に生活しているつもりだけれど、同年代のひとり暮らしの方の家計簿と比較したら、まだ差がある。(もちろん、幻想だって知ってるけど(^_^;))

食費も光熱費もさほど変わらないと思うけど。どこが違うのかと思ったら、私の場合習いごとが多かった。

備忘録というわけでもないけど、今習っていることをメモ。。

 

○ユング心理学講座(1回3,500円位)

2002年から。最初は週二回のクラスにいたけれど、今は月1回。『神の使者』を読んだ時、ユング講座のおかげで、無意識や否認、投影などの話が、比較的抵抗なく入ってきた気がする。

○色えんぴつ画(1回1,500円)

2016年から。月1回。友人の色えんぴつ絵の発表会を見に行ったことがきっかけで、同じ先生の別のサークルにまぜてもらった。今は人物画の練習中。(といっても月2,3時間しかできてない)

○英会話(1回500円)

2016年から。月に2回。『奇跡講座』が生まれたのはアメリカだし、いつかどこか英語圏のワークショップに参加してみたい。まだ会話できず。やっとRの発音ができるようになった。

○パソコン(1コース(20時間位)6,500円)

東京都主催の3日間のコースがあって、webサイトつくりに関係があるものに時たま参加。現在はCSSの講座受講中。何年も前から受けているけれど、復習時間が足りないためか、その方面のセンスがないためか、未だサイトづくりできず。

○色彩サークル(1回(0~1,000円)

月に1回。習いごとではなくて自主サークルで、持ち回りで先生役をやっている。色の世界も奥深い。12月に年間の自分のテーマを発表することになっているけど、まだな~んにも手が付けられてない。テーマ何にしようかなぁ。

習いごとは、節約という意味では「贅沢品」なのだけど、今や社会と私をつなぐものになっているから、大事。

分散してくれたらいいけど、月1回とか2回のものって、なんでか第2週に集中している。

パソコンの講座は、今年からwordpressのコースが新設されてぜひ受講したいと思っている。このブログ、テンプレートで作ったはいいけど、どう編集していいかわからず手に余っているから。

今日が応募締切日で、応募した。応募者多数の場合は抽選。結果は数日後?どうかな?

受講できたらいいな。

好きなことだけやっている今の私は、とても恵まれている。不安を口にするのはお門違いだな。感謝しています。

ACIMレッスン213-レッスン193の復習

2018-10-08

10月二度目の、夏日の再来

世間は三連休ー。

一昨日は友人とランチ、昨日はパソコン(CSS)の講座で、両日とも1時間半くらい歩いたら、帰宅後はバテバテで動けず。

夏バテの再来?

それも仕方ない、昨日は10月の最多に並ぶ、二度目の真夏日だったたらしい。10月に真夏日、三回あったことはまだないというけど…、また暑さの記録、更新なるか。

書きたいことを書いていると、ワークのダイアリーが進まなくてワーク日と日記に乖離が…^_^;

ワークのダイアリーは、最初は、その時に実際感じたことを掘り下げて書きたいと思っていたけど、実際にはなかなか…。

渦中にいる時は「書けなくなる」、というのがわかった。

まとめにもならない記録しかできないけど、それでも自分にとっては足取りのパン屑だよな~と思う。

レッスン213―レッスン193の復習

(レッスン193)すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。

神の世界には、「赦し」はない。

赦すべきことなど何一つないから、神は赦しとは無縁だ。

神の子である私たちも、本来そういうところにある。

ただ、私たちが今見ているものはそうではない。

宇宙という催眠術にかかった私たちは、本来とは異なるものを目にして、そこでやりこなすルールを見つけて、頑張っている。

でも、残念なことに、頑張っても、最終的に報われない。

この宇宙と、そこで私たちが作ってきた成功のルールは、そもそもまやかしなのだから。

この世界は「結果」にすぎず、「原因と結果の法則」はこの世で動作するものではない。カルマは今世に留まらず、過去から未来へ引き継がれるし、そもそも過去も未来も錯覚にすぎない。

罪をリアルにしているなら、加害と被害のループを繰り返すだけだ。

この世界と宇宙という催眠術から覚めなくては…。

私は赦す。だから、これは消えていく。

そこで、レッスン193のワークだ。

そもそもの催眠術からめざめる魔法のことば。

赦しなさい。そうすれば、あなたはこれを違った見方で見るだろう。」(L193-3-7)

