奇跡講座ダイアリー

ACIMレッスン242-今日一日は神のものである。私はこの日を神への贈り物とする。

2019-02-14

バレンタインデー

バレンタインデー…愛する男性へチョコをというのは残念ながらできないけど、ちょうど母の誕生日。

で、毎年母にチョコレートを送っている。

一緒に洋服を送ったりしていたが、色やデザインが好みに合わないことが続き、2年前ついに「今後一切断じて服送るべらかず」というお達しが出た。

正座するのがきついと言い出したので正座用椅子を送ったら、「余計なことを」とひどく叱られたこともある。

母は正直だから、要らないものは要らないと言う。他の方への贈り物でも「合う」ことは少なくて、きっと私は「余計なもの」を贈っているんだろうなぁ。

今回はまだ北陸は寒さが続くだろうから、レッグウォーマーを添えた。これだったらミスマッチだとしてもダメージは少なそうだ。

ちゃんと届いたらしい。夕方母から、

「おいしいチョコレートありがとう。最近松山千春のCD(前に私が送った)をよく聞きます。今も聞いています。」とメールが来た。

「苦情」覚悟だったから、ほっとした。

ACIMワーク242‐今日一日は神のものである。私はこの日を神への贈り物とする。

私は世界を理解していないのだから、自分ひとりで生きようとすることは愚かである。

しかし、私にとって最善なることを知っている聖霊がある。

そして聖霊は、私のために喜んで、神へと導く選択だけをしてくれる。

私は帰還の時を遅らせたくないので、この日を聖霊に捧げる。

聖霊こそが神への道を知っているからである。」(L242-1-2,3,4,5)

そのとおり、と思う。

問題は、

(自分なりの方法で)ワークがちゃんとできているのか、

聖霊の声がちゃんとキャッチできているのか、

だけど、これも深追いして考えないことにした。

稼げてないことへの不安感、恐怖感、自己否定感がずっとあるけど、これも今しばし棚上げしようと思う。

気づけばすぐゲンジツに巻き込まれ、ザワザワしたりパニクったり、あるいは被害者になったりしているけれど、これも「作っているのは私だ」と思い出すことを心がけている。

日中はすっかり忘れているけれど、思い出した時に「そうだった」と思い返す。

なるたけ聖霊さんのしごとの邪魔にならないようにしたいけど、そういう舌の根も乾かないうちにまた邪魔してしまいそうだ。

私は恵まれている。感謝しよう。

ポジティブでいこう

2019-02-11

大雪注意?

関東には積雪注意報が出ている。

北海道や東北、北陸の雪が多いエリアから見たら「何を大げさな」という感覚だろう。

エアコンが苦手だから、この冬まだ一度もつけたことがないけど、さすがに寒い。

腰には腰巻きケットを巻きつけ、家の中だというのにユニクロのダウンコートを着てる。首には輪っかマフラー(スヌードというらしい)。足元は45㎝角のホットカーペット。これあったかい。

土曜日はWebデザイン講座の最終回。雪の予報にも関わらずみんな頑張って参加していた。

最終回はJavaScriptというプログラミング言語?によってサイト上にアニメーションもどきを創るというもの。

先生のテキストに従って、おまじないのような長いアルファベットと記号をパソコンに打ち込んでいくが、どこかで間違えてしまっているらしくうまく作動しない。

あ゛~間違ってるの、どこ?あ、これ?あ゛、待って。

その繰り返し。

もー、ほとんどお手上げ状態だった。

先生は丁寧なレジュメを下さっているから、自分でも復習できるんだろうけど、戦意喪失。

こういうもんはやっぱり若いもんのものかな、と思ったりする。

ネガティブの住人、やはりポジティブでいこう

ワークをしていて、というわけではないけど、最近ふと思ったこと。

私って、やっぱりネガティブだ。

この二元性の世界に、「Yes」の世界と「No」の世界があるとしたら、まちがいなく「Noの世界」に住んでいる。

「ある」の世界と「ない」の世界があるとしたら、「ない」の世界。

「ネガティブ」と「ポジティブ」だったら、やはり「ネガティブ」。

それは自分がどんな色眼鏡を通して世界を見るかと同じで、クセというか自分が落ち着くと感じるパターンみたいなものだ。けどそれはやはりよいクセではないな~と思う。

何も解決しないけれどグチを言って落ち着くみたいなものだ。

二元性ではなく一元性を目指している。「Yes」も「No」も、「ある」も「ない」も「ポジ」も「ネガ」も越えて「神だけがある」世界が真実だ。

だけど神なるものは豊かさであったり喜びであったり幸せだったりすると思うから、やっぱりこの世でネガかポジかで言えば、ポジのほうが神に近いように思う。

一時ネガを否認して何でもかんでもむやみに明るいのがいいみたいなポジが流行ったけどそれとは違う、静かなあり方として、

「Yes」「ある」「ポジティブ」の世界に住む。

「いえいえ、私なんか」「どうせ」「○○だから」「できない」はもう織り込み済み(そうでしょーよ)。それをわざわざ言わない。そう決めといたら、もっと制限が取れて自由になれるのかもしれない。

そうしたら、JavaScriptだってYesなのだからできちゃうかもしれないのだ。

こう書いてきて、ふっと思った。

私はもしかしたら、私というコンピュータに「私なんか」「どうせ」「○○だから」「できない」という言語をプログラミングしていたのか?

かなり基本的な部分にそれが書き込まれているんだろうか。

それを削除して、

「もしかしたら」「意外と」「○○でも」「できちゃうかも?」みたいなことを上書きできたら、ACIMの赦しの過程をすべて終えるのを待たずとも、見ている世界は変わるかも。たぶん。より自由で楽しいほうに。

年を重ねて新しいことをやるときの心得

2019-02-08

なかなか身に付かないWebサイトづくりのスキル

懲りもせず週末東京都主催のキャリアアップ講習「Webサイトデザイン」に通っている。

三日間午前9時~午後4時半まで、実際にパソコンを操作する実践講習だ。

明日が最終日。あ゛~、今回も操作についていくのにいっぱいいっぱいだったなぁ。

HTML、CSS、ドリームウィーバーなどこの手の講座を何年も前から受講している。だけど、受講したまんまで実際操しないからか身に付かずそのうち忘れてしまう。

また次に受講したときに、そういえば何かあったな、と思い出す。その繰り返し。

Webサイトづくりから言ったら、初歩の初歩のことをやっているんだけど。。ずっと初心者のまんまで足踏みしている。

私はよっぽどこういうことが苦手なのかな?

ばかなんだ。新しいことが覚えられない(*_*) 何年も同じ講座を受講して何やってるんだと我ながら呆れ気味だ。

だけど、去年、ある本のなかの言葉が気に入ってノートの表紙の裏に貼っていたことを思い出した。

確かめてみる。

あった…

歳を取って新しいことをやる時、心得ておくとよい4つのこと

若い時と違う点がいくつかあるけど、その点さえ押さえておけば「年配者でも『やれば新しいこともこなせる』というもの。

このマイナス面を認識した上で取り組めば、できないことはないと。

  1. 覚えるの時間がかかる
  2. 反復練習が必要である
  3. ときには年配者としてのプライドが邪魔をする
  4. 同時進行でいろいろなことができない。

この4つを心得えつつ「歳だから無理」という思い込みは捨て、ゆっくり時間をかけて覚えていけばいいとある。

そう考えたら、私は今、「反復練習」をしているところなのだ、と大いに励まされた。

私はまだそこまでの歳だとは思ってはおらず「年配者でも…」のフレーズが気にならなくもないが。

でも「症状」というか「現象」は同じだ。

残念なのは、感じ入ってコピーしてノートに貼ったのはいいんだけど、誰のどんな本かがまったく思い出せないこと。勝手に流用してすみません。

たしか図書館で借りた本だと思うのだけど。。。

よいことたくさん言っておられたから、同じ著者の他の本も読んでみたい気がするけれどもうわからない。(ネットでそれらしい言葉を入れて検索してみたけれど、さすがに無理だった)

今度貼り付けたいと思うようなことがあったら、出典もメモしておこう。

ACIMレッスン241-この聖なる瞬間に救済が訪れる。

2019-02-07

福袋買った

楽天市場内ショップのお知らせメールから、何気にサイトに飛んでいったら「福袋」が目についた。

レビュー☆4.75は高い。

たいがい福袋には「こんなのもらっても困るよね」っていうものが入っているのだと思っていたけど、「全部ちゃんと着られるものばかりです」「めちゃくちゃお得」等のレビューが気になってしまった。

ニットとカットソー5点でクーポン使って送料込み1839円。ポイントを消化するとすれば実際に払うのは900円。

買ってみる?

服が欲しいというより、福袋を覗いてみたいという衝動。何が来るかわからないのにワクワクして、ポチっとした。

そして来た。

地味だ。モノトーンに近い。

レビュアーさん方のおっしゃるとおり、全部使えそうなものばかり。

グレーのニット着てみたら着心地悪くない。福袋とは思えない実用性だ。

5枚のニット&カットソーにおまけの白いマフラー。これで1839円とは…安っ。

単品で売っていたら買うかどうかは別だけど、何が来るかな、どんなのかな、と思って待って開けてみる、その一連は思いのほか楽しかった。

薄手のものが多いから春先に着ようっと。

ACIMワーク241‐この聖なる瞬間に救済が訪れる。

第2部に入ってから、主題概念を第1部ほど重んじてはいない。

このレッスン241「この聖なる瞬間に救済が訪れる。」も、そっかぁという感じで読んでいた。

「聖なる瞬間」は私にはまだ遠そうだ。

「赦し」の宿題がたくさんあるから。

私はどうも自分がやりたいことや自分がそうでありたいと思うことの近くにコンプレックスがくっついているらしく、やりたいことや好きなことに向かいたいんだけど向かえない。

関心と羨望のそばには同時に強い抵抗感と恐怖もあるのだ。

これこそが私の赦しのお題なんだろう。

は~、今世200年くらい欲しいなぁ。

葛藤しているうちに終わっちゃうよー。

昔読んだ本のフレーズ「これがあなたの人生だ。リハーサルではない。」が頭に浮かんできた。

何だっけこの本、とAmazonにうろ覚えのフレーズを入れたら、タイトルが出てきた。

『誰でもできるけれど、ごくわずかな人しか実行していない成功の法則』

便利な世の中だ。

なつかしいなぁ。この本。

こういう自己啓発本の類は『奇跡講座』に出会ってからまったく読まなくなったけど、たまには背中を押してもらうのもいいかもしれない。

ひゃあ~、ずっとリハーサルというか「いつか」と思って生きてきたけど、今が本番だよ~気づいたらエンドロールなんてヤダ。

この人生は幻想だからまあいっか、とはならない。

自分の心の抵抗感や恐怖感からもっと自由に生きたい。

ACIMワークブック第Ⅱ部-3.世界とは何か

2019-02-06

内なる恐怖心の強さったら

おもてなし英語講座4回目。

二人組になって「一人でいる時最近何している」という会話をし、それをみんなの前で発表するというのをした。

私は去年の引っ越しを機にAmazonプライム会員になり、用意されているプログラムをテレビで見るという楽しみを覚えた。 (さらに…)

神はこの世を創らなかった-奇跡講座のおはなし①

2019-02-05

『奇跡講座』の話はこれを真実とぜず、単に「おはなし」として聞いてもとっても興味深いものだと思う。

だけど、原文は英語だし翻訳された内容もきわめて抽象的で難解だ。わざわざこれを読んで理解したいと思う人は限られる。

そこで、自分なりにそのエッセンスをまとめてみたいと思った。これもこのブログを作りたい目的だった。

しかし、平易なことばで書くためには私がしっかり理解していないと…、私の見方が正しいとは限らないし…、とまったく手がつけられないでいた。

そう言っていたら人生が終わってしまう。

私のフィルターを通したものでいいじゃないか、まちがっていても構わない(自分の頭の整理のために)ということで、少しずつ『奇跡講座』のおはなしを書いてみたいと思う。

  *   *   *   *   *   *   *   *   *    *   * 

そこでまず、「神はこの世を創らなかった」。

この世には不幸なできごとや理不尽なできごとが溢れている。

私たちはそんなできごとに巻き込まれたり見たりした時、心のどこかで「この世には神も仏もない」「神さまはひどいことをされる」と思っている。

私たちはたしかにここにいる。お父さんもお母さんも、子どもも、隣のおばさんも総理大臣もいる。外国にもたくさんの人がいる。

人間だけじゃない。ペットの猫もいれば、動物園のゾウもいる。みんな地球という星で空気を吸って水を飲んで生きている。

水中にもたくさんの生き物がいる。動物だけじゃない、木や花もたくさん生えている。みんな生きて子孫に命をつないぐ営みをしている。

昼は太陽が暑く明るく光り、夜は暗闇の中で月と星が輝いて見える。

私たちが住む地球や宇宙は、だれが創ったのだろう。

私たちは自分の意志で生まれてきたわけではない。どうしてここに放り出されているのだろう。

わからないけれどこれらすべてには何らかの崇高な意志がはたらいているにちがいない。

この世を創った崇高な意志。言葉にするなら、それは神さまだと思っている。だから何かが起こった時「助けて神さま」と思う。

だけど、ほんとうは神さまはこの世を創っていない。

これが平たく言った『奇跡講座』の根幹ではないだろうか。

だから、この世でひどいことが起きたとしても、逆に素敵なことが起こったとしても、それは神さまの采配ではない。

神さまはこの世で私たちに起こったことに関知はしていない。

神がいないのではない。

神はある。

だけど神はこの世を創らなかった。

神は空も土も水も地球の一切、宇宙の一切を創っていない。

このおはなしはそこからだ。

(奇跡講座のおはなし②-この宇宙はバーチャルリアリティへつづく)

過去ノートからのヒント

2019-02-01

私はいろんなことを1冊のノートにメモしている。その日やるべきことややったこと、食べたものやワークをして感じたこともこれに書いている。

管理が下手で忘れっぽいので、なんでもかんでもこれに書いておけば何とかなるといった発想だ。食べたものまで書く必要もないのだけど習慣になってしまっている。

過去ノートを見る機会があって、ワークをしていた際の感想を目にした。

2015年5月。レッスン265をやった際の感想。ACIMダイアリーブログを始めたいと思いつくが、どうも行動に移せなかった頃のものだ。

「ACIMブログは聖霊に任せておけばよい。(「承知した」的な応えを感じた)

私は…

  • 目の前に現れることをロールプレイゲームのようにやっていく。
  • 誰がが来たら、愛をもって応じる。
  • 不安はもたないように。
  • 怒りや罪悪感は赦す。

実にシンプルだ。

  • 「できない」と思っている自分も赦す。」

 

これを読んで、なるほどな~と思った。

箇条書きにしている部分は今の自分にとっても指針となりそうだ。

もしかして今の私より当時のほうが理解できてた?あるいは言うことは一丁前だったか。

わかったようなことを言っていても、言うは易し行うは難し。すぐ忘れちゃうんだよなぁ。

それでもこの後ACIMダイアリーブログを作ってACIMを日常的なものにできたことは、私にとってはよかった。

過去の自分にヒントをもらった感じ。

大事なことは標語みたいにどこかに書いて壁に貼り出しておこうか。。

ACIMレッスン240-恐れはいかなる形においても正当化されない。

2019-01-30

今さらながらの“怯えているエゴ解体講座”

おもてなし英語講座の第3回目。他の参加者の方とのレベル差を知った私は参加するのがイヤになっていた。

なによりコミュニケーション自体が怖かった。

そもそも申込時から想像できたこと。

まず自己紹介的なことがあるだろう。そこでは仕事や家族、趣味などについて質問し合ったりするだろう。その時にプレゼンできる触りのいいことが私には思い当たらない。。。

バツイチ独身家族なし、無職状態、若くない、内向き…

どんな音楽が好きかとか、あるいはどんなスポーツをやっているかとか…そういうのも答えようがなくて、さえないつまんない人だなと思われるのが怖かった。

でも、怯えているのはエゴで、これはそんなエゴを解体することこそ、この講座の目的なのだと気づいたら、見え方が違ってきた。

これは赦しのチャンスに他ならない。恐怖心や劣等感が浮かび上がったらその都度赦し手放せばいいのだ。

先週やった二人組になってみんなにパートナーさんを紹介する他者紹介、私とパートナーさんはまだだった。続き、今週はもうやらないかなと思っていたら、やった。

先生が「Next」と言われるのに躊躇していたら、結局最後になってしまった。

取り繕ってもしゃべれば、英語スキルは丸見え。みんなの前で下手なりに他者紹介を済ませられたら、すっきりした。

来てよかった。

参加しなかったら、低くなっている社会的自己評価がますます低くなっただろう。

「説明できる自分がない問題」だって、エゴが問題だと思っているだけで私の内に恐怖心や罪悪感がなくなれば、見え方はずっと違ってくるのだろう。

ACIMワーク240‐恐れはいかなる形においても正当化されない。

レッスン240は、私にはとくに沁みる主題概念だ。

恐れは偽瞞である。それが証言していることは、あなたが、決してありえない姿の自分自身を見たということと、それにより、あなたがありえない世界を見ているということである。」(L240-1-1,2)

それは、自分自身についてあなたが抱いている幻想を証ししているにすぎない。」(L240-1-5)

私たち一人ひとりが愛そのものの一部なのだから、私たちの中に恐れはない。」(L240-1-8)

重要箇所に線を引いているうちに全部になってしまう。

自分ではACIMを継続して前より恐れを手放せているつもりだけど、私の対人(対世間)恐怖って強いんだな~と改めて思う。

これまではわりとペルソナ(仮面)をうまく使えてきたほうだから、生身の傷つきやすさに直接触れないで済んできたのだ。

でも仮面はいつまで経っても仮面だし、それでは生きたことにならない。

恐れはいかなる形においても正当化されない」は、「怒りは決して正当化されない」(T-30.VI.1)とともに、私にはとっても大事な概念。おまじないと言ってもいい。

よくよく覚えておこうと思う。

ACIMレッスン239-私の父の栄光は、私の栄光である。

2019-01-29

まんだらぬりえ

日曜日、月1の色彩ワークショップで、持ち回りでファシリテーター役をやっているが、今回は私の番。

それで「マンダラ塗り絵」をやった(「まんだらぬりえ」とひらがなで書くほうがしっくりくる)。

何のことはない。本からコピーしたマンダラ下絵の中から気に入ったものを選んで塗るだけ。

本は10年以上前に買っていたのだけど一度も使ったことはなかったのだ。

マンダラとはユング心理学でも出てくる概念。自己(自我ではなく本来の自己のようなもの)を投影したものとみる。これを塗って仕上げていく過程で満たされ癒されていくのだという。

ワークショップでは近況をおしゃべりしながら塗った。選ぶ図柄、選ぶ色が違うから、それぞれちがうマンダラに仕上がっておもしろかった。

これで勢いづいたのか、昨晩小さくプリントし直し塗り絵した。

何にも考えずただ塗るだけ。配色もテキトーだ。

意外と時間がかかる。40分位かかったかもしれない。もっと単純な図柄にすればよかった。

できた塗り絵をダイソーで買った100円額縁に入れてキャビネット棚の上に置いた。

少し遠目に見ると塗っていた時とはまた違う印象になる。

文字どおり「こころ模様」なのかな。ちがうパターンも塗ってみたくなった。

ACIMワーク239‐私の父の栄光は、私の栄光である。

神がご自身の栄光を分かち合う人々の中に、わずかでも罪や罪悪感を見ることなどできるだろうか。」(L239-1-3)

神が、わが子は創造されたときのままであると知っており、わが子をまったく変わりなく永久に愛しているのなら、私たちがそこに含まれないということがあるだろうか。」(L239-1-4)

この反語が力強い。

気づけば、自分はダメ人間だと罪悪感を感じてしまっている私は、それでもやはり罪悪感を背負いながらも慰められる。

私が罪悪感を感じているのは中途半端だからというのもある。

自分が思うことをそれが共感を得られるかどうかに関わらず、表すことができていないから。

yesであれnoであれ、尊敬されようが軽蔑されようが、正しいかどうかもさておき、怖れなく表明できたらもっと自信が持てるだろう。

そういう意味で過激なことを言ってもシレっとしているホリエモンとか密かに憧れる。

「この世は幻想」とするACIMについて話そうとすると、すべての人を敵に回すかのような底知れぬ恐怖感がある。

でも、私はほんとうはどうありたいか。

ほんとうは何をしたいのか。

そう考えたら、この体をもった今回の人生で、自分の思いに沿って矢面に立ちたいのだな~と思う。それがどういうかたちかはわからないけれど。

だとしたら…

自分のアンテナに従って、少しでも反応したことをやってみる。

また人に喜んでもらえそうなことも、やってみる。

…ということかなぁ。

ACIMレッスン238-救済のすべてが、私の決断にかかっている。

2019-01-24

あ゛~、みんなペラペラだよぅ

もてなし英語講座の2回目に出て、いきなりビビってしまった。

みんなものすごーくペラペラだ!!

あ゛~、私、場違いなこと来ちゃってるよぅ (;゜д゜)

だいたい私より上手だろうとは思っていたけど、こんなにみ~んながペラペラだとは!想定外だった。

現役の英語の先生や仕事で英語を使っている人などが参加されているらしい。こりゃ「中級」というより「上級」だな。

先生は第一言語ではないけれどもちろんペラペラで英語で自己紹介。その間もあるポイントでみんながどっと笑ったりしていたけど、私は9割方聞き取れず、

な、なんでみんな笑っているのー?(o’ω’o)?

あわあわっ、

見方を変えれば上達のチャンスでもあるのだけど、大いに怯えてしまった。

二人組になって自己紹介し合い、そのパートナーの紹介をみんなに発表している途中で時間になって、私とパートナーさんは次回にということになったけど、大丈夫かな?いやダメだ(>_<)

何を怯えているのか。

おそらく下手な自分をさらしてエゴが傷つくのが嫌なんだ。実力をそのまんま出すだけだから身構えることもないのにね。

もうひとつ。参加している方は、一様に外交的でコミュニケーションスキルが高く好奇心旺盛(に見える)。その場のテンションにもついていけてないんだ。

自分がネガティブ志向な内向型人間だと思い知らされる。

ありのまんまでぼーっとしていていいか。それとも頑張ってテンションあげるべきなのか。

そういうのが久しぶりで尻込みしたくなる。

あと6回ある。

旅の恥はかき捨てくらいの気持ちで挑めばいいんだろうな。

ひきこもりが社会に出るリハビリみたいなものか。

ACIMワーク238‐救済のすべてが、私の決断にかかっている。

私は物心ついた頃から、基本怯えているのかもしれない。

まず母に怯え、その先に現れた世の中に怯えた。

でも、ほどなく“人畜無害”だというペルソナ(仮面)を付けて出ていくことを憶え、それは学生時代も社会人になってからもうまく機能した。

私は見た目穏やかでそう自己主張しない(箸にも棒にもかからない)、しっかりはしていないけどまあまあまじめな人としてやれてきた(実際はどうであれ)。

仕事をしなくなり世の中に怯えていた自分の感じを思い出した。

これが私ですよとわかりやすく見せるべき自分を失った感じ。

そしてもともと自信があったわけではないが、社会的自己評価が下がった。

そうなのはどうでもいいと思っているけど、それは私が社会と接してないから意識しなくてよかっただけなんだ。

独身で子供もなく、そして仕事もなく…?

じゃああなたは何をしている人なの? 誰なの?

こういう怯えはすべてエゴの怯えだ。

それが浮かんできたときに、そんなものは幻想だと一つずつ手放していけばいいんだろう。

自分が自分をどう捉えるか。それは私自身の決断にかかっている。

私は大丈夫だ。

その根拠は何か。

だから今日も再び、私たちは動きを止めて、父がどれほど私たちを愛しているのかを考えてみよう。」(L238-2-1)

また、神の愛によって創造された神の子は、神にとってどれほど愛しい存在であり続けるかということや、神の愛は神の子の中で完全になるということについて、考えてみよう。」(L238-2-2)

ブログを始めて3年経った

2019-01-22

お~、丸3年

さっきふと思ってこのブログの最初の日を見てみたら、2016年1月20だった。

お~、丸3年経ってる!

そんなに頻繁に更新しているわけではないし、誰かに向けて有益な情報が届けられているわけでもない。

けどけど、私にとっては3年か~としみじみする。

ブログを作りたいとノートに呟いていたのは、たしか2015年の春ごろ。2015年中にはACIMワークが終わりそうだと思い、その後ACIMとつながり自己表現できるものが何か欲しいと思った。

ACIMについて感じたことを文章化していくことが次の学びのステップだと思ったのだ。

だけどそれから実際に始めるまでに1年近くかかった。

その年の6月父が亡くなり自分を取り巻く世界が大きく変わったし、その頃はまだ仕事もしていた。無料ブログサービスがいいのかWordpressがいいのか、どのテンプレートが自分の気分に合うかなどでもかなり足踏みしていた。

何より怖さで固まっていた。

これまでの人生で少数派意見を表明したことはない。自分でもよくわからないものをたとえ実名ではないにせよ、どう書いたらいいのか。まず、どんなスタンスで書くの?

誰かに見られたら?(ブログは見てもらうためのものだけど)

あるいは誰にも見られなかったら?

まだ“ちゃんと”理解できているわけではないし。。

頭おかしいやつと批判されたらどうしよう。。

などなど。

…自意識過剰って疲れる。

人生で「これだ」と思えるもの

実際書いてみると、パソコン画面の外に誰かがいるってことはほどなく意識されなくなり、書くことによって心と頭が整理されてよいことがわかった。

これがただノートにメモする方法だったら逆に続かないかもしれない。

ただブログを更新するということだけでも、私にとってはおおごとだし、私にとっては有益だった。

結局ACIMワークをもう一度やることになり、ただそれに付随して書いているだけで、本当はもっとACIMについていろいろ掘り下げたり感じたりしたかったけど、そういったそもそものことはできず。

でも、まあ、いいのだ。

昔、本多静六さんの本を読んで、「価値のある文書を毎日、原稿用紙1枚(14行32字詰め)以上書く」ということを25歳の時から習慣にしていると知り、すごいな~と思った。

本多静六博士はその結果生涯で376冊もの本を書いている。

「価値のある文書」というところが、私の場合はつらいところだけど、でもいい。

自分のA Couese in Miraclesのスタンプカード的に重なっていく感じがあって、気休めになるから。

何かこれだ、と思えるものが人生にほしいとずっと思っていて、それが得られてない感じがずっとあった。が、今は「ACIM」がそれだと思える。

そういうものに出会えたと思えていることが、幸せだ。

ACIMレッスン237-私は今、神が創造したままの私でありたい。

2019-01-20

日曜の昼に好物を食べてしあわせ

1月も半ばをすぎた日曜日。ようやく2019年に立てた気がしている。窓から入る日差しが眩しい。

お昼は好物のトムヤムクンヌードル。

本格的な酸っぱ辛さがやみつきなのだ。

食べ物をストックとしておけない質で、あればすぐ食べちゃう。あまり体に良さげとも思えないからたまにしか買わない。

日曜の昼のぼわんとした時間にこのちょっぴりジャンクなお気に入りを食べるのは、ささやかな至福だった。

スープまで全部飲み終えた後、栄養表示に目が行った。「塩分5.0g」とある。このカップヌードル1個で5gとは!おいしくてもスープは残しておくべきか。。

デザートは炊飯ジャーで作った蒸したてのさつまいも。

炊飯ジャーで簡単にできると知ってから、できたてのあつあつをふーふー言いながら食べるのが楽しみになっている。

ほくほくというよりねっとりだったが、甘くておいしかった。

残りは部屋の隅で干し芋に。水分が飛んで一段と甘くなる。

これも完成まで取っておけずつまみ食いしちゃう可能性大だけど。

ACIMワーク237‐私は今、神が創造したままの私でありたい。

結局のところ私はいつも同じようなことを訴えている。

ACIMを歩みたいが聖霊の導きとエゴの間で葛藤があること。

そもそも聖霊の声がちゃんとキャッチできているかわからないこと。

ACIMの理解の仕方も独りよがりで間違っているんじゃ…?と。

そんなことをずっと言いながらも、ACIMから離れずにワークブックをしていればいずれACIMの思考が浸透して自然に前進できているんじゃないかとも期待している。

実際はどうなっているんだろう。自分のことは客観視できない。

世間の目で見たら、成長どころか大いなる堕落だとはわかる。のだけど。

そんな私に、レッスン237の主題概念は素直に響いた。

私は今、神が創造したままの私でありたい。

そう、そうなんだ。

私はACIMの道のどこらへんにいるかな。

道しるべは聖霊さんの声なのだけど、それに従ったり耳栓をしていたりの私は迷子になったりしていないだろうか。

父なる神が私に語る救済の知らせを、世界に伝えよう。」(L237-1-3)

ここが今回このレッスンを読んでもっとも惹かれたところ。

私が自分の感じていることをもっと素直に語らなければ、私が見る世界も変わらない。

私のこれまでの人生では、“世間恐怖症”で素の自分を出すのをとても恐れてきた。

自分を出さないでいるのは楽どころか、逆にとてもエネルギーを要した。

もういい歳だし余計なエネルギーはない。

もっと素直に自分を表現したら?

それが「神が創造したままの私」だったら、とっても素敵なことなんじゃないか、と思う。

ACIMレッスン236-私は、自分だけが統治できる自分の心を統治する。

2019-01-18

『神の使者』をまた初めから

きのう掃除をし始めたら、気づいたら大掃除になっていた。

いつもわりとまめに掃除しているし引っ越してまだ7ヶ月、不要なものもないと思っていたけれど、知らないうちに未処理物、未分類物がここかしこに溜まっていて重たくなっていた。

物をこれ以上増やすまじと思うけど、気づくと増えてるんだよな~

ようやく世間の人の年末大掃除の頃にたどり着いたのかもしれない。

遅っ、

相変わらずだけど。

夜には『神の使者』を再読し始めた。この本は古いバージョンの本を3冊持っていてそのうちの1冊が日頃読む用(あとの2冊は予備)。

また、アーテンとパーサがゲイリーの前に現れたところから。

何かの変わり目にはつい読みたくなるのだ。『奇跡講座(ACIM)』を学ぶきっかけとなった本だから、その動機みたいなものを確認したくなるのかもしれない。

私の『神の使者』は付箋とマーカーだらけだ。

黙読しながらマーカーを引いた部分は音読するのが自分の中での流行りになっていて、そうやっているとこの分厚い本を読み終えるまでやたら時間がかかってしまう。そのうちに日常にまみれて中断してしまうこともままある。

ここは戻りたくなるところ。だからそれでいいのかもしれない。

私はACIMというより『神の使者』を信じている(というかすがっている)のかもしれないと思う。

ACIMワーク236‐私は、自分だけが統治できる自分の心を統治する。

L236で気になったところ。

今日、私は心の働きを聖霊に差し出し、聖霊がふさわしいと思うものに使ってもらう。」(L236-1-6)

そのようにして、自分の心を自由にし、神の意志を行えるようにする。」(L236-1-8)

私はやっぱり聖霊さんのメッセージが受け取れているかどうかわからない。

いや、受け取れているけれど聞きたくないものには耳をふさいでいるのかもしれない。だから、わからないと言っている気もする。

耳元で大声でくりかえし叫んでいるのに、私がただぼんやりしているのだとしたら、聖霊さんは呆れているのではないだろうか。

もう私をサポートするのに嫌気がさしたりしているのではないか。不安だ。

自分のエゴのものさしで確証が得られないことは受け取りがたい。

エゴのものさしと聖霊のものさしはまったく別だから、私は未だにその二つの間で揺れている。

少しずつでもこのコースの歩みを進めたい。

こう書いた時、「そのためには気づいたことをやる」というフレーズが頭に浮かんだ。

と同時に、怖っと感じた。

ACIMレッスン235-私が救われることが、慈悲深い神の意志である。

2019-01-17

『奇跡講座』に目標はいらない!?

土曜日のダイアリーに英会話教室で作った「今年の抱負(目標)」を書いたが、あとで「目標」という概念はやっぱり『奇跡講座(ACIM)』には重要ではないのかなと感じた。

「目標」とは欠けている状態から完璧へとめざす道すがらの指標で、やはりエゴからの発想だから。

たぶんすでに完璧であるということに気づくことが大事なんだろうな、聖霊さんの導きを得ながら。

だから、リラックスして恐怖感や罪悪感、攻撃や非難したい気持ちに気づいたらその幻想性を思い出して赦し手放し、思いつくことややりたいことがあったらその気持ちに従う、それでいいんじゃ…と。そう思った。

まぁ、それが難しいんだけど!

ついコントロールしたくなってコントロールはしきれないものの、何かせざるを得ない。それはエゴの性質だとは思うけど、体をもって生きている限りそこからまったくフリーになることは不可能なのかもしれない。

ACIMワーク235‐私が救われることが、慈悲深い神の意志である。

L235はとっても優しい。

私は過去に「自分は幸せになってはいけない」という自己暗示をかけたようで、無意識のうちに自分に似つかわしい不幸を求めていた。そして中年の転機といわれる40代半ばにそのことに気づいた。

気づいたらすぐその暗示が解けるというわけではないから、L235で、

私が為すべきことは、ただ、自分を傷つけるように思える物事を眺め、全き確信をもって、『私がこのことから救われることが、神の意志である』と言い、自分を安心させ、それらが消えてゆくのをじっと見ていることだけである。」(L235-1-1)

幸福だけが私に訪れているとわかるためには、私に対する父の意志は幸福だけだと憶えておくだけでよい。」(L235-1-2)

と言ってもらえると、そうなのだと心に沁みこませることができる。

富山ではなく私こそが家意識に執着していた

このワークをやっていたのは1/4~9だったが、そこで気づいたことがあった。

それは、故郷の富山は家意識が強くて苦手だと思っていたのだけど、実は家意識が強いのは私だということだ。

二人姉妹の長女で幼い頃から周りから「跡取り姉ちゃん」と呼ばれ家を継ぐことを期待されてきた。

婿を取るというかたちで結婚したが1年で離婚。「家」を維持できなかったことへの罪悪感とくやしさ?みたいな感情があるのだと気づいた。

「○○家」やその「○○代目」というのはエゴが神の替わりとして私たちに勧めている儀であり、いわば偽似神にすぎないと思う。

だけど私はそれに長らく執着してきたんだ。。

家意識が強い故郷が苦手なのではなく、そこでちゃんとできなかった自分を否が応でも意識させられる場所である故郷が、苦手なのだ。

前夜母が入院して帰京を延期したために、1月6日の晩、母といっしょにテレビで「ポツンと一軒家」という番組を見ていた。

その時に自分の中の「家」への執着に気づいた。どのシーンがきっかけかは忘れたけど。

もちろんこれは赦すべきことだ。

長く無意識化で醸造されてきたものでなかなか手放しがたいものだと思うけど。

エゴの家への執着を手放さなければ、本当の故郷である神の家に安住することはできないのだから。

おもてなし英語講座 初回

2019-01-16

おもてなし英語講座が始まった

帰省中に歯の詰め物が取れてしまっていたので、きのう直近でお世話になった旧居近く歯医者さんに行った。

15年住んだ街並みは懐かしかった。スーパーに寄ったら見慣れたお客さんの顔があって、ことスーパーに関してはまだ断然こっちのほうが落ち着くと思った。

よく使っていたけど今の住まいのスーパーでは見かけない、白だしを買ってショルダーバッグに放り込んで店を出た。

きのうは、区のおもてなし英語講座の初回でもあった。

初日はオリエンテーション。案内に「自己紹介のため30分の延長」とあった私は、てっきり英語で自己紹介するものと思い込み歯医者さんの後マクドナルドに寄って、英語での自己紹介文を四苦八苦して作ったが、日本語でだったので、ありゃ、と気が抜けた。

それでよかったんだけど。

第1回目は英会話にはまったく入らず、「外国人居住者が増加しているなか、いかに外国人コミュニティを盛り上げていけるか、多文化共生していけるか」というテーマの講義だった。

グループになって議論して、リーダー役になった人がグループの意見を発表した(初対面の方とこういうことするのがキンチョーする)。

私にとっては、ACIMの価値観を学びつつ自分がこの社会とどう折り合いをつけて生きていくか(ACIMの価値観というのも正しく学べているかわからないし)とのほうが大テーマで、正直そこまで気が回らないよーという気持ちだった。

でも、昨年末入管法の改正案が成立し今後5年間で最大34.5万人の外国人を受け入れることが見込まれているという。多文化共生というのは今度とっても大事なテーマになるだろう。

日本のこともっと知りたい

日本人同士で「あたりまえ」と思っていることは決してあたりまえではない。また日本人がなんとなく慣習的にやっていることで、理解できていないことも多い。

自己紹介のなかで「海外の方に神社とお寺のちがいを聞かれても説明できないから学びたい」と受講動機を語っておられた方がいたが、改めて問われると私も日本のこと文化にしても宗教にしても歴史にしても、よく知らないし説明もできない。

歳を重ねてきた今、そういうことも知っておきたいなと思った。

多層化する社会

世の中には、性別、年齢、職業、考え方、専門分野・関心、趣味、所得層、などなど、さまざまなレイヤー(層)があって、あるものに属したり属さなかったりしている。国籍はそのレイヤーの一つに過ぎないんじゃ?

そしてグローバル化が続くと、国というレイヤーより考え方や関心によって、人の近しい遠いが強くなっていくんじゃ…?

さらにそれによって世界のあり様もどんどん変化していくだろう。

でもやっぱり「国」が根底にあるのかな、

などととりとめもなく考えた。

← 戻る

←古い記事を見る 新しい記事を見る→