奇跡講座ダイアリー

My New Year Resolution (新年の抱負)

2019-01-12

2019年最初の英会話教室はMy New Year Resolution

おとといの新年最初の英会話講座。教室に入ると黒板に「My New Year Resolution」。横に日本語で「新年の抱負」とあった。

Resolutionは、たしか(問題などの)解決と習ったような気がするが、「抱負」にも使うのか。直訳すると「今年の課題」や「お題」みたいな意味なのかな。

先生は、

  • Get in shape(体調を整える)
  • Start eating healthier food(もっと健康的な食事を始める)
  • Give up smoking(タバコをやめる)
  • Spend less time on social media(snsに使う時間を短くする)

などなどたくさんの例を書いたプリントをくださった。裏面にも抱負の例がずらり。数えてみたら55コも例文があった。

「Eat vegetarian one day a week(週に一度はベジタリアンの食事をする)」などあまりにも具体的なものもあって、これはやはり「抱負」というよりは「目標」とか「やりたいこと」に近いんじゃ?

先生は、このリストの中で自分にも当てはまるものに○をつけて、それから、その下に自分のオリジナルのResolutionを5つ書きなさいとおっしゃった。

ACIM的に見れば、目標や課題は何かが欠けているとの発想の上に立つ。

本来の自分はすでに神の子として完璧なのだから、それに気づけばよいだけということになるだろうが、ここは英会話のクラス。具体的な目標を考える。(私は「新しい私」を祈りの祭壇に捧げており、ここでも矛盾しているが。)

先生はみんなの周りをまわって、それぞれの英訳をサポート。それから、一人ひとり発表となった。

こういう類のものは「さぁ、今年の目標を5コ挙げるぞ」と身構えてしまうと私のような完璧主義かつ怠け者タイプは逆にやりづらい。何でもいい、短時間に挙げよというほうがいいのかもしれない。

オリジナルの目標

そこで私が書いたのが、これ。7つになってしまった。

 Make up business system to earn money through Internet(インターネットを使った儲けのしくみを作りたい) 
  Be concerned about my mother's health (母の健康を気遣う)
  Learn Japanese modern history(日本の近代史を学びたい)
   Use my new personal computer well(新しいパソコンを使いこなせるようになりたい)
  Ageing gracefully(優雅に歳を重ねたい)
  Cure a symptom of frequent urination(頻尿を治したい)
  Make up my original picture book(自分で絵本を作りたい)

 

期せずして、今年の目標ができた

短時間で思いつくまま書きなぐった。心のままに書けたかもしれない。

のネットを使った収入のしくみづくりは、ずっと何年も前から思っていること。だけどサイトづくりを少しかじるだけで何にもできてない。

まず商品がない。またこれからシニア世代に入る私にネットを使ったことができるのか。(優先順位:高)

…「母の健康を気遣う」とは抽象的だけど。東京に戻ってきてから、黒ニンニクとお腹のハリを抑える薬ガスピタンと松山千春のCDを送ったら、喜んでくれた。(優先順位:高)

…歴史は男の人ばかり活躍している印象から、あまり興味がなかったけど、歳とると昔に意識が向く。黒船が来航したあたりからどう変わっていったのか、なぜ戦争せざるをえなかったのか知りたくなった。(優先順位:低)

…新しいノートパソコンを買ったけど使えてない。デスクトップ型パソコンのキーボードのほうが使いやすくて。でもやがてWindows7のサポートも終わることだし、使えるようになりたい。(優先順位:中)

…「Sucsessful aging」と書いていたら、先生が「gracefully」を使ったほうがいいと教えてくださった。抽象的だけど。(優先順位:中)

…⑤とギャップがあるけど、逆に⑤を満たすにはこれが大事ともいえる。若いころからトイレが近かったから慣れっこになり放置しているが、今年は改善したい。(優先順位:高)

…絵本の作り方の本も買ったことだし。そんな気概はないのだけど思いついて書いた。(優先順位:低)

 

英会話教室に出たら、期せずして今年の目標ができた。

7つ位だったら私でも覚えていられるかな。

その中で優先度高いのは3つだとわかったし。3つなら私でも覚えて…?実行できるかどうかは自信ないけど。覚書。

 

ACIMレッスン234-父よ、今日、再び私はあなたの子です。

2019-01-11

連続晴れ、乾燥注意報。うつ抜け?

東京は晴れ。乾燥注意報。

12月24日以降、雨や雪が観測されず明日も晴れ予想で、これは歴代3位の記録だとか。

私は東京の冬の空が好きだ。18の時初めて受験で2月の東京に来て、空が明るく澄んでいるのにびっくりしたのを、また思い出す。

あの時は父が付き添ってくれたのだった。

北陸の冬は日照時間も少なくセロトニンも出にくい。うつになりやすいと思う。

うつ…といえば、数年前とっても動きづらい時があって、メール1通出すにもエネルギーを溜めて頑張って出すといった時期があった。

医師に診てもらったことはないのだけど、あれはやはり抑うつ症状と言うのだろう。何年もちょいちょい動けなくなったいたから、いわゆる更年期と関係することか。

エネルギー不足は変わらないけど、それがすこーし回復している気がする。

外出した日は帰宅後2時間位動けないことも多かったけど、その時間が少しだけ短くなったような?