「私は赦す。だから、これは消えていく。」(L193-13-3)

これは、ACIMのエッセンスを具体的に伝えている言葉だと思う。

とくに「私は赦す。だから、これは消えていく。(I will forgive, and this will disappear.)」は、ゲンジツにパニックになっている時に思い出せたら、正気に帰るフックになるかもしれない。

赦すべき想念が自分の内にがあれば、この世にかたちとなって現れる。

それは、この世の必然だ。

本来ないはずのものを見ているならば、それには訂正が必要なのだから。

そういう意味で、「すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。」というのはそのとおりだ。

赦すべきことが起こった時は、真実を教えるACIMの思考体系そのものが、うさんくさく感じられる。

「こんなふうになっているのだから、自分が正しい」と思いたくなる。

ACIMを学んでいるつもりでも、数日離れただけで、この世のリアル度が増す。

これから先ACIMにずっと触れていられるかわからない。

大事だと思うことも、ぼろぼろ忘れていく。

この短いおまじない「私は赦す。だから、これは消えていく。(I will forgive, and this will disappear.)」は、自分の心に刻み込んでおきたいと思う。

ACIMレッスン212-レッスン192の復習

2018-10-06

レッスン212―レッスン192の復習

(レッスン192)私には、神が私に全うさせようとする機能はたらきがある。

ACIMのワークブックの訓練を一言でいうと、この機能になる。

すなわち、赦し

許しとはちがう、赦し。

ACIMのワークはとてもシンプルで、ただ目前に現れるものを赦すこと。それによって、あるがままの神の子になっていくこと。それだけだ。

このことを、この世のいろんな言葉で表現してわからせようとしている。

 

では、赦しとは何ぞや。

私たちが見ているこの世界は強固に見えるが、それが実は投影させて見ているバーチャルリアリティである。そのことを認識し、そこへの感情的執着を手放すこと。

すべてが満たさせた愛情と感謝に溢れた状態に戻っていくこと。

本来それはそのまま私たちと在り、私たちが悪い催眠術にかかっているだけなのだから。

これは、「私」が選んで投射している「世界」なので、「世界」を救うのは、私の認識だ。

その認識を変えるためには、赦しという訓練が要る。

赦しの方法について、レッスン192は「この道は単純明快である。」(L192-9-3)として示している。

突き上げてくる怒りを感じるたびに、自らの頭上に剣を振りかざしていることを理解しなさい。

そして、罪を宣言された者となるか、自由な者となるかをあなたが選択するたびに、剣は振りかざされるか、回避されるかのどちらかである。」(L192-9-4,5)

すべて怒りは、実は自分自身への怒り。それを認められず、封じ込めるがために他の人が怒らせることをしたと見えている。

それこそが悪い催眠術だ。

まちがった認知をとりなすこと、それが赦し。

 

赦しはむずかしい。

それは、自分に対する怒りと罪悪感があまりに大きくて、直視したくないから。

悪いのは、自分ではない、これだ。気分が悪いのはあの人のせい。

そう思わせてくれるものを常に必要としている。

いつも、いつも、認知は狂う。

だから、何事もない時になるたけ理屈を勉強しておくことが、自分を律することにつながるんだろうな~。

備えあれば憂いなし!?

赦しはチャンス。

本来の自己にまた少し近づけるチャンス。

「樋田容疑者、逃走旅行を満喫」に不謹慎にも感心してしまう

2018-10-05

ここで取り上げるのはどうかと思ったけど、、、

8月12日に大阪府警富田林署の接見室から逃走していた樋田淳也容疑者が、9月29日ようやく捕まった。場所は山口県周南市の道の駅、万引き容疑だった。

驚いたのは、その風貌の違いと、逃走の過程。

漠然と大阪府内で逃走時とたがわない姿で潜伏しているのかと思いこんでいたけど、実際には、すっかり日焼けして「自転車で日本一周旅行している人」になっていた。

スポーツタイプの自転車には、たくさんの荷物が積まれていて、大きなリュックには「日本一周中」。サイクリングウェアも板についてそのものに見える。

いったいどうやってここまでの“装備”を手に入れたのかな?

