『奇跡講座』 ワークブック

ACIMレッスン204-レッスン184の復習

2018-09-06

北海道で大地震、備えていない私

目覚めてスマホ画面を見て、びっくりした。

最大震度6強、とある。

地震?

北海道…? 午前3時8分…。

今度は地震?…、と思ってしまった。

テレビを付けたら、土砂崩れ、液状化、家屋倒壊といった怖ろしい映像が映った。被害はまだ明らかではない。もっと広がるだろう。

このタイミングで…だけど、9月1日は防災の日だからだろうか。マンションの管理組合さんから、各住戸に水と乾パンが配られた。

備蓄していたものの賞味期限が近くなってきたため、各戸に配って新しいものを買うのだとか。

「この乾パン、けっこうおいしいらしいよ」と管理人さん。

東京など人口が多いエリアで大地震が起こったら、人が多すぎて、救助どころではないだろう。中枢の交通網やインフラにダメージが起こったら、人も流通も大混乱。もうそれだけでパニック、カオスではないだろうか。

まず電気が止まった段階で、エレベーターは使えない。水もダメとなると…。

東日本大震災後、一時人気が落ちたタワーマンションだが、再びここ数年都心湾岸で人気↗、都心の地価上昇に一役買っていた。大丈夫かな?

…というより、私だ。

災害への備え…まったくしてない。

備蓄。料理に使うサバ缶とシーチキンくらい(備蓄とは言わないか)。

いくらずぼらでも…、

これだけあちこちで災害が起きているのだから、少しずつでも準備しよう。

レッスン204-レッスン184の復習

(レッスン184)神の名は、私が受け継いだ賜物である。

このレッスンでは、この世における「名づけ」の意味が示されていた。

名つけとは、

1.自分と切り離して認識するための手段であり(分離化)、

2.名づけることによって、自らが統治でき(自らを神とする)、

3.幻想に現実味を付与する。

すなわち、この分離した幻想社会を形づくるための有力な手段だという。

そして、私たちは幼い頃から長い時間をかけて、名づけられたものを習得してきた。それこそが、ここでの学びでありコミュニケーションの手段だ。

でも、ここで大事なのは、それをリアルとはしないこと。

自分が世界を作ったと考えてはならない。幻想ならば確かに作り出した!しかし地においても天においても真実なるものは、あなたによる命名を超えたものである。」(L184-8-1)

闇の世界を描写する卑小な名称や象徴はいくらでも使ってかまわない。しかしそれらをあなたの実相として受け入れてはならない。」(L184-11-1)

無数の名づけによって成立しているこの世で、たくさんの名を用いながらも、それを超えて真実を見る。

意志疎通コミュニケーション と真の 親交コミュニケーションは別のものだ。

周りの人のなかに神の子を見る。

神に名はない。

ただすべてが、つまるところ神に集約されていき、ただそれだけになる、という意味で、それは一なるものの象徴であり、一なる名である。

それはまた、私たちにそもそも与えられている、備わった名だ。

肉体でない、だけど健康づくりはしたい

復習Ⅵとして、それぞれのレッスンの復習とともに軸となる概念を学んでいる。

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私だから。

私は肉体ではない。

私は引っ越して落ち着いたらいくつかの身体の不具合に対処したり(病院苦手で先延ばししてきた)、筋トレ・ストレッチなどの体づくりをしたいと思っていた。

そして、今もやはりそう思っている。

肉体ではないと思うことと、体への配慮は矛盾しないよね?

それも、また体をリアルにしてしまうことなんだろうか。

ACIMレッスン203-レッスン183の復習

2018-09-05

台風21号去る

あ゛…、コーヒー…、今日もやってしまった。(参考日記:レッスン202-レッスン182の復習

粉を少なめにした上に溢れされてしまい、今日も薄いコーヒーになった。二日連続…、不調なのかな?

台風21号は、関西空港でタンカーが連絡橋に衝突したのを初め、列島各所に大きな爪痕を残して去っていった。

今朝のウォーキング時にも、大きな植木鉢が倒れていたり、大きな枝が折れて飛ばされていたりしたのを見た。

私が数日前にgetして喜んでいた小枝の類もたくさん…たくさん落ちていた。

最近「異常気象」とか「例年に類のない」といった言葉を「頻繁に」聞くようになった気がする。もはや平時が異常になった時代ー非常時時代ーなんだろう。

台風は去ったが、家の外ではヒューヒュー、ビュービュー、今日もものすごい風の音だ。少し慣れたけど、怖い。特に不意に鳴る高音の風が(>_<)

レッスン203-レッスン183の復習

(レッスン183)私は神の名と私自身の名に呼びかける。

8/24~28頃にやっていたワークで、ワークをした日から日にちが経っているから、何だっけ?となっている。なるたけ乖離を縮めたい。

「神の名を繰り返しなさい。」(L183-3-1)

すべての名は幻想に名づけられたものだが、唯一名があるとすればそれは神であり、神に呼びかける者は自らの神性に呼びかける者だ。

私たちの神性はここで眠った状態だが、神の名を呼ぶことは自らの神性を揺り起こすことに他ならない。

私たちの内に神はある。

神は外に探すものではなく、内に開くものだ。

すでに在るものを解き開くのだから。

宇宙は唯一、父に呼びかける神の子だけで構成されている。」(L183-11-4)

絵を描く目的がわかった…?

このワークをやっていた頃のノートには「絵を描く目的がわかった」と書いている。

ワークをやっていたのは、ちょうど色えんぴつ画の作品展の時だった。

先に色えんぴつ画を習っていた友人の作品展を見て「すごいね~、色えんぴつで描いたとは思えないよ」と言ったことがきっかけで、私も始めることになったのだけど、正直絵を描く目的はなかった。

趣味を聞かれても何も答えられなかったから「月1回で負担も少ないし、これを趣味とすればいいかな」と、やや不純な動機だった。

でも、最近先生が出された題材ではなく自由画を描くようになって、私は「神さまを感じる瞬間」や「神性の癒し」のようなものを描きたいのだと思った。

もしかしたら、他のみんなもそうなのかな?