膨大なエネルギーを使う引っ越しなんて無理かと思っていたけど、それも何とかできたし。

更年期もそろそろ抜けようとしているのか。

もう少しアクティブになれたら…

ACIMワーク234‐父よ、今日再び私はあなたの子です。

レッスン234はちょうど年末年始やっていたワーク(一応やってた)。

父よ、今日、再び私はあなたの子です。

これは、自らのアイデンティティを高らかに宣言する主題概念であり、「私が私になる」というテーマだ。

去年からワークの終わりに「祈りの祭壇」をイメージして、そこにお願いというかたちではなく「自分の問題や目標や偶像を贈り物として祭壇に捧げる自分を想像する(『神の使者』13章より)」ということをしている。

そこで捧げているものの一つが「私の新しい人生」だった。あまりに漠然としていて、どう新しいのか自分でもわかっていないのだけど、そう捧げていた。

このワークをして、その「新しい人生」には、まずレッスン234の「私が私になる」(神の子としての自分になる)ということが不可欠で、それが先だと感じた。

常に、神の子なる自分を忘れないこと。

まあ、たいがい忘れているけれど。

1月3日のメモには、

「すべては私が見せているものである。

怒りの対象は、怒りではなく赦しを求めている。

赦しが出口だ。

挑発に乗らない。

怒らないこと自体が目的。」と書いてあった。

帰省後、数日過ぎて私も母もお互いに地が出て、リズムが合わなくていらいらしていたのだろう。(一人の時間が欲しい私は誰といても疲れてしまうのかもしれない)

私ってー、いる場所、いる時間、一緒にいる人たちによって、すぐに自分が誰だかわからなくなってしまう。

わからなくなっても、神の子だということだけ覚えていられたらいいのかもしれないが、そうはいかずエゴで固めた自分をどうにか思い出そうとあがく。

今も少しそう。しゃべればしゃべるほど、堕ちていく…気分の今。

まあ、ぼちぼちいこう。

2019年の東京生活スタート

2019-01-09

7日の昼すぎ東京の自宅に着いた。

母に着いたよ、と電話を入れたら、

「あんた、3日も遅く帰って…ちゃんと仕事あるがけ?心配やわ」と母。

最も痛いところを突かれ、かっとした私は、

「具合悪くなったお母さんのせいやにか!」と答え、それだけでは済まず、

「だいたいお母さん、あったまおかしいよ!入院した次の日お腹大丈夫?って聞いたら、腰痛いって言って。普通は、お腹のこと言うでしょ!良くなったとか、痛み取れたとか。」

と言い放ってしまった。

せっかくお正月を穏やかに過ごせたと思っていたのに…。暴言をぶつけてしまった。反論するにしても「あったまおかしよ」は余計だった。

攻撃を受けたように感じそれをかわすだけではなく、瞬時に戦闘モードに入ってしまったのだ。

その時は、神さまも聖霊さんも寄せつけなかった私。

は~、1年365日24時間の赦しには、まだ果てしなく遠いと思い知る。

近しい人ほど、感情を揺さぶられる。

ことに母には。

本当は、元気になってくれたことだけでありがたいはずなんだけど。

実家と東京の家では、自分のなかで稼働しているデバイス?ソフトウェア?がちがう気がする。切り替えて、そうそうここではこうだったと思いだすまでに少し時間が要る。

そして、多少出遅れたが、ようやく昨日から、私の2019年東京生活がスタートした。

頭でっかちなACIM学習に少しずつ実践が伴いますように。

母、緊急入院!?

2019-01-07

帰京日、母腹痛で緊急救命センターへ

4日の切符をネット予約してあったが、母のパソコンの調子が悪くそれを回復させるべく、帰京を5日に変更していた。

しかしー。

5日の午後、施設に入居している伯父(母の兄)のお見舞い後ランチを食べて帰った午後4時あたりから、母の調子がおかしくなった。

お腹が痛いと言う。

腹痛は誰にでもあるが、私が家を出なくてはならない夕方6時になっても治るどころか、ますます痛むらしい。

どうしたものか。

土曜日の午後はどの病院も休診だ。

しかし、ますます苦しんでいる母。放っておくわけにはいかない。

緊急救命センターに電話してみたところ、「来てください」とのことでタクシーで向かう。

センターには大勢の人がいてびっくりした。待合室で待つも、激しく痛がっている母は中に入れてもらってベッドで待機することに。

10床位あったベッドもほぼ患者で埋まっている。泣きじゃくっている赤ちゃんもいる。

1時間位待ったところで、穏やかそうな男性医師が来られて、痛がる母のお腹を触診、「急を要する危険性おそらくなし」とのだったが、血液検査とレントゲンによる検査をすることに。

1時間位待ったところで、血液検査、レントゲン検査を実施。

それから、また待つこと1時間。母の痛がり方はどんどん激しくなっていく。

人手も限られているなか、看護師さんはテキパキと動かれている。「5分後、救急車到着します」とのアナウンスがあり、場に緊張が走っている。

そのまま入院することに

それから、また1時間位たったところで、医師から私が呼ばれる。

レントゲン画像を見ながら、「これが胃で、これが腸ね…」

何を言われる?と、体を硬直させ身構える私。

「ぜんぶきれいですね。多少ガスが溜まっているけど、血液検査、レントゲンとも異常なしです。」

ほっとする。よかった。

「何か変わったことは?」と聞かれ、「特にありませんが」と前置きしつつ、今日、私がお正月帰省から自宅へ戻る予定だった旨を話すと、「あ、そのやつね。今日も5人位、そういう方来てるよ」と。

そのやつってー?

