日々のこと・きもち

「きっかけは自分から」を思いだす

2018-04-06

2とおりのフリーランス

フリーランスには2とおりある。

市場に通用する価値をもってそれを売ることができる文字どおりの「フリーランス」と、そういったものをもたないで誰かのお手伝いをする「下請けフリーランス」だ。

私は後者だった。

改めてふりかえってみると、それでもよく生きてこれだ。周りの人たちとラッキーのおかげだな、とあたりまえのことに気づいた。

若いころ、ある経営の資格を取った。30代になって独立ブームに触れ、「資格で独立」みたいな雑誌を見たりして、その気になって具体的なスキルもないのに「独立」した。私は内気な一方で、無鉄砲なところもあるのだ。

もちろん名ばかり。名刺だけ作ったけど仕事なく、午前中スーパーでバイトをして通勤教材の添削講師をして…という始まりだった。

気づけば仕事のとっかかりは自分のアプローチだった

私がフリーランスとしてやっていたのは大まかにいうと、

①マーケティング調査

②ライター的な仕事

③講師

これに加え、スポット的に、占いや相談があった。

①の調査の仕事は、何ができるという具体的なものがなかったけど正社員として雇用されるのは苦手だったので、求人雑誌を見て小さなマーケティング会社に連絡して社長に会っていただき、できる仕事があれば社員というかたちではなく請負としてさせていただけないか、とお願いして手伝わせていただいていた。

ひとつ仕事をすることがまた別の会社の仕事につながったりした。当時、どんどん増えてきていたコンビニの出店調査やホテルの調査などもやった。

②のライター的な仕事は、これまた何もない状態で、大手出版社に電話して編集者に会っていただき、雑談だけして帰ってきた。半年後、再びお目にかかる機会があり、雑談で知り合いの女の社長さんの話をしたら、「おもしろいね、企画を作るから毎月書いて」と言われ、書いたものすら見せてなかったけれど、「ライター」になった。

③の講師業も、またある団体に電話をして会っていただき、1年後にセミナーの仕事をいただいた。後々、なんで仕事をくださったのか聞いてみたら「この1年で直接会ってくれと言って来たのが、たまさん(私、仮名)だけだったから」とのこと。

これをきっかけに何年間も毎年仕事をいただき、おかげで生活を支えることができた。

そう、気づいたのだけど、どの仕事もとっかかりの「きっかけは自分から」だった。もちろん、どんな仕事も、自分が見つけてアプローチして、から始まる。

何者かもわからずキャリアもない私に機会を与えてくださった方々がいて、何とかやってこれていたんだ。

考えようによっては、これって奇跡じゃない?私はいつも、どこかしらひねくれていてネガティブ志向だったけど、実は、めっちゃくちゃラッキーじゃない?

曲がりなりにも、自分から申し込んで、願った分野で仕事を作ってもらえてきたのだから。

「この世は幻想」…幻想の世の中で、私はいったい何をすれば…

ここ10年位は体力気力が落ちて、締切のある複数の仕事をこなしていく自信がなくなった。

それ以上に、これまではこの世で自己実現することに関心があったけど、いまや「この世は幻想」だ。この前提に立った時、何をとっかかりにしてこの世のことをしてよいか、わからなくなっている。

この世は自分の映し絵…「売上」はない、「コスト」もない。当然「利益」もなければ、地球温暖化も、地球も、私のからだもない!

でも、毎日のくらし、幻想とは思えないよね?

おカネは幻想だと思うけど、やっぱり節約しなくちゃね?

え、節約するってこと自体は、おカネをリアルにしてしまっている?

ぐるぐる…((+_+))

みんなが一生懸命に働いているとき、こんな問答だれにも相談できない(・・;) 四の五の言わず、働け!…ええ、おっしゃるとおりです。。。

おそらく、聖霊の声を聴いて、それに従って、やりたいことをやれば、いいんだろう。その聖霊さんの声がようわからん。聴けているのか、いないのか。

どっちにしても、恐怖心と罪悪感は赦して、インスピレーションを受けたと感じたことをやる、ってことだよね(おカネが尽きるまでは)。

それって、何かな?

私だって過去には初めての扉を叩くこともできた、それを開けてもらっていたんだ。その積極性は私のまだどこかにあるはず。

自分のやじるしをどっちに向けて、どのドアを叩いたらいいかな?

お家の売却が決まってからじっくり考えてもいいかな?これってまた先延ばしかな?

「自称・自営業」の心の内

2018-04-04

自称○○という怪しさ

4月に入って動きやすくなってきた。

正直言うと、私は恐怖に固まっている。今に始まったことではないけど。だんだん恐怖が強くなっている。

去年の夏?秋?から仕事らしい仕事をしていない。すでに自営業ではなく、「自称・自営業」になっている。

テレビのニュースなどで、犯人が「自称・○○」と言われているのを聞くと、ピリッとする。自称・エスティシャン、自称・経営コンサルタント、自称・整体師、自称・貿易業…。だれでも自称といえばまぁ自称のはずだけど、「自称」とつけただけで怪しくなる。

昔オセロの中島さんが“洗脳”されたとかなんとかいう騒動があった頃、洗脳したのは「自称・霊能者」の女性と言われていた。もう、これだけでヤバさが漂う。

決して、事件を起こすまい、巻き込まれまい。「自称・自営業」と紹介されたくない。

おカネを減らし続ける生活の「恐怖」

あ、話がずれたけれど、3、4年前からフリーランスの仕事が減り収入も減り、でもそれはちょうどせっせとACIMのワークをやっていた頃だから、時間に振りまわされるより、よしとした。ACIMの考えがなじむにつれ、経営支援の仕事はしにくくなった。大畑学さんの詳訳を見ながら原文を読むことに時間を費やし、元々内向的なのがさらに強まった。

気づけば、それが平生になってしまい、さらに諸々の状況が重なって、ありていに言えば、いま無職だ。

去年は過去にやった仕事の入金(印税等含む)、配当、株口座からの引き下ろし、預金口座からの引き下ろし等で、やりくりした。

おカネを減らし続ける生活は、やはり恐怖だ。

働かなくちゃ、と思うけれど、働くことに自信がない。体力面のことも(疲れやすく動きづらい)、精神面のことも。こんなことを言えているのは、まだ「余裕がある」のかもしれない。

働かなくちゃ、でもどういうキャラでいたらいいのかわからない

私はどうも、雇用され、時間を売るのが苦手だ。

おそらくどこか勤めても、その瞬間から辞めたくなるのではないか、と思う。フリーランスで働くのは不安定とは言え、拘束感が少なく楽しかった。

いやいや現実的にー

こんなわがままな私、

なんだったらできるのか。

昔、その昔には、私もいろいろバイトもした。飲食業、飛び込みの内装営業、家庭教師…

「若い女性」というペルソナがあったから、いろんなことにチャレンジしやすかった。

若い頃に遡らなくても、日本料理店のホール、夜間の派遣(通信教材の質問を受ける仕事)や契約占い師など、(多少ヘンテコな職種も)やったものだけどなぁ。

今は、どんな仕事も、私にはむずかしく思える。

あまりに、ひきこもりすぎて、社会が怖いのかもしれない。

私は誰として、社会に立てばいいのか。どういうキャラでふるまう?いやいや自意識過剰か。

主婦でも、母でもない。バツイチ独身のシニア女。元フリーランス。

自称・ACIM学習者。

ACIMを学習して、この世界の幻想性を身近に感じるようになった今は、逆に世間で気のきいた相づちを打つのもヘタになっている。

絵に描いた餅?、夢?