自分が感じる何か、と描きたいんだよね。

下手でいい。かたちのない神を見えるかたちにする。

私自身が神性を感じた瞬間を集めていくといいかもしれない、と感じた。

ACIMレッスン202-レッスン182の復習

2018-09-04

朝のコーヒーが占う心模様

毎朝自作のマグカップに、プラスチックのドリッパーを乗せてひとり分のコーヒーを入れる。

マグカップは昔むかし区の陶芸講座で作ったもの。講座中作ったもののなかでいちばん不格好だ。でもそれでか逆に癒される。ドリッパーがぴったり収まってコーヒーを入れやすいところも気に入って、もう15年以上毎日使っている。

コーヒーを入れる時、自分の心理状態がわかる。

小さな鍋から少しずつお湯を注ぐのだけど(やかんは持っていない)、自分でも気づかないうちに、心ここにあらずだったり不調な時は、お湯を入れ過ぎて溢れさせてしまうのだ。

今日がその日だった。

あ゛…しまった、こんなに。

気をつけよう。

非常に強い台風21号が来ているというから、それも影響しているのかな。

もはや外は風がびゅーびゅー鳴っている。ベランダのものは全部家に入れた。

7月の豪雨や台風20号のダメージがまだ残っているところも多いだろうに…、なるたけ被害が少なく通り過ぎますように。

レッスン202-レッスン182の復習

(レッスン182)私は、一瞬の間静まり、家に帰る。

レッスン182は、お盆が終わって東京に戻ってきた頃やっていたワーク(ワークと日記が離れすぎ)。その頃は台風19号と20号がいっぺんに近づいていた。今年は台風多い…。

私たちは、この宇宙のなかの地球のここがわが家だと思っているけれど、ここは私たちが本来いるところではない。

遠い記憶のどこかで、私たちはそのことを知っている。

だけど、ここでうまくやるには、そんなことに係ってはいられないとも思っている。だいたいに忙しくてそんなこと考えている暇などない。

でも、心の中には幼子がいて離れた親を探すかのように「ここじゃない、お家に帰りたい」と訴えている。

その子は、私たちの内なる無垢性の象徴だ。

その子は、私たちが急ぐ道がどこにも行きつかないことを知っている。私たちがこの世で役立ちそうな道具ばかり集めるが使わずじまいで身動きが取れなくなっていることも知っている。

内なる子どもの声を聴くには、スペースが必要だ。空間と時間。

そして心。

空いた時間と場所と心があれば、無垢な幼子はいつでもどこでも顔を出す。

思い切ってこの子に道案内を任せよう。

…と、そんなことを言っている(ような気がする)。

「防衛しないことの強さ」が欲しい

幼子の無垢性は素晴らしい。

そして、私が憧れるのは、その子が象徴する「防衛しないことの強さ」だ。

防衛しなければならないと思うがゆえ、常に周りを気にしテンパっていてエネルギーが無駄に必要だった、しかも自分から遠ざかっていた気がするから。

私が防衛するということは、裏を返せば、私には攻撃する気があるということだろう。

その攻撃性を少しずつ減らしていきたい。

その攻撃性は自分に向けられているものでなんの役にも立たないものだと知っているのだから。

自分のなかにいる無垢な幼子を安心させたい。

その幼子が手を引いていくところに向かうとしたら、その子は私をどこに連れて行こうとするだろうか。

復習Ⅵへ & ACIMレッスン201-レッスン181の復習

2018-08-29

復習Ⅵへ

復習Ⅵは、レッスン181~200の復習。

毎日1つずつ主題概念を取り上げ、それをできる限りたびたび練習する。」(復習Ⅵ序1-1)

朝と夜にそれぞれ少なくとも15分を捧げ、1日を通して1時間ごとにそれを思い出し、その合間の時間にもできるだけ何度も使用する。」(序1-2)

…とある。

最近の20の想念を一つずつ丁寧に染み込ませていく。

よく理解され、練習され、受け入れられ、一日を通して生じるかに見える出来事のすべてに適用されるなら、それぞれの概念にはこのカリキュラムのすべてが含まれている。」(序2-2)

そして、前回の復習時と同様、軸となる概念があり、各レッスンの前後は次の概念で終わるようにとされている。

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから。」(序3-3,4,5)

一日をこの概念とともに始め、それとともに終える。そして私たちは毎時きっかりにこの概念を繰り返す。」(序3-6,7)

練習には形式は設けないとしながら、例外として、

雑念をそのままにしておかないこと」(序5-2)という留意点が示されている。

誘惑があるときには、

この考えを私は望まない。そのかわりに、こちらを選択する__」(序6-2)

と解放を宣言する。

…読み返しながらポイントと思うところを書きだしていたら、冗長になってしまった。

レッスン201-レッスン181の復習

(レッスン181)私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。

このレッスンはお盆帰省中とそれから東京に戻ってきた時にやっていた。

復習Ⅵを貫く機軸となるテーマ「私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私なのだから。」には、どちらかというと苦手意識がある。

個としての「肉体」と「私」に執着があるから。

私はずっと自分を体だと思い、その「私」の自己実現に関心があった。

関心があるのは「私」であって、同胞-この世の兄弟姉妹―にはあまり関心がなかったのだ。

でも兄弟姉妹と自分はひとつで、出会いに偶然はなく、自分の無意識にあるものを見せてくれている、と知る今…。

自分の中の「束縛されてしまう」という恐れに気づく

ワークをして感じたのは、このワークと直接関係がないようにも思えるのだが、「(制約を設けず)この世でしたいことをすればいい」ということだった。

しかし、果たして、それは何?

気づいたことは、私の中にはずっと「束縛されてしまう」という恐れがあること。

「束縛」自体ではなく、「束縛されてしまう」恐れに支配されている。

根底に対人恐怖があるのだろうか。周りが怖くて、学校でも職場でもその他の場でも、いつもその場の何かに孫卓してしまう。よく言えば「空気を読む」なのか?

