『奇跡講座』 ワークブック

レッスン55-レッスン21~25の復習

2016-08-29

8月最終週。けっこう涼しくなって暑さは一息。

台風10号がリターンして戻ってくるらしい。あさってあたり東北が大荒れだとか。農家の方は気が気ではないだろう。お天気、なんかやっぱり極端だ。私は、ぎっくり腰が長引いて思うように動けずイラつき気味だった。

レッスン55。下の5つの主題概念を復習。

21)私はぜひとも別な見方でものごとを見たい。

22)私が見ているのは復讐の一形態である。

23)攻撃的な考えを放棄することで、私は自分の見ている世界から脱出できる。

24)私は自分の最善の利益を知覚していない。

25)私は、何が何のためにあるかを知らない。

レッスン21~23

私たちが見ている世界は、「あらゆる者があらゆるものを攻撃する図を描いた映像」(l22)だ。そして「こうした映像を生じさせているのは、私自身の攻撃的な考えである」(l22)

したがって「攻撃的な考えを放棄することで、私は自分の見ている世界から脱出できる」(l23)

すなわち、攻撃的な考えがあるからこそ、それがゲンジツ世界に投影されているわけで、それがなければ、こうした世界が見えているはずはない。だからこそ、攻撃的な考えを手放すことによってのみ、私たちはリアルな愛の世界を見ることができる。

ここでいう攻撃的な考えは、人に対する攻撃や怒り、侮蔑といったものもそうだし、自分に向けられた過度の自責や自己嫌悪、さらに広くは過去への後悔の思いや未来への心配といったものも含まれるのだろう。

自分が攻撃的な考えを持っている時には、逆に周りに攻撃されている、と知覚してしまう。だから正当防衛せねば…とやっていると、それをどんどんゲンジツ化してしまって、ますます攻撃的な世界に住まうようになってしまう。

それが、今私たちが向かっている世の中なんだろうか。

先週はサマーランドで女性客9人が何者かに刃物でお尻を切りつけられる事件があったり、二世俳優の強姦致傷事件があったり…と、強い攻撃性が見ず知らずの女性に唐突に向かられたかのようなショッキングなニュースが続いた。

これも私の攻撃的な考えの投影なんだろうか。私が持っている攻撃性が、こうして世の中に投影されているんだろうか。

私がニュースをつい見てしまって反応しているということは、私ともちろん関係あるんだろう。

『神の使者』だったか、その次の本だったか、ゲイリー・R・レナードさんの著書で、アサンディッド・マスターのパーサが、

「これまでの前世で人を殺したことのない人なんていないのよ」と言っていたのを思い出した。

私たちは、加害者になったり被害者になったり、役どころを変えながら、いわゆるカルマをくりかえしていくという。そしてその二元性のダンスは永遠に形を変えながら続く。

もちろん、この世界でのルールに従って罪を償うことは必要だけど、この現実と呼ばれる世界が実は幻想だと認めて、それを赦すこと。それだけが、幻想に力を与えず、攻撃の世界から愛の世界へ移る道なんだ。

ただ、当事者にとって、それは計り知れないむずかしい道だろうとも思う。そして、何かしらの当事者でない人は、この世に生きていない。

レッスン24,25

私たちはいつも目標を立て頑張る。自分にとって「最善の利益」(l24)を求めて。それは仕事の成功だったりおカネだったり社会的名声だったり、受験や資格の合格だったり、恋愛だったり結婚だったり、子宝を授かることだったり…。

だけど、ACIMはそもそも「自分が誰であるかを知らないというのに、どうして自分の最善の利益が認識できるだろう」(l24)と言う。私たちが最善の利益だと思っていものは、私たちをこのゲンジツの世界につなぎとめるだけのものだと。

「私にとっては、あらゆるものの目的は、私が自分自身について抱いている幻想が実在のものだと証明することである」(l25)

つまり、私たちは、ただこの幻想のゲンジツの世を、お互いに支えあっているだけ、ということ?

「世界の真の目的」(l25)とは、この世のすべてを幻想だと認めて赦すこと、それによって実相世界へ戻るためのもの。そのための仕掛けだと認識して用いること。

それはエゴに支配され、幻想を現実と信じ込み、暗闇で手探りで歩いているかのような私たちにとっては非常にむずかしいことだ。自分だけじゃできないと認めて、「それを見つけられるよう神が私に与えてくれた導き手に喜んで」(l24)従うことが、今できる最善のことだと言う。

この「神が私に与えてくれた導き手」こそ、ホーリースピリットだ。勇気を出して、ホーリースピリットの内なる静かな声を聴き分け、それを生きること…なんだな。

気づくと、長々と解釈ともいえないワークブックの書き映しになってしまった。私には「復習」になっているけど、とてもダイアリーとは言えないなぁ。ACIMを学習していてわからない点を掘り下げたいとも思うけど、何がどうわからないのか文章化するところまでできていない。

ホーリースピリットは私に何を求めているのか。

私はちゃんと聴けているのか。

レッスン54-レッスン16~20の復習

2016-08-25

レッスン54をやりました。

主題概念は以下のとおり。

16)私に中庸な考えはない。

17)私は中庸なものを見ていない。

18)私の見方がもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

19)私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。

20)私はぜひとも真の見方で見たい。

私たちが考えることにはパワーがあり、それぞれの考えは偽りの世界を強めるか、真実=実相の世界を強めるか、そのどちらかで、中間はない。

そもそも、私たちは自分の考えを投影してこの世のゲンジツを見ているのだから、いわば色メガネを通して世界を見ているようなもので、見えているものはニュートラルではない。私たちがその色メガネを変えたならば、見えてくる世界も当然変化する。

そして、私たち神の子は神から分離した後、さらに個々の肉体に分裂しているけど、実際には、ひとつだ。だから、私の見方が変われば、それは伝播して他の人も変わるし、私の考えが変われば当然他の人も、周りも変わる。大きなひとつの世界だから、誰かだけが忘れられていたり、誰かが出しぬくなんてことはありえない世界なのだ。

そして、見方・考え方が変われば、当然見えてくる世界も変わる。それを体験すべく真の見方で、私は見たい。

上記5つの主題概念は、私が自分に対して平たく言うと、こんな感じか。

今は、ひとり暮らしのいわば“隠れ家”でワークをして学んでいる時は、「ACIMのごくごく基本的な考え方、見方は身についたかな~」と思っている。でも、ひとたび家族や友だちと話したり仕事関係の方とやりとりしたりするだけで、気づくと幻想世界ですったもんだしている。

これまで私がACIMについてやってきたことは、畳の上で水泳教本を片手に足をバタバタさせてみたり、顔をあげて息継ぎの練習をしてみたり…、といったことかもしれない。

そろそろ水着に着替えて、水に入らなきゃ(おそいけど)

もっと人と積極的に関わり、その中でACIM的に見る、話す、それが必要かなと思う。

レッスン53ーレッスン11~15の復習

2016-08-22

節目を越えた!?

日本には今3つの台風が来ているらしい。ここでも台風9号の影響で、外は猛烈な雨と風だ。土砂崩れや川の氾濫などの災害がないといいけど。

明日は処暑。暑かった夏も一区切り、秋に向けてまた一歩季節が進む。

天皇陛下の生前退位への「お気持ち」表明、SMAPの解散報道、オリンピックのメダルラッシュとそれぞれの感想ドラマ… 、暑くて濃かった。後々、こうしたことがごちゃまぜになって「2016年 夏」を思い出すのかな~。

何かしら大きなターニングポイントというか節目を迎えた、いや、超えたのだ…と感じるのは、私だけだろうか。

それは時代なのか、価値観なのか。これまでに潜在的に育っていたものがまだまだ表面に出てくるのだろう。新しいうねりに合わないものは存在しえないから、私たちを含めそれぞれが変化を余儀なくされるだろう。

今年55歳になる私のところには、区の「節目検診」なるものの案内が来た。通常の検診に加え、いくつが追加項目があるらしい。お盆前その中のまず骨密度測定に行ってみたら、5年前より骨密度が20%も減少していた!

骨粗鬆症なんて骨太の私には関係ないと思っていたけど、大事なのは太さではなく密度だった、このまま減り続けたらまずい。帰京後、ぎっくり腰になってしまった。これは骨密度と関係あるのか?

世の中だけでなく私もやはり節目…を越えたのだ。来月は誕生日月。55歳を車でいうところの「車検時期」と捉えて、メインテナンスや生活習慣の改善をしていこうと思うにいたった。やがて来たる高齢期に向けての準備でもある。

お盆帰省は、お墓参りの他、親戚と会ったり母と日帰り温泉に行ったり、金沢在住の友人と会ったり…と、私にしては賑やかな時間だった。母がいる故郷がある、ということがありがたい。文字どおり 有難いこと。

レッスン53-レッスン11~15の復習

さて、帰京してから、レッスン53をやった。

11)私の無意味な考えが、私に意味のない世界を見せている。

12)私が動揺しているのは、私が無意味な世界を見ているからである。

13)無意味な世界は恐れを生み出す。

14)神は無意味な世界を創造しなかった。

15)私の考えは、私が作り出した形象である。

これらの主題概念は、お盆で母と故郷での思い出にガタついた私の心に刺さるものがあった。

特にレッスン15の一人称で語られた説明文が、心の奥を揺さぶった。

「私に見えているものは何でも、私の考えを反映している。」

「苦しみや損失や死の世界が見えているという事実が、自分の狂った考えの表象だけを見ていて、私の真の想念が私の見ているものに優しい光を投げかけるのを、私自身が妨げていることを示している。」

そして、

「神の道は確かである。私が作り出した形象が神よりも優位に立つことはない。そうなることは私の意志ではないからである。私の意志は神の意志であり、私は神の前にほかの神々を置くつもりはない。」

ワーク瞑想をしていて感じたのは、

「実相からの光を、もしかしたら私は拒んでいるのではないか?」ということだった。

その光によって、人生が大きく変わってしまうのを恐れているのではないか…

ふとそう思った。

レッスン52-レッスン6~10の復習

2016-08-16

親離れできていない中高年シングル(バツあり)

まだ富山にいる。明日帰京する。

故郷や家族というのは不思議なものでわずか数日でも、独特のにおいや雰囲気に引き戻される。

早朝4時半、母の罵声で目が覚める。

「この子は本当に頭が悪い子だ。なんで下まで下げるのか」

何のこと?

私は隣の和室に敷いたふとんの中でまどろんだまま状況を推し量る。どうも昨夜居間のルーバー式電動シャッターを下まで下したのが、母の意にそぐわなかったらしい。「電気代はかかるは、風は通さないわ、いいことない」

後で確かめたところ1、2㎝開けておくのが好み(?)らしい。ゴミの捨て方、スリッパのはき方、換気扇を付けるタイミング、戸の開け閉め、実家には母が独自に決めた細かいルールがあり、私はそれがなかなか覚えられず、四六時中叱られるはめになる。

「何細かい事言って」とはいい返したりもするが、たいがいは口答えをすることもなく「はぁ」と気の抜けた返事をする。母は80歳、娘の私はすでに50半ばだというのに、その関係は私が故郷にいた高校生までの頃と大きくは変わらない。

私が自分の主張を表さず「感情のシャッター」を下すのは物心ついた頃からの性分だ。どちらかというと頑固な方で決して納得しているのではない。だが、生まれて初めて出会った人間である、若かりし母が私にとって絶大な力を持っていたから、戦うことなく自分の気持ちを内に秘めたまま黙りこくり自衛するくせがついた。

結婚して母となって母と真っ向からぶつかって覇権を勝ち取った妹とはちがって、中高年シングルの私は実家では子どものまま。下手なことをして叱られるよりは、母の判断を仰ぎその指示を実行しておく。

18歳で首都圏の短大入学のため実家を出て、24歳の時、ここ富山でお婿さんをとる形で結婚した。でもうまくいかず翌年離婚した。

保守的な土地柄、世間体を重んじる母にとって、私の離婚は忸怩たる思いだったと思う。

あれは今から覚えば、母への遅い反抗や仕返しの意味も含まれていたかもしれない。

今、実家に跡継ぎはおらず、私は孫の顔を見せることもできなかった。「あんたの子がいたら、さぞかしかわいかったろうに」と漏らす老いた母に、心のなかで「ごめん」と言う。