本当のところは、どこかに雇用されるより、何か小さくてもよいから、自分で収入を得られるしくみが作れないか、と願っている。これだけITも発達していることだし、交通・運輸も進化している。

がっちり儲けるのではなく、すれすれ生活が成り立つレベルでいいのだ。時間で働くのではなく、自分が稼げるしくみが作れないものか。そういうものが自分にあれば、故郷での生活や、あるいは東京との行き来も可能なのではないか。

それは、もう、ずっと何年も、何年も前から思っているけど、できていない。まず、そのための時間も十分にかけられていない。参考本を何冊か読むだけで、行動が伴わず。

ただ絵に描いた餅だ。

聖霊からのアドバイス

そんなこんなで、恐怖感が強くなっている、この春。

それに対する聖霊さんの声はー

ちゃんと聴きとれているのかどうか、わからない。

焦るな、落ち着け。

 姿勢を良くしろ。

 感謝しろ。

これが感じること。こんな命令形じゃないけど。そして、

その恐怖こそ、手放すべき幻想だ。

と。

私は、ACIMのコースからずれて迷路に入ってしまっているかな?

でも、もうちょっと様子見しようと思う。

 

ローン審査全滅と…私の罪悪感が足ひっぱってるかな?

2018-03-31

ローン×で、売却ふりだしへ

きのうの夕方、不動産屋さんから電話があった。マンションの買主さん、信用金庫も審査通らなかった、と。

先週都市銀行がだめだったということで、その後に信用金庫3行に申し込んでいたのだ。勤続年数の短さと副収入の多さ(自営と見なされてしまう)がネックになったとか。

ざんねん。やっぱりだめか~

マンションを売る際は、買主さんに、

まずネット情報などで関心をもってもらい→

内覧してもらい→

気に入ってもらい→

購入申込みをいただき→

ローン審査を受け→

ローンが通って→

契約

というのが一般的な流れになるが、内覧して気に入ってもらうまで行くのもなかなか。

それが、前回はローンはなんとか通ったものの契約前々日にドタキャン、今回はローン通らず、となんだか、こじらせてしまっている。

不動産を売る経験が少ないからよくわからないけど、こんなにとん挫するものなのかな、申込みもらったけどだめになるというのが、もう一回続いたら、不動産屋さんのやる気も萎えそうでこわい。

あ~あ、またふりだしかぁ。

気を取り直して、再スタートだ。

成約を止めているのは、私の罪悪感!?

…と朝、ワークをしていた時に、ふと思った。

この流れを止めているのは、私自身、私の罪悪感なんじゃないかと。

私は、この住まいが気に入っていた。だけど、築40年と古くなってしまった、そして世帯数が少なく高齢化も進んでいるから、数年のうちに万年役員にされてしまいそうだ。

それがいやで手放すことにした。4月に私の役員任期が終わる。そしたら、さっさと去ろう。

そのことについて、罪悪感を持っているのだ。今ここに住んでいる人たちと、新しく住民になる人へ。

とくに買主さんに「自分があまりよくない」と思っている物を押しつけていくような、そんな申し訳なさがある。

この世は自分の意識が投影されているのだから、マンション売却を阻んでいるのは、まさにこの私の罪悪感ではないかと思い当たった。

罪悪感が私をこのマンションに縛り付けている…。

しかしー、ACIMではこの罪悪感というものは、おしなべて実際には起っていない「神との分離」をこのゲンジツの世に映し出しているものだと学んだ。

だったら、気づいた時点で手放したらよいのではないかと思う。だけど、それがなかなか難しい。

なぜ?

この世は幻想だから…、という前提を突き詰めていくことへの恐れがある。また罪悪感から自分を責めることとそれに対する懲罰と償いのエネルギーが、この世で「人生」という営みそのものになっている気がした。

私にとって罪悪感はリアルだし、それを手放すのはいけないことのような気がしたのだ。

こう、ぐるぐる考えてしまっていること自体、かなりこじらせている。(エゴの大好物だ)

自意識をこじらせず、罪悪感を赦そう

ふと視点をずらせば、人の価値観はそれぞれ。

自分にとって、よくなくて手放したいと思っても、人にとっては「お買い得」かもしれない。

それに、これは、「私が売る」んじゃなくって、「お客さんが買う」かどうかだった。「売る」んじゃなくて、「売れる」。

あるいは、売れなければ→割安感が出るまで、価格を下げる。こう見れば、私の思いを絡め過ぎるのはどうよ、と思う。

もうしばらくしたら価格を下げ、なるたけ物件はきれいにして、情報を正確に出して、満足して買ってもらうこと。このシンプルさでいいはずだ。

そしてACIM学習者として行うべきは、やはり表面化している罪悪感を赦すこと。

赦すことがこのコースの根幹なのだから、四の五の言わず、「気づけば、赦すこと」だ。

この世の恐怖と罪悪感は、すべて実際には起きていない「神との分離」の現れ。

私は今も神さまとひとつだ。私が罪に感じる「原因」はない。

そして、ワークして感じたのは、「罪悪感の解毒剤は感謝」だと。これは聖霊さんのメッセージかな?

罪悪感を感じるひまがあったら、感謝しろ。

そう感じた。

あたらしいおうち決まった

2018-03-16

またダイアリーが空いてしまった。

花粉症で夜咳き込んで寝られないのかと思っていたら、熱が出て風邪だったと気づいた。なんのことはない、ストレス耐性が低いんだ、ちょっと負荷がかかると風邪をひいてしまう。

ワークのほうも一週間休んでしまった。

でも、そんなさなかでも、中古マンションサイトに気になる物件を見つけ、日曜日に内覧。そして、即決して購入申込書を書いてきた。

明日は早くも契約日だ。

一件目の内覧で決めてしまっていいのか、売却の目処が立ってから買う方を決めるべきでは…とも思ったけど、ここ1ヶ月サイトを見ていて、自分の希望が100%叶う物件は、相場感からして存在しない、8割方満たせば妥協ラインということがわかった。なので、決めた。

売主さんは6月末まで入居中で7月20日引き渡しとなった。その間に頑張ってここを売ろう。

面積は今の家の2/3、30㎡とかなり狭くなる。交通は都心からやや遠くなる。

一方築年数は今までより16年だけど若くなり、世帯数も少し多めに。日当たりがよい角部屋というのはこれまでと同じだ。

何より安かったのが魅力。東京オリンピック決定後からマンション価格が上がり続け高止まりで、来年あたりは下がると言われているけど、元が安いのだから下がるといってもただが知れている。