そして、八方美人になり、過剰適応してしまう。

いわゆる「いい子」をやってしまい(できているかどうかは別)、そのことに自分自身が疲れてしまい、その場を去りたくなってしまう(それで、旧居も逃げ出した?)。

そういう自分が好きじゃない。つまらないなぁと思う。言いたいことがちゃんと言えて、したいことができている(ように見える)人に憧れる(なんでか、ホリエモンの顔が浮かんだ)。

恐れを手放し兄弟姉妹を信頼するという、私のお題に気づく

いい子になろうとして自滅するパターンは、長男長女に多いかもしれない。

その心理の根底にはやはり「恐れ」があるのだと思う。

私は、物ごころついた頃から、常に恐れているのだ。

もう気づいた頃には、周りに受け入れられるだろう「キャラ」を身につけていた気がする。それは、膨大な無駄なエネルギーが要った。

もう、そんなエネルギー使う気がしない。

でも、でもー。

自分が本当に「やりたい」ことならば、恐れなくてもいいのではないかー

今、そう思う。

私は自由でありたい。

どこにいても、ゆったりにこにこしていて、いいんだ。

そういう自分でいたい。

そのためには、レッスン181の「私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。」(L201-1-1)は不可欠なのだ、と改めて気づいた。

ACIMレッスン200-神の平安のほかに平安はない。

2018-08-27

暑さが終わったら、今年もおわり~!?と、焦る

お盆を過ぎた頃ふっと涼しい日々があり、「また暑くなるんでしょうけど、私的にはもう夏は終わったと思ってます」と言っておられた方がいた。

私もそれに習って、お盆後「夏終わり、もう秋」とした。

だけど、ここ数日猛暑がぶり返していて、暑い…。

また、暑い、暑い…と言って、そのうち涼しくなったと思ったら、今年もあと○○ヶ月ですね、となって、ハロウィーン、クリスマス…と商戦で町が賑わい、あ゛~、今年も終わり…だ

…と、焦る(*_*;

なぁ~んにも、してない、、、私。

時間なんて、意味ないはずなんだけど。

暑くても、できることやろう。

ACIMワーク200-神の平安のほかに平安はない。

レッスン200は、私たちは常に平安を求めているが、それを探す場所を間違えている、と言っている。

世間的に、平安につながると思われている、社会的な成功や達成、名声、権力、おカネ、美貌、魅力…、そうしたものは、一時的な快楽や喜び、興奮を与えてくれるかもしれないが、私たちが心から求める永続的な幸福感や平安をもたらしはしない。

平安は神に拠らねば満たされない。

…と言っている。

なぜなら、そうとは見えなくても、神以外はすべて幻想だから。錯覚にすぎないのだから。エゴの煙幕にすぎない。

だから、そうしたものに惑わされて無為にさまようのではなく、ダイレクトに平安の源である神に拠りなさい

そのために、赦しなさい

幻が、本来ではありえない不安や恐怖、罪悪感、嫉妬、怒りが自分の心の内にあるのを見せてくれた時には…。

それが、錯覚から正気を取り戻す唯一の道なのだから。

常に同じ中身だけど、たぶんこういうことを伝えているのだと思う。

要は、渦中でも赦しを思い出すこと

やはり、要は赦しなのだ。

赦しは何をするのだろうか。真理においては、それは何の機能もなく、何もすることもない。なぜなら、赦しは天国では知られざるものだからである。

それは地獄においてのみ必要とされ、そこでは強力な機能をする。」(L200-6-1,2,3,4)

神だけが確かであり、神が私たちの歩みを導く。」(L200-9-4)

神様だけが現実。そのための赦し。

この考え、自分としては「わかっているつもり」だけど、それも「何かが起こるまで」。

何かがあると、不思議とこの世が幻想とは思えなくなる。

一瞬で圧倒的ゲンジツ感の渦中に巻き込まれ、神さまはぶっ飛ぶ。

そして、その時の自分の感情が正当なものと感じられる。

そして、ワークの中身が遠くおぼろげになる。

不思議。

だからこその、ワークであり、練習なんだろうけど.

今ここでは、まず「暑さ」を赦すことかしらん?

「忙しさ」について感じたこと

このワークをやっていた時、「忙しさ」についても感じるところがあった。

忙しくしないこと。

「忙しくするのは、電車の中で走っているようなものだ。」と。

これも、社会的な一般論とは異なるから言いにくいところはあるけれど、忙しさをよしとする背景には、神を忘れる、死を忘れる、罪悪感を晴らす、といった無意識の目的があるのかもしれない。

平安でいいのだ。

頑張らなくても、忙しくしなくても、ありのままで平安でいいのだ。

これを実践してみたい。けど、まだ怖くもある。

ACIMレッスン199-私は肉体ではない。私は自由である。

2018-08-24

祝準優勝、金足農業が見てた人みんなの「ひたむきスイッチ」押した!?

第100回の高校野球決勝が終わって三日。

やっぱり、高岡商業を破った(三回戦:3-1)大阪桐蔭は強かった。史上初の二度目の春夏連覇だという。すごい…

しかしながら、ニュースなどで報道され注目を集めているのは、むしろ敗れた秋田の金足農業の方だ。

日本人はえてして判官贔屓だ。全国49の参加校の中で公立高はわずか8校、その中でも唯一の農業高校に肩入れしたくなるというものだ。

[caption id="attachment_4154" align="alignleft" width="300"] 金足農業、吉田輝星投手(撮影:杉山ヒデキ氏)[/caption]

 ピッチャーが3人が分担して投げた大阪桐蔭に対して、金足農業は吉田君ひとりが予選から頑張って投げ抜いたという。

決勝まで知らなかったけれど、見れば吉田君は爽やかイケメンだし、名前が「輝星」というのもまんま。絵に描いたようなヒーローだ。

努力と根性が報われた昭和時代のノスタルジーも喚起させ、みんなが深層心理で求めるひたむきなストーリーにばっちり嵌っていた。

勝負の世界は二元性の代表だし、勝ちもあれば負けもある。だけど、勝負を超えて人々の「ひたむきスイッチ」を押したのではないかな?

同校には寄付金が1億9000万円も集まったという。そのひたむきスイッチを押してくれた善意のお礼ではないのかな。

スポーツオンチだけど、そして、これもまたこの世の幻想の一つだと知っているけれど、スポーツが生み出すストーリーには惹きこまれる。

ACIMレッスン199-私は肉体ではない。私は自由である。

さてさて、レッスン199。

お盆帰省前にやっていた。

私は肉体ではない。私は自由である。

短いフレーズだが、これも極めて重要な、ACIMの根幹の考え方だ。

肉体は本来はひとつであった神の子が分離した(という誤解の)結果の幻であり、

肉体は一つの制限である。」(L199-1-2)

心が自由になれるのは、自らを肉体の中に存在するものと見なさなくなったときであり、自分が肉体にしっかりと固定され、肉体の存在によってかくまわれていると思わなくなったときである。」(L199-1-4)

スポーツは肉体をベースにして高みをめざすものだから、スポーツ自体、自我のものなんだろうか。

それを言ったら、この世にあるすべてがそうなのだけど。

このワークは私には特に難しく感じられる。

私は人一倍自分と自分の体に執着がある方だと思うから。

その性質がACIMの学びを阻んでいるのは気づいている。

そうは言ってもなかなか… 。

学習が進むにつれ、聖霊に従いたい自分の部分と、肉体をまとった自我(エゴ)チームが先導する部分と、両方の自分がせめぎ合っているのを感じる。ある時は聖霊に委ねようとしているが、おおむねエゴが牛耳っていると感じる。