「アルプスの少女ハイジ」でクララが足は悪くないのに歩けなかった、みたいなやつ?まさか??

母にレントゲンも血液検査も問題なしと伝えるが、本人はますます痛む様子。「昼食べたものが悪かったに違いない」と言い、浣腸して出したいと言う。

それを伝えに行くと「浣腸することで満足なさるなら、しますが」と医師。

浣腸後も、ますます派手に痛がる母。

私に「何とかしてー」というが、職員の皆が忙しそうな中で「検査で異常なし」となった老女にかまける暇がある人はいない。

私は、痛み止めだけでも、とお願いすることしかできなかった。

到着から約6時間後、緊急救命センターも落ち着いてきた頃、医師が「辛そうだし、家に帰っても眠れないでしょう、入院しますか」とおっしゃった。それから痛み止め?安定剤?の注射を打った後、入院の手続きとなった。

「たぶん翌朝退院できると思うから、10時に迎えにいらしてください。」

母がいない家の冷たさにたじろく

夜家に着いた時には、深夜1時を回っていた。

家はしんと静まり返っている。母がいない家に夜間に一人でいたことがなかったから、そのひとけのない冷たさにたじろいだ。

一日中あれやこれやと聞いてくる母にうんざりしていたけど、ここは母の声でうるさい場所、それでいいのだ、と思い返した。

お母さん、重病じゃなくてよかった。

それにしても、あの子供っぽい痛がり方とだだをこねる様。こんな人だったっけ?

翌朝母からの着信を見つけた。

電話すると「退院だって」と母。

「お母さん、お腹痛くない?もう大丈夫?」と聞くと、

「側弯症の腰の右、痛いが~」と。

なに?おいおい!

腹痛で入院したんだろうが!!

と呆れ果ててしまった。

お腹はすっかり治ったらしい。

帰宅後、コーヒーを美味しそうに飲んでいた。

これってお母さんと私の共依存劇場!?

これは、母と長時間同じ空間に過ごすのがしんどいと思いつつ意識下で罪悪感を持っている私と、

自律していて年の割にしっかりしていると思いつつ意識下で娘に甘えたいと思っている母の、

共依存が結晶してゲンジツ化した映像だろうか。

私がもっと母と居たいがために、母に腹痛を引き起こさせたのか。

ようやく1月7日。予定より3日遅れで東京に戻ってきた。

北陸新幹線から撮った日本海の空と、東京の空のちがうこと!東京の空はなんて明るいんだろう。

今年は、やはり母への特別な愛と罪悪感と向き合う年になりそうだ。

 

初夢ー「ハリネズミのジレンマ?」

2019-01-05

明け方夢を見た。

新年を迎えて初めての夢だから、「初夢」と言えるのかな。

<2019年 初夢>

母とどこか旅に出ているらしい。

ひなびた質素な宿に着き、夕食に食堂でおにぎり3つとみそ汁をいただいた。

部屋は相部屋らしく、先客の女性がいた。40代位で旅慣れた様子だ。

しばらくすると宿の人がふとんを敷いていく。

私はその部屋に先客の女性と私たち母娘の3人で泊まるのだと思っていたが、そのうち人が増え女性ばかり10人ほどになった。一人客が多いらしい。部屋は10畳位。ふとんは6~7組。ここでみんなで雑魚寝するようだ。

私は泊ったことはないのだけど山小屋風?なのかな。

私と母は部屋の入り口のふとん1組あるところにいたが、2人で寝るには窮屈。隣の人は少しも動こうとはしない。

母はいらいらしだして、奥まったところに行き「私ここにする」と言う。

私は「だけど、お母さん、ここじゃ夜中にトイレに行く時みんなに躓いてしまうよ」と言っている。

この宿にはお風呂もないみたい。

母は次第に声を荒げていく。ちゃんとした寝床もないうえにお風呂もないことに怒っているのだ。「みんなお風呂も入らんていうがけ?」と私に詰め寄る。

最初に言葉を交わしていた宿泊客が、母に対してイラつきだした。

このスタイルに慣れているんだろう。

「ここでのマナーに従って」と母に注意する。

険悪な空気になっていく。

私は、母の背中をなでて

「お母さん、ごめん。私が悪いが(方言:悪いの)。ちゃんと見んだから。今度からもっとちゃんと揃ったところにするから、今日は収めて。ごめん、こめん…」と言いながら泣き出している。

老いた母への愛しさと、その母を満足させたかったという落胆の気持ち、母への「悪かった」という気持ちがまぜこぜだ。

ごめん、ごめん。

悪いのは私なが(方言)。

今度はきれいないいところにしよう。

お母さんが望んだようにできなくて、ごめん。

その気持ちが強まって目が覚めた。外はまだ真っ暗だった。

夢をノートに書いていたら、ゲンジツでも涙が出てきた

リアルな感情を伴う夢は久しぶり。

夢日記を書こうとペンを取ってからも、感情がこみ上げてきて涙が落ちてノートがべこべこになった。

母への罪悪感。

若いころからいろいろ面倒ばかりかけて、

お母さんが期待したり望んだりしたことはまったく満たせなかった。

ごめん…、申し訳ない。そんな気持ちと、

母をもっと喜ばせたかった、という気持ち。

そこに情みたいなものが絡んでいる。

冬の北陸に一人母を残して、今日、帰京せんという自分に負い目もあるのか…。

孫の顔を見せられず(家意識が強い富山県ではこれは大事)、

同居もしておらず、

せめて一緒に行こうと来た(夢の中の)旅で、こんな思いをさせてしまった…

 

そんな思いがあるなら、一緒に住めばいいのに、一人の時間がないと辛い私は一日中質問攻めの母についいらいらしてしまい、一つ屋根の下では住めないと思ってしまう。

大人になりきれなかった娘(昔よく言ったいわゆるアダルトチルドレン)が、老いても未だマザコンをこじらせている、といった絵か。

正しい例えなのかどうかわからないが、「ハリネズミのジレンマ」という言葉を思い出した。

これはまさに『神からの分離』の投影だ

一方で、ACIM的観点からみれば、これはまさに『神からの分離』を前提とした罪悪感の投影以外の何物でもない。

この世で、神はカリスマや親に投影されやすい。

これは私のエゴが見せているまさに夢であり、この罪悪感こそが私が手放すべく練習しているものなのだ。

と気づく。

母は、私の赦しの機会の権化か。ゲームでいうとボスキャラといったところか。

『神との分離』から来る恐怖感と罪悪感を赦すことがACIMの根幹だと思うが、恐怖感より罪悪感のほうがいろんな感情と絡み合っていて正体がみやぶりにくい。なので、赦しにくいように思う。

今年の精神的なテーマはこれかな、

母に対して感じている罪悪感を赦すこと。

今朝はちょっぴり優しくしようと意識したけど。5分と持たなかった。

母が接骨院に行っているこの時間、静かだ。外の雨音が聞こえる。

ACIMレッスン233-私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる。

2019-01-04

友人との癒しのランチバイキング

昨日は30年来の友人と久しぶりに会い、ホテルのランチバイキング行った。

90分食べ放題だったけどおかわりすることも忘れおしゃべり夢中で、気づいたら残り時間30分を切っていた。

デザートだけは食べなきゃ。慌ててプチケーキを取りに行った。

レストランを出ても、ホテルのロビーで話し込んだ。

話の内容はたわいもない近況。健康話とITやスマホなどの“世の中に付いていけてない”話が増えたかな。

気が合っておしゃべりできるって、幸せ!

友は私が『奇跡講座』に関心があることも学んでいることも、もちろんその内容も知らない。

私たちは、生きている間この世の幻想のあれこれで忙しい。話をすることで、確認したり気を慰めたり。

次会う時には、今日の話の内容は忘れていて、またその時の話になっているだろう。

それでいい。

女子ならではの習性?、結果や成果を求めるためじゃなく、ただ純粋におしゃべりすることが楽しかった。

ACIMワーク233-私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる。

レッスン233では、「私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる」が主題概念だ。

神の導きにゆだねるには、まず心穏やかであらねば。

心静かであることも大事。

今朝は、母が家そばの接骨院に行っている30分の間にワークをした。そこまでは健やかでいい出だしだと思ったけれど、振り返れば母にいらいらしてしまっていた一日だった。

実家に滞在中は、気づいたら『奇跡講座』が意識から遠のいてしまっているが、今回もやっぱりそうだ。

母からの絶え間ない刺激に反応するも、そのうちだんだん疲れてきて何が何だかわからなくなる。

ACIMの教えはどこへやら。

ずっかり自分人生ゲームの主人公になりきって登場人物と組み交わして、実のプロデューサーが自分自身だということも忘れてしまっている。

自分の中での母とACIMの共存が、意外とテーマだったりするかな?

 

私のゲンジツ世界の中では、母が大きな仏像のように鎮座している。

それでも、昔より関係性が良くなっていると思うから、よしとしよう。

母にいらいらしてしまうのは、私が自分のエゴに固執しているからでもあるのだ(おそらく)。

私は、ただいらいらしたくてしているだけなのだ。

本来赦しの対象であるものと、戦おうとしている。

それは、どこか赦すまじと思っているから。

父よ、今日、私は自分の考えをすべて、あなたに差し出します。

私は、自分の考えを何ももたずにいます。私の考えのかわりに、あなたの想念を与えてください。」(L233-1-2,3)

こういうことがちゃんとできたら、そんなにいらいらしないんだと、今ダイアリーを書いていて思った。

本当は今夜帰京予定だったが、母のパソコンがどうしたことかExcelもWordもプリンターも使えなくなっていて、それを直す(再インストール)ために、帰京日を一日遅らせることとなった。

これも意味あること(自分が作っている幻想)。

私は心が弱くまた狭く、すぐいっぱいいっぱいになってしまうけど、できるだけ優しく親切でいたい。

漠然としているけれど、それが2019年のなりたい自分かな。

 

昔ながらのお正月

2019-01-02

あけましておめでとうございます、と新年のごあいさつをひとまず(^^)

元旦。

仏さまと神道の神さまと、天神さまにお雑煮をお供えして、手を合わせる。

神道の神さまと仏さまが共存しているところが、日本的。おまけに立身出世を願い学問の神さま天神さままで加えてしまうのは、富山県ならでは。

神さまと仏さま。そして天神さま。一見折り合わないように思うけど、先祖供養と子孫繁栄を願う気持ちでは一貫しているのだ。

 

それから母とお雑煮を食べた。

懐かしい味。おいしい。ほっこりする。

その後近くの神社に初詣に行った。神社は境内の外まで長い行列で、お参りするまで50分かかった。

おみくじも引いた。「小吉」だった。大きな飛躍をもくろむことなく、地味に地道に努力を重ねるべしとのこと。

 

ACIMワークのほうは、元日の朝からだめだった。

高齢な母は朝がとびっきり早く、起きている間休むことなく話しかけてくる。ひとり静かにいられる時間が見つけられなかった(母が就寝後の夜は何とかできた)。

二日の朝もしかり。

まあ、私のやる気が足りないのだけど。

10時からお寺から尼さんが読経に見えることになっていたので、そのお経を聞きながらワークをすればいいんじゃ?と思いついた。わが家は浄土宗だ。心の広い法然さんは許してくださるだろう。

尼さんの声は張りがあって美しく、目をつぶって聞きながら神さまと聖霊さん、父母に感謝した。心が洗われる気がした。

一人暮らしの私は、人とずっといるのに慣れておらず、一日中話しかけてくる母にワークでの感謝とは裏腹に、三日目にはもう疲れてしまった。

もちろんこれは私が映している幻像だ。

実家は赦しの機会の宝庫だと痛感。

「自分らしく」なっていると思っていたけど、母の前では撃沈。

今年も、相も変わらずここからスタートだ。

 

ACIMレッスン232-父よ、一日中、私の心の中にいてください。

2018-12-31

故郷での大晦日

紅白歌合戦聴きながら、ブログを書いている。横では母がテレビに逐一反応して声をあげている。

昨日から、買い出し、掃除、神棚や床の間、仏壇、玄関に花を活け、1月2日にはお寺から読経に来られるからその準備。おせちの支度…。

全部母主導で私は言われたことをやるだけ。

わが家のお雑煮は、(富山県内はみんなそうなのかな)醤油ベースのけんちん汁みたいななかに焼いた鯛の身を入れたもの。

魚屋さんで焼いてもらった鯛から骨を取って身をほぐす料理以前の作業は、例年私の役だ。

亡き父はお雑煮にはどんな細かいものでも骨が入っていることを嫌ったから、どんな細かい骨も見逃さないことが重要だった。今日も骨を見逃していないか二度チェックする。

鯛から骨を外していく作業をしていると、ああ、命をいただいているんだなぁと思う。

故郷ならではのお正月。

こうした風習も母がいてこそだ。

私ひとりだったらやらないだろう。

東京にいるなら、なおさら。

お雑煮さえも作らないのではないかと思う。

幼い頃はあたりまえだった風習。母に付き合うかたちでやっているけど、私の中にはもはやないものだな。

それはなさけなく寂しいことかもしれないけれど。

『絵本つくりかた』

帰省直前に、Amazonで『絵本つくりかた』という本を手配して届いた。

12月12日や12月19日の記事にも書いたけどACIMワークをしているとき、何度かこの本のイメージが浮かんできて「買ったほうがいいかな」と気になっていたのだ。

絵本に関心はあるけど具体プランがあるわけではないし、買いたい本なら他にあるから、と買えないままきた。でも、勘違いかもしれないけれど、聖霊さんからの何かヒントなのかもしれない。

暮れも差し迫った今、聞いておいたほうがいいんじゃあ?

そう思って買ったのだ。

中はまだ見てない。

来年は聖霊の声がもっと聴けるかなぁ。従えるかなぁ。

まあ、私次第なのだけど。

ACIMワーク232-父よ、一日中、私の心の中にいてください。

レッスン232も短いけれど、根幹となるいい教えが書いてあるなぁ。しかも平たい言葉で。

1分、1分があなたとともにいる時間となりますように。」(L232-1-2)

そして、あなたがともにあり、私の呼びかけを聞き、私に答えるために常にそばにいてくださることに、毎時間、感謝を捧げるのを忘れずにいられますように。」(L232-1-3)

今日、恐れの終わりを練習しなさい。

あなたの父である神を信じなさい。

すべてを神にゆだねなさい。

神にすべてを明らかにしてもらいなさい。

そして、あなたは神の子なのだから、うろたえずにいなさい。」(L232-2-1,2,3,4,5)

とくに心に染み入る言葉を書き出していったら、全部になりそうだ。

 

このブログ、この世のあたりまえに立っているかのかと思うと、次の瞬間にはACIM的価値観に立っていたりと(ACIMにちゃんと立つとすべてはメタファーで何にも書けないけど)、意味不明で思いやりに欠ける。

それにもかかわらず、

立ち寄ってくださった方、どうも どうも ありがとう。

たくさん素敵なことが来ますように!

ACIMレッスン231-父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。

2018-12-29

故郷へ帰省、雪が降っている

昨夜、故郷の富山に帰省した。

東京は空気が乾燥して風が冷たいが、こちらはしーんと体に染み入る寒さ。寒さの種類がちがう。

でもやっぱり富山のほうが格段寒い。

母はいつもこの季節、郷土料理のかぶら寿司を漬ける。それも業者が使うような樽で大量に。それを親戚や近所の方に配るのだ。

今日はそれをおつかいで、配って歩いた。

いっつも、いっつも「今年はかぶらの質がいま一つだった」とか「ブリの塩がきつすぎて」など、“言い訳”を添えて配るのだ。

親戚から晩に「手間暇かかるものありがとう。今年のもおいしかった」と電話があり、母は上機嫌だった。

親戚のおばちゃんは、私に「たまちゃんもかぶら寿司作ることできるんでしょ?ちゃんとお母さんに習ってね」とプレッシャーをかけてくるが、私は一回も習ったこともないばかりか、作る場面に立ち合ったこともない。

手料理で周りの方に喜んでもらうのが好きだという母の性質は素晴らしいと思うけど、そういうところは受け継がなかったみたい。

私は一見優しげにいるけれど、実際に人に尽くしたり役に立ったりといったことが苦手だ。手料理や手仕事が上手な人、人に尽くすことができる人に引け目を感じている。

あ~、思えば、今年もあとわずか。

一年の区切りに意味があるような、ないような、でもやっぱり影響あるような。

大晦日から新年は、日本国民みんなで大縄跳びをしているみたい。一緒にその大縄を飛べなければ新しい一年に乗れない気がする。

混んだ新幹線での大移動、面倒だと感じる反面、行ける故郷があるのがありがたいとも思う。

ACIMワーク231-父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。

富山は、私にとってACIMから遠くなる場所だ。もちろん私の錯覚のなかでのことだけど。

一日中話しかけてくる母に反応しているうちに、ACIMの世界がどんどん遠くおぼろげなものになっていくのだ。

とりあえず、ワークブックだけ持ってきた。

朝晩のワークだけできればいいけど。

家族と密な時間を過ごしていると、神より家族が近く感じ、そもそも私は家族なるものの代わりに神を求めているのかなという気分になってくる。

家族や愛に恵まれていると、ACIM的なものに意識が向かわないのも無理はないのかもしれないと思う。

私は神さまもよくわからないのだけど、ただACIMの言っていることは理が通っている、と思う。

先が通じている。

ほんものだと感じる。

だから、どう行っても出口のないと感じるこの世のやり方ではなく、ただ幸せと感謝に満ちているACIMの教えに重きを置きたい。

ワークのメモを書いていたノートもちょうど新しいノートへの切り替わりで古いのは置いてきてしまったから、L231ワーク時にどんなことを感じたか(あるいは感じなかったか)思い出せない。けれど、母が寝静まった今の私の気持ちはL231のとおりだ。

父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。

あなたを思い出させてください。自分自身についての真理のほかに、何を望むことができるでしょう。」(L231-1-5,6)

ACIMワークブック第Ⅱ部‐2.救済とは何か

2018-12-27

白いバラへの執着

クリスマスが過ぎると街は一気に年末モードになる。

お正月へと一直線だ。

ぼーっとしている私は土曜日のXmasシャンソンライブの帰りにもポカをした。 (さらに…)

ACIMレッスン230-今、私は神の平安を求め、それを見つける。

2018-12-24

色彩サークル“自主研究”

おとといの夜久しぶりに徹夜した。

きのう参加している月一の色彩サークルの年内最終回で、各自の“自主研究”の発表がありその資料づくりのためだ。

少人数のゆるい会だし、最近は「色」のことは優先順位も低くなっていてまったく手がつけられないまま前々日になっていたのだ。

自主研究といいながら一夜漬けとはなさけないと思ったが、手ぶらでは行けない…。

にわかだけどテーマは、「企業webサイトと使っている色の分析」みたいなこととした。

結婚情報サイトはやはり「愛・幸せ」をイメージさせるピンク系だし、老舗和菓子店は「和の伝統」を示すような茶系…といった話。男性化粧品はスタイリッシュ感を出すため、黒に渋めの青、緑。こじつけ感もあるけど。

資料をまとめるの久しぶりで、途中からちょっと楽しくなった。

綺麗な色でプリントアウトするために、午前4時にコンビニに行ったら、シニア世代の店長さんが黙々と品出しをしておられた。コンビニ経営、負荷がかかるたいへんな仕事だと頭が下がった。

シャンソンXmasコンサート

おととい昼は、四谷にある蟻ん子というシャンソンライブハウスで、しますえよしおさんのXmas コンサートだった。

お客さんは元気なシニア女性が大部分。みんな自らの一年の労をねぎらう意味もあるのかな。

お弁当の写真しか撮れなかったけど、しますえさんの生歌の迫力がすごかった。朝吹タツヤさんの歌にはいつも愛を感じる。

心を鷲づかみにされて揺さぶられた。

歌で人の心を動かせるってすごいと思った。

ACIMワーク230-今、私は神の平安を求め、それを見つける。

私は『奇跡講座(ACIM)』から離れないことが大事だと思い、とりあえずはワークを続けてきた。

でもそれは、やはり自己流で自己都合で捻じ曲げられたものだと感じた。

最近なおざりにしてきた『奇跡講座テキスト』を読んで、ありゃ…と気づいたのだ。

ACIMを勉強している(つもりだ)けど、ACIMを生きてはいない。

左足をACIMにかけ右足はこの世の価値観に置き、股裂き状態なのだ。

頭はACIMで心はまだこの世…

それが「わかっている」ということはどういうことなんだろう…

なぜACIMで価値観でもっと生きられないのかというと、執着しているものを手放さなければならないように感じそれが受け入がたいのだ。

またACIMの考えはやはり突飛な感じもするから、全てを託しきるまでは達せていないのかもしれない。

今、私は真の自己でいることだけを求める。L230-1-5)

私はあなたに創造されたままの私です。あなたから授かった平安を見いだすためには、私はただあなたに頼めばよいだけです。」(L230-2-4,5)

ACIMから離れないでさえいればいずれはその心に近づけるのではないかなぁというのが、今のきもちだ。

L230ワーク時のメモには、

「ひとつの扉を開かなければ、次の扉は開かない。

全部に確実性を求めることは不信の態度を表す。」と。

今日の一日なんだな、まず。

今日一日、神さまと聖霊さんとともにいたい。

あっ、MaryXmas

クリスマス・ストレス!?からの

2018-12-21

クリスマスが苦手なのはひとりだから

クリスマスイブが近い。

私はじつはクリスマスが苦手だ。

11月ハロウィンが終わった頃から街に響きだすクリスマスソングがひどく耳ざわりだった。毎日行くスーパーでさええんえんと流れ続け、レジ係は赤いサンタの帽子姿。

うざい…

クリスマス・イブは「もっとも大事な人と過ごす日」という刷り込みがあるのに私はここ何年もひとりというのが、ストレスの主原因なんだろう。

いつもは気楽でいいと思っているくせに。。ね。

なんか、去年もそんなようなことを言っていたな、と思って、ブログを検索してみたら、去年もおととしも似たようなことを言ってた。

「クリスマス*コワイ」(2016年12月19日)

「おひとりさまは12月が苦手!?」(2017年12月2日)

変わってない…私 (^_^;)

今年は引っ越して都心から少し遠くなったためか、クリスマスソングが去年ほど耳に入ってこない。楽だ。

クリスマスと健康リスク

クリスマスソングが苦手だなんて人に言いにくいと思っていたけど、「クリスマスソングは健康に悪影響」という記事をどこかで見た。

主に同じ曲を長時間聴き続けなければならないショップ店員さんのことを言っているらしい。

また「クリスマスイブは心筋梗塞の発症リスクが高い」とのニュースも見た。

何でもイブは、その前後2週間と比べて発作リスクが37%増加するとか。そのピークは夜10時らしい。

原因については、イブはお祝いのメインの日であるため感情が高ぶりストレスにつながる可能性と言及。

二元性の世界、光を集めればそれだけ陰も強くあるんだろうと思う。

今年は聖霊さんと厳かなときを

『奇跡講座』を学習し始めて早6年目。

いいかげん、自分が見せているこの二元性の世界で「小さな世間基準と(自分が)ちがう」ことをストレスを感じるのは止めにしてはどうか、と自分に持ちかけたい。

明日は、ここ数年前にiPad mini講座を受けた時の先生と受講生の仲間で同じく受講生だったシャンソン歌手の方のクリスマスコンサートに行く。

とっても心にしみる歌を聴ける素晴らしい時間。

これがここ数年のこの時期の過ごし方で、これは自分に「私のクリスマスは済ましましたよ」というハンコ的役割もしていたのだ。

それでも24日の夜はどことなく寂しく感じていた。

でも、考えてみれば、クリスマスは、『奇跡講座』の著者であるイエス・キリストのお誕生日。

「時間はない」というイエスさまがお誕生日をどれだけ大事に思っているかどうかはわからないけど、そろそろストレスに思うのじゃなくて、厳かに聖霊とともに過ごしたいものだ。

それにはキャンドルくらいあったほうがいいかな。

ACIMレッスン229-私を創造した愛が、私の本性である。

2018-12-19

「おもてなし英語講座」受講決まる

11月22日に応募した区のおもてなし英語講座の結果が来た。

「定員を大幅に上回る応募があり、厳正に抽選を行いましたところ、次のとおり結果が…」という文言の後に、太字で、

「当選」と。

おー、当選してる!

大幅にって、どれぐらいだったのかな。かなりの倍率とかだったらありがたみが増すよ。何はともあれ無料英会話講座、ありがたい。

私が案じていたとおり、初日は「自己紹介」で時間が30分長くなっていた。

英会話より、講座でのコミュニケーションを怖れていた私。

みんなに(わかりやすく)紹介すべき自己がないし、ひとり者っていうのも若干引け目。こういうところに来る人はテンションもコミュ力も高めの人が多そうだなー、と。

これも、もちろん赦しの対象だ。

誰も対して私を攻撃しようとしているわけではないのに自己防衛が先に立つ。

差し出し人は区の「人事課 人材育成課」となっていた。あー、ごめんなさい、私でいいのかな。

来年1月開校。ともあれ「旅の恥はかき捨て」くらいの気合いで参加しようと思っている。

ACIMワーク229-私を創造した愛が、私の本性である。

レッスン229は、12/5~9母との旅行から帰ってきた頃にやっていたワーク。

旅の余韻がありこの世の方がACIMの世界よりリアルに感じられ、いろいろ母への思いが湧いていた。

たいしてワークのメモもしていないなかで、ここでも『絵本つくりかた』買おうか、と書いていた。

最初にこの本を知ったきっかけは何だっけ?

絵本が気になっているんだな、私。

私がつくるとしたら、おとな向けの本だ。

おはなしの案も、具体的なイメージもない。

けど、気になっているんだな。

レッスン229をいま改めて読んだら、「私を創造した愛が、私の本性である。」とある。

愛が私の本性…?

何日間かそのワークをしていたはずなのに、なんか新鮮に感じた。

愛が私の本性…

今年の漢字、もとい「感」

2018-12-18

張本選手の今年の漢字「感」…私も!

今朝お風呂で(昨夜入ったのだけど、髪が大爆発してて収拾がつかず)、卓球の張本智和選手が記者に「今年の漢字は?」と聞かれて「感」と答えたというニュースをふと思い出した。

「いろいろなことを感じた年だったし、支えてくれた両親に感謝をこめて」と言った意味合いだった。

おー、15歳なのになんてしっかりしているんだと思った。

それを思い出し、

あ゛~、感だ、感だ、私も「感」だ、と思った。

私、昨日ブログで自分の今年の一字を「迷」か「猶」か、と言ったけどまちがいだ。張本選手の真似しちゃうけど、私も感謝の「感」だ!

こうして、無事引っ越しできて穏やかに過ごせていること。

秋には母と京都に行けたこと。

身に余る一年だった。

引っ越しプロジェクトが着地できたことに思いを馳せる

思えば、去年の今頃、旧居のご近所さんから道端で「私たち、来年もたまさんに理事長やってもらおうと話してたのよ」というのを聞いたのが、引っ越しプロジェクトの始まりだった。

人間関係が複雑な古いマンションでの調整役は私には荷が重く、え゛ー、やぁっと任期が終わると思っていたのに(>_<)、とパニくったのだった。

今から思えば、そういった“後押し”がなくては引っ越しできなかった。

後で聞くところによると、マンションは売りに出して2年位売れないこともあるらしい。

売ることと買うことのタイミングがうまく合ったことも、今思えばラッキーだった。

私は前より静かな解放感ある空間を得ることができた。オートロックになって安心感も増した。

これは、私がどうにかできることではない。

たまたま、運よくだった。

感謝しかない。

おまけに東京オリンピック前だからか地価が上がっていたため、購入時よりかなり高く買ってもらえ身の振り方に“猶予”ができたことも大きかった。

張本選手に便乗するけど、私も今年の漢字は「感」。

常に四の五の言ったりしているのは、私のエゴで私のクセでもある。

だけど、本来の私はとても自由で豊かだ。

それが前より感じられるようになった。

来年の漢字は…とイメージが膨らんで「飛」かな?と思ったけど、これは欲張りすぎか。(まぁ、「飛」にもいろんな意味があるけど)

ACIMレッスン228-神は私を咎めなかった。もはや私も咎めない。

2018-12-17

かぜひいた

かぜひいた。

先週土曜パソコン講習日。午後3時までは何ともなかったたが、3時過ぎから喉が痛くなり始め、講習が終わった5時にはしっかり風邪引きになっていた。

電車でもらったかな。空気乾燥しているし。

免疫力少しついたかと思っていたけど、そうでもなかったか。

昨日は一日中だるく、なんでか眠くて仕方がなかった。早めに寝た。

これ以上悪化させないようにしよう。

ACIMワーク228-神は私を咎めなかった。もはや私も咎めない。

『奇跡講座』は病気(と病人)には厳しい。

レッスンL136では「病気は真理に対抗する防衛である。」という主題概念を掲げ、「病気は偶発的なものではない。すべての防衛と同じように、病気も自己欺瞞のための狂気の仕組みである。」(L136-2-1,2)と説明している。

レッスンL140では、「罪悪感がないところで病気が生じることはありえない。病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。」(L140-4-3)と言っている。

また「病人を癒すことは治癒ではないので、贖罪は病人を癒さない。病気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。そしてそれがまさしく治癒である。」(L140-4-4,5,6)とも。

単なる風邪でも、「寒かったから」とか「空気が乾燥していたから」が原因ではなくて、私に罪悪感があるからなのかな。

罪悪感なら、、、やっぱりある、と思う。

昔から引きずっているものもあれば、現在進行形のものもある。他の人はみな頑張って働いているけど私は…、と思う気持ちだ。自分を咎めたくなる。

だけど、罪悪感をこじらせて(新たな)病気を作りたくはない。

自分を咎めるのは止めよう。

この世の価値観と『奇跡講座』の価値観の中で揺れている。開き直っていると思う。けど、やはり揺れている。

2018年の世相を表す漢字に「災」が選ばれた。私の場合は引っ越しの「転」かなと思っていたけど、迷走の「迷」かもしれない、と思う。

あるいは猶予の「猶」かな。

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