大半は盗品らしいけれど、それにしても…、と思っていたら、リュックの「日本一周中」の紙は、なんと愛媛県庁で職員に作ってもらったものらしい。瀬戸内ではグルメ三昧の記事も。

すごい…

おいおい、楽しみすぎだろ。

隠れるのではなく、「自転車で日本一周」に目を向けさせて目くらましさせるとは。

逃走を許してしまった大阪府警は、このやりたい放題に忸怩たる思いだろう。

それにしても…。

やっていることは悪いことだけど、その厚顔さと行動力たるや…

悪事を働いたわけでなくとも、引きこもり気味なため社会に気後れしている私とは、大ちがいだ。

感心するのは良くないことなんだろうけど。

いや~、すごい。

せっかくのその力をよいことに使えばいいのに、と思うけれど、そうしないから犯罪者なんだよなー

この「すご~い」は、むか~し、ショーン・Kさんの経歴詐称騒動の時に感じた「すご~い」でもある(蒸し返してしまったショーン・Kさんすみません)。

不謹慎かもしれないけど、48日であそこまで印象がちがう人になれるなら、私の自己イメージだって変えられるってことかな、とヘンに「希望」をもらった私。。。

「自分を愛してあげて」 最初のdoは自分を愛すること

2018-10-03

最近は少し意識して聖霊の声を聞こうと思っている。

そんな今朝のワーク。

聖霊さんが私に何か伝えたいことは?…と心の内に耳を澄ますと…

自分を愛してあげてください」と小さな声を感じた(聴こえてはいない)。

「わからなくても、

ただ愛してあげてください。

私は神の子なる私を愛します』と心の中で、自分に伝えるだけでいい。

 

あなたは自己否定しながら、

何かをやらなくては(do)と焦っているけれど、

doの最初の一歩はこれですよ

 

自己否定しながら行うdoと、

自分を愛して行うdoは、

その行き先がまったくちがう。

まず落ち着いて、

自分を愛すると、意識したらどうですか。

 

そうなふうなことを言われた気がした。

働けていない現状に焦りがある。

おカネは不労所得もあって、今すぐ困るというわけではない。

過去の私のパターンからも、勤務するのが正解とも思えない(雇ってもらえるかというのがその前にあるが)。

できれば、在宅で収入を得られる小さなしくみを作れないか、などと甘いことを考えながら、そのスキルも身に付けられないまま時間が経っている。

体力気力ともに乏しく、めまぐるしく変化する世の中に付いていく能力も、コミュニケーション力もない、と思っている。

一方そういった自分を赦そうともしている。

その私に向けてのメッセージだろうか。

 

今朝のウォーキング途中、道の真ん中で70代と思しき男性が、乗っていた自転車に挟まるように倒れていた。

通行人の男性が車によけるよう合図を出しながら助け起こしているが、足が挟まってか男性はまだ立てない。

通勤の人は足早に駅に向かう。

私は足を止めた。大丈夫かな。

…と、その時、私の後ろから、自転車に乗ってきた女性が、自転車を降りてすっと助けに加わった。二人がかりで男性を起こそうとする。さらに別の方向から来た女性が駆け寄って加わった。

三人でおじいさんを持ちあげ、その下の自転車を取り除いている。

私は強い恥ずかしさを感じながら、その場を去った。

私、大丈夫かと思っていただけで、まったく動けなかった。

歩きながら、心配したけど非力な私なんかが近づいてはいけない、逆に足手まといになるという思いがあったのだと、気づいた。

助けに加わったのは、二人とも女性だ。判断はとても素早かった。

私ってば…、この世は幻想…と思う習性が身についたというのもあるのか、何でも一歩引いて見るようになっている。

それもあって動けなかったんだ、と反省した。

 

思えば、「この世は幻想だ」と言いつつ、逆に、私が今在るなかでは、私の方が幽霊みたいに幻想になってしまっているんじゃないか、と思った。

『奇跡講座』が意図するのは、こういうことじゃないだろう。

 

そんなこんながあって、今朝の“メッセージ”なのかな?とも思う。

稼いでいないのは不安ではあるけど、手元にあるおカネを使っているのだから、大目に見てもいいと思っている。

せっかくのこの時間とスペースを、好きに使えていて感謝もしている。

だけどだけど、やっぱり、自己否定があるかな?