肉体に執着したい私は、死を恐れる私でもある。

まだまだ私には、赦しの経験が必要だ。

この概念が自我にとってはまったく狂気だということは気にかけずにいなさい。

自我は肉体の中に住み、自分が作り出した家と一体化して生きているので、肉体を非常に大切にする。」(L199-3-2,3)

ここに自我は隠れており、ここに自我の正体が見てとれる。あなたの無罪潔白を宣言しなさい。そうすれば、あなたは自由になる。」(L199-4-1,2)

私がACIMの道を進むためには、ここをちゃんと超えていかなければならない…

「存在感の美しいひと」への憧れ

ACIMの教えとは逆行するのかもしれないけれど、私は、ずっと「存在の美しいひと」「存在感の美しいひと」に憧れがあり、そこには見た目の美しさも入っている。

具体的にどんなふうかとなると、よくわからないのだけど、余分なものが削がれていて、細部まで神経が行き、聖なるイメージ。

自分の中の「存在の美しいひと」と、ACIMは相反するものなんだろうか。

また改めて考えてみようと思う。 

ACIMレッスン198-私の咎めだけが私を傷つける。

2018-08-21

ACIMレッスン198-私の咎めだけが私を傷つける。

レッスン198は、とても力強いメッセージだ。

傷つくということはありえない。

しかし、自分が咎めをリアルにするなら、それはありうる。

自分から咎めを取り除くことが、自らを赦し癒す。

真理に咎めはないのだから。

これを受け入れて、咎めを手放すことができれば、楽になる。

だけど、それには「赦し」という訓練が必要だ。

それが、ひどく難しい。

あっという間に何かが起こり、感情の渦にいる。

毎度。毎度。

どうして、咎めにしがみつきたくなるんだろう。

やはり、赦し

特に気になったところは、赦しの重要性を述べたところ。

咎めるなら、あなたは幽閉される。赦すなら、あなたは解放される。」(L198-2-1,2)

幻想は幻想を作り出す。だが例外が一つだけある。赦しは幻想ではあるが、ほかのすべての幻想への回答となる幻想である。」(L198-2-8,9,10)

赦しはほかのすべての夢を一掃すると同時に、それ自体は夢であっても、ほかの夢を育てはしない。」(L198-3-1)

ナビゲーターは、エゴか、聖霊か。ひどく長そうな道のり。

赦しを実行するためには、聖霊とのつながりを保ち続けることだ。

事あることに聖霊の言葉に耳を傾けること。

聖霊の言葉には効果がある。聖霊の言葉は救済する。」(L198-6-1)

私は、聖霊の言葉に耳を傾けること自体に、長いこと恐れがあった(今もある)。

不都合なことを聴いてしまいそうだから。

誰にとって?

私。

その私とは?

私のエゴ。

でも、エゴと一体化する方法では、すでに行き止まりだと知っている。

エゴか、聖霊か。

二者択一で、その中間はないんだ。

私の中では、未だエゴの圧勝、かな?

今日は、あらゆる形の苦しみは、必ず、赦そうとしない想念を隠しているということを忘れてはいけない。

そしてまた、赦しが癒せないどんな形の苦痛もないということも、忘れてはいけない。」(L198-9-5,6)

神の子の中にはどんな咎めもないと宣言するこの一つの幻想を受け入れなさい。」(L198-10-1)

私は、聖霊の声を受け入れる練習をするところからだ。

ひどく長そうな道のりに、気持ちも萎える。だけど、だからといって、エゴがおすすめする成功万歳、とは思えないところにいる。

ACIMレッスン197-私が得られる報酬は、自分自身からの感謝のみである。

2018-08-11

昔からの友人とのパフェは青春の味!?

汗かぶれは、専門の塗り薬「アセムヒEX」を塗ったら、劇的に改善、かゆみが気にならなくなった。ほーっとひと息。

昨日、20代からの友だちと3年ぶりに会った。

入ったのはフルーツパーラー。高価だから、ふだんの私の脳にはない選択肢だ。

桃のパフェとコーヒーのセットで、1,400円。フレッシュな桃がとってもおいしかった!

何層にもなったフルーツとクリームがきれいで、二人とも思わずスマホを取り出して写真を撮った。

「20代の頃、インスタあったら、私たちもやったよねー」と私。

「うんうん、ぜったい。」と友人。

そして、「今のコは、仲いい友だちが自分にぜんぜん声かけないで、別の友だちといろんな所に遊びに行っているのとかも、Facebookやインスタで丸見えで、それもなかなか大変だね」という話になった。

確かに。

またSNSを通して自分を見せるのも自分活動の一環で、神経使いそうだ。私なんかも、インスタにアップするためにどこかに出かけたり何かしらのイベントに参加したりしてしまいそうだ。

今や、そんな見栄を張るエネルギーは残っていない。

暑い中出掛けて戻った後は、2時間くらい動けず横になっていた。

何年ぶりかで会っても一週間ぶりぐらいな感じで話せる。お互いの若い頃を知っている友だちって貴重だなと思う。

ACIM197-私が得られる報酬は、自分自身からの感謝のみである。

この世は、自分の想念の映し鏡のようなもの。

この世で、自分が何かしらしていること、すること、その相手は、実はすべて自分だ。

相手と自分はひとつなのだから。

リアルには神の延長である私たちしかいない。

この世という想念フィールドの中で、私たちは、それぞれの考えを投射して見ている。

レッスン197には、この世で捧げる感謝やギフトについて書かれている。

面白いと感じたのは、最初のほうの「あなたは親切になって赦そうと試みる。けれども、外側に感謝の気持や、あふれんばかりの謝意を見いださない限り、再びそれらを攻撃に変えてしまう。」(L197-1-2,3)というところ。

この世で私たちが言う「思いやり」や「ギフト」や「感謝」は、大概これだ。

気づかいや感謝に対し、同じような気づかいや感謝で応えられないと怒りだしてしまい、すぐさま撤収してしまう。

なんとも身勝手だけど、そうだ。

でも、「ほかの人があなたの贈り物に価値がないと思ったとしても、それは問題ではない。その人の心の中には、あなたに感謝してあなたの心とつながっている部分がある。」(L197-4-1,2)

