『奇跡講座』 ワークブック

レッスン89-レッスン77、78の復習

2017-03-20

「人生で二番目に大切なもの」と今朝の夢

世間では三連休の三日目。予定なし。春めいてきた。

昨夜のテレビで、ネットで話題になっている珍問答?、として、15日国会での麻生太郎財務相と山本太郎参議院議員とのやりとりを放送していた。

山本太郎議員が「人間が生きる上で、一番必要なものは何か。私は空気だと思います」と言った上で続けて「麻生大臣、人間が生きる上で、二番目に大切なもの。何だと思われますか?」と質問。麻生さんは、初め戸惑いながらも、

「私はこの種のわけのわからん質問が来たときには答えるのはひとつ。」

「人間が生きていくうえで大事なことは、朝、希望を持って目覚め、昼は懸命に働き、夜は感謝とともに眠る。この気持ちだと思ってます」と答えた。その回答が、「かっこいい」とか「太郎対決の格のちがい」とか言われているのだとか。

私も、ふむ。たしかに、と思って、メモした。

メモするとき、「働き」は勤労だけの意味よりもっと広く「それぞれの人がそれぞれの役割を果たす」みたいな意味がいいとひらがなにした。

朝、希望を持って目覚め、

昼は懸命にはたらき、

夜は感謝とともに眠ること。

シンプルだけど、なんかいい。すごくいいんじゃないだろうか。

これは、山本議員が麻生大臣から二番として「水」の回答を引き出して「水道の民営化」の話につなげたかった質問だったとキャスターの人が解説していた。

そのせいなのか、今朝「貯水施設」の夢を見た。東京都に水を供給する、東京近郊の県内の貯水施設に仕事で行っているらしい。帰り際の雑談で「こういう施設も最近は都内に置くべきだという話がありますからね~」とかいう職員さんの話を聞いている私。

その後、その施設の管理人のおじさん(60代位の男性)と、その飼い犬がそっくりで、「(犬が)メガネをしたらホントそっくりですね」と私が言い、笑っている。

夢は概してヘンだけど。へんな夢。

でも、ふと「水」のことって知らないな、と気になった。水事情ってどうなってるのかな。あたりまえのように思っていたけど、家の水って蛇口まで毎日どこからどう伝わって蛇口に来ているんだろうか、と。

レッスン77:私には奇跡を受け取る資格がある。

3月9日にやった。

奇跡とはいわゆる超常現象のことではない。

不満や問題の向こう側にある、実相的な真実が具現化すること。

「実相的な真実の具現化(大畑学さんの精読版の表現)」のことをイエスが「奇跡」という名で呼んだのは、おもしろいと思う。

このコースのタイトル自体が「奇跡講座」だ。粗くいうと「(ヴィジョンを開いて)真実を見ろ」ということかな。。

レッスン77の文言は、私にはとくに訴えかけてくるものがある。

私には奇跡を受け取る資格がある。」と唱えると、何かが溶けていくような気がする。

愛は不満を抱かない。(l68)」とか、「私の不満が、私の中にある世の光を隠している。(l69)」とかの方がわかりやすい気もする。一方で「私には奇跡を受け取る資格がある」は“正気”を思い出せる気がする。

私(私たち)は、罪悪感の着ぐるみなのかな。

炎天下でも、それと知らず汗だくで着ぐるんでいる、そのぬいぐるみ。

「あんたは今ぬいぐるみを着ていて、それは脱いでもいいんだよ」と教えられたような。

でも脱いじゃうことは経験ないよ…

罪悪感は恥という感情とも深くつながっているんだろう。

この主題概念は、理由はわからないけど、私をダイレクトに癒してくれる。

誰でもより真実を思い出させる主題概念があるというけど、私の場合はこれがそうかな。たくさんの主題概念の中でも心に直接響くものだと思う。

それは資格だったか。

そしてそれがあるのか。

ありがとうございます。感謝します。

レッスン78:奇跡が、すべての不満と入れ替わりますように。

午後のワークは気が急いて上滑りしてしまう感じがあった。その日のうちに提出すればいいという仕事でも昼一番から追われている気がして集中しにくくなる。必要以上に焦るのは私の良くない習い性だ。

「奇跡が、すべての不満と入れ替わりますように。」というのは、誘惑に屈しないように、ということかもしれない。

崩れた姿勢を不満という杖で支えてバランスをとっているようなところがあるかも。

仮想悪や仮想敵を作って不満やグチを言い合う。具体的な相手がいなくても、社会とか、時代とか、政治とか、タレントの噂とか。

つい抑えていた不満やグチを出すと、一時は軽くなった気分になるけど、それは幻想の世にブーメランを投げただけのこと。またしばらくしたら、自分の所に戻ってくる。それは堅い。

そうではなく赦して、1つずつ終わらせていくしかない。

少しずつ。少しずつクリアに視る術を身につけていくしかない。

レッスン88-レッスン75、76の復習

2017-03-17

ワークをやった日と、それをダイアリーにする日とのかい離がまだ続いている。これは、3月7日と8日。もう10日位前にやったワークなんだなぁ。

3月11日には6年前の大震災当時を思い出し、気持ちがぐるぐるしてしまったけど、これもまたこの世で「神との分離」を再現しているのだ、これもまた他のことと同じ、赦すべきことなんだ、とあらためて思う。

「経済って何だろう」と、この世の経済のしくみに疑問…、のようなことを書いたけどそういえば、私は趣味でささやかに株式投資をしていて、その金融資本主義に便乗していた一人だった(^_^;)リーマンショック前に初めてその損失まだあり。儲けも出したいが、まず元に戻したい、と思ってちまちまやっている。会社の動き、世の中の動きと株価が複雑に絡んで動くの、よくわからないながらも、刺激的でおもしろい。

そして、これからも成長しそうでいいな、と思う株を先週末買っていた。ネット通販、公共料金のクレジットカード決済代行の会社だ。それが買った翌日に「不正アクセスと個人情報の流出」があったとニュースが…。ストップ安に~。あわあわ…。次の日、これからどうなるか見当がつかず、売り注文を出して外出した。

…で、売れてた。13.7万円の損確定。あわあわ…。

もちろん、これも幻想!!

気分を左右されることじゃない、と知ってる。もとい。

私って、、、。何やってんだか(>_<)

レッスン75:光は訪れている。

私がこの世で幻想ではなく、実相を生きるとはどういうことなんだろう。

ワークをしていて時々浮かんでくることは、「故郷に拠点を置く」ことだ。

これが聖霊に勧められていることかどうかわからない。けど、なんとな~く、高齢になった母の元にいた方がいいんじゃないか、と思う。

一方で少し抵抗も感じる。

家意識が強い北陸の故郷では、独り身で子どももいない私は肩身が狭い気がする。何らの「成果」もなく…、とも思ってしまう。どんな「成果」であれば許容されるというのだろう。

「故郷に拠点をもつ」…私の世界が広がることかもしれない。

その場合、どうやって生計を立てるのか。

親とはいえ、性格やリズムがまったくちがう今、一つ屋根の下で住む覚悟ももてないでいる。ただ、ワークをしていると、漠然とそうした方がいいのかな、と感じる。

それともう一つ感じるのは、私は「圧倒的に言葉が少ない」ということ。

ACIMは、究極的には「God is(神はある)」だ。だけど、それをそう説明するだけでは何ら意味はなさない。

これをこのゲンジツの世で表すには、いろいろな知識や言葉も必要かな、と感じる。ACIMを仏教と比較したら、とか、今の私にはまったく説明できないし。

歴史も、経済も、一般常識的なことも、ここ数年何でも「幻想だから」とやりすごし過ぎた感があるから、勉強したい、と思った。その方法として、放送大学とかもいいかな、などと思った。この春は間に合わないけど、また考えてみよう。

レッスン76:私はただ神の法則のもとにある。

むか~し、占いに興味があり、初めてタロットを買った日、裏返したたくさんのカードから「自分のカードを選ぼう」と無作為に一枚取った。

それは「星(スター)」というカードで、そのシンボルは“水を運ぶ人”、“チャネルの役割”。手にした水がめから水を浴びるような女性の絵がやわらかくて美しくて、それから自分のテーマも“水を運ぶ人”だ、と思うようになった。

当時、そのココロもいろいろ考えた。水は生命力や癒しや深層の感情を表わしていて、そうしたものを目の前の人に“運ぶ”ことを天命としたいのかなと考えた(大げさだけど)。

数年前ACIMと出会い、ACIMについて“水を運ぶ人”になりたいと思った。

でも、そうならば、そのはたらきに、もっともっと意識的になって、変えることがたくさんあるんだろうな。今の私はエゴの執着の元にある気がする。

『神の使者』に、

学び始めの頃は、「何かを捨てよ」と言われている気がする。が、ただそれらが無価値だと認識されるだけである、みたいなくだりがあったけど、

今も、何かを手放せと言われている気がする。そして、それを認めることに怯えというか、居心地の悪さを感じる。

東京ひとり暮らし、地位もお金もなく楽な立場ではあるけど、ふと思うと、その気楽な立場に執着があるんだな~

ACIMの勉強を始めて今年で5年目になるのか…短い長いのかわからない。濃いか薄いかもよくわからない。

完全に私を守ってくれる神の法則を大事なものと思いつつ、未だに怯えのようなものを感じている私。

一生こうしてこわいのかな。

ACIMを学んでいるというお題目を掲げつつ、神から逃げている?

レッスン87-レッスン73、74の復習

2017-03-11

私にとって土曜日は街の空気が緩んで、逆にマイペースで仕事に向かる日。フリーランスは暦は関係ないとはいえ、街の雰囲気で私のリズムもなぜか影響受けるのだ。

急ぎ目の仕事があるから、やるど~と思っていたけど、気づいたら1時間以上、インターネットで春のシャツブラウスを見てた。あれやこれやディテール見たり、サイズを確認したり、良さげなもの同士を比べてみたり。ネットショッピングにも体力がいる。

新しいワークもやりたいところだけど、それはやめといて、月曜のワークのダイアリーの更新を。

レッスン73:私は光が現れることを意志する。

ワークから感じたことは。

「問題がない(実在しない)ことに対する不安を手放せ」

ということ。

私たち(というか私)は、自分の心や時間を「解決すべきこと」で埋めるのに忙しい。

そして問題と見えるものがあるときは、

鼻先にニンジンをぶら下げられた馬よろしく、ニンジンを得ようと、(ACIMの)光を避けてしまう。そして、それが解決済みとなると、光に目を向けるのではなく新たな問題で心や時間を満たそうとする。そして、それが人生だと思っている。

「ただ、いまの瞬間にこそ、光を意識せよ」そう言われた気がした。

私たち(私)は、自分の心の不安と均衡させるべく、外での問題を見つける。

そういえば、今朝の田舎の母からの電話があった。かつての店だったところを借りてくれているテナントさんが、次の契約はせずに店を出ることになった、という。空き店舗のままでは税金が払えない、売ってしまいたいが売れるか不安だ、と言っていた。どうしよう、私に新テナントさんや買主さんを見つける力があるとは思えない。

そう、問題というのはいつだって起る。というかあるものだ。

問題には、不満や課題、夢といったものも含まれるだろう。

○○だったら、私は幸せなのに。

○○だったら、私は光に満たされるのに。

そうではなくて、

誰の心にも光はすでにある。

それを意志を持って見ること。。。なんだろう。

今日光を導き手としよう。

レッスン74:神の意志のほかに意志はない。

こうは思いきれない自分がいて、こう唱えると逆に少し不安を感じる。

不安を感じているのは私のエゴだろう。

この世のゲンジツの中で自分の安全が脅かされていると感じたときに、このことを思い出し、正しく判断できるだろうか。

どんなときでも幻想を幻想と通りすぎて、闘う者にならずに生きることができるかな。

神の意志のほかに意志はない。」と言われた時に、自分の考えや好きなものや居心地がよいと感じたものなどを手放すように迫られている気がしてしまう。

ACIMのどこかの文章で「単にそれは無価値なものだと認識されるだけだが、最初のうちはそれがわからない」というような文言があった気がするけど、そんな感じが、まだまだある。

だから聖霊の声をもっと聴きたいと思う一方で、今の自分に不都合なことを聴いてしまったら(どうしよう)、と思うような自分もいる。

えらい遠い道のりだな。こりゃ。。

レッスン86-レッスン71、72の復習

2017-03-10

3月10日お昼。外はよい天気。

ワークは少しずつ進んでいて今朝はレッスン90をやった。でもダイアリーブログは少し滞っていて、ワークとブログにちょっとした差ができている。本当はなるたけ近いほうがその時のままの気持ちで書けてよさそうだけど。ダイアリー、追いつかなきゃ。

レッスン71:神による救済計画だけがうまくいく。

本ワークをやったのは先週土曜日だった。

そこで感じたことは、

神による救済計画だけがうまくいく。

…のならば、今みたいに、自分の余力、余時間があればACIMを入れるといった感じじゃなくて、生活全体をACIMを軸として組み立て直すこともできるのではないか。

…と。

いつも「気力体力が乏しくて」とか「生活費をもっと稼がなくちゃ」と言っているけど、それば、私の生き方の結果そうなっていることで、いわば「不満」だ。

もっとACIMを中心にストイックというか意志的になれるのではないか。

ふとしたきっかけで、去年から市川海老蔵さんのブログを見始めた。これまでテレビで見ていた印象と異なって、歌舞伎役者という使命を果たすべく毎日のトレーニングや食事その他すべてが組み立てられているように見受けられた。

特異な立場の方だし、そもそもものすごく体力気力に満ちた人だと思う。また持って生まれた性格なのか育ちなのか、大勢の人の中でも自分のペースでいるのがとても上手い人みたいだ。

私とはタイプが別!スペックがちがいすぎる…と思ってしまうけど、少なくともライフテーマを生きるための習慣づくりは見習えるのではないか。

そして、小刻みで忙しそうなスケジュールの中でも気を抜くところは抜いて、自分のスタンス、リズムを調整し続けているという点では、お手本にすべきでは?

舞台なんてあったら、どんなに小さなものでは私ならば半月も前からキンチョーでコチコチになっていそうだけど。

たぶん、キンチョーのなさというのも、無意識での自己肯定感、罪悪感の少なさと関係がある気がする。

私も、もっとACIMのトレーニングを進めていけば、あがり症や過緊張も緩み、疲れにくくもなるのかもしれない。

とりとめのなく書いたけど、要するに

自分の生活のなかのACIM関係の時間を、ちょこっとずつでも意識的に増やそう、ということかな。

レッスン72:不満を抱くことは、神の救済計画に対する攻撃である。

私は、実に“ストライクゾーン”が狭く、不満が多い人間だ。不満を人に言うことは少ないけど、実際そう。

フリーランスで仕事をしていることも、ひとり暮らしをしていることも、突き詰めればわがままな性格で自分の好きなようにやりたいからだ(かといって、実際好きにできたり、また結果的にそれがプラスになったりするとは限らないが…(^_^;))

エゴが見せてくれる「不満」は、巧妙で、

保つべき秩序やマナーだったり、完璧主義だったり、憎むべき社会悪だったり、寂しさだったり、加齢や悪天候へのつぶやきだったり、将来計画だったり…

いろんな形でやってくる。

意識的にならなければ…。

私の心から出る9割が何らかの「不満」だ。

こうだったらいいのに、とか、あと少しこうしてくれたら、とか。

ということは、私は日頃から、神の救済計画を攻撃しているということだ。

「不満」は、「理想」とセットになって、この世で市民権を得ている気がする。

不満を見つけることはビジネスチャンスにもつながる。その不満をつぶして、またひとつ豊かに…

そういう思考も自分の中にあって、つい不満にフォーカスしてしまう。

不満があったから、人間社会というのが発達してきた。だけど、出始めの頃は「すごい」と喜んでいた新機能は、すぐに「あたりまえ」になり、そのうち新しい優れものが出てきて「不十分」となる。そのくりかえしだ。

豊かで便利になったんだよな。そのおかげで。

ィコール幸せ、でないにせよ。

不満は「あたりまえ」と思う気持ちから発しているのかな。

あたりまえでなく、有り難し…

あたまでっかちか。わたし…

レッスン85-レッスン69、70の復習

2017-03-06

6、7年前、週に何度かショッピングセンター内で手相鑑定の仕事をしていた。まだACIMと出会う前のことだ。

今日はその時一緒に店に出ていた女性と数年ぶりにランチをご一緒した。その方は今も週3回位占いの仕事をなさっているとのこと。ボランティア精神あふれた人間味のあるベテラン鑑定士さんだ。

この数年間の人生の変化や共通の知人の話などをして、楽しい時間を過ごした。占いではお客さんの重い話を聴くことも多かったけど諸々含めて楽しい仕事だったと、当時を懐かしく思い出した。

今となってはACIMの考え方がベースとなっているから、手相や暦から、「あなたの運はこうですよ」という仕事はできなくなってしまったように感じている。

「この世はリアリティがあるけど、実は幻想なの、あなたが出会う人や出来事を赦すこと。それこそが大事なんですよ」と伝えることは、占いには当たらないだろう。そういうアドバイスを求める人が、世の中にどれくらいいるだろうか。

レッスン69:私の不満が、私の中の世の光を隠している。

私がワークをする時には、ACIMのホームページで該当するワークを英語で聴いて、日本語訳を読んで、大畑学さんの精読版の解説を読んで…というパターンが多い。

大畑学さんの精読版は、英語の訳や解釈もあるしACIMの本質もわかりやすく説明されていて、サブテキストとして重宝している。

その大畑さんの精読版に、「不満とは、直面している自体の責任を外部世界に向かって投射し、怒りの中に自己の責任を回避する行為である」との説明があった。

的を射た説明だな、と思った。

「不満=責任回避行為である」とスパッと言い切っていて、腑に落ちた。

一方で、学び方が浅いのか、自分のゲンジツの状況が不都合な場合の対処は未だによくわかっていない。

例えば、自分が店を経営していたとして店内で万引きをしている人を見つけたら…、

もちろん、それは「不満」ではないよね?

かたちの上では社会規範に則って、警察に通報するなどの行動をしつつ、

一方、心のなかでは、赦すということなのかな。

その辺りの具体的な対応がよくわかっていない。

実際にそんなことがあったら、赦すことを忘れ憤ってしまいそうだけど。

ニュースやワイドショーなどで毎日取り上げられている実際の事件でも、孫がおじいちゃんを殺害するなど残酷なものが目にとまり、被害者に同情し加害者には、なんてひどい愚かな…、と思うけど、これもACIMを学ぶ者としては、赦す、しかないんだろうな。

どう解釈・対応してよいかむずかしく感じることが多いけど、まずは、自分自身の目前のことから…

前よりは、少しは不満が減ったか。。少しずつ、少しずつ。

それでよしとしよう。

レッスン70:私の救済は私の中から訪れる。

自分にはどんなふうに見えても、

自分の救済も、また罪悪感も、自分の中にのみあるのだということを思い出そう。

社会的に酷いことが起こっているように見えるとき、

こう捉えることは無慈悲でクールすぎるように思えることもあるけど。

私の心の中のスタンスとしては、この立場をとることにしよう、思い出せたときには。

そして、しばしば、思い出せるようにしたい。

レッスン84-レッスン67、68の復習

2017-03-04

3月に入ってもこれまでけっこう寒い日が続いていたけど、今日は日差しが暖かく春らしい日だった。

薬が安いので時々利用している巣鴨のドラッグストアに行こうと思ったら、地蔵通りは「4の付く縁日の日」ですごい混み合っていた。私はただ目的地へ。

どことなく、いよいよ動植物の活動期に入った気がする。

レッスン67:愛が私を、愛と同じに創造した。

Love created me like itself.

この67は、ワークの主題概念のなかでも好きな文言だ。短くて強くて力を与えてくれる気がするから。

ワークをしてすぐに感じたことは、

もっと自信をもて。

ここにぶれずに立て。

だった。

愛が私を愛と同じに創造したところ、

そこにちゃんと立てたら、私の行動は変わるんじゃないか。

エゴに塀を築き内向きに護りを固めようとするのではなく、

溢れる泉なる愛を、愛が枯渇してしまったと勘ちがいしているところへと運ぼうとするのではないか。

そう感じた。

内なる聖霊は私に伝える(私がそう感じたこと)には、

「あなたの面倒は私がちゃんとみる。

あなたが死守しようとしているエゴは幻だ、

幸せを愛に背を向けるな。」

……、まず一歩は、緩めることかな、いろいろと?

と感じた。ふと50半ばにして未だ中二病か、と自分ツッコミが浮かんだけど、これは…

レッスン68:愛は不平不満を抱かない。

これも短くて、核心をついている文言だ。

とくに私は小さい頃から、親に不満や反抗心を抱いていて、表面的には周りに合わせつつも、本心は隠して自分の内に籠るような子どもだった。不平不満がどこか習い性のようになっているのだ。(当時の親を超える歳になり、いろいろな人生経験を経てようやく感謝できるようになってきたけれど)

不平不満がそんなにも良くない、自分にダメージをもたらすものだとはACIMを学ぶまで思っていなかったけど、

A.不満を抱く… ・自分の源が神(愛)であることを否定。

         ・憎悪の夢のほうにチューニングが合っている。

B.満足・感謝… ・自分の源が神(愛)であることを肯定

         ・実相をみる準備ができている。

 となるから、Bを選ぶべきなのだ。

不平不満を抱いている自分はエゴに立った自分で、本質ではない。

心の姿勢のテーマで、

姿勢は無意識的なクセだから、これを正していくしかないんだろう。そして無意識だから、気づいたらその都度、ってことかな。何度も。

               *

自分がやっいること、このワークやそのやり方や、それを稚拙ながらブログにしていること、まったく無意味なことを…とも思うけど、

復習になっているような気もするから、今年の活動期も続けたいなと思ってる。

レッスン83-レッスン65、66の復習

2017-03-01

早くも今日から3月。でも、けっこう寒い。

昨日ひとりでやっている会社の申告書を出して税金も(定額の7万円だけだけど)払ってきて、一服。いつもこれが苦手で一年のうちで2月~3月にかけてが憂鬱。今年もようやく終えた。

非常に緩慢に進んでいる私のACIMの勉強とワーク。もっと頑張ってもいいはずなんだけどなぁ。。自分の余力と生活の隙間がある時しかできてない。やめてしまわないことが目標、とは志ひくすぎだけど(^_^;)

おとといレッスン83をやった。

レッスン64:私の機能(はたらき)は、私が神に与えたものだけである。

このワークから私が感じたことは、

私は「出し惜しみ」しているかも、

ということだった。ワークからメッセージを傾聴しようと目をつむるや否や、「出し惜しみしているかも」と浮かんできた。

ACIMに対し?

その他の様々なことに関しても?

年を重ねた生きる智恵なのか、40代後半から衰えを感じている気力体力を温存しようと、どこかに「余」をもたせておきたいというのが、ここ数年のスタンスになっている。

これは今の私がゲンジツに生きるのに必要だと思っていたけど、すべてに内向きな護り傾向になっているのかもしれない。

(「まもり」とキーボードを押したら、「護り」と出て、あれ「守り」とどう違うのかな?とネットで見てみると、

「守る」は 大切なものとして持ち続けること。
(例) 宝を守る 約束を守る 伝統を守る 沈黙を守る 見守る
「護る」は 攻められることがないように持ち続けること。
(例) 国を護る 辺境を護る 身を護る 銃後の護り(角川書店 漢字用法辞典)

と。私のは「護る」か、やはり)

そして、それが「出し惜しみ」という姿勢になっているのかも、と思い当たった。

おそらくその心の奥には、不安感、恐怖がある。

とにかく物事を円滑に進めるためには、エネルギーを消費しつくして枯渇してしまわないように…と思っているけど、ここ数年、疲れやすくて気力体力不足を感じているのは、恐怖に基づいた考え方の「結果」なのかな、と感じた。

私は、

疲れやすい→(だから)省エネモードで→(その結果)出し惜しみ… していることがあるかも、と思ったけど、それは逆で、

不安・恐れの気持ち(の投影)→内向きにガード→疲れ… という因果があるのかもしれない。

日常生活のあり方のクセなのか、いつも不必要に緊張し体に力が入っていて、だからこそ疲れている、ということがあるかもな~とふと思った。

この世のゲンジツにまったくネガティブに引きずられないということは、なかなか現段階の私にはむずかしい。

私は表面的には、穏やか、やさしい、と言われることが多いけれど、心の奥では、ずっとファイティングポーズで生きているのかもしれない。無意識で身につけたクセかもしれないが、それを意識して緩めるときなのかもしれない。そう感じた。

レッスン65:私の幸せと私の機能(はたらき)はひとつのものである。

この文言、わかる、うん、わかるような。え、でもよくわからないような。わかるんだけど… という感じ。

ACIMの究極の教え「God is(神はある。それ以外はない)」を信じれば、私たちが奈落の底に落ちることはない、セイフティネットがある、ということだ。

それは原初からある。

この世でどんなに明るく楽しくやっていても、ふと顔を出すやるせない不安や恐怖感というのが誰にでもあるのではないか。

それは自作自演のドッキリだった。

それを思い出すということ。

自分の機能(はたらき)を思い出し、全うしてこそ、同じところにある幸せが見えるんだ。

自分が適用した(採用した)見方・考え方が自分の世界を創る。つまり世界観がゲンジツになる。

恐怖の論理は恐怖を強める。

愛=神を強めれば、愛が=神が強まる。

そしていずれ愛=神しかない…とわかるのかも。

私は頭ではACIMの考えがすばらしいと思っているけど、肚落ちがいまひとつなのかもしれない。おそらく、それは圧倒的に実践とくりかえしが足りないからなんだろうな~と思った。

筋トレだ、たぶん、要領は。くりかえし、毎日、そして負荷をかけていく。

といっても筋トレしたことないけど。たぶん。

ACIMは体をエゴに基づくものとして重きを置いていないけど、春だからか、ふと筋トレしてみたく、今、なった。話がずれてきているかな。

レッスン82-レッスン63、64の復習

2017-02-25

先週の土曜日、レッスン82をやった。

今日はあれから一週間か…。外は日差しが出て青空にぽっかり雲が浮いている。寒さが少し緩んでいる。あ、そうだ、昨日からプレミアムフライデーというのがスタートしたらしい。私には無縁の制度でぴんと来ないけど。

この一週間は、経営計画やマニュアルづくりをお手伝いしている企業さんの研修に参加したり、商業活性化プロジェクトに携わっている商店街のバス視察旅行に参加したり、友人宅に行ったりと、私にしては外交的な一週間だった。土曜日、窓から外を見て、ふと我に返る。

レッスン82のダイアリーから…だ。

レッスン63:世の光は私の赦しを通して、すべての心に平安をもたらす。

レッスン61~63には、「私たちは世の光であり、赦しが世の光としての機能であり、世の光である私は赦しを通してすべての心に平安をもたらす」のだと説かれている。

赦しは、私を通して世の光が表現されるための手段であり、結果として癒されるもの。どうも赦しというのは手段のようだ。

何の?

私たちがしている勘ちがい「神からの分離」を取りなすための。

究極的には、この宇宙という幻想から覚める

宇宙を終わらせるための。

宇宙が消えるのなら当然自分も消える。いや消えるのは自我の方だ、そもそもなかったのだから。

それに本能的に強い恐れを感じる。それは私だけではないだろう。

ACIMがさほどは広がらないわけだ。

エゴをどんどん追及してエゴゲームに勝つことがこの社会での“成功”だと認められているように感じる。

資本主義が進むにつれ勝負はつきやすく、その度合いもグローバルに広がりやすく格差が大きくなるようなしくみにいる。

このゲームでの勝ちに執着できない人や勝てなかった…と思う人にとっては、ACIMは少しは受け入れやすく理解しやすいものだろうか。

誰かが他にいるわけじゃない、勝つ相手も負ける相手もいない。

私が私を赦すのだ。この現世を使って。

私の今関わっている仕事は、基本的に企業やお店の経営のお手伝いだから、いかにお客を集め売上や利益を上げるのかが重要になる。そのためにはどうしたらいいのか、この世に立った視点と、この世はすべて幻想なのだからと取りなす自分の視点がある。

いつものことだけど、ゲームの主人公とゲームプレイヤー、二人の自分がいる。

きっとACIMを学んでいる他の方々も、この世での自分の役目を行いつつ自分のACIM道を進めているんだろうな。

今週はけっこうこのゲンジツの世にどっぷりだったから見え方はゲームの主人公よりだった。それもまた楽し。

レッスン64:私が自分の機能(はたらき)を忘れずにいられますように。

ACIMワークを一巡させていたこの2、3年を振り返ってみると、赦しを実行するというよりは、ともかくワークを進めることと、この世を幻想とみなし執着しないことに重きを置いてきた気がする。

その結果、何を見てもしても「どうせ幻想なんだから」と斜に構えたような現実逃避的な感覚が強くなり、仕事も建前的な感じが強くなった気がしていた。こだわらないのはいいのか、良くないのか。少しずつ周りのみんなと話が合わなくなり、それを口にしないので、口数が減った。

人から見たら、まっとうな変人だ。若い時からそうだけど、ますます…(^_^;) 50代にもなると、人から変人をツッコまれることもなくなり楽ではあるけど。

それが最近は前より、現実に興味が湧いてきた。赦すことさえ覚えていれば、この世をどんどん楽しんでいいんじゃないかと。たぶん、私は赦しがうまくできないのを自覚して、その機会からも逃げていたような気がする。とにかくワークをまず一回終わらせたいと先を急ぐ気持ちもあった。本末転倒なんだけど。

外は春の兆し。この世のゲンジツのあれやこれやも楽しんでもっと人生謳歌したいな、と思うようになってきた。

これはACIMからの距離で測ったら、離れたのかな、そうではないのかな?

このレッスン64のワーク「私が自分の機能を忘れずにいられますように」だけで、一項目になっているところはおもしろい。それだけ忘れやすいということなんだろうと思う。

歩いていて、後ろから猛スピードで自転車が自分の脇をすり抜けていく。怖い…。乱暴な運転だな。たかだか、そんなことですら、私は私の機能を忘れてしまう。

赦すべき機会が訪れたら、そして自分の機能を覚えていたら&思い出したら、赦す。それだけなんだよな。実にシンプルだ。

赦しには大きいも小さいもないって言うけど、今、自分に来る全部を赦せる自信はない。でも、私がなるたけ忘れずにいられますように。

レッスン81-レッスン61、62の復習

2017-02-17

昼。今日の関東はぽかぽか陽気だ。19℃位まで気温が上がるとか。風がすごく強くて洗濯物が飛んでいきそう。花粉症の私にとっては、いよいよ花粉の季節到来だ。薬を飲んだりしたことはなくほとんど放置…だけど、今年はどうだろう。すでに耳かゆいような。

二回目の復習の時が来た。しばらくワークにブランクがあるから、ここにきてまた復習できるのはありがたい。

レッスン61~80まで2つずつ、一日の前半はそのうちの1つの主題概念に、後半はもう一方の主題概念に捧げる、とある。中心となるワークは、主題概念を理解したうえで静かに心からの声を聴くことだ。

ワークブックには、「あなたを待っているメセージがある。自分は必ずそれを受け取る、という自信をもちなさい」とある。

レッスン61:私は世の光である。

私がこのワークで感じたこと…

主題概念を読んだ後心の声を聴いた時すぐに浮かんだことは、「私が世の光ならば、ワークの影に隠れているのではなく、照らす機能(はたらき)があるのではないか」ということだった。当然聖霊さんと二人三脚で。

受け取ったメッセージは、

私はフリーランスで経済的に不安定なことや、気力体力不足を感じ毎日の生活を回すのがやっとだと心配しているけど、

実はシンプルなんだ、

何も心配せず、自分のACIMプロジェクト(ワークやテキストやその他)を感じたままに続けさえすればいい。あとは周りに感謝をするだけ。

それだけで、光が照らす道が開ける…と。

その他諸々必要なことは都度与えられる…と。

難しさがあるとすれば、それを信じてエゴを明け渡すことができるかどうかだけだと。

いかにもACIM的なメッセージのように思える。そして、同様のメッセージを繰り返しいただいている気も。

ワークによって、「自分が世の光と知ったのなら、世の光らしくふるまいなさい」とも言われた気もした。

でもねぇ、、もう一方の自分からツッコミが入る。

しかし「いえいえ、私なんか」というのは、謙遜ではなく自己卑下。裏返せば傲慢なんだ、とメッセージの続きが…。

 

傍からみると、すべて暇人の妄想と見えるかもしれないけど…。

ともかく、自分なりのペースで、日常生活とワークを続けていこう。

レッスン62:赦しは、世の光としての私の機能(はたらき)である。

「赦し」というのは、ACIMワークの中心的概念だ。

ワークをして、やはり、赦しを徹底することが大事、と感じた。

そして赦しが必要な兆候としての自分の「不満」の気配にも敏感でいること。

今週日曜に年上の友人の絵の個展で買った小さな絵のタイトルは「クジャクの嘆き」だった。作者である友人は、絵の中のクジャクが世の中のいろんなことをみんなが当たり前だと思っていることを嘆いているのだって、説明してくれた。

「ほんと、当たり前のことなんてないのよ。私たちこの世に自分で作っているものなんて、何にもないんだから。与えられているのは当たり前じゃないのよ」と。

たしかにな~、私は毎日ご飯を食べているけど、一回も自分で釣ったことないし、お米も作ったことない、野菜も。服もそうだ、コンタクトだって。そう考えるといろんなことがありがたく感じてきた。道も作ったことなければ、テレビも。もちろんスマホも。

そう考えると、少しでもお返しするには、自分に与えられた仕事や役割をちゃんとやることを通してしかないよな。

実際には、寒いってことだけでイラだつ私だ。

すべては当たり前でないってことを忘れないこと。そして私に来たしごとをしっかりやること。都度感謝して、それを表すことなんだな。

どれも得意とは言えないかもしれないけど。

復習Ⅰおわり-レッスン1~50

2016-09-21

ようやくレッスン1~50を復習する「復習Ⅰ」が修了した ♪

ワークブックの最初のこの部分は、「自分の現在の世界観の解体」に着手する部分だという。これまで自分が「世界」だと思ってきたものに揺さぶりをかける。

畑でいうと種をまく前の土壌を耕す段階―真実を受け入れやすくするための準備と言ってもいいのかな。

復習Ⅰのレッスン1~50の主題概念は下記のとおり(『奇跡講座ワークブック編より』。英語もシンプルだから、主題概念だけでも覚えたいと思っている。

 日本語 英語
1私の見ているものには 何の意味もない。1Nothing I see means anything. 
2私に見えて いるあらゆるものに、 私にとってそれがもつすべての意味を与えたのは私自身である。 2I have given what I see all the meaning that it has for me. 
3私に見えているどんなものも、 私は理解していない。 3I do not understand anything I see.
4これらの考えには何の意味もない。 4These thoughts do not mean anything. 
5私は自分で考えているような理由で、動揺しているのではない。 5I am never upset for the reason I think.
6私が動揺しているのは、存在しない何かをみているからである。6I am upset because I see something that is not there.
7私は過去だけを見ている。 7I see only the past.
8私の心は過去の考えにとらわれている。 8My mind is preoccupied with past thoughts.
9私は、何も今あるままに見ていない。 9I see nothing as it is now.
10私の考えには何の意味もない。10My thoughts do not mean anything.
11私の無意味な考えが、意味の無い世界を私に見せている。 11My meaningless thoughts are showing me a meaningless world.
12私が動揺しているのは、意味のない世界を見ているからである。 12I am upset because I see a meaningless world.
13意味のない世界は恐れを生み出す13A meaningless world engenders fear.
14神は意味のない世界を創造しなかった。 14God did not create a meaningless world.
15私の考えは、私が作り出した形象である。15My thoughts are images that I have made.
16私に中庸な考えはない。 16I have no neutral thoughts.
17私は中庸なものを見ていない。 17I see no neutral things.
18私の見方がもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。18I am not alone in experiencing the effects of my seeing.
19私の考えがもたらす結果を体験するのは、私ひとりではない。19I am not alone in experiencing the effects of my thoughts.
20私はぜひとも真に見たい。 20I am determined to see.
21私はぜひとも別な見方でものごとを見たい。 21I am determined to see things differently.
22私が見ているのは、復讐の一形態である。 22What I see is a form of vengeance.
23攻撃的な考えを放棄することで、私は自分の見ている世界から脱出できる。 23I can escape from the world I see by giving up attack thoughts.
24私は自分の最善の利益を知覚していない。 24I do not perceive my own best interests.
25私は私が何のためにあるのかを知らない。 25I do not know what anything is for.
26私の攻撃的な考えが、決して傷つくことのない私の強さを攻撃している。 26My attack thoughts are attacking my invulnerability.
27私は何にもまして、私は真に見たい。 27Above all else I want to see.
28何にもまして、私はものごとをこれまでとは違った見方で見たい。 28Above all else I want to see things differently.
29私が見ているあらゆるものの中に、神がいる。 29God is in everything I see.
30私が見ているあらゆるものの中に神がいる理由は、神が私の心の中にいるからである。 30God is in everything I see because God is in my mind.
31私は自分が見ている世界の被害者ではない。 31I am not the victim of the world I see.
32私が、自分の見ている世界を作り上げた。 32I have invented the world I see.
33世界について別の見方がある。 33There is another way of looking at the world.
34私はこれを見るかわりに、平安を見ることもできる。34I could see peace instead of this.
35私の心は神の心の一部である。 私はとても神聖だ。 35My mind is part of God's. I am very holy.
36私の聖性は、私が見るものすべてを包み込んでいる。 36My holiness envelops everything I see.
37私の聖性が世界を祝福する。 37My holiness blesses the world.
38私の聖性にできないことは何もない。 38There is nothing my holiness cannot do.
39私の聖性が私の救済である。 39My holiness is my salvation.
40私は神の子として祝福されている。 40I am blessed as a Son of God.
41私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。 41God goes with me wherever I go.
42神が私の強さである。 ヴィジョンは神からの贈り物である。 42God is my strength. Vision is His gift.
43神が私の源である。 私は神から離れて見ることはできない。 43God is my Source. I cannot see apart from Him.  
44神は光であり、その光の中で、私は見る。44God is the light in which I see.
45神は心であり、その心と共に私は思考する。 45God is the Mind with which I think.
46神は愛であり、その愛の中で私は赦す。 46God is the Love in which I forgive.
47神や強さであり、その強さを私は信頼する。 47God is the strength in which I trust.
48恐れるべきものは何もない。 48There is nothing to fear.
49神の声は、一日中、私に語りかける。 49God's Voice speaks to me all through the day.
50私は神の愛によって支えられている。 50I am sustained by the Love of God.

レッスン60-レッスン46~50の復習

2016-09-19

敬老の日

今朝は母の電話で起きた。

朝刊を取りにポストを見たら、私が送った「敬老の日」ギフトがあったと。

ユニクロでベージュの薄手のセーターを買い、それにオレンジピールチョコを足してゆうメールをポストに入れたのが、土曜日の夕方。もう着いたんだ。

喜んでくれている。よかった♪

洋服はだれでもそうだけど、好き好きがある。とくに母はこだわりがいろいろ細かい。

過去も何度も“失敗”し、無駄遣いだと言われ、「もう服を買って送るなかれ」指令を受け取っていたから、止めようかなと思っていたけど、食べ物というのも同じくむずかしい。お菓子はひとり暮らしの私がもらってうれしい一方つい食べ過ぎて困るものだし…と迷っていたのだ。

ユニクロだったら、安いしシンプルだし、気に入らない場合は、私が引き取ればいいんだ、とそれにした。

小言を言われるの覚悟で送ってたから、「ありがとう、ちょうどよかった」と言われ、ほっとした。

幼い頃は「こわい」母が大きらいだった。早くから心のシャッターを下ろし自閉的に生きてきた気がする。

50代になった今。家族を作ってこなかった分自由で楽な一方、やはりさみしくもある。今は母がいてくれることがとってもありがたいのだ。

レッスン60-レッスン46~50の復習

ここ数日はレッスン60の復習をしていた。

主題概念は以下のとおり。レッスン46~50の復習。

46)神は愛であり、その愛の中で私は赦す。

47)神は強さであり、その強さを私は信頼する。

48)恐れるべきものは何もない。

49)神の声は、一日中、私に語りかける。

50)私は神の愛に支えられている。

               *   *   *

ワークブックのl60の説明文でとくに好きというか響いたのは、

「赦しは、私が自らの無垢性を認識するための手段である。それは神の愛が地上に反映されたものである。」(l46)

「私は、私自身の強さによって赦すのではない。私の中の神の強さによって赦すのであり、赦すとき私はその力を思い出している。」(l47)

「私が赦し、私を赦した世界の中に、恐れるべき何があるというのだろう。」(l48)

「私が赦すとき、神の子は無罪であることを、神の愛が私に思い出させてくれる」(l50)

気づいたらとくに「赦し」について書かれたところばかりだ。中でも「自分の強さによって赦すのではなく、神の強さによって赦す」という文言が響く。

なんでかな?

頑張って強くならなくていい、と思えるからかな。自分の中に「神」に通じるものを、ふっと、感じることができるからかな。

やさしくなった?

「赦し」という概念がどういうものかわかっているか、実行できているのかわからないけど、ワークを重ねてきて、

周りの人がやさしくなった、と感じることがある。それは、コンビニのやスーパーの店員さんが丁寧に接してくれる、とか、横断歩道で車がちゃんと止まってくれるようになった、とか、とってもささいな事。

そして親戚から、たまちゃんは「やさしくなった」と言われることが増えた。

自分が赦しによって自分を責めることが少なくなって肩の力が前より少し抜けたから、そう見えるのかな?

前にふと何かで見たのに、

「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」みたいな文があった。あれは…『なまけ者のさとり方』だっけ??

これを赦しで言うと

「赦すことがわからなければ、そのわからない自分を赦しなさい」となる。

わからない。

わからないけど希求している。それはわかる。

だから、ゆっくり導かれるままにやろう、と思う。

レッスン59-レッスン41~46の復習

2016-09-14

昨日、おとといはレッスン59をやってきた。主題概念は以下のとおり。レッスン41~46の復習。

41)私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。

42)神が私の強さである。心眼(ヴィジョン)は神からの贈り物である。

43)神が私の源である。私は神から離れて見ることはできない。

44)神は光であり、その光の中で、私は見ている。

45)神は心であり、その心とともに私は思考している。

               *   *   *

「神がいつでもともに行くというのに、どうして私がひとりになったりするだろう。神の中に完璧な確かさがあるというのに、どうして私が自分を疑ったり、自分に不安に思ったりするだろう… …自分についての幻想を大切にすることはやめよう」(l59)

主題概念のそれぞれの説明文が、いちいち私の心を揺さぶる。だから、とくに気になったところをもう一回書きたいと思うと、結局ぜんぶになってしまいそうだ。

ワークの内容はワークブックに書かれているのだから、私がそれを中途半端に抜粋したり言い換えたりしても、私には復習にはなるけどブログとしては意味ないな、と思っている。まあ、でも成り行きまかせにしよう。

上記のレッスンの主題概念の中で、もっとも好きなのが、l42の「神が私の強さである」というフレーズだ。

God is my strength.

God is my strength.

神が私の根拠だった…

この短い言葉を何度も心で唱えるだけで、なんとも言えない安らぎとなつかしさのようなものを感じる。なんとありがたいことよ!

だけど、一方で、ACIMに沿って生きられているかといえば、それはまた別のこと…になる。私の場合。

とくに誕生日月の今月、そして晩秋の11月あたりは、過去に思いが引きずられ、魂が旅をしたがる。

あの頃はああだった…

あの時ああしていたら…

ACIMには過去という概念はない。過去は幻であり後悔はエゴが仕掛けるトリック、心眼にはほど遠い。

そして5年に一度の免許証の書き換えのお知らせ…誕生日が過ぎたのにまた行けてない。

免許証に映る写真を気にしているのだ。更新手続きは誕生日後の一ヶ月ある。それまでに頬をちょこっと引き締めたいのだ(具体的にはフェイスストレッチ…今は顔ヨガというのか、をする、効果のほどは経験済み)。

姿かたちにこだわるとは、これもまた幻想への執着であってACIMの教えに反しているのでは…と思うけど、一方、少しでも若くと思うのも本音。

ワークを続けていたら、いずれ、私のこういう“煩悩”も薄れていくのだろうか。

何年後かにこのダイアリーを見て、「あの頃はまだ若く未熟だった」と振り返ることがあるか。それだったら、ダイアリーは軌跡として役にたつかのもしれないなぁ、と思う。

レッスン58-レッスン36~40の復習

2016-09-12

気温27℃。湿度が高く蒸し暑い。先週は一日の終わりの夜のワークがなかなかできず、レッスン58で足踏みしていた。

レッスン58の主題概念は以下のとおり。レッスン36~40の復習。

36)私の聖性は、私が見るものすべてを包み込んでいる。

37)私の聖性が世界を祝福する。

38)私の聖性にできないことは何もない。

39)私の聖性が私の救済である。

40)私は神の子として祝福されている。

               *   *   *

聖性とは、聖なる質を持った存在であるということ。私たちはもともと罪ある存在ではなく、無辜(むこ)であり無垢であるということ。

私たちは神から延長した神の子であり神と同じく聖なる存在である。それが私たちの聖性の根拠である。

このゲンジツの世では聖なるものとは対極なものばかりが目につくが、それは私たちが幻想を見ているからにすぎない。

自分の聖性を認め正しい見方を身につければ、「私に見えるのは世界の聖性だけである。なぜなら、私は自分自身について抱いている考えしか映像化することができないからである」(l36)

私たちが聖なるまなざしで見る時、私たちが目にする世界は祝福されたものとなる。

私たちの聖性を共有していないものはない。

「聖性の光の中で私が見るあらゆる人、あらゆるものが、聖性が私にもたらす喜びを共有する」(l37)

また「聖性は、その癒しの力において無限である」(l38)

そして、「私の聖性が私をすべての罪悪感から救うのだから、私の聖性を認識することは、私の救済を認識することである」(l39)

そして、ここがおもしろいというか気になるところなのだけど、「そして、私が恐れないからこそ、私の理解するところを誰もが必ず共有することになる」(l39)

「私が恐れないからこそ」なのだ。恐れなき状態でみんなの中にいること自体に大きな意義があるのだ。

そして、レッスン40では「私は神の子として祝福されている」と、一巡して締める感じ。神の子だから⇒聖性、聖性だから⇒世界を祝福する、私は神の子=祝福されている。

何より勇気づけてくれることばは、「すべてのよきものは私のものである」「私は神の子であるからこそ、何かを失ったり奪われたり、苦痛を被ったりすることはありえない」(l40)根拠は神の子たる私たちが幻想以外で神以外の特質を持ちえないから。

だから、必要なことは、ただこの世の幻想性を手放し、あらゆるものを聖なるまなざしで見ること。

はっきり理解はできないし正しい見方が身についているわけでもないけれど、私は、私たちがそもそも「何かを失ったり奪われたり、苦痛を被ったりすることはありえない(それは神の意図ではない)」と言われたことで、大いに気が楽になった。

漠然とだけれど、「こんな私が幸せになってはいけない」みたいな思いでずっと生きてきたから。ACIMから無辜だと言われたことで体から力が抜けて許されていくのだ。

だから私も赦す。

罪なき心に痛みはありえない。欠乏し痛んでいるとしたらそれは幻想を見ている証拠だ。それを赦す(手放す)よう努めるだけだ。

レッスン57-レッスン31~35の復習

2016-09-06

初秋に思うこと

2013年の6月からスタートしたACIMのワーク。2015年12月にようやく365のワークを終えた。そしてその後今年5月から2巡目を始めた。

昔のノートを見て返してみたら、3年前の9月3日にレッスン57をやっていた。この頃は仕事がとても忙しく、その忙しさのなか必死にワークを進めていた様子が見える。途切れながらも頑張っていたが、秋半ばレッスン80あたりでとうとう中断、翌年3月にレッスン30から再スタートしている。

この3年と数ヶ月、私は成長しているんだろうか。

自分ではわからない。仕事が徐々に減り、とにかくワークを終わらせたいからむしろいいんだ、と思ってきたけど、気づくと元々ビジネス向けでない性格がさらに隠遁者のようになっており、むしろ社会的には後退というか、大問題になっている気もする。

父の介護が必要になってきたあたりから、故郷の富山に頻繁に帰省していたこともあって、忙しくなりすぎることを恐れていた。その頃から「東京にがっしり根付きたい」という意識が持ちにくくなり、故郷にいる両親のことが気になるようになってきた。

昨年父が亡くなり、この夏、一人で住まう母の姿を見て、ますます故郷が気になってきている。

でも、潔癖症の母と一つ屋根の下に暮らす自信はないし、東京での一人暮らしに慣れた身にとってご近所の目を気にする田舎は窮屈な気がして、決意ならず。宙ぶらりんな感じ。

もしいずれ母の介護が必要になったら、住まわざるをえないとも思う。だったら早めに舵を切ったらいいのではないか。でも、仕事はどうする?向こうで勤めるなんてこと、集団や組織が苦手な私には想像しにくい。

できたら、ノマド生活というか、どこでも働けるネットビジネス的なことができないかな~というのが、今の私の思うことだ。要するにワガママで選択肢があって恵まれている、ということなんだろうけど。

こういうぐるぐるした考えは、いかにもACIM的ではない。

ホーリースピリットからの導きは…?

ちゃんと受け取れているわけではなくなんとなくだけど、

ずっと前から故郷で住まうことを勧められているような気がする。

でも、じゃあどうやって?

気がするというけど気がするのは本物?

と、また考えは廻る。

レッスン57―レッスン31~35の復習

レッスン57の主題概念は以下のとおり。レッスン31~35の復習。

31)私は自分が見ている世界の被害者ではない。

32)私が、自分の見ている世界を作り上げた。

33)この世界について別な見方がある。

34)私はこのかわりに平安を見ることもできる。

35)私の心は神の心の一部である。私はとても神聖だ。

               *   *   *

私たちが住むこの世界は、自然災害がありテロへの恐怖があり、貧困があり、仕事で理不尽なことがあったり、病気になったり、思うにまかせない世界だ。もちろん夢がかなったり成功したり…もあるけど、それは一時的なことにすぎない。ACIMはこの世を自分が自分を囚われの身としている「牢獄」だと言っている。

ただ「この牢獄は私自身が作り上げたものだ」(l32)

「私を縛る鎖はゆるんでいる。私はそうしたいと望むだけで、鎖をはずすことができる。牢獄の扉は開いている」(l31)

「ここにとどまりたいという私の願望だけが、私を囚人としている」(l31) のだ。

この世を牢獄にしているのは私たちがエゴの見方でものごとを見ているからだ。エゴの見方の根底には、恐れと罪悪感があり、それが私たちを見えない牢獄に縛りつけ罰を与えている。

でも私たちは「すべてを逆さまに見ていて、私の考えは真理とは正反対になっている」(l33)

「私はこのかわりに平安を見ることもできる」(l34)

つまりエゴの見方を捨て、心眼(ヴィジョン)でものごとを見ることができれば、艱難辛苦のベールの向こうにある自由を感じ取れる。

そこにあるのはたしかに神の法則だ。

神の法則を見るためには、赦すこと。この世の幻想性を受け入れ、自分の心の奥にある神の世界のリアリティに立つ。

赦せば赦される。

私の偽りの罪が購われて、「自分を含めた生きとし生けるものの聖性、それらのものと自分との一体性を理解し始める。」(l35)

               *   *   *

私はACIMの美しい世界に憧れを感じるけど、それはまだ憧れレベルなんだな。それをこのゲンジツの世でどう生きたらいいのかは、まだわかっていない。

わかろうとするのを自分で邪魔しているのか。扉の外から「おいで」と声をかけられて牢獄の片隅で身を固くしているのだろうか。とも、ふと思う。

レッスン56-レッスン26~30の復習

2016-09-02

9月か…。まだ蒸し暑い。けど真夏の攻撃的な暑さじゃない。9月、10月はものごとを進めるのにいい季節だと思う。読書の秋、芸術の秋…こころに染みる秋の始まりだ。

ワークを進めながらダイアリー・ブログには何書いたらいいんだろう、と未だ迷走中だ。でも、どんなかたちでもアウトプットをすると、学んだことが定着する気がする。書くことで気づいたり理解できたりすることもある。

レッスン56は次の5つの主題概念を復習した。

26)私の攻撃的な考えが、決して傷つくことのない私の強さを攻撃している。

27)何にもまして、私は真に見たい。

28)何にもまして、私はものごとをこれまでとは違った見方でみたい。

29)私が見ているあらゆるものの中に、神がいる。

30)私が見ているあらゆるものの中に神がいる理由は、神が私の心の中にいるからである。

レッスン26~28

神を自分の意志で離れた、と勘違いしている私たちは、神はひどく怒っており報復があるにちがいないと死ぬほど恐れている。その罪悪感と恐怖はあまりにも大きいため自分で意識することすらできない。だけど常に私たちの根っこにある。

だから私たちは「自分自身を常に攻撃にさらされている者」と感じ、「苦痛、病気、損失、老齢、死などが私たちを脅かしているように見える」(l26)

これがエゴの見方であり、まさに私たちが日々見ているのがこれだ。人生の前半は夢や希望や野心とともにポジティブに人生に挑んでいける。しかし中年期以降になると、夢を実現していようといまいと、おカネがあろうとなかろうと、自分の人生は自分ではコントロールできない何かに翻弄され脅かされ続けている、と感じることが多くなるのではないだろうか。

でも、ACIMは、まったくちがうという。私たちは真に神の延長であり、神の「完璧な安全と完璧な充足感」こそが私たちが神から賜ったものだという。「私自身の真の想念が、それが何であるかを教えてくれる」(l26)

だからこそ、「何にもまして、私は真に見たい」(l27)と思うことが第一歩だ。正しい見方、心眼(ヴィジョン)を得ることによって、真実を見ることができるようになりたいと自分を方向づけするのだ。

今、私たちが見ている世界は、エゴの自己像の投影だ。たとえ病気の世界が見えていても、借金だらけの世界が見えていても、いじめの世界が見えていても、それらはすべて自己イメージをこの世というスクリーンに自己像を映し出しているにすぎない。

今いるこの世界は、映し出された結果の世界だ。私たちはこれを「嫌だ」「困った」「ひどい」「許されない」などとみんなで言い会う。それによって幻想を支えあってリアルにしている。もちろん、一人ひとりの私たちにはそんな意識はないけれど。

罪悪感と恐怖に満ちた自己イメージを手放すことこそが、私たちを真理に導く。真理は失われたわけではなく私たちの心の奥底に息づいて、今もあるのだから。

ただまやかしの自分を幸せにしてくれる種をいくつ手に入れても、効果は一時的で心に奥底にある恐怖と罪悪感が返ってくる。

その間違った見方は、私たちを常にストレスにさらし不安にする。

だから、その見方を矯正したい、「何にもまして、わたしはものごとをこれまでとは違った見方で見たい」(l28)と心から願うのだ。

「今見ているように、世界を見ている限り、私は真理を自覚できるようにはならない。この世界の背後にある扉を、私のために開いてもらおう」」(l28)

「そうすれば、そこを通り越して、神の愛を映し出す別の世界を見ることができるようになる」(l28)それが、実相的な世界を見る心眼(ヴィジョン)だ。

レッスン29、30

私たちが住むこのゲンジツ世界は、真理を覆いかくすベールがかけられた幻影だが、「すべてのベールの背後で、愛の光は今も翳(かげ)ることなく輝いている」(l29)

私が見ているあらゆるものの中に、神がいる(l29)。

私たちが見ているこの世は、神が作られたのではない。これは勘違いした私たちが神の報復を恐れて作った間違った自分=エゴが作った偽りの仮想世界だ。

私たちが恐怖の自己像を手放し、心の奥に持っている神を呼び起こしさえすれば、私たちが目にするものは変わる。そして世の中は変わる。

私が見ているあらゆるものの中に神がいる理由は、神が私の心の中にいるからである(l30)。私たちが自分の恐怖や怒り、罪悪感に気づいて赦すと私たちの心の奥にある神の存在に気づくことができる。そして、この仮初めの世に内なる神を投影できた時、目にするすべてのものは神を表すものとなりうる。

               *   *   *

結局、復習しつつ解釈して書き映しになってしまった。

エゴの見方から、実相を見る見方へ、日々訓練。

これって筋トレみたいだな。

最初は負荷が小さい、守られた静かな空間で。理屈が浸透してきたら、負荷をかけて人との関わりの中で。

秋…からだを動かすにもいい季節だな。

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