それは、幼い頃からの自分のくせでもある。

 

最初のdoは自分を愛すること、かぁ…

まぁ、定番ちゃ~定番だけど、だからこそ、今の自分が意識すべきことなのかもなぁ

 

 

 

 

本庶佑さんノーベル賞受賞に、あるACIM学習者が思ったこと

2018-10-02

本庶佑さんがノーベル賞を受賞

[caption id="attachment_4528" align="alignright" width="300"] 本庶佑さん NHK NEWS WEBより[/caption]

昨日のニュース速報で、京都大特別教授の本庶佑(ほんじょ・たすく)さんがノーベル医学・生理学賞を受賞されたとの一報が入った。

なんでも、本庶先生は、免疫の働きにブレーキをかけるたんぱく質「PD-1」を発見。このブレーキを取り除くことでがん細胞を攻撃する「がん免疫療法」の開発に結びつけられたとのこと。

「がん免疫療法」は、手術、放射線治療、抗がん剤治療に続く、第4のがん治療法で、研究成果を基にした治療薬オブジーボは副作用が少なく大きな成果をあげているらしい。

今朝の番組ではそのお人柄も紹介され、

「一生をかけるなら、リスクが高くても、やりたいことをやるべきだ」

「誰も見向きもしない石ころを磨き上げ、ダイヤモンドに仕上げていく。混沌とした状態の中から立ち上げるところに、大きな魅力を感じる」

といった言葉も紹介されていた。

詳しいことは理解できないが、先の見えない、地道な根気がいる研究だと想像できる。

すごーい、素晴らしい。

病気の原因は罪悪感と捉える『奇跡講座』の考え

一方で、私は『奇跡講座(ACIM)』の学習者の端くれだから、病気や治癒について、ACIMがどういうスタンスをとっているかも、ある程度知っているつもり。

とくにワークブックの以下の文言にはインパクトを感じた。

「あなたは、山積みにした紙切れの束と大量の円形の金属がない限り餓死してしまうと、本気で思っている。小さな粒状の固体や、鋭い針で血管に注ぎ込まれる液体が、病気や死を寄せつけずにいられると、本気で思っている。

このようなことを考えるのは狂気である。」(L76-3-2,3、4-1)

罪悪感がないところで病気が生じることはありえない。病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。

病人を癒すことは治癒ではないので、贖罪は病人を癒さない。病気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。そしてそれがまさしく治癒である。」(L140-4-3,4,5)

ACIMによれば、病気の原因は罪悪感であり、薬が病気を治すのではなく、その基となる罪悪感を取り除くことこそが治癒をもたらすという。

それでも、この世のあるものには薬効が認められ、それで病が治るのだから、そこには因果があるように見える。

もし根底の罪悪感がそのままならば、ある幻想をもう1つの幻想に取り換えただけということになるかもしれない。

そうであっても、取り除きたかった最初の幻想が取り除かれることは、大きな望みをもたらす。

『奇跡講座』の教えをこの世でどう適用するか

要するに、私は、『奇跡講座』のこの世への適用(方法、程度)がよくわかっていないのだ。

この世はエゴが神に対抗して見せている幻想…、そして、その幻想からめざめることが、『奇跡講座』。その訓練がワークブック。

だけど、その幻想は私たちに多大な影響力があるから、幻想であってもよりよい幻想がいい、と思う。

幻想だからといって、ご飯を食べない、骨折しても幻想だからそのまんま、お医者さんも薬も投げ出す、というわけにはいかない。

どの部分を幻想と受け流し、どの部分はここでの仮の自分を維持するために大事、と捉えるかの塩梅がわからないのだ。

こんなことを考えている私は、ばかなのかな。

ACIMは正しいと思う。だけど、肉体を持ってこの星にいる私は、どう適用したらいいんだろう。

そうこうしているうちに、この世で生きるスキルらしきものの低下が著しいことに気づく。あ゛…(・・;)

おそらく答えは「聖霊の導きに従う」ということだと思う。(←今思いついた。なんて、自己完結的なんだ)

そうそう、いつも言われている。聖霊に聞く、だ。

聞いて、塩梅も打診しながら進むんだよなー。その練習かー。

ACIMレッスン211-レッスン191の復習

2018-10-01

台風24号通過

昨夜は、台風24号が関東を通過、マンションごと吹き飛ばされそうな、ものすごい風音だった。

家の中は安全なはずと思っても、怖くてなかなか寝付けなかった(参考:2018.7.4記事。ふとんをすっぽりかぶって縮こまり、今やっているレッスン(L213=L193の復習)の文言、

私は赦す。だから、これは消えていく。」(L193-13-3)と何度も唱えた。恐いのは収まらなかったけど、いつの間にか眠っていたらしい。

翌朝の散歩でも、店のテントが落ちてしまっていたり、ショールームの植木が倒れて植木鉢が壊れたり、といった台風の爪痕があった。

沖縄では高さ25mの巨大観音が倒れて損壊したとか。「非常に強い」台風は昔からこんなに多かったっけ?

これも、地球温暖化の影響なのかな?

「経済発展」のつけを環境に払わせてきた、その代償なのか?これは、、いったい、、発展していると言えるのかな?

それとも、これもやはり赦すべきことなんだろうか(たぶん、そうだ)。

レッスン211―レッスン191の復習

(レッスン191)私は神ご自身の聖なる子である。

私たちの真のアイデンティティは、「神の子」(the holy Son of God)だ。

罪と恐怖を司る神ではなく、愛と感謝そのものの神の子だ。

これを受け入れること。

そして、神がこの世を創ったのではないと知り、神以外のものを手放すことで、この世から解放されること。

これがACIMの道のりだ。

いつも思う。とってもシンプルだ。

だけど、この世はあまりにリアルだし馴染みがある(ここしか知らない)から、私たちは自分が本当は誰なのかを忘れたまま、ここでの出来事に大忙しだ。

だがこれは、あなたが自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム以外の何だろうか。」(L191-4-1)

私は、この文章がとても好きだ。

これを話したイエスはとてもユーモアのあると思う。

この世は「自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム」…かぁ。

あなたは死のゲームに興じ、自分に対し無慈悲な世界で、哀れにも破滅に向かう無力な者を演じている。」(L191-9-3)

なるほど。

たしかに。

どんなに栄華を極めても、結局は何十年後かに必ず衰えて死ぬという人の運命。

だけど、だけど、

「神の子」だと心から受け入れそのように振舞えば、「死のゲーム」は終わる。「神の子」は永遠だ。

不思議なのはこの世で渦中に入ったとたん、ACIMの教えが信じにくくなったり、あるいは後から考えると自分に都合がいいように歪曲してしまうことだ。

次に渦中にあるとき覚えていられたらいいと思う。

「削ぎ落せ」

このワークをやっていて感じたことは、「削ぎ落せ」ということ。

引っ越しでけっこう断捨離できたつもりだけど、まだまだいらないものをたくさんくっつけているんだ、と思う。

そして、隙あらば、さらに「いらないもの」を増やそうともしている。

自分でないものを削いで、削いで、自分になっていく。

それと、このワークに直接関係ないけれど、私には根深いところでおカネに対するブロックがあることが思い浮かんだ。

最近、新たな収入の源を祈りの祭壇に捧げているのだ(新たな自分の収入源を求めていて、祭壇に捧げ、日中はそのことを忘れる…)。

おカネはおカネという金額ではなく、豊かさの映しだ。豊かであってもいっこうに構わない(構わないどころか、とても求めている)。

そしてまず、今ここでこうして過ごせていられることは、とてもありがたいこと。そのことに感謝。

まず、そこからだ、と感じた。

ACIMレッスン210-レッスン190の復習

2018-09-29

秋風にさそわれてバスに乗る

昨日は秋風が吹くさわやかな快晴だった。翌日からはまた雨模様だという。ふっと出かけたくなった。

でも、どこへ?

心がどこかに行きたがってるだけで、具体的にここに行きたいというのはない。考えたり段取りする気力もなかった。

もうすぐ4時。出かけるなら出ないと。

…で、ない気力を集めて考えて、外出先に選んだのが、バスに乗って行ける、おいしいと評判のパン屋さん。

これだったら、ちょっとした気分転換になる。おカネも使わないし電車よりも気負わなくていい。

…と、バスに揺られて初めての街へ。

けど、そのパン屋さんの住所を訪ねるも、見当らず。ビルはがらんどう。中を覗くとコンクリートがむき出しになっていた。

あれっ、まちがえたかな?と住所を確認する。

合っている。外観写真も間違えない。

スマホで「○○(パン屋さんの名前) 閉店」と入れて検索してみたけれど、情報はない。「食べログ」にも「おいしい」のレビューだけで「閉店」の文字はなかった。

キツネにつままれたみたい。でも、わざわざ訪ねた店がなくなっているというのが、今の自分に合っているんだ、と思った。

どこか、行きたかった。そのどこかはここだった。

仕方なくうろうろしていたら、ダイソーがあった。

おー、ダイソー!

ダイソーは旧居の近くにあってよく買物していたが、今は近所になくて、ダイソーがあればなぁ、と思っていたんだ。

うれしくなって、食器洗い用スポンジやお掃除シート、ホットケーキミックス、黒糖ピーナッツなどなど15点買った。

気づくと外はまっくら。買物袋を抱えてバスに乗った。3時間足らずの旅。

また台風が来るらしい。被害がないといい。

秋のうちに、本1冊持って一日どこかに行きたい。

レッスン210―レッスン190の復習

(レッスン190)私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。

レッスン190には心強さを感じる。

私はどこかしら、苦しまなくてはならないと思っているところがある。で、苦しいのはヤダな、とも思っている。

それを「苦痛とは、間違った見方である。」(L190-1-1)「苦痛は自己欺瞞の証しである。」(L190-1-2)と言ってくれるから。

もしかしたら、苦しんでこそ、その分幸せになれる(なっていい)という観念は、私だけではないかもしれない。

世間にも苦労を美化する価値観があり、学校でも苦と楽はセットだと教えられてきた気がする。

でも、

苦痛とは、罪悪の想念が形となって現れたものであり、それがあなたの神聖な心をひどく傷つけている。苦痛とは、自由にならないためにあなたが喜んで支払った代償である。」(L190-8-1,2)

とACIMは言う。

罪なき心は苦しむことはできない

この世は想念を映した結果の世界。

原因の世界で、この世の喜び、幸せを妨げているものを取り除く。

元々が神のしあわせ、喜びの中にあったものを、自らの間違った想念で苦しみを掴んでいるわけだから、

一言でいうと、「自分で自分の邪魔をしない」ということか。

無罪の心が苦しむことはありえない」(テキストV-5-1)のだから、罪悪感さえ手放すことができたら、もっともっと喜びに満ちた世界を創りだせるかもしれない。

わざわざ、“苦しさ”“痛み”の重りをつけたくはない、と思う。

その一方、そういうことを考えている私って、人から見たら、すごくわがままな甘えた人間だよなぁ、と思う(これって罪悪感かな?)。とっても人に言えないーとも、思っている(こっちは恐怖感か…)。

や~~っと、ダンベルを再開、定着なるか

2018-09-28

運動の秋?

一度途絶えた運動習慣をもう一度定着させるのは、意外と難しい。

とくに元々怠け者で運動苦手、さらに年々体を動かすこと自体がおっくうになっている、私ならばなおのこと!

それが、、、やぁ~~っと、ダンベルを再開。昨日で3日目だ(ふぅ)。

今回は定着させることができるか?

そもそも、フリーランスで自宅で働いていたため、部屋Aから部屋Bへの通勤で済んでしまうため、あまりに運動不足だったのがきっかけだ。

10年位前GW帰省した際、早朝ウォーキングしていた両親に付き合ったらとても気持ちがよかった。

そこからウォーキングを始め、その後ダンベルのDVDを買い、昭和の香りがするセットを背にしたお姉さん達と一緒に毎晩約20分ダンベルをしていた。

血の巡りが良くなるからか、やると体がすっきりする。

だけど、忙しい、疲れた、ぎっくり腰になった、など何かの理由で2、3日休むと気づいた時には、習慣が消えている。そしてお腹周りにはお肉が(ということが何度か。そして今も…)。

関係するかどうかわからないけれど、去年は生まれて初めて健康診断で血圧値が引っかかってしまった。

ACIMでは肉体を重視すべきではないと言うけれど

ACIMでは、肉体は、エゴが神から分離した(と思いこんでいる)神の子に、無意識に渦まく恐怖感と罪悪感から逃げ込める場を与え、さらに個々の存在を示すことで分離をリアルに見せるための装置だとしている(解釈、大丈夫かな?)。

だから、肉体を重視すべきではない。肉体に固執することは、幻想をリアルに見せてしまい、手放すべきエゴの世界に繋ぎとめられてしまうことになる。

理屈はそうなのだけど、私は半年位前からワークをした時、ちょいちょい、「姿勢を良くすべし←そのために体幹を鍛えるべし←そのためにダンベルを再開すべし」という感じを受けていた(参考:4月17日の日記)。

このメッセージがACIMの聖霊からのものか、私のエゴなのかはわからなかった(未だに区別ができない(^_^;))。

聖霊さんが、肉体についてのそんな具体的なアドバイスをするもんかな?

でも、運動不足を自覚している者がちょこっと体を動かすことが悪いわけはない。

…、で、なんとか再開したのが、今年4月20日

しかし!あえなくその翌日にぎっくり腰になってしまい、再開二日目にして、また中断。その後慢性の腰痛持ちになってしまった。

それからはや5ヶ月…。季節は巡って秋だ。

やっぱり体幹、少しは鍛えるべきだよね。。。

そして、やぁ~~っと、再びダンベル再開。

くしくも?今は復習Ⅵの最中。復習Ⅵを貫く機軸となる概念が、

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから」(復習Ⅵ序3-3,4,5)というもの。

だけど、それとは矛盾しないよねぇ??と「私は肉体ではない、私は自由である」と声に出してリズムを取りながら、ダンベル体操をしている。

今度こそ、定着させられるか…。

自信、ない。

中秋の名月をながめて

2018-09-25

昨日は「中秋の名月」だとニュースで言ってた。

さてと、中秋の名月。よく聞くが、それは何ぞや?

中秋の名月…明治以前の日本で使われていた太陰太陽暦で8月15日の夜に見える月のことを指します。中秋の名月をめでる習慣は、平安時代に中国から伝わったと言われています。(国立天文台ウェブサイト

日本人は平安時代からこの季節にお月見をしていたんだ…

私もベランダから月を見上げた。丸くてぴかぴかしてとっても綺麗だった。スマホで撮ってみたが、輪郭がぼやけ月の独特の美しさは写せなかった。

9月は誕生日月だから、自分へのプレゼントに小さな月のライトが欲しいと思っていたけれど、必需品ではないから躊躇して結局買えないでいる。

一時期『ムーンマトリックス』という本に嵌っていた。そこには「月は人工的に作られた衛星で、人類の気分を操っている」と書かれていて、「え、まさか?」と思いながらも、それを信じていた。

その後、『奇跡講座(ACIM)』を学んで、月が人工物どころか宇宙自体が幻想ということになり、月が人工物かどうかはどうでもよくなった。

地球にぜったい裏側を見せないようにずっと廻っている月って、思えば不思議だ。

先週ZOZOTOWNを運営するスタートトゥディの前澤友作社長が、2023年民間人として初めて月旅行に行くということで、話題になった。

成功した起業家というのは、思いっきり外交的だから、関心がどんどん外側に向くんだろうか。ダイナミックな話だ。

私はZOZOTOWNで買物をしたことはないけれど、前から株を持っている。いきなりあかべこや、365日から始まるカウントダウンカレンダーなど不思議なものを送ってくる(引っ越しで全部捨ててしまった)。遊び心があってずいぶん余裕がある会社なのだなぁと思っていた。

去年いただいた大漁旗デザインのバスタオルみたいなものは、この夏私のお腹を冷えから守ってくれて、今も活躍している。

前澤社長の月旅行は正しくは、月の周りをくるっと廻る月の周回旅行らしい。

せっかく近く?まで行くのだから、廻るだけじゃなくて、月に降り立ってほしいな。で、また英語で笑顔でスピーチして…

ACIMでは、私たちが神の子であることはくりかえし述べられるが、あくまでひとりひとりの内面からの赦しが強調されている。

それはそうだけど、私はこの世の中を眺めて、いろんな人がいておもしろいなーと思っている。

月に行きたい人、テニスがすごーく上手な人、とびっきり美しい人、歳を重ねて味が出る人…、私は昔から人の「個性」というものが大好きだったのだ。

今はその好きな「人の個性」というものを手放しつつある、と気づく。

10月も中盤をすぎると、ハロウィン商戦で慌ただしくなる。それから、クリスマス…。

あっという間だな(別に世間に合わせる必要はないのだけど、影響を受けやすい)。

もうしばらく、静かで深まる秋を楽しみたいな。

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