すべての贈り物は唯一あなた自身に与えられるので、神に捧げられ、神はあなたが捧げるすべての贈り物を祝福する。」(L197-5-1)

相手の反応は気にかけず、結局は自分に与えているのだから、安心して与えなさい、という。

自分の幻想を赦す時、私は感謝を循環させ、その感謝は自分に返る

あなたが自分の幻想からこの世界を解放するとき、世界は必ずあなたに感謝する。しかしこの世界の解放は、あなたの解放を反映することしかできないので、あなたの感謝もあなたのものである。」(L197-3-1,2)

すごく抽象的で、説明が難しい。でも感覚的にわかる、と思う。

自分が与える贈り物を取り下げるなら、あなたは自分に与えられたものが撤回されたと思うだろう。そうではなく、自分の外側に見えていると思っている罪を、赦しに取り去ってもらうことを学びなさい。

そうすれば、神からの贈り物を、死によって取り上げられるまでのわずかな間だけ貸与されるものだとは、決して思わなくなる。」(L197-6-1,2)

心に響いたところを書きだそうとしたら、全部になってしまいそうだ。

要は実践。

この概念を決して信じてないわけじゃないけれど、いざ場面に遭遇するとまだまだ躊躇してしまう。

ACIMレッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

2018-08-08

今晩から明日にかけて台風13号が関東にも上陸するだろう、要注意とのニュース。ここ数日と打って変わって涼しい。

異常気象が続いているなかでも、今年はその異常さが際立っている。何事もなく過ぎてほしい。「無事」が有難い時代になった。

レッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

レッスン196-私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

この世は、神から造反したと思い込んでいる私たち神の子が、エゴから唆され、怖ろしい神からの隠れ家として作り出したものだ。しかし、それは勘ちがいにすぎない。

この世は、自らが上映している映画にすぎない。

一見ばらばらの身体を持っているように見える私たちは、実はひとつであり、ただ神の延長である。

神に対するすさまじい恐怖と罪悪感パニックから、本当のアイデンティティ-罪なき神の子であるという-を取り戻す訓練が、このACIMだ。

この理屈に従えば、レッスン196もすんなり理解できる。

私たちは常に、自らの罪悪感を投影できるスケープゴートを求めている

ただ頭で理解しても、水面下にある氷山のごとく私たちから知覚できない無意識には、計り知れないほど深い恐怖と罪の意識が眠っている。

私たちは、これを見たくない。

あまりに怖いから。意識の上にあげるのを拒む。

無意識にあるものは、否認するがゆえに、自分以外のものに投影される。

だから、私たちには常に「責めるべき悪い人、悪い事」を無意識のうちに求めている。

テレビのワイドショーやニュースは、次々と私たちが、私たちの恐怖と罪を投影できる対象を提供する。

それを見ている時は、私たちは、正義の味方でいられるし自分の罪を直視しなくていいから。

でも、様々な悪に見える根源は、私たちの心の中に気づかれずに在る神への恐怖心と罪悪感だ。

これが、心の表面に出てきた時、つまり嫌なことに出くわしたり、誰かに許し難いことをされた時に、「これは本当ではない」と気づき、赦すこと。

理屈を理解した上で、その機会が訪れた時に、赦すこと。

これだけが、恐怖を減らして真実に近づく方法なのだ。

過去ノートを開いてびっくり、一回目のレッスン196は修羅場の渦中だった

今日、ふと、1回目にこのワークをした時はどんなだったのかな?と、古いノートを取り出してみた。

で、びっくりした。

私は修羅場の渦中にいた。

私にとっては長い話で、端折ると、

20代の頃に結婚してすぐに別れてしまった元だんなさんが、

私が当時書いていたブログを発見して(もちろん名前も住所も書いていなかったが)、ここら辺りにいると当りをつけて会いに来た(私から一方的に別れ、未消化の感情があったのかもしれない)。

そして偶然(私はそう思っていた)、20年ぶりに再会。

その後、短いあいだ再び恋愛関係に。

その後疎遠になるも(振られた)、ある時再び現れ、私はおカネ(大金)を貸してしまう。

私は彼に未練があって、その下心もあって貸したのだ。

でも、思うように返済されず、当然のことながらそれで恋愛がうまくいくはずもない。

私には、軽んじられて利用されている感があって、その怒りの感情を彼に爆発させたのが、2015年1月末、レッスン196のワークの日だった。

その日のノート。

「大爆発してしまった。すごく責めてしまった。

ACIMと真逆のことをした。

自分で自分の首を絞めた。」

と乱暴な字で書いてある。

もっとも大きな赦しの機会

そして、

「私は赦す、だからこれは消えていく」

ともあり、マーカーで囲んでいる。

あ゛~、あの時…。

頭と感情が真っ二つだった。

あれは、ACIMを学び始めて、もっとも大きな赦しの機会だった。

今だって全部赦せているかどうかわからない。それほど感情を揺さぶられる相手であり出来事だった(おカネはその後全額返してもらった)。

でも、考えてみれば、彼は私の内なる罪悪感の投影の引き受け人で、彼がいなくては無意識はそのまんま温存される。

私にとってはソウルメイトであり、感謝すべき人なんだ。

レッスン196の最近のワークについて書くつもりが、たまたま過去ノートを見て、よみがえった感情。

これも偶然じゃないんだろう。

未だ赦すべきものがあるからだろう。

赦すべきことに気づいたら、なるたけ赦そう。

レッスン196の締めの文

あなたの心が十字架に欠ける対象とすることのできる相手は、あなたしかしない。しかし、あなたの贖いもまた、あなたから訪れる。」(L196-12-5,6)

 

ACIMレッスン195-愛は私が感謝の内に歩む道である。

2018-08-06

ACIMレッスン195-愛は私が感謝の内に歩む道である。

レッスン195のテーマは、「感謝のうちに愛の道を歩むこと」。

引っ越しの直前と、引っ越し後1ヶ月余りのブランクの後にやっていたワークで、ワーク時「難しい」と感じていたが、改めて読んでも難しく感じた。

感謝と不平不満は対極にあると思う。

私は元々グチっぽく不平不満が多い質だ。気づけば、何かしらに不具合や不満を感じている。

つまり、感謝が下手だ。

ACIMと出会い、ようやく下手なりに、感謝を学び、練習している。

真の感謝は、神とひとつであることに対して捧げられる

レッスン195には、この世における一般的な感謝と、真の意味での感謝の両方が書かれている。

この世での感謝は、「せいぜい自分自身が他人よりましな状態にあると見なすこと」だという。つまり、他人の苦痛を根拠に感謝するのだと。

これは、平安や豊かさにはかぎりがあって、それを私たちが同胞と奪い合っているという見方をベースとしている。

兄弟があなたよりも不自由だからといって、それはあなたが神に感謝を捧げるべき理由にはならない。また、自分より彼のほうが自由であるように思えるという理由であなたが怒りを感じることも、正気の沙汰ではない。」(L195-4-1)