マンション管理組合仕事のプレッシャーが軽くなるのがうれしい。

よくよく考えれば、こんな大げさに売買までして引っ越すべきことかどうかわからないけど、なんかさっぱりした気分。

自分のなかにある単純な「リセット願望」なのかもしれない。

ふっと、ここではないどこかへ行きたくなる。エスケープ願望とも言えるか。

いざとなったら、賃貸に出せるような駅近物件を選んだ。

老母が気がかりだけど、すぐに一つ屋根に住む決意ができない私の、中継拠点なのかもしれない。

そういえば、売主さんは50代後半と思しき単身男性で、売却理由は、「母の介後のため田舎に戻るから」だった。

ある仲介業者さんが、「不思議なことに売り手さんと書い手さんには共通点があり、似てる」と言っていたのを思い出した。

このゲンジツの中では、何に導かれどこに行くのかわからないけど、心には細々とでもACIMを持ち続けたいと思う。

この一週間ちょっとワークを離れただけで、自分が怒りっぽくなっているのに気づいた。ACIMワークで少しは心が訓練されたつもりになっていたけど、全然ダメだ。不測の事態が起こり他の人から不意打ちで批判されると、いらだち、ACIMの考え方自体がわからなくなってしまう。

怒りはどんな理由があっても正当化されない。

昨日からワークを再開して、気を鎮めている。

転換点ーACIMを生きるのか、ACIMに逃げるのか

2018-03-07

転換点①-ACIMを生きるのか、ACIMに逃げるのか

先週、ワークブックのレッスン178をやっていた時、ふと感じた。

私は、ACIMを信じてはいない、と。

私は、自分が信じているゲンジツからACIMに逃げているだけだ。ACIMは私にとって、この世という強固なゲンジツからの幻のシェルターの役割を果たしているにすぎないと。

そして、今は別れ道であり、転換の時なのだと感じた。

―ACIMを生きるのか、ACIMに逃げるのか。

今はACIMに生きているのではなくACIMに逃げている、ということだろう。

転換せよ。

心してACIMに生きよ。

そして、ACIMを生きるためには、心して聖霊の声に耳を傾けること。

そう言われた気がした。

転換点②-隠れACIMでいるのか、分かちあうのか

それともう一つ転換のポイントがある、という(感じた)。

それは、本を相手にひとり学ぶ者から、分かちあう者への転換。それが求められていると感じた。

この世での他者は自分の鏡。兄弟姉妹がいてこそ、自分が見えるし、赦しの機会に恵まれもする。

ACIM人格と、この世人格をまったく切り離しては、それこそ、さらに分離の世界に入り込むだけで、万華鏡の模様が細かくなるだけなんだ。

今もACIMの勉強のおかげで、前より不安感が減り心が平和になったとは思っているけれど、隠れキリシタンのごとく、自分の信じるものをひた隠しにしているのでは、真に生きているとは言えない。

分かちあうのは昔から苦手。誰かといる時は、合わせた方が楽、と自己主張をしないから、真っ向から心を分かちあうということをしたことがない。

でも、今年は(来年も?)転換点なんだなぁ、と感じた。

①も②も見る角度がちがうだけで、同じことを求められているのかもしれない。

まいにち、すこしずつ、ACIM生きる度合いを強くして、人ともなるべく分かちあおう。

ゆるやかに、ゆるやかに。なるたけ、だけど。

本の処分に抵抗があるのは、過去への執着か

2018-03-06

いつの間にか増えた本が部屋を狭くしている

売りに出しているマンションの内覧に来られた方が「(図面より)部屋を狭く感じた」とおっしゃっていたと、不動産屋さんから教えてもらった。

内覧の時の基本は、なるたけ部屋を整理してすっきり見せること。

私は物はあまり持っていない方だと思っていたけど…。例外があった。

本だ。

ここに来た時は、本棚2本だったが、今は仕事部屋に5本。壁一面が本棚だ。仕事部屋に入りきらず、廊下にまで置いている。これが部屋を狭くごちゃごちゃした印象にしている大きな要因だと思い当たった。

本棚は弱点と恥部をさらす

内覧で何がいやだって、本棚を見られることが一番恥ずかしい(あ、それと未だに分厚いブラウン管テレビを使っているのを見られること)。

オードリーの若林が前に「アメトーーク」の「読書芸人」の回で、「バカだから本読んでいるのに、何のバカかがバレる、自分の弱点をさらしているようなもの。」と本棚を見せるのを恥ずかしがっていたけど、私も同じ気持ちだ。

本棚には、仕事に関する経営とか経営戦略、マーケティングの本、起業の本の他、株式投資、手相占い、ユング心理学、カウンセリング、カラーセラピー、いわゆる自己啓発やスピリチュアル系の本、HTMLとかCSSとかパソコンに関するもの、健康本、料理本…。

少なければ隠したいけれど、全部は隠しきれない。知らない人だし、面倒だし、といつものまんま。

『100万円を7年間で1億円にする株式投資』なんてタイトルも、恥ずかしい。『クビレがよみがえる「美腰(びこし)」エクササイズ』というのも、なんだかな。『元彼と復縁できる方法』なんてのも、かなりイタイ。『思いが100%かなう』系や『好きをしごとにする』系の本も、もろに弱点をさらしている気がする。

お客さんに天袋を開けられた時には、小倉優子の写真集が出てきて、赤面した(デビューしたての頃のゆうこりんがかわいくて好きだった)。お客様はどこでもかまわず開けるのである。

考えてみれば、これから経営の仕事をまた頑張ってやっていこうという意欲もないし、手相の本もいらない。輪廻やチャクラといったスピリチュアル系の本ももう一度読むとも思えない。ごくわずかな本を除いては、もう今の自分に要らないのかもしれない。

今の私が手元に置きたいのは、『奇跡講座』関連と『神の使者』『アナスタシア』のシリーズくらいかもしれない。

よし、本を処分し、部屋をすっきり見せよう。

本を処分するのって、パワーが要る

ともかく、廊下の本棚だけでも処分しようと、本の買取サービスに引き取り申込みした。

だが、さてどの本から処分しようか。いざ手に取ると、とたんに迷いが出てくる。

ああ、あの頃はこの著者が好きだった、と少し若い自分を思い出す。処分するはずが、ぱらぱらめくりだしたりする。

書類も同様で、前にやった仕事の資料なんてもういらないのに、「あのプロジェクト頑張ったな」などと、気づいたら当時を懐かしんだりしている。

過去や未来に思いをはせるのは、エゴの防衛策

ACIMは、過去にこだわることなく、また未来を心配することなく、今に生きることを重視している。

なぜなら、過去も未来も幻想であって、ここに見えている幻想をどうにかできるのは、今この一瞬しかないから。

過去や未来に思いをはせることは、今にフォーカスすることを避けるためエゴの防衛策のひとつだと言う。

そうなんだ。そうなんだ。

いつかこの世を去るときには、物はもちろん体も持っていけない。

それはわかっているつもり。

でも、もう読まないだろう本を処分するのにさえ、えらい抵抗がある。内向性が強い私は、おそらく本に自分を投影してきたんだろう(即物的な本が多いが)。

頭と心を占めていたこれらの“情報”を手放したら、新しいものが入るスペースができるかな。

荷物を軽くして、私はどこへ行こうとしているのかな。

これは道(course)に沿ったことなのかな。

センチメンタルな気分になるのは、3月だから?

手放すときには、ありがとうって言うと楽になるのかな。

思えば、本に導かれてここにいるんだな。ありがとう。ここにいてくれた本たち。

やっと。そう言えるようになったよ。

2月、3月が苦手なわけ

2018-03-02

2月、3月は月天中殺

一年でもっとも苦手な2月が終わった。ふぅ。でも、まだ3月が残っている。

しばらく占い会社の契約占い師(副業)をしていた。「手相」が主で時の運を見るのに「算命学」を用いていた。その時「(1年に2ヶ月ある)月天中殺の時期は運気が低いから気をつけて」とお客さまに言っていた。

それが繰り返されて、自己暗示のようにしみ込んでいる。

虎卯天中殺の私の月天中殺は、2月と3月(ことしは2月4日~ 4月4日まで)。

占いの仕事を辞めた翌年『神の使者』、ACIMと出会い、運気や運勢に対する関心は減っていったけれど、毎年、この季節はやっぱりどんよりしてしまう。

…寒いのもある。

そして、何より会社の確定申告の時期だから!

なさけなさに直面する季節

私はフリーランスの仕事を自分ひとりだけの会社組織にしていて、その確定申告書提出の締切日が2月末なのだ。

書類は自分で「税理士いらず」というソフトを使って作っている。自分で作った会社がいかになさけないことになっているのか、改めて認めざるをえない時期なのだ。

経営の仕事への関心が低くなってさらにジリ貧。赤字続きで儲かっていないのに、法人事業税の7万円を払うのもきつい。

いっそのことやめてしまえばいいと思うけど、そうしたら、この世での自分がだれなのかますますわからなくなりそうで、まだ決めかねている。これもエゴの執着だろうか。

2月末日なんとか申告を済ませ税金も払ってきた。

さてもう一つ、3月15日までに個人の確定申告がある。これを済ませたら、少しは春を迎える気分になるだろう。

オリンピックと奇跡講座と私

2018-02-26

平昌オリンピック閉幕、日本人選手頑張った

きのう平昌冬季オリンピックが終わった。

日本は金4、銀5、銅4、冬季最多の合計13個のメダルを獲得した。

私はすごく関心があったわけではなかったけど、やっぱり日本人選手の活躍をテレビで見ると、単純にうれしくなった。

ライブで羽生結弦選手や宇野昌磨選手のフリーの見事な演技を見てドキドキし、内気そうに見えた宮原知子選手がフリー演技後ガッツポーズした時にはパチパチと拍手した。

女子パシュートは日本人らしい集団の力を見せ、見事金メダル獲得。そのメンバーでもあった高木菜那さんは「高木美帆さんのお姉さん」と呼ばれ続け妹にコンプレックスを持っていたというが、新競技マススタートで優勝、初代女王となった。どんだけ努力してきたんだか。

女子カーリングチームも見事銅メダル。清楚な美人が多くて競技中の真剣な表情がひときわ美しく見えた。瞬間最高視聴率は42%だとか。

みんな、みんな、一言でいうと「すごーい!」だ。メダルに届いた人も届かなかった人も。

このオリンピックに照準を合わせるなら、4年に一度。3年と11ヶ月と何日かはこのために努力していたんだろうか。

私のほうは、寝っ転がってテレビを見て「感動」をもらえるから、気楽なものだだ。だが、選手はどれだけ他のことを捨ててこれだけに絞って懸けたのか。

すごい熱とパワーだ。想像ができない。とにかくすごい。

一方で冷めている自分もいる、歳のせいか

敬意を感じる一方で、冷めている自分もいる。

それは、一つには私がもう結構な年だからなのかもしれない。

ふりかえってみると、人生の前半というか40歳位までは、私も「世の中でどう自分の力をどう発揮するか」「この世界でどう自己実現するか」に関心があった。

それが40歳を超えた頃から価値観が変わった。どういったらいいだろう、人生の時間には限りがあると実感できるようになり、これまで魅力的に映っていたものがそうとは思えなくなった。

それがユングのいう「中年の危機」というものだと、カルチャー講座を受けて知った。

「世の中の自分」ではなく、もっと「本来の自分」を生きたくなったのだ。

人生の前半は、どんどんチャレンジしたらいいと思う。それが楽しいし、ワクワクするし、力もどんどん湧いてくるし、きれいだし。キラキラしているし。

ああ、私は遠いところに来ちゃってるんだな、とキラキラしたチャレンジ精神を客観的に眺めている自分に気づく。

『奇跡講座(ACIM)』と勝負の世界と私

私がどこか冷めているところがある、もう一つは、やはり『奇跡講座(ACIM)』の影響もあるかもしれない。

もしかしたら私の解釈自体まちがっているかもしれないけれど、ACIMは非二元論に基づいていると学んでから、「勝負」に感情をなるたけ近づけないようになった。

「勝負」は「勝」と「負」。二元論の代表的なものともいえる。近年ますます「強」と「弱」、「勝」と負」がはっきりしてきて、世の中で「強」と「勝」をGETするために幼少期から知らずのうちにレースに参加しているようにも見える。

「勝」を求めた瞬間、「負」も引き受けることになる。それはそれでエキサイティングでワクワクするゲームではあるけど、、、これからの私が求めるのとはちがうかな?

ACIMのなかで「すべてを含むものに対極はない」といっていたのは、どのページだっただろう。

ゲームは好きだし、勝つのも気持ちいい。過去には負けず嫌いな自分もいた。今も「うまくやりたい」自分がいる。

でも、落ち着いて穏やかでいるときの私が先を眺めた時、目指したいのは、「勝負」を超えた世界だ。

「勝」も「負」も手放して、あたりまえのように与えられ満たされている世界。頑張らなくても愛され癒され感謝される世界。恐怖と罪悪感を手放した世界。

常識的な方の私は、「ひとり身のおばさんが何言っている、その考えじゃ野垂れ死ぬよ」と言う。

たしかに。

でも、それを確かめてみるのもいいかな、とヤクザな方の本来の私。

問題は、ゲンジツで頑張らないとしても、心の姿勢をACIMの教えどおりに正し「赦すこと」を忘れてはならないことだ。

ついつい、それを忘れ、単なるぐーたらになってしまっているのが、気がかりではある。

琴音さんの歌を聴いて…、気づいたら正座してた

2018-02-14

琴音さん―「女神」の歌声

初めて琴音さんの歌を聴いたのは、2月4日(日)の夜。

たまたまつけたテレビで歌っていて、その歌声の美しさに驚いた。

ぐんぐん引き込まれ、気づくと正座して聴いていた。

何時からやってたんだろう、この番組。

「今夜、誕生!音楽チャンプ」…ふだん見たことがなかった。「次世代スターを夢見る挑戦者が歌ったりパフォーマンスをして、辛口審査員やロボット採点機がジャッジするという番組」らしい。

私が聴いたのは一曲。琴音さんは翌週は見事勝ち抜きチャンプとして挑戦者を迎えるということだったので、私は手帳の2月11日の欄に「TV 琴音さんの歌」と書きいれた。

そして日曜日の夜。午後内覧の方が来られた後、疲れが出てしまいつい忘れそうになったが、思い出して、聴いた

やっぱり素晴らしい…

声に魅力がある?

そう。

歌がうまい?

そう。

だけど、それだけじゃない。不思議な存在感がある。魂を鷲づかみにされて揺さぶられる感じ。

そう感じているのは私だけではないらしい。司会の黒木瞳さんも審査員の森久美子さんも、聴きながら涙を流している。ある審査員の方は「女神がおりてきた」と表現された。

女神がおりてきたー。

そう。本当にそんな感じを受けた。

もちろん万人ではないだろうけれど、多くの人を動かす何かがある。

私は彼女の歌に、絶望と希望の両方を感じた。絶望からの希望、といった方が近いかもしれない。

絶望の淵にあってやけっぱちになっている自分や、「生きることは妥協すること」と本当の自分を蔑ろにしている自分に対して、

「そうだよね、辛いよね、そうだよね、頑張ってきたんだよね」と寄り添い、

「でもね、でもね、見て、希望はたしかにある、いっしょに見て」と光の道筋を指し示してくれる。

そして、心の奥底の大事なところをやさしく開いて見せてくれる。そんな感じ。

開かれた人がカタルシスと喜びを感じ、涙するのではないかな。

「心眼」や「奇跡」ってこんな感じ?

琴音さんの歌う姿を見ていて、もしかしたら、「心眼ヴィジョン 」とか「奇跡」ってこの感じに近いのかな?とふと思った。

ACIMを学びながらも、私は心眼や奇跡が実感ではよくわからないでいる。

「奇跡とは真実の顕在化、現実化である。知覚が奇跡によって修正され見えてくる光景がヴィジョンである」(大畑学著、『A Course in Miracles Workbook精読』レッスン91より)。

最近の復習では、レッスン158に「その心眼は、あらゆる人々や状況や、すべての出来事や事件の中に、まったく陰ることのない光を見る。」(L158-7-5)、

レッスン159に「キリストの心眼は二つの世界の間の架け橋である。そしてあなたは、この世界から、赦しによって神性になった世界へと自分を運んでくれるものとして、安心してその力を頼みとすることができる。」(L159-5-1,2)とある。

よくわからないけれど、琴音さんは何かを発信していて、錆ついてはいるもののもそのレシーバーを持っている私たちにキャッチさせてくれる。そのレシーバーがあることを教えてくれる気がする。

そして私たちも同調して音色を勝手に奏でだすのだ。

「与えることは、自分がすでに受け取っていることを認識する方法である。それは、自分のもっているものが確かに自分のものだと示す証拠である。」(L159-1-7,8)とある。

16歳、新潟の女子高生だという琴音さん。

存在のちからに年齢は関係ない。それを才能というのかな?

受け取った私も、「受け取っていることを認識する」ために、何か発信できたらいいなと思う。

だれが演者なのか

2018-02-09

不動産屋はみんなウソつきの演者!?

マンション査定に来てくれた4件目の不動産屋さんから、「不動産屋はどんないい人に見えても、みんな基本ウソつきです、だまされちゃわないように」と聞いてから、これまで来てくれた方を「そうなのか」と観察するようになった。

え、あの最初に来てくれた、実直を絵に描いたようなベテラン営業マンも?

「ここ、昨年末中国人にHマンションを買い負けたお客さんにちょうどいいんじゃない?」って話し合っていた、男女ペア営業も?

とくに女性は色白ぽっちゃりのかわいい方で、澄んだ瞳で「うちにお任せください」って言ってくれてたよ。

独立して地域密着で頑張ってるって不動産屋さんは、声がソフトですごく話しやすかったし。

「業界人はみんなそう。いや、ウソつきって言ったら、語弊あるな。“演者”“役者”なんですよ。お客さんの前では別人。僕も入社したばかりの頃はびっくりしましたから」

「見込み客なんて…、いくらでも社員をサクラに仕込めます」

…業界ウラ話に、私は身構えた。

無知で弱者な私 vs 狡猾な不動産屋さん、の構図があったかに見えた。

しかしー

落ち着いてくると、違和感があった。

はたして、演者はだれなのかー

私があえて伝えない売却理由

私がここを売って引っ越したい、と思ったわけは複合的なものだ。

①故郷でひとり暮らしをする母の足腰が弱くなっており、いつでも母のところに行ける準備がしたい。

②ここは築年数が経っていて、今後工事計画など管理を必要とすることが増えるだろう。

③だけど、世帯数が少ないうえ高齢の方もいて、任期が来ても役を降りられない感じ。

④管理組合の活動すべてにヒステリックに反対する、モンスター住人がいる。

不動産屋さんには、①~③のことは伝えたけれど、④ついては触れていない。私の主観だし。「モンスターみたいな方いますか?」と直接聞かれたわけじゃないし、と。

だけど、これこそがここを去らねばならないと感じている最も大きな要因だった。私は、正直ババ抜きでババを持っているような気分なのだ。だれか、引いてくれ。

もちろん不動産屋さんは管理組合のヒアリングもするから、すでに知っているのだろう。

でも、私は、しれっとしている。

内覧の方がいらしても、にっこり笑って会釈するくらいだろう。

演者は、はたしてだれなのか。

もしかしたら、未来の私の住まいの売主さんも、私のような思いで買主となる私を待っているのだろうか。

仕事のためならウソをつくキャリア

思いを巡らしていったら、若かりし自分を思い出した。

当時もフリーランスで働いていた私は、時々「ミステリーショッパー(覆面調査)」という仕事を請け負っていた。

お客のふりをしてお店に行き、その店の見せ方や接客を調査してレポートにまとめるというものだ。対象となるのは高額商品を扱う店が多く、店内のヴィジュアル面での見せ方から、接客員の服装、言葉遣い、トイレの美しさまで、しっかと見てまとめる。

私の役は、商品知識に乏しい30代の独身女性。買わせようとプッシュする販売員と、買いたいそぶりを見せながら観察する私。

いずれが、きつねか、たぬきか。

ある調査後、夜自宅に戻った時には玄関ドアの前で販売員が「今日決めてもらおうと思って」と待っていた、その仕事熱心さにびっくりした。(見積もりまで取ってもらうこととの指令で、住所も氏名も書いてきていた)

その仕事で、私はクライアントからはそこそこの評価を得ていた。

そう、私は「仕事のためならウソも平気な演者」という意味では、キャリアが長かったのだ。

ACIMをやるずいぶん前から、そういう仕事は自然となくなっていったが。

はたして、今回だれが演者なのかー。

「自分の兄弟の中に見るものは自分自身にほかならない」

ACIM的に見たら、話はまったくちがってくる。

全部、全部がつくりもの。

私はエゴ・テーマパークの「マンション住み替え」アトラクションに興じるひとつの体にすぎない。キャストの不動産屋さんは、十分な訓練も受けていてまるで本物のお城を案内してくれているようだ。

私はすっかりアトラクションに魅了されており、家に帰ることを忘れている。

今朝は、レッスン174で、レッスン157、158の復習。本文には

「自分の兄弟の中に見るものは自分自身にほかならないということを覚えてさえいれば、このレッスンも習得するのは難しくない。」(L355-10-2)とある。

…、みんな私のひとり芝居なのか。

いったいだれが演者なのか。役からおりたら、だれになるのだろう。またちがう役を演じるのかな。貼りついた役はいくつあるだろう。

自分ははたしてだれなのか。

コメントもらう。すごくうれしかったけど、その前に固まった

2018-02-06

コメントもらった、固まった

この『奇跡講座ダイアリー』にコメントをもらった!

同じ『奇跡講座』の学習者だという、くさちゃんさん ♪

先月の18日のことだ。

すごくうれしかった!!

でも、その前にびっくりの方が大きくて固まってしまった。それで、「どうも。よろしく」みたいな返信しかできなかった。

私は数年前にACIMに出会って、心惹かれワークを始めて、それからひとりでワークをしていて、何かしら発信したりシェアしたいと思ってこのブログを作ったはずだった。

だけど、同時に「世間」が怖かった。

世の中から見るとACIMの考えは極端に見えるし(極端どころか、「世界はない」と言っている)、根幹の「赦し」という概念も、「じゃあ、悪い事や悪い人をそのまんまにしておけってこと?」「ただの現実から逃げているだけじゃないの?」などと言われそうで、そうした意見に対する答え方もよいかわからなかったから(自分自身の心の声だ)。

元々うまく自分の意見を言えない質なのだ。

つながっていない架空のブログ?

メジャーなブログの会社のブログは人目にさらされてしまうかな。WordPressならそんなに目立たないか。

見てもらいたいから、作るブログなのに、見られた反応が怖い…。でも、ここにもACIMの学習者がいると声をあげたい。そんな複雑な気持ちがあった。

だけど、私の心配をよそに、インターネットの大海原の中で『奇跡講座ダイアリー』の小船が発見されることはなく、何も変わらなかった。

ずっと前に英語のコメント、何かの宣伝なのかな?そういったのを30個くらいもらったけれど、意味が理解できず放置していて、その後コメントはなかった。

いつしか私は、パソコンの向こうの鍵付きダイアリーをこそっと開けて日記を書いている気分になっていた。以前お笑いタレントのフルーツポンチ村上さんがお笑い番組で、どこにもつながっていない「架空のブログを書いている」と話して、皆にきもがられていたが、私もそんな感覚に陥っていた。

でも!

私のブログはつながっていたんだ!

くさちゃんさんから、2度目にコメントをいただいた時、少し「びっくり」が治まって「喜び」のリアクションができた。

「鏡のむこうとこっち」から次のステージへ

私は、知らないうちにACIMの世界とこの世のゲンジツの間に鏡でも置いていて、その二つの世界を分けていたようだ。それこそが、ACIMのいう「分離」の世界観なんだろう。

観念の世界のACIM。心の中の聖域。

やっぱりACIMは私にとってゲンジツからのシェルターになっていたのか。

その鏡の向こうから、くさちゃんさんが「こんにちは!」と出てきた。

私の返信に対して、くさちゃんさんは、ACIMのワークをしていることをより具体的に書いてくれて、やっとゲンジツ感が湧いてきた。

ああ、つながっていた…

ACIMの教えどおり、このコースはひとりで歩む道ではない。わかちあってこそ習得できる道なのだ。

いつまでも、鏡のなかの個室にこもって拗ねて体育すわりをしていてはだめだ。

くさちゃんさんはブログも書いていることを発見。まだ心の筋肉はキンチョー気味だけど、そのうちに遊びに行けるかもしれない。単に本やワークブックを通しての学びじゃなくて、次のステージに行こう。

私は自分のきもちを表現するのが得意じゃないが、じつは感激しているんだ。

鏡の向こうからの「こんにちは」に!

マンション売却・住み替えプロジェクト進行中

2018-01-26

東京にも雪

気づけば、またブログから遠ざかっていた。ワークは1月9日から1月17日までレッスン170で足踏み(次の復習Ⅴの序文の原文解釈に時間がかかってしまった)。1月18日からはワークそのものから遠ざかっていた。

その間(1月22日)には東京に大雪が降って、一日で「ここ、東京?」と思うくらい雪が積もった。私は富山で買った、靴底のギザギザの彫が深いショートブーツで、がしがし歩いた。

「闘うか、逃げるか」で、逃げるをえらぶ

実は、昨年末から始まったらしい「マイプロジェクト」あって、そのゲンジツに翻弄されていた。

それは、「マンション売却・住み替えプロジェクト」だ。

それは去年末に、同じマンションに住む方との立ち話から始まった。

「私たち、たま(私)さんに、来年も理事やってもらおう、って話してたの」と、古くからいる上の階の女性。

えー、そんな!

来春2年の任期がようやく終わるというのに~。

役員は当番制だがなかなか理屈どおりには進まない。今回のお役も何人か飛び越して、いりなり総会の議案に名前が載せられて「聞いてないよ~」と思ったけれど、多数決で可決。私の番になった。

古いマンションだから、これから大型修繕工事が必要だしそのための多額の借入も必要、やるべきことはたくさんあるが、「問題児」住人もいて、そうは物事が簡単にいかないことは火を見るより明らか。

やっと解放されると思ったけど、何らかの「政治力」で埋められてしまいそうだ。

逃げるか、闘うか。

…、で「逃げる」を選んだ。

今年は、マンションのことにかかずらあうより、何かあったらすぐ母の元に迎える態勢を作りたいのだ。

「マンション一括査定」―どの不動産屋さんを選ぼう?

そう思ってから、しかしもう築年数が40年の古マンション、いったい売れるのか、売れたとして住み替えができる価格なのか、不動産売却・購入にかかる費用はどれくらいなのか、引っ越すとしてどこに?などなど、いろんなことが頭をぐるぐるしていた。

今は「マンション査定一括サイト」なる便利なものがある。自分の物件概要を入れて「ポチっと」押すと、不動産屋さんに一斉に情報が渡り数社が査定に名乗りをあげる。

私は、最初1社の査定を受けた後、1社だけではわからん、とポータルサイトをポチっと押し、結局先週5社の訪問査定を受けた。

査定金額はあくまでも査定で、その金額で売れるという保証ではない。しかし、その査定金額、1,000万円~2,500万円と上下1,500万円も幅があり、いったい査定金額ホントはいくらなんだかわからなくなってしまった。

売値によっては住み替え、できそう。買い替えのためには、できるだけタイミング良く高く売りたい。

「昨年このエリアで探していて、中国人の方に買い負けてしまった方がおられるんですよ」という話を聞いて、そこがいいと思ったが、次に査定に来た営業マンに漏らしたら、「その人は実在するんですか」と言われた。「この業界、平気で見込み客といってサクラぐらいも仕込みかすからね」

へ!? そーなの?

いったい誰のどんな情報を信じていいのか、頭がぐるぐるになってしまった。

どの不動産屋さんを選ぼう?仲介手数料は「価格の3%+6万円」、価格が2,000万円と仮定すると70万円以上も払うことに。売りも買いも同じところでやるとしたら、手数料だけでその倍…、150万円。

どの人、どの会社が売る力があって信頼できる??

営業マンからはプッシュの電話。どうしよう??

気づけばこの世のゲンジツにどっぷり浸かっていた。

これは私が脚本・監督のゲームのはず、ゲームから脱出せよ

すごい深刻な状況というわけではない。恵まれている中での小さな判断と言えなくもない。

そもそもACIM学習者の目で見れば、いずれも幻想。自分が入り込んでいる幻のゲームか映画。

映画の登場人物が、マンションをいくらで売ろうと関係ないはず。

大事なのは、自分がしている幻のゲームに気づいてそれを手放し、神と聖霊に心の焦点を合わせること、のはず。

だけど、今の私は、自分が演出したであろうゲームの主人公に成りきって、どの不動産屋さんがいいか、そのゲームの選択肢に迷っている。

少しは時間をかけて学習したつもりになっていたけど、まったく、、、だな~

目をさませ、ゲームから脱出せよ。聖霊さんの声に耳をすませ。

 

とりあえず今日から復習Ⅴへ。

2018年、新年のきもち

2018-01-09

東京と故郷・富山には時差がある!?

年末年始は母と二人濃い時間を過ごすことができた。

5日に東京に戻ってきた後、ぼーっとしてしまって東京の生活リズムを思い出すのに時間がかかった。

今朝、毎年もらっている銀行の一年カレンダーをしごと部屋に貼り付け、ようやく2018年に立った気がした。

故郷と東京を行き来した際はいつも“時差”があるかのように感じてしまう。私にとってあまりにも世界観がちがって、それに反応して自分の在り方も変わってしまうからだ。“時差”ならぬ“地差”とでもいうべきか…

実家では母の家で母からの刺激に対してリアクションしているだけ。何日かいっしょに過ごすと“自分”がわからなくなってしまうのだ。そもそもこだわらねばならない自分なんてないのかもしれないけど。

ACIMワークのほうもしばらく休んでいた。今朝しばらくぶりでワークをした。東京でACIMを学んでいた自分の感じも、少し思い出した。心が落ち着きすっきりした。

80代ひとり暮らしの母のことが気にかかりながらも、一つ屋根の下に暮らす決心は持てないままという現状は今年も続きそう。

80代の母、iPad miniの練習をしYou Tubeにハマる

よかったのは、年末年始いっしょに母の歩行練習をしたりストレッチをしたりして、室内や安全な場所ならば100~200mくらい歩くのは問題ないことがわかったこと。母も「歩けるようになったね」と顔が晴れやかになった。

冬は雪があるから買物に出るのは難しいけれど、新たに生協に加入し、生協にないものは私が買いに行った。元々備えあれば憂いなしタイプの母は生協の注文量が半端なく、ひとり暮らしなのに冷蔵庫3台を稼働させ、冷凍肉魚や缶詰など今や丸一ヶ月籠れそうなくらいたっぷり備蓄がある。

それでもひとりで時間を持てあますのでは?と、母に買ったiPad miniに新しく音楽をダウンロードしたり電子書籍を買ってみたり、インターネットで検索するのを練習したり、You Tubeをいっしょに見たりした。

好奇心旺盛で美術や建築が好きな母はYou Tube上の建築や庭の動画に食いつき何時間でも見たがった。インターネットの検索の方は高齢者だからか、ネットに溢れる情報から、どこを見るべきかがイマイチわからず、広告などへんなところに引っ張られてしまうきらいがあるけれど、前よりもできるようになった。

「Wikipediaっていうのは、インターネット上にある百科事典で、みんなで自由に書いたり編集したりするらしいよ」と私が言うと、「じゃあ、私も書きたい」と言い、私をびっくりさせた。おいおい、見る方じゃなくて書く方なの?

私はネットやiPadに詳しい方ではないのだけど、母の要請に従ってあれやこれややることで新たに知ることも多く、「(母のように)やりたいことや好きなことがはっきりしている人って、強いな」と思った。

母のiPad miniと私のiPhone間で、Face Timeの練習もした。私が電話をauからmineoに替えたので母との通話料が高くなってしまったから。Face Timeならただだ。家の端と端でFace Timeの画面を覗きながら「元気にしてる?」と昔の糸電話みたいに話をした。

こうしたiPad miniの刺激がいつまでもつか、また母一人になってひとりで使いこなせるものかどうかわからない。2018年も各々ひとり暮らししつつ昨年より帰省の回数を増やして様子見を継続することにした。

2018年、幸せな時を紡ぎたい

母はやはり一緒に暮らしたいようだった。ただそれは私が「娘役」に徹し母に合わせているからだと思う。私の方は「実家は母の世界、ここに自分の時間と空間はない」と感じてしまう。どこか近くに私だけの部屋が持てればもっと近くにいられるかも、と思ったりもしたが、その分追加コストが必要になる。母にその必要性の意味は理解できないだろうし。

そもそもそれ以前に、今や限りなく無職に近いフリーランスの私。貯金の切り崩しで生きるにも限度がある。私はこの先どう稼ぐのか。

その場にいて働かなくてもネット上のしくみを利用した収入源を探したい。時間がかかるかもしれないけれど、少しづつでもなんかできないかな、と思う。

東京に戻ってほどなく母からFace Timeがかかってきていた。気づかなかったらしく不在着信になってしまっており、今度は私からかけたが、今度は母が取らなかった。固定電話をかけてそれから、お互いFace Timeの操作をして話した。

今はちゃんと使いこなせれば便利が道具がいろいろある。一瞬、母がえらく使いこなして、しょっちゅうFace Timeがかかってきていたら怖いな、と思ったけれど、こうして母とやりとりできる今は、有り難く幸せだ。今年のお正月もすばらしく幸せだった。

2018年も、イレギュラーなかたちでいいから、自分なりのハッピーを紡いでいきたい。

実家は新たな赦しの機会の宝庫

2018-01-02

お正月行事でフレッシュスタートする

故郷で母と二人の元旦。子どもの頃から馴染んだ味のお雑煮を食べて、ああ、お正月だな、としみじみ感じた。わが家は浄土宗で、毎年正月二日には、お寺さんが家にお経をあげに来られる。今日は尼さんの力強い澄んだ声のお経を聴きながら、心の中ではACIMの復習をしていた。心が清められた気がした。

お正月行事などいらないし別に平生のまんまでいいと思っていたけれど、神棚を掃除して仏壇も掃除して、新年の掛け軸をかけて花を活けてと昔からの方法でお正月を迎え、年のくぎりを意識できた。気持ちも一新できた。母がいるからできていることだが…。

瞑想中、声をかけてきた母にいらだつ

元日の夜、母が寝室に入ってから、自分が寝床にしている居間でひとりくつろぎ、瞑想ワークをしていた。

そこに、突然母が「まだ寝んがけ?」と声をかけてきて、中断した。

安心していたひとり時間が破られ、また、いらっとしてしまった。

実家には自分だけで安心して過ごせる時間と空間がないことが致命的だ。

せっかくひとりになれたと思っていたのに、なんで侵入してくるかな。

私は、自分の内に踏み込まれるのが大の苦手で、いったん気持ちが乱れるとなかなか収まらない。いったん腹を立てると、腹だったことに執着したくなってしまう。

でも、ワークを再開したら、次第に落ち着いてきた。

本当は瞑想中に声をかけられたからと言って、猫が毛を逆立てるみたいに怯えたり怒ったりすることじゃないだろう。

母が来たから→心が乱れ、いらだった

と思ったけど、そうではなくて、私が私の人生映画を作っているんだ、

私の中に攻撃的な気持ちがあるから→引き金となるゲンジツを作って怒っているだけなのだ。

私のゲンジツを作っているのは私の思考

そして、私の思いの裏には、「私の外はすべて敵」という前提の思い込みがあるのかもしれない、と思い当たった。その大前提の思考をもとに自分がゲンジツを作っている。

保守的な土地柄の故郷では、子どももいないバツイチ単身者の中年娘は肩身が狭い。

私の従妹の息子さんが結婚が決まったとか、私の同級生に孫ができるなどという話を聴いて、「ほんとはそういう年なんやね」とつぶやく母にどこかしら罪悪感を感じ、同時に責められているような気持ちになってしまう私。

申し訳ない、居場所がない。

この思いが先、なんだ。

そして、これはエゴの正当化だし、幻想だし、まちがっている!

これこそが、私が赦すべきことなんだな~と思った。

実家は赦しの機会の宝庫⁉

怒りはどんなことがあっても正当化されない。

私の心の内側には手つかずの怒りと罪悪感がまだいっぱいある。

故郷では閉じていた心のフタが刺激を受けてぱかぱかする。

心乱されていることすべてが、「神との分離」という誤解の、私バージョンの投影なんだ。

これは、新たな赦しのチャンスを与えてくれていること。

そういう意味では、実家は赦しのチャンスの宝庫かもしれない。

先のことはわからないけれど、気づいたらひとつずつ赦していこう。

そして、なるたけ、ACIMの源から離れないでいたい。

母と過ごす大みそかと4日目のイライラ

2017-12-31

母へのイライラと、大人になれない中年子どもの私

2017年大みそかの夜、母と紅白歌合戦を見ながら過ごしている。大みそからしい、大みそかとも言える。

おとといは母と過ごせる年末を感謝していたはずなのに、帰省して4日目ともなるとありがたさもどこへやら、イライラが募っている。

家の中でのスリッパの履き分けや洗濯物の干し方といった細かい母ルールがあり、それを押し付けてくるたびにイラっとする。起きてから寝るまでずっと「〇〇って△△やったっけ~?」式に質問が続くことに辟易している。ネットで調べて答えるが、1つ疑問が解けるとまた新たに疑問が湧いてくるらしく次の質問へと続き、連想ゲームのように質問が拡散していくから終わりがない。年末の家事をしている時でも、時間を置かず大声で呼びかけられ、まったく思考がまとまらない。

私も元々ワガママな上に、ひとり暮らしが長く自分のパターンができているから、親とはいえ他人に合わせられる時間が限られているのだ。1日16時間ならば3日が限度だ。

イライラしては、いけない、と飲み込み、母に調子を合わせる。けれど、気づくとまたイライラしている。将来的にいっしょに暮らすことに、まったく自信が持てない。自分だけの空間と時間を確保しないと、同居はきびしいなと思う。ひとり寝床に入る時はへとへとだ。

ただ、今日母が寝ている部屋を大掃除した時、部屋の隅のほこりの多さと乱雑さにびっくりした。

几帳面できれい好きだったはずの母が、こんなほこりだらけの部屋で平気でいるとは…。上から目線と訳知り顔で世の中の改善点を指摘する母は年だけどしっかりしている人だと思っていたけれど、部屋は身の回りの手入れが自分でできないお年寄りのそれだった。

母は私が思っている以上に歳を取っていたんだと気づいた。当たり前と言えば当たり前だ。私のイライラの一因は母の質問があまりにも世間知らずだったり無知だったりすることにもあった。私は母の老いそのものにイラついていた。そして不甲斐ない自分自身にも同様にイラついていたのだ。

大人になり切れず甘えていたい私が気づきたくないだけで、母は年相応におばあちゃんになったたけだった。

母にやさしくしてやさしい時間を過ごすことこそが帰省の目的だったはずなのに、気づけばイライラの渦中にいて今にも攻撃せんばかりになっている私。

それは、昔の無力だった子どもの私が母に「はむかう」感じにも似ていた。結局、歳ばかり取って大人になれない中年の子ども。ただ母が老いただけなんだ。

「はむかう」という漢字を見たら、

「刃向かう」と「歯向かう」とがあって、どちらも攻撃性の強い言葉だった。

「愛は不満を抱かない」(ワークブックL68)とは対極にある私。

明日、元旦くらいは母にやさしく接したい。

小さなふりかえり

今年は中断していたワークを2月から再開、レッスン79からレッスン169まで90個のワークをした。

ゆるゆるのワークだったけれど、ACIMから何とか離れないで続けられてよかった。

今日の母への気持ちのとおり、私は表面的には穏やかにしているけれど、元々気が短い方で内に高い攻撃性を抱えている。その攻撃性を溶かす、赦すことが来年のテーマかなと思った。

また、親の老いと自分自身に迫ってくる老いに恐怖を感じている。その恐怖も赦していくことも。

そして、ささやかでもACIMについて学び続け、発信もできたらいいと思っている。

一年間どうもありがとうございました。

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