母と二人でお墓参りをする。このお盆の頃は私の心がもっともざわつく季節である。

でも、ふと我に返ると、ACIMに先祖や子孫という概念あったっけ?、いや先祖や子孫どころか過去や未来も実相にはなかった、と思い出す。

レッスン52-レッスン6~10の復習

13日、14日、レッスン52をやった。レッスン52はレッスン6~10の復習。

6)私が動揺しているのは、存在しない何かを見ているからである。

7)私は過去だけを見ている。

8)私の心は過去の考えにとらわれている。

9)私は何も今あるがままに見ていない。

10)私の考えには何の意味もない。

レッスン6~10がこのような主題概念だったことをすっかり忘れていた。

そして、以下のようなそれぞれのワークの説明がいちいち心に刺さった。

6)私が動揺しているとき、その理由は常に、私が自分で作り上げた幻想を代替としてしまったからである。

7)過去を理由にすべての人やものを責めて、彼らを私の敵としている。

8)私は自分の心の中に現在が姿を現すのを防ぐために過去を見ているということを、思い出せますように。自分が神に対抗して時間を使おうとしているということを理解できますように。

9)見ることができるものは、今あるものだけである。選択肢は過去を見るか、現在を見るかではなく、見るか見ないかだけである。

10)私には私的な考えというものはない。それなのに、私が自覚しているのは私的な考えだけである。(中略)それらは存在していないのだから、何も意味していない。

私は、自分ひとりのテリトリーである東京の家でワークをしている時は、「うまく」ワークできてたと思っていた。けど、ただ主題概念の表面をさらっていただけだな、と思う。それはそれで、ACIMの考え方を浸透させる上では意味があったと思うけど、私の心は過去という赦すべき幻想でいっぱいだ。

そして強大だった母が老いることに不安も感じていて、未来という幻想にも怯えている。

ACIMの世界と、このゲンジツの世界、二層を行ったり来たりしている感覚がある。

レッスン51ーレッスン1~5の復習

2016-08-14

お墓参り&浄土宗

昨日、朝早くと夜、母とお墓参りに行ってきました。

夕方には市内にある仏舎利塔にもお参りに行ってきました。

仏舎利塔がある丘から市内を見渡すと遠くに海が見えます。

日本海に沈んでいく夕日は、故郷の古い記憶を呼び起こします。

今日は門徒になっているお寺のお坊さんがお経をあげに来られました。

母は、亡父が好きだった栗きんとんを出しながら、友達の骨董屋さんに騙されては偽物ばかり買わされていたという父のことを「本当に見る目のないバカな人だった…」とグチを言います。

「お母さんは、そのお父さんのおおらかな審美眼で妻に選ばれたんだよ」と私。和尚さんはニコニコ笑っておられました。

和尚さんが帰られた後、京都在住で法事に来られなかったいとこ夫妻も、線香をあげにきてくれました。社交的な性格の母は久しぶりの来客に嬉しそうで、一人しゃべりまくっていました。

私はACIMの学習者であり、家は浄土宗。

仏壇が大きく金ぴかなことでも知られる富山。家意識と信仰心が強く先祖供養の慣習もいろいろあります。

私は東京で一人暮らしをしている時は、自分の嗜好を持ち自分で考えているかのように思っているけど、実家に戻ってくると、一気に実家の、というか母の空気に吞まれてしまい、自分が思っていたことのリアリティが薄くなってしまいます。一日中話している母の話を聴いて答えるのに精一杯で、「脳ジャック」されてしまっているのかもしれません。ダイアリーもいつもに増してまとまらない…。

レッスン51

富山に来る前日、レッスン51をしました。

レッスン51~60までは「復習Ⅰ」で、これまでの50のレッスンを、1レッスンに5つずつ復習していく。

レッスン51は以下の5つ。

1)私の見ているものには何の意味もない。

2)私に見えているあらゆるものに、私にとってそれがもつすべての意味を与えたのは私自身である。

3)私に見えているどんなものも、私は理解していない。

4)これらの考えには何の意味もない。

5)私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。

おもしろいなと思ったのは、復習Ⅰの序文に復習全体に対する留意点があり、

「できれば静かな場所でひとりになれるときに目を閉じて演習を行うようにする。今のあなたの学びの段階では、そうした状況下に練習することが重視される。」と書かれている一方で、

「すでに穏やかで静まったかに見える状況よりも、動揺させられるような状況の中でこそ、こうした学びが必要とされる。あなたの学びの目的は、あなたがいつも静けさを携えていられるようにすること、そして苦悩や混乱を癒すことができるようにすることにある。それらを避けて、自分ひとりになれる避難所を求めていたのでは、この目的は達成されない」(ワークブック編P113)とあったこと。

最後の一文に笑ってしまった。

私のフリーランスでの仕事&一人暮らしの家は、まさに「自分ひとりになれる避難所」であり、私がワークブックを一巡させた約2年半はほぼそういう環境下だった気がするから。

もしかしたら、2巡目は「避難所」を出てもっと「動揺させられるような状況」を求めた方がよいのかもしれない。

そういう意味では、この家族の距離感が近くて良くも悪くも一人になれない実家というのは、もうワークのビギナーではない私にふさわしい場なのかもしれない、と思った。

レッスン50-私は神の愛によって支えられている。

2016-08-12

お盆帰省

夕方、故郷の富山県に帰省した。昨年北陸新幹線ができて、またちょっぴり東京から近くなった。

地鉄に乗り換えて最寄り駅へ。いつの間にか無人駅になった駅には、セミの鳴き声だけが響いてた。

自販機でドリンクを買って、木のベンチに腰かけると、ふっと、昔に戻った。

毎日この駅を使っていたのは高校生の頃だから、もう35年も前か…。

今は昔、今は昔。

故郷は苦手だ。

いろんな感情が染みついているから。感情が動いてしまう。

中でも罪悪感が強い。親の期待を裏切ってばかりだった。申し訳ない。

これは、これまで勉強してきたことから「幻想」で「神との分離」を再演している「映画のシリーズ」なのだと思っている。その一方で、リアルで登場人物も濃いから気づくとすっかり入り込んで、悔んだり郷愁を感じたりしている。

「赦す」べきことは、まだまだたくさんある。

レッスン50-私は神の愛によって支えられている

おととい、レッスン50をやった。

「私は神の愛によって支えられている」という、ストレートな主題。

私もようやく素直にそう思えるようになった。

私にはまだ支えとするものが他にたくさんある、、ただただ神の愛を頼みにできたら、

それくらい強くなれたら、、、。

 

帰省の友にお気に入りの本『アナスタシア』を持ってきた。

アナスタシアの神への信頼、純粋さが好きだ。

久しぶりにこの夏、このシリーズを読んでみたいと思っている。

レッスン49-神の声は、一日中、私に語りかける。

2016-08-08

レッスン49―神の声は、一日中、私に語りかける。

私たちの心の奥底には、誰しも神とのつながりをもった聖なる部分があり、神とのチャネルになっている。そこに宿っているホーリースピリット(昨日読んだ本で『聖霊』というとキリスト教的な表現だから『ホーリースピリット』の方が適切…というような記述があったから、私も『ホーリースピリット』と書こう)は神の使者であり、自分が気づこうが気づくまいが、常に私たちに語りかけている。

その声に意識的に耳を傾けようというのが、レッスン49だ。ふだん、私たちはエゴの大きな声に遮られてちゃんとホーリースピリットの声がキャッチできているとは言いがたい。

「この新商品を買えば、より幸せになれますよ」「こんなスイーツが流行りだって」「やっぱりダイエットしなきゃ」「こうすればモテる」「この夏ぜったいこのスポットに行かなきゃ」…世間は刺激を与えて煽ろうとする情報に溢れている。

もういい歳になったから、こうしたものに振り回されることはなくなったけど、今度は「気をつけろ、これが重病のサインだ」「○○を食べてお肌の若返り」といった健康、アンチエイジング系の情報にくぎ付けになったりしている。

こうしたエゴの声を超えて、心の中の真理に耳を傾ける。

「あなたに愛を込めて呼びかける神の声を聞こうとしてみなさい。」「深い静寂の中で耳を傾けよう。じっと静まり、心を聞きなさい。」「耳障りな叫びや病んだ想像をすべて通り越して進みなさい。」

「あなたはこの世界に生きているのではない。私たちはあなたの真の故郷に戻ろうとしている。」

「感謝の表現が足りない」というメッセージを受け取る!?

こうした声を聞くワークでは、自分がちゃんと聞けているのかそうでないのか、よくわからない。未だによくわかっていない。声が聞けるといっても、耳元でささやきが聞こえるというわけではないだろうから。

ただ瞑想ワークをやった後に、ふと感じることや思うことがあって、それがメッセージなのかな、と思っている。

昨日このワークをやった際(初回)には、

「私には感謝の表現が足りないんだ」と感じた。

ホーリースピリットの視点で言えば「もっともっと感謝のきもちを表現しなさい」ということになるのだろうか。

神とは愛であり、その愛はこの世で使われる「愛」より「感謝」の感じに近いのでは、と思っている。日々感謝の気持ちで満たされていることは、ホーリースピリットの視点で見ることそのものと言ってもいいだろう。

感謝の気持ちが大事なのはわかっているつもりだったけど、「(あなたは)思い出した時にスポット的に感謝するだけ、しかもあまり表現していない。感謝の流れがない」と(伝えられているように)感じた。

「とかく不平不満や欠けていて不安な部分に意識が行きがちだけど、そうではなく、常に今あるもの、与えれているものに感謝し、それを表わす。それを表し続けること」と。

私はいろいろ不安に思っているけど、それは幻のゲンジツを判断することでそれをリアルにしてしまっているだけ。そうではなく神の世界に溢れるものに目を向けるべきなんだ。

2回目の瞑想ワークでは、

「何かに対して不安に思ったら(たいがい思っている)」、それを逆転して「今あるものに感謝して、やるべき行動を進めること」と感じた。さらに「指針はすでに与えられている」と。

そうなのかな…。そうかもしれない。

ふと思い出したが、お仕事をいただいている会社からの暑中見舞い、返事も出さないうちに立秋を過ぎた。感謝を表すどころか不義理をしているのが私なのだ。「残暑見舞い」を出そう、今から。

しかし、「暦の上では秋」なんて感じじゃない。温暖化?で、昔の暦と合わなくなってきているのかな?今週はとくに猛暑注意らしい。

できたら、短くてもいいから、毎日ダイアリーを更新したい。毎日は無理でも週4、5回は更新したい、と思う。

 

レッスン48-恐れるべきものは何もない。

2016-08-05

レッスン48-恐れるべきものは何もない(There is nothing to fear. )

レッスン48は、この「恐れるべきものは何もない。」という主題概念を一日の中でできる限りたびたび繰り返す。それだけ。

そして、特に重要なことは、「何かがあなたの心の平安を乱すならば、ただちにこの概念を使うということである。」とある。

「真理においては、恐れるべきものは何もない。」「しかし、幻想が真実であってほしいと思っている者にとっては、これを認識することは非常に難しい。」

確かに…。

私が一回めのワークで、このレッスン48をやったのはいつだったかな?とノートを見てみたら、2013年8月21日だった。3年前の夏だったんだ。

「恐れは幻想だ」と頭の中で知っていても恐れは小さくはならない。ワークブックを実践することで少しずつ訓練されていく。自分自身少しは変わっているのかな?と改めて思い返してみたら、心の中の「恐れ」は少しだけど小さくなっている気がした。

というのは、一昨年から歯医者に通い始めることができたから。そして今年の1月にようやく治療を終えることができたから。

怖~かった歯医者に行けた!

歯医者さんが好きという人はほとんどいないと思うけど、私は“前世”なのか幼い頃のトラウマなのか、歯医者さんがものすごく苦手で、とくに神経的なピッとした痛みが「今来るか、来るか…」と思う恐怖、そのことに精神的に耐えられなくなってしまう。ようするにパニックなのか…。

2003年、新橋の歯医者さんで何の説明もなくペンチみたいな道具で歯をもぎ取られ(女医さんだった、たぶん、もうだめな歯を抜糸の前に上部だけ取るつもりだったか)、そこから途中で逃げ出して(次の予約をすっぽかした)から、まともに歯医者さんにかかっていない。

10年間、毎年「新年の目標」に「歯を治す」と挙げつつも、どうにも予約ができなかったのだ。

それが、虫歯の痛みがでて、意を決して歯医者さんをネットで探して行ったのが、2014年の8月。長年の放置の上ようやく門を叩いた私に、院長先生は厳かな声で「(嫌だから怖いからと先延ばしにする)あなたの考え方では、何本歯があっても足りないよ。今日を境に考え方そのものを変えよう」と言われた。私は、そうしよう、と思った。

それから1年半、抜糸から始まり、昔の治療の詰め物をとって治療、新しい人工歯を作って詰め、助けることができなかった上の奥歯はインプラントの手術をして…という私にとっては長い道のりを終えることができた。

もちろん、とっても怖かった。耳元でキーンという歯科独特の金属音を聞いただけで心臓がバクバクしたが、「これは幻想だ、幻想だ、恐れるべきものは何もない、幻想だ」と言って耐えた…、が、この“呪文”に即効性はなく、やっぱり怖くて、「アーテン、助けて」(『神の使者』内のアサンディッドマスター(聖霊)のうち男性の方の名前)を唱えながら、こぶしをにぎって固まっていた。

恐れが小さくなるとゲンジツも変わる

現場の恐怖感は大きかったけど、その大元の恐れは少し小さくなっていたからこそ、最後まで通い切れたように思う。…というより、恐れが小さくなったからこそ、自分の幻想の中で「虫歯の痛み」というきっかけを作り、自分を歯科医に向かわせたような気がしている。

長かった一年半だけど、歯が治療され口の中が健康なことは、なんて気持ちがいいことなんだろう。それだけで自分に自信がついた(正確には、自信のなさが小さくなった)。

ACIMは、この世は現実ではない、幻影を映し出した「結果」の世界だというが、ACIMのワークをやることで「原因」の世界が変わる。その結果、この幻想の世(私はゲンジツと呼んでいる)も変わるのだ。少しずつ「生きやすく」なってきている気がする。

私は、人一倍恐れが強く、またエゴへの執着も強い。でも、これからも少しずつゆっくりやっていこうと、ふりかえって思う。

レッスン47-神は強さであり、その強さを私は信頼する。

2016-08-03

小池さんを見習おう

「小池新知事、都庁に初登庁」をやっていた。“戦闘服”だったグリーンではなく、白のパンツスーツにブルーのインナーという夏らしい服装だった。

私は小池さんのことは「うまい」を通り越してどこか「あざとい」感じを受けていて、どちかといえばクールに見ていた。しかし自ら狙い定めた都知事の座をつかみ、都知事の大きな黒い椅子に座って「感無量です」と答える小池さんを見ると「たいしたものだな~」と、改めて思った。

何にもっとも感心したかというと、そのタフさ。気力体力である。

第一線のビジネスウーマンとも言える小池さんと自分を比較すること自体おかしいのかもしれないけど、私はここ数年とみに体力気力が落ちていて、ちょっと遠出をしても翌日動けなくなるくらい。用事を一つこなしただけで疲れている。

それに比べると小池さんの選挙期間中の遊説先の多かったことといったら!八丈島への視察やら都内各地での街頭演説やらこの二週間ものすごい活動量だ。私は自分が昔のようには動けなくなったことを、「年のせいだ」と思っていたのだけど、小池さんは私より10こも年上だ。小池さんを見るかぎりこの認識は改めなくてなるまい。「年のせい」というより、やっぱり「個人のもんだい」なんだ。

今後、小池さんの姿を目にすることは当然多くなるだろうから、さっそうとしたファッションで頑張る小池さんを見習おうではないかと思った。私のように小池さんからパワーをもらった中高年女性は、実はたくさんいるのではないだろうか。

レッスン47-神は強さであり、その強さを私は信頼する

昨日はレッスン47をやった。

レッスン44~47までは連なるレッスンみたい。

44-神は光であり、その光の中で、私は見る(God is the light in which I see.

45-神は心であり、その心とともに私は思考する(God is the Mind with which I think.

46-神は愛であり、その愛の中で私は赦す(God is the Love in which I forgive.

47-神は強さであり、その強さを私は信頼する(God is the strength in which I trust.

このどれもが、私たちが心の内へ内へと沈みこみ、奥底にある神の質に到達しようとするものだ。

47ではとくに自分のうちにある神の力を頼みにするよう求められている。仏教で聞いたことがある「絶対他力」というような言葉、意味はよく知らないのだけど、漢字の字面はこのワークで言っていることを表しているかのような?

私たちが見ている恐れ、不安、憂鬱感、怒り、悲しみなどは、すべて神とともにいる世界では本来ないはずのものだ。でもそれがこの偽創造の世界で見えているのは私たちがエゴの見方をしているからである。そして、それを「結果」の世界であるこのゲンジツで、エゴで何とかしようとしても解決は一時のこと。

エゴの見方をしているかぎり、結果的に恐れと罪悪感は付きまとう。

レッスン47では「あなたは、自分を信頼することで自信を獲得するのではない。そうではなく、あなたの中にある神の強さが、すべてのものごとにおいて成功をおさめるのである」とある。

短い瞑想ワークが4回。うまくできているかどうかわからないけど、自分の恐れの感情をやり過ごし内に深く深く沈んでいくと、自分の中の神様とふっとつながれたような安心感を得られる感じがある。集中して雑念を払いのけることが必要だけど、それがうまくはできず、できたと思えるのは4回のうち2回くらい。なつかしいような、自信が得られるような、だいじょうぶだと思えるような、感覚がある。

ワークの締めには「神の強さを信頼しているのだから、平安は自分の当然の権利だ、ということを覚えておくようにする」とある。平安は自分の権利だ―とは、力強いことばだ。

私はしばしば仕事を初め、いろんな局面で「自信がない」と思う。でも、それは考えてみれば「不遜」なことなのだ。自分を信じた結果、ない自信なのだから。思えば、私の真の拠り所は神なのだ。

私の自信と平安の根拠が神なのだ。

その確信を深めるために、内なる神とのつながりを、もっともっと深めたいと思う。

実際には、神の声ともいえる「聖霊の声やサイン」を受け取る能力がいるかと思うけど、それはまだまだ途上…。

レッスン46-神は愛であり、その愛の中で私は赦す

2016-08-01

都知事選、小池さん圧勝

都知事選、ふたを開けてみたら、小池百合子さんが次点の増田寛也さんに100万票以上の差をつけて圧勝だった。増田さん、小池さん、鳥越さんの三氏が競っていると聞いていて、正直こんなに差がつくとは思わなかった(私は安倍内閣の“暴走”に反対する意味で「鳥越さん」に入れた)

選挙が戦いだとしたら、三氏とも「戦略」はたいしてなかったんだと思うけど、小池さんは細かい「戦術」が巧みだったと思う。精力的にきめ細かく演説をこなし「ゆりこグリーン」を「みなさま方お一人おひとりの力で広めて」…というメッセージでの魅せ方、人の巻き込み方が上手だなと感じた。

結果的には小池さんが「東京の新しい顔」になる。アイディアパーソンであり女性ならではの華やかさもあり、いいかもしれない。

レッスン46-ACIMの根幹「赦すこと」

土曜日レッスン46をやった。

このレッスンは、ACIMのワークブックの中でも最も根幹となるワークだと思う。私はACIMを主にゲイリー・R・レナードさんの著書『神の使者』『不死というあなたの現実』から学んでいるが、ACIMを実生活で実践するとはどういうことか、一言で表すとしたら、レッスン46の「赦すこと」に行きつくのではないかと思う。

「赦す」は私たちが日常的に用いる「許す」とはまったく異なる。

「許す」は、あなたがしたことは問題があるけど「ゆるしてあげるよ」という感じ。

一方ACIMでいう「赦す」は、この世は映し絵であり「そもそも起こっていない」ことを「ゆるす」。

ここでの「ゆるす」のニュアンスはむずかしいけど、それに囚われない、気持ちをゆるめる、幻想として受け入れ受け流す、というような感じではないかと思っている。

レッスン46には「赦しはこの世界が大いに必要としているものであるが、それはここが幻想の世界だからである」とある。そして「赦し」が必要になる前には「咎め」があったから…と言っている。

その咎めとはとりもなおさず、神の子たる私たちが神から離れたから。実際には今も神とともにいるのだけど、「自分から離れてしまった」と勘違いしているから。

私たちはそのことを大罪だと感じ、また神からの報復を恐れ、それがあまりに大きなものだから、そこから逃れるためにエゴに助けを求め「宇宙」を作った。一見逃げ切れたように思っているが、あまりに大きな罪悪感と恐れを無意識に沈めている。直接見るのはあまりにも怖いから、感じることすら拒否しているのだ。そして、その沈めた罪悪感、恐れは「自分ではない」他者に投影される。日常で出会う嫌な人や嫌なことがそれだ。

散り散りに分裂した(と思っている)私たちはそれぞれの場所から、自分の罪を投影して他者に映し出している。

でもそれは現実ではない。錯覚、勘違いだ。それに囚われ、他者をバッシングしたり被害者になっているかぎり、この夢から覚めることはできない。

今日のワークは、ここで起っていることは夢だと自らをとりなす。

私たちは他者に自分を見る。自分の罪や恐れを直接見ることはできない。他者への赦しを通して初めて、自分を赦すことができる。

だから、これは自分を赦すためのワークだ。

赦すことはむずかしい

長々とレッスン46の解釈を書いてしまったけど、ダイアリーなのだから、私の稚拙な解釈より、実際ワークをやってどう感じたのか、自分の人生にとってはワークがどうインパクトを与えたのか等、を書くべきなんだろうけど、そこのところがまだどこまでどう書いていいのか、わからない。毎回、ひとり~数人の人が思い浮かび、「赦すワーク」をしている。

毎回出てくる人もいる。それは、私がまだその人を「赦しきれてはいないから」なのかもしれない。

2013年6月ワークブックを始めた時から感情を乱されまくった相手がいる。怒りを爆発させては落ち込みワークをし平静になったかと思うとまた乱れ…をくりかえしていた。怒りだけなら離れればいいので楽なんだけど、恋心があり、いわゆる恋愛がらみに加え、おカネも絡んで、心の中でベタなすったもんだをくりかえしていた。その人との縁も、2015年1月にとぎれた。

具体的に自分に係ることがあると、かくもささやかなことでも「赦す」ことはむずかしい。だって、ここにいる私にとってはすっごくリアルなことだから!

それでも、その人とできごとを赦すことでしか、この世の非現実性を後にできない。その人が「悪いから、あるいはいいから」ゆるすのではない。そもそもここにいないから、私が私のからだだと見ているものを含めて、これはリアルではないから「ゆるす」んだ。

私はもともと気が短いところもあり、ぜんぜんできていないけど。

赦すべきことに遭遇するたび、ただ実践あるのみなのだ。

神は愛であり、その愛の中で私は赦す。

レッスン45ー神は心であり、その心とともに私は思考する

2016-07-29

レッスン45-God is the Mind with which I think.

昨日、一昨日はレッスン45をやりました。

このワークは前の「神は光であり、その光の中で、私は見る。」の変形バージョンみたい。

私たちが見ているものと心眼(ヴィジョン)は異なるのと同様に、私たちの真の思い・考えは私たちが「自分で考えていると思っているもの」とは異なるという。真の思いとは私たちの源である神の心とともに考える思いであり、私たちそれぞれの心の中にある。

今日のワークは、そこ、私たちの心の奥にある神の心に到達するためのものだ。到達…、が無理でも、まず、そこ、それがあるということを意識する。

私たちが「見ている」「見て感じている、思っている。考えている」と思っていることは、実はすべて、実在しているものではないと、イエスはACIMの中で言っている。

変化するものは実在するものではない。変化しない神だけが実在する。移り変わる社会は、いくらその中の登場人物である私たちにとってリアルであろうとも実は幻影である。

そして私たちは忘れてしまっているけれど、私たちの中には神のかけらが眠っている。神の心は私たちの真の心だ。ワークブックには「この種の練習に必要なことは、天国において父なる神と子なる神へと捧げられた祭壇に近づくかのような気持ちで練習に臨むことである。なぜなら、あなたが到達しようとしているところは、そのような場所だからである」とある。

心ここにあらず

私は、一日3回の瞑想ワークの中で、朝と夜は比較的落ち着いてできるが、昼は、「○時までに出かけなきゃ、その前に○○しなきゃ」とか雑念がいっぱいでたいして忙しくはないくせに常に「あおられ感」がある。これは性格なのかもしれない。あるいは住まいの場所なのか(比較的都心に近く交通量の多い道沿いに住んでいるため、よく言えば賑やかで活気があるんだけど。落ち着かない)

昨日も昼「心ここにあらず」の状態だったけど、このワークをしながら、「(神の)心がここにある」「心がここにある」と心の中で唱えて心の奥に向かったら、少しずつ落ち着いてきた。

平生私は「心ここにあらず」で生きているんだな~。

いつも何かに「追われている」気がしている。具体的に追っているものがなくてもだ。心で「思う」というより、ただ「条件反応」している感じ。歳をとって自分の体内リズムが遅くなっているからか、日々のルーティーンをこなすだけでもいっぱいいっぱいになっている。

でも、これもまたACIMで言われるように「原因と結果」が逆で、慌ただしいから⇒心ここにあらず、なのではなくて、心ここにあらずだから⇒慌ただしい状況を作り出している、ということなのかもしれない。心にスペースがないんだ。なぜないかというと、不安、心配、後悔、恐れ、罪悪感などのガラクタでいっぱいだから。

ガラクタでいっぱいで、心の奥の奥に光っている真の心の在りかがわからなくなっているのだ。

だから、せめて一日3回の瞑想ワークの時くらいは、心のガラクタをやりすごして揺らぎないものを確認したい。

あ、日曜に色彩ワークショップを主催した友人からの「ポケモンGO始めたよ。やろうよ」とのメールを見つけて、ようやくだけどダウンロードして始めた。まだ家の中で1匹しか捕まえてないけど。

アハハッ、こういうことする余裕は別物か…(^_^;)

レッスン44-神は光であり、その光の中で、私は見る。

気づいたら、ワークとダイアリーがかい離してた。大げさだ。ワークは、レッスン45を終えたところだけどレッスン44、45の分のダイアリーがまだ、というだけ。

ワークをタイトルとしてダイアリーを書くのは、私にとってよい復習になっている。だけど本当のところは何を書いていいかわからず、迷走を続けている。このままこうして書き続けたら方向性が見えてくるだろうか。

「真に見るためには、光が外ではなく内にあるということを認識しなければならない。」今日の主題概念は、視覚器官によって見るのではなく「真に見る」ため、内なる光を認識し、その光に到達しようと試みる瞑想ワークである。

レッスン44では、自分のエゴを脇に置き、内へ内へ向かい「一切の余念や雑念を静かにやり過ごしながら、心の奥へと沈潜する。」そして神なる光に到達しようと試みる。

このワークをする際には、「強い抵抗感が生じることがあるかもしれない」との説明がある。それは、「自分が今信じている一切のものごとと、自分が作り上げたすべての考えを後にすることになるからである。」エゴから見れば、それは「アイデンティティーを失う」ことだから。

「演習を正しく行っていれば、何からのくつろいだ感覚や、実際に光の中へ入らないまでも、光に近づいていく感じさえも体験するはずである。」

私は抵抗感は感じない一方、瞑想中「見る」ということは未だ苦手。瞑想していて「感じる」ことはあるけど、「見る」というのがよくわかっていない。夜見る夢も、みんなは色つきでいろんな夢を「見て」いるみたいだけど、私はストーリーは感じるけど、それを「見た」というのかイマイチわからない。「ヴィジュアル」能力が低いのかな?

まぁ、でも、なんとなくワークが進んでいく。

ワークが進むのはいいけど、ワークのダイアリーが「溜まる」のはやだな。

ブログは何も考えずに書き始めて書いているうちに自分でも思わぬ方向に話が進んでいくのが、おもしろいと感じている。とりあえずはまだ書くことを楽しめている。

ともかく溜めないようにしなきゃ。。

レッスン43ー神が私の源である。私は神から離れて見ることはできない。

2016-07-26

レッスン43-God is my Source. I cannot see apart from Him.

日曜と昨日、このワークをやったけど、日曜は久しぶりに友人宅でお酒をいただいたので、夜寝る前の一回がふにゃふちゃになった。最近外でお酒を飲む機会がめっきり減っているためか、ほろ酔い気分で夏風に吹かれて歩くのが心地よかった。

昨日は朝、昼、夜と3回のワークができた。

ワークブックの説明に書いてある内容がだんだんむずかしくなってくる。

私たちがエゴの視点で感じることができているのは知覚だが、それは神の領域にはない。それを神、聖霊のものである智識に修正しようというのが、ワークである。それを「あの手この手」で訓練する。極めておおざっぱなイメージでいうと、ACIMのワークブックは「視覚矯正トレーニング」みたいなものか…。

「知覚は智識につながるところまで、変化し、浄化される。それが、聖霊が見ている知覚の機能である」とある。そして「癒された知覚は、神の子が兄弟を赦し、それによって自分自身を赦すための手段となる」。このあたりはACIMの核心部分である。

私たちは「神から離れて存在することはできないのだから、神から離れて真に見ることはできない」。すなわち、私たちは今、真に見ることができていない、でもワークブックの訓練と聖霊の導きによって、だれしもが真に見ることが可能である。これによって神から離れてしまったという最初の「勘違い」に私たちのすべてが気づき、現世のホラー映画館を後にできる。

私は、ACIMの抽象的解釈についてはわかったようなわからないような…、である。

アーテンのアドバイスーワークブックの進め方

ゲイリーさんの第3作目「愛は誰も忘れていない」を読み終えた。Amazonのレビューで「奇跡のコースそのものからどんどんとずれていっている気がするのは、気のせいなのか?」とどなたかが言っておられたが「ふむ、確かに」と思った一方、個人的には学習を深めるのに役立つ内容だった。

ワークブックの進め方の留意点としてアーテンが「1つのレッスンに2、3日かけてもいいし、数日休んだっていい。そんなに気にしなくていいさ」(p253)と言っていた。それが気を楽にしてくれた。

「『ワークブック』をやる際、多くの人がしてしまうことだが、中断しても、また最初からやり直さないように。きちんとやれてないと思ってしまうようだが、こうやるべきと思うやり方で『ワークブック』をやり通せる人などいないんだ。」「ただできるかぎり最善を尽くせばいい」というのも、「完璧主義」傾向のある私にはとてもよかった。いつもちゃんとできているかなんか宙ぶらりんな感じだったから。

また、私は内向的で内にこもってマイペースでやるタイプだけど、本の中でゲイリーさんがハワイでワークショップやセミナーを行っているという記述があって、「ハワイだったら頑張って行けるかも!」と思った。それが私にとっては、一つ収穫。

ゲイリーさんのウェブサイトとかで見ればすぐわかることなんだろうけど、自分から調べる気もしていなかった。「英語を勉強して、ハワイのワークショップに参加して…」とふとイメージできた。まあ、いつのことになるかわからないけど。

世間では7月22日日本でも配信になったポケモンGOの話題でもちきりだ。ポケモンにもゲームにもたいして興味ないけど、国民をあげてやっているのかな?と思うと、気になるよ。私もやるべきなのか…

レッスン42-神が私の強さである。心眼は神からの贈り物である。

2016-07-23

ああ「クイズダービー」のあっぱれ!

昨夜、中居正広さんが司会の「金スマ」で、大橋巨泉さんの「クイズダービー」を目にした。

2014年12月に巨泉さんが同番組に出演なさった際、一夜限りの「クイズダービー」復活として放送したもので、それをまた追悼番組として再放送したものだ。当時の回答者だった竹下恵子さんや北野大さんらもいた。当時82歳。3度目のがん闘病中で、奥様の寿々子さんに付き添われての登場。「だいじょうぶかいな」と思って見入ってしまった。

でも、司会を始めると、当時そのままのテンポと存在感で、つい追悼番組だということを忘れ、純粋にクイズ番組として楽しんでしまった。番組中で、司会の中居くんのことはもちろん、北野武さんのことやタモリさんのことも、「中居」「タケシ」「タモリ」と呼び捨てにして、それがまたしっくり来る。会話がウィットに富んでいる。

番組を終えた後、奥様に「当時のテンポを出せるか不安だったけど、まだやれるな」と言っておられたそう。

昨日の番組を見て、というわけではないが、一昨日のダイアリーで、大橋巨泉さんらの「成功者」の死が「オセロゲームの終盤の大逆転の負けのように見えてしまう」といったのは、なんと不遜なことだろう、と思った。

私の見方が「生と死」「成功と失敗」「勝ち負け」といった二元論的なのはそうだし、その中でも、3度にわたるがんの闘病生活がただ私が捉えたようにただ「辛くしんどいもの」「敗北感のあるもの」と、ご本人が思っていたかどうかは、実際のところわからない。

最期まで寿々子さんに寄り添われゆっくりと幸福な時間を重ねておられたかもしれないし、高齢者として世の中を俯瞰して見られるポジションとなり人生や社会に様々な気づきのようなものもあったかもしれない。私が勝手にその幸不幸を自分のモノサシで計っていただけなんだ。そして、そのモノサシはACIMを人生の指針としようと決意しているはずなのに、まだまだ二元論的なのだ。

レッスン42-神が私の強さである。心眼は神からの贈り物である。

昨日はレッスン42をやりました。

これには非常に強い2つのメッセージが入っている。

God is my strength. (神が私の強さである)

「あなたに力を与えるのは、あなた自身の強さではなく、神の強さである」

Vision is His gift. (心眼(ヴィジョン)は神からの贈り物である)

「そして、あなたに心眼(ヴィジョン)を提供するのは、あなた自身の贈り物ではなく、神からの贈り物である」

そして、「神が与えるものは、真に与えられている」

したがって、私たちにはすでに神の心眼(ヴィジョン)が与えられている、というのが、今日の中心メッセージであり、すでに与えられている心眼をしっかり自分のものとするための訓練が今日のワークだ。

私は、実はまだ心眼というものがぼんやりとしかわからない。2012年からワークを始めテキストも教師のためのマニュアル読んだけど、これが心眼、というものがわかっていない。

だから二周目のワークで少しでも感覚(感覚なのか?)がつかめたらいいなと思っている。

レッスン42の短い瞑想ワークをしている最中、ふと

「私は神様に帰依します」という思いが湧いてきて、心の中で言った。

…と同時に、不安感が襲ってきた。

そんなこと言ったら、(神様に)何かを取り上げられてしまうのでは?どんな犠牲を強いられてしまうのか?と。

「この世は幻想なのだから、幻想のシナリオで奪われるなど平気ではないか?」と神様に言われ、「それは困る」と懇願する。

こういうイメージが瞬時によぎった。

もちろんエゴの見方だ。でも今、私がいるのは、こういうところなんだな~

エゴの解体を進めるのがワークのトレーニングだと思うけど、こうして私たちが日常的に使っている「言葉」自体が、エゴシステムの上に乗っかっているような気もする。

エゴは、少しずつ玉ねぎの皮をむくように、小さくなっていくものなんだろうか。私は2、3年前よりは、エゴが小さくなってきているんだろうか。単に頭でっかちになっていやしないかな?

レッスン41-私がどこへ行こうとも、神が私とともにいく。

2016-07-21

今朝、先週12日に82歳で亡くなられた大橋巨泉さんのニュースをやっていた。7日に83歳で旅立たれた永六輔さんといい大橋巨泉さんといい、私が社会に出た20代の頃、もっとも輝いていた「成功したえらい大人」たちが、年老いて病に伏し、ついに亡くなったと知るのは、ひどく寂しい。去年84歳で旅立った父のことがよぎるのもある。希望が先導していた昭和の時代がまた遠くなったなぁとの思いもある。

どんなに社会的に「成功」して「勝ち組」になったとしても、人間、最晩年は、オセロゲームで最後に両端を取られてワーッと裏返しにされるように、衰え、嘆き、怯え、人生に「負けてしまう」ように見える。

そう感じるのは、私が未だ「分離している者」だからだろう。私は二元論的な見方で人生を見ていて、神と離れ、身体や死を実在するものと見ているからこそ、老いや死が忌むべきもので敗北のように見えてしまうんだろう。

「私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。」

この今日の主題概念は、「最終的には、分離している者たちのだれもが味わう孤独感や見捨てられた感覚を完全に克服する」とある。

「分離している者たちは、『この世の悪』だと自分で信じているものに対して多くの『解決策』を発案してきた。けれども、一つだけ彼らがしていないことが、その問題の実在性を問うことである。しかし、問題が実在のものではないのだから、その結果が解決されるということはありえない」

とてもシンプルに非二元論を語っている、この部分が好きだ。

私たちの奥深くには、「完璧なものの一切がある」といい、その「聖性の源」が備わっているという。

そして、今日のワークは、その源に達する瞑想である。自分の「内へ内へ向かう感じをつかみようにする」、「何よりもまず、世界から、そして世界の愚かな考えのすべてから離れて、内側へ、より深いところへ沈んでいくように試みる」のだという。

ワークは朝一度のみ。わずか数分の瞑想ワークだったけど、自分の深い深いところに、湧き出る泉があるかのような感覚だった。

私が、人生の大先輩の死を悼むのは、50代も半ばになった今、若かった頃より死が身近に感じられるようになったためでもある。自分の番に近づきつつある、というー。

そして、私は、正直、死が怖い。

この死への恐怖もまた、分離した者の感じ方である。

今日のワークは、「あなたがどこへ行こうとも、神があなたとともに行くということを思い出すなら、あなたは本当に、恐れの感覚を笑い飛ばすこともできるのである」と締められている。

私が、憧れているのが、この「恐れの感覚を笑い飛ばす」という境地だ。私は実は、人一倍体への執着が強い。エゴも強いんだろう。ACIMを字面で学んでいるだけでは、物の見方はさほど変わっていないのかもしれない。

できることなら、歳を重ね、死を迎えるときに、最高に幸福感を感じたい。これが私のひそかな野望だ。残りの人生の時間でACIMを学び続け、少しずつでも聖霊の見方に近づくことができるだろうか。

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