ACIMが言うところの感謝については、次のように説明されている。

私たちは一つのことについてのみ、父に感謝する。すなわち、生きとし生けるものから私たちは分離しておらず、だから神とひとつであるということだけに感謝する。」(L195-6-1)

さもなければ無に対して感謝することになり、神から私たちへの贈り物を認識しそこなうからである。」(L195-6-2)

この一般的に言う感謝と、ACIMの「神とひとつであるということだけに感謝する」という感謝の違いが、わかるような、わかっていないような?

私は、希望する住まいがなかなか見つからなかったが、今のマンションに出会えて契約できたことをとてもありがたいと思っていたけれど、その気持ちは感謝と言えるのだろうか?

自分ではそのつもりでいても、単に物質的なものに対する満足にすぎないのかもしれない。

愛は感謝以外の道を歩くことはできず、私たちもそのように進んでいく

愛は比較しない。そして、感謝は、愛とつながっているときにのみ、真摯なものでありえる。」(L195-4-2)

感謝とは、すべての被造物の源である愛の一つの側面にほかならないからである。」(L195-10-3)

「愛」も「感謝」も抽象的で、実感としてはよくわからない。

でも、こういう時思い出すのは、「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」といった文言。

『なまけ者のさとり方』という本のなかにあった。(そんな気がしていたけど、本をぺらぺらめくってみたけれど、見つけられず。勘ちがいか?)

「愛することがわからなければ、そのわからない自分を愛しなさい」

「感謝することがわからなければ、そのわからない自分に感謝しなさい」

感覚としては間違っていないと思う。

レッスン195の最後の文、「神に対するあなたの感謝は、あなたに対する神の感謝とひとつのものである。愛は感謝の道以外の道を歩くことはできず、神への道を歩む私たちも、そのように進んでいく。」(L195-10-5,6)

とても深い。

あまりに崇高で、恐れ多い。

 

ACIMレッスン194-私は未来を神の手にゆだねる。

2018-08-03

ACIMレッスン194-私は未来を神の手にゆだねる。

これも6月中旬の引っ越し前にやっていたワーク。引っ越しが差し迫ってばたついていた頃で、ワークもどこか流していた。

改めて本文を読んでみたら、シンプルだけどとても重要な概念だと感じた。

ACIMは表現や視点をさまざまに変えながら同じ原理原則を説明しているが、誰にでも、響きやすく、とくに真実を思い起こさせてくれる表現があると思う。

私は未来を神の手にゆだねる。

私にはこれが響く。

そうすれば、あなたはあらゆる不安や地獄や絶望の間も、罪の想念も、罪悪感がもたらす荒廃も。すべて通り抜けたことになる。」(L194-2-1)

ただ未来を手放し、神の手にゆだねることだけが求められている。」(L194-4-5)

頭ではわかってもなかなかできない。

考えただけで、不安になってしまう。

頑張らないと、身構えていないと、疑わないと、とんでもないことになってしまう、という“常識”もある。

そして、やっぱり私の場合、根っこに罪悪感と恐怖があって、「そんなお気楽でいいのか(神の手にゆだねることが、お気楽とは言えないが)」「何バカなこと言っているの?」「自分が頑張らないことの言い訳でしょ」という、内なるエゴの声がする。

エゴの声だけを聞いて従うには、ACIMの考えも浸透してきており、宙ぶらりん。どっちつかずだ。

「未来を神の手にゆだねる」のに、聖霊の声を聴きわけること

引っ越しを済ませ新居に移り、物もたくさん処分してきた。引っ越し後の家も片づいてきた。

仕事もしていない。

今私には、空きスペースができつつある。

この空きスペースに何が入るのか。何を入れるのか。

空いていること=不安定、でもあるけれど、せっかく空けたのだからへたなもので満たしたくないとも思う。

「未来を神の手にゆだねる」には、聖霊のメッセージを聴いてこれに従うことが不可欠だと思うけど、自信がない。

ちゃんと聴けているのか。

あるいは、聖霊の声と思いつつ、実のところ聴いているのは、エゴの声ということはないんだろうか。

基本的なことだと思うけれど、未だによくわかっていない。。

聖霊の声を聴いてしまったら、それに従わなくちゃいけなくなって困る(←エゴが)、メッセージを聴こうとしながらも、手で耳をふさいだり開いたりしながら、「あー」と声を出しているようなところがある。

そういえば、引っ越し前のワークでずっと感じてきた「姿勢を良く、体幹を鍛えろ」というのは、そのとおりだった。

今回の引っ越し後のぎっくり腰は、いつもとちがって治るのに1ヶ月以上かかったから。

聖霊が、そんな体のことをアドバイスしたりするのかな?と思っていたけど、聖霊の声かどうかはともかく、「姿勢」と「体幹」は私にとって大事なことにはかわりない。

いつでもどこでも、今・ここから

まぁ、ともかく、今・ここから、しかない。

自分にとってメッセージと思えることを聴きながら、自分のゲームを進もうと思う。

彼は、自分の知覚は間違うかもしれないが、それらは必ず訂正されると確信している。」(L194-7-7)

攻撃したくなるときは、私たちの休息を護る聖霊に助けを求め、私たちにかわって誘惑をはるか後ろに遠ざける選択をしてもらう。」(L194-9-5)

本文のこの2ヶ所が救いかな。

ACIMレッスン193-すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。

2018-07-30

台風12号と罪悪感

日本列島を逆走する“異例のコース”を辿った台風は、明日まで九州に居座り、九州南部や四国に激しい雨を降らすらしい。

西日本豪雨で被災した地域では、再び冠水被害に合われた方々も。

家が水浸しになってしまい一から生活を作っていかなければいけない徒労感とやるせなさは、いかばかりかと思う。

とてもとても「赦し」などとは言っておられないだろう。

こういった災害のニュースを見ると、心が揺れる。

なんて、ひどい…と思う自分と、

これもまた赦すべきこと…と思う自分がいるから。

そして、後者の自分に、罪悪感を感じるから。

ACIMレッスン193-すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。

ワークのダイアリー、いつが最後だったかと見たら、6月6日のレッスン192だった。

レッスン193からだ。

これをいつやっていたのか、と振り返ったら、5月末から6月初めだった。

粗大ごみを出したり、本を大量処分したり、リフォームの手配をしていた頃だ。

レッスン193には、「各レッスンには中心をなす想念があり、それはどのレッスンにおいても同じである。(中略)それは次の通りである。」と書かれ、

赦しなさい。そうすれば、あなたはこれを違った見方で見るだろう。」(L193-3-7)

とある。

この言葉をもって誘惑が終わり、罪悪感は放棄されて崇められることがなくなる。これが罪の夢を終わらせ、心から恐れを取り除く言葉である。」(L193-5-2)

災害や犯罪などのニュースに、恐怖、罪悪感、怒りを感じるが、そうしたこともやがてすべて赦せるようになるのだろうか。

怒りや恐怖は「手放さねば」とシンプルに思えるが、罪悪感は、それを手放すそのことに罪悪感を覚えてしまう。

自分が間違った見方をしているかどうか、見分けるには、

その知覚において、苦痛が実在するもののように見えているかどうかを問いなさい。もしそう見えるのであれば、そのレッスンは学ばれていないと確信してよい。

そして、その心の中に、赦そうとしない思いが隠れて存在しており、心は自らの指令下にある目を通して苦痛を見ているのである。」(L193-7-2,3,4)

とある。

私には、まだいろんな苦痛が実在するように見えている。

すべては神があなたに学ばせたいと望むレッスンである。神は赦そうとしない想念を一つでも訂正されないままに放置することはない。」(L193-9-1)

赦すべきことだらけだ…。

私は赦す。だから、これは消えていく。

レッスンの終わりに、この世のシンプルな見方が書かれている。

私は赦す。だから、これは消えていく。」(L193-13-3)

この見方がすべてなんだよな。

でも、すぐに忘れてしまう。

ふと、気づいた。

私は、災害のニュースを赦そうとする自分に罪悪感を感じると書いた。けど、その背後には、もっと大きな別の感情がある。

そうしたニュースを赦そうとする姿勢を、周りの人々や世の中は非難するだろう、その非難をこそ恐れているのだ。

これに対しても、答えは、やはり、

私は赦す。だから、これは消えていく。

この魔法のことばなのだ。

ACIMレッスン192-私には、神が私に全うさせようとする機能がある。

2018-06-06

15年分の垢落とし

昨日、新居に洗面台設置のためリフォーム屋さんが下見に来られた。

リフォーム屋さんが帰った後は、念願の!?そうじを開始。管理人さんに脚立を借りて、レンジフードやエアコンを掃除した。

初夏何もない空間で、音楽アプリから流れる知らない曲を聞きながら、汗だくで掃除をしていると、昔むかしの若い頃の何かが始まる予感…を思い出した。

何もない…

新しい…

ということは素晴らしいことかもしれない。

若ければ…?

今朝は身体が筋肉痛だ。ウォーキング以外からだを使っていないから鈍っているんだ。歳を重ねてこそ体を動かさねば。引っ越ししたら、区のジムが近くなるから、通おう。

今回の引っ越しでは、歴代のノートパソコンや、長年愛用したブラウン管テレビも処分する。

なんでこんなもの持っているんだというものも多い。むかーし取材したカセットテープも大量処分した。

気づけば半年をかけての、人生のクリーニングのようだ。15年分の垢落とし。

新たなものを入れるには、古いものの処分が不可欠だということかな?

あるいは、老い支度だろうか。

ACIM192-私には、神が私に全うさせようとする 機能はたらきが在る。

レッスン192。やっていたのは先月だ。

ここでは、赦しについて、その位置づけと 機能はたらき についてより深い言及がされている。

赦しは、この世での私たち神の子のはたらきであり、真理でないものが取り消されるための手段である。

私たちは肉体を有しているが、肉体こそ攻撃の対象であり恐れの居場所だ。肉体を自らの家だと考えている心がこれらを生み出すのだという。

肉体は、学びが完了すれば横たえられるだけの単なる学習手段であり、学ぶ者を変化させはしない」(L192-4-3)とあるが、ここが私にとっては難しい(なかなかそうは思いづらい)。

ライザップのCMとか見ていても、肉体が変わればまるで別人のように見えるし。

この見方を変換させるのが、赦しだ。

肉体を自らの家だと考えている心を、そうした考えから解放できるのは、赦しだけである。」(L192-5-5)

私…。頭でっかちで、赦しの実践が圧倒的に少ない。

むしろ、赦しの機会から逃げている気がする。

怒らせる出来事をもたらした人に感謝をする

レッスン192でもっとも大事だと思うのは、9節の以下の部分だ。

「この道は単純明快である。突き上げてくる怒りを感じるたびに、自らの頭上に剣を振りかざしていることを理解しなさい。そして、罪を宣告された者となるか、自由な者となるかをあなたが選択するたびに、剣は振り下ろされるか、回避されるかのどちらかである。」(L192-9-3,4,5)

だから、あなたを怒らせるかに見える人々は、あなたを死の牢獄から助け出す救助者を象徴している。だから、あなたが彼らに返すべきものは、苦痛ではなく感謝である。」(L192-9-6,7)

私は、私を怒らせるように見える人に果たして感謝できるだろうか。

ACIMでは繰り返し、繰り返しこれを説いている。

とにかく、この世ではすべての人や、できごとが、赦しに集約されていく。

ここで体験したことを、自分の心の中に引き戻して、そして赦す。今日の出来事はなるたけ今日赦す。

これだけ、赦しについて聞いていても、いざそのチャンスの時には、この理屈がわからなくなってしまう。だからこその繰り返しの実践なんだ。

私にはまだこの世にいながら、この世を赦すという、その正解の感じがいまいち掴めていない。

赦すことが苦手だから、厭世しているような…。そんな気すらする。

ACIMレッスン191-私は神ご自身の聖なる子である。

2018-05-25

半年に一度の通院へ

一昨日は、半年に一度の通院の日だった。

4年前手術を勧められた腫瘍の大きさは変化なし。また半年後検査となった。

正直ほっとした。

一方で血液検査が「ある病気の可能性あり」と引っかかり、その結果を郵送で知らせてもらえることになった。

住まいも人生も仕切り直したいと思っている今、病気になるスペースはないはずなんだけどな。

ACIMを学んできて、病は自分の罪悪感や恐怖心の投影で、本来なら必要ないものだと学んだ。

直前のレッスン190にも、

あなたに苦痛を引き起こすのは、あなたの想念だけである。」(L190-5-1)

この世界には、あなたを病気にしたり、悲しませたり、か弱く、脆いものにするだけの力をもつものは存在しない。」(L190-5-5)

とある。

私は、自分に病を課す必要はないんだ、と改めて思う。

転居届提出、引っ越し日決まる

引っ越しプロジェクトのほうでは、6月15日と引っ越し日が決まった。引っ越し業者さんに見積もりに来てもらい、近場のわりには若干高めかなと思ったが、まぁいいかと決めた。

現区役所への転出届と、新区役所への転入届を済ました(登記の関係で、転入届は引っ越し前に出すらしい)。たいしたことはしていないのに要領が悪く時間ばかりかかっている。

レッスン191-私は神ご自身の聖なる子である。

レッスン191は、自らのアイデンティティを高らかに宣言するワークだ。

私は神ご自身の聖なる子である!

これが認められさえすれば、私たちは救われ幸福である。しかし、このアイデンティティを拒否するなら、この世は魑魅魍魎の世界となる。

最近はテレビで、加計学園の獣医学部新設時の総理の関与問題や、レスリングのパワハラ問題、日大アメフト部員の悪質タックル問題などが、話題となっている。

上の人に忠実に従うのが徳とする文化がずっとあり、それがパワハラや忖度を容認してきたようにと思う。どれも形は違うけれど似たような構図に見える。この世で地位があがると、いつしか擬似神エゴを崇めその手下になってしまう危険がある。

ある種社会のダーティな部分を受け入れてこそ社会で「一人前」「大人」とされてきた。私の若い頃も「セクハラも仕事の内」と言われていた時代があった。今から思えば、なんじゃそれ、だが。

私が見ている世界は、やっぱり魑魅魍魎だな。

でも、昔は隠せたことが今は表面化しやすくなっている。私のカルチャー講座の先生は「浄化の時代なのよ」とおっしゃるけど、実際、そうなのかもしれない。

アイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム?

だがこれは、あなたが自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム以外の何だろうか。」(L191-4-1)

この文がしゃれていると思う。

ACIMを少しずつだけど時間をかけて学んでいくと、一見荒唐無稽なこの教えがほんとうに真実だと感じられてくる。

実際、この世の中はACIMの言うようなしくみで動いているのだ。

あなたにはこの世界を残酷に用いる必要はなく、だから世界の中にこの残酷な必要性を知覚する必要もない。」(L191-6-3)とは、心強い。

あなたは虚しい希望と荒廃した夢を抱き、涙を流し、痛みに苦しみ、ただ死ぬだけのために生まれ、自分をひ弱で壊れやすいものと知覚しているが、よく聞きなさい。あなたには地においても天においてもすべての力が与えられている。」(L191-9-1)

この「よく聞きなさい」がけっこう好き。直接導いてもらえている気がする。

ついていこうと思う。

感じたことは、

心を曇らすな」ということ。

…→「(欲で)心を曇らすな」

…→「(小欲で)心を曇らすな」

うーむ。

私は神ご自身の聖なる子である。

ACIMレッスン190-私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。

2018-05-14

「母の日」に帰省した

北陸新幹線に乗って、きのう、実家に帰省した。マンション共有者である母の書類を市役所で取ったり、必要な書類にサインをしてもらったりといった手続きのためだ。

母は「母の日」に娘がやってきたことに喜んでいた。

手土産はカーネーションの替わりの蘭。

母曰く、葉っぱが左右対称なのが趣に欠ける、と。

実家の居間では、亡き父が微笑んでいた。

親というのは、つくづくありがたいものだ。

遅ればせながら、そう思える人生になって、よかった…。

親を憎んだまんまでは辛いから。

負のリアリティをそのまんま引きずってその見方で世の中を見続けても、いいことはない。

ただ自分のなかの自己像を鏡に映しているのだとは、なかなか気づかない。

実際このゲンジツ下では親の影響力と存在感は絶大で、今回の帰省でも朝から夜までずーっと話かけてくる母に、ACIMの教えはぶっとんでしまう。

とても、これが幻想だとは思えない。

深夜になってACIMをようやく思い出す。

家族と暮らしながら、ACIMのワークを続けるのは、本当にむずかしそうだ。私などはひとり暮らしだからやってたんだと思う。

レッスン190-私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。

レッスン190は、好きなワークだ。

わかりやすいし、私には沁みる。

私はずっと無意識のうちに「(私なんぞは)幸せになってはいけない」と思っていたようだ。苦痛こそが自分にふさわしいものと思い込み、そのうえで、来たるべき苦痛にひどく怯えていた。

それを、レッスン190は「苦痛とは、間違った見方である。」(W190-1-1)と、一蹴してくれている。

その言葉にほどけていく私がいる。私は物心ついたころから、苦痛に対して防衛して身を固くしてきたのだった。

苦痛とは、神の子が自分が何であるかについて誤解していることを証言するものにほかならない。」(W190-2-3)

苦痛が実在するという考えには、「このような愚かしさに平安あれ!」(W190-4-1)

そうなのか。

そうなんだ。

そうなんだ!

よかった…

苦痛は間違った見方だと、このワークは言葉を変えて、何度も繰り返してくれる。

もし苦痛を感じているとしたら、それを引き起こしているのは、私の考えだけだ。

この世界には、あなたを病気にしたり、悲しませたり、か弱く、脆いものにするだけの力をもつものは存在しない。それどころか、自分の本性をただ認識するだけで自分が見ている一切を支配できる力をもっているのは、あなた自身である。」(W190-5-5,6)

これは私には救いの言葉だ。

私はこれを信じる。

そして、喜んで、苦痛のかわりに、神の喜びを選択する。

私が今、見ているこのゲンジツは結果の世界なんだ。

そこには、幻想を別の幻想に変える以外の力はない。

「神あり」とこの世で体現できる人になりたい。

最近感じるのは、恐怖心より罪悪感のほうが「やっかい」、ということだ。

恐怖心はわかりやすく手放そうと意識化しやすいけれど、罪悪感は気づきにくいし、それを手放すことにまた罪悪感を感じてしまうから。

人によってちがうのかな。

実家では、考えがまとまらずブログを書くのがむずかしい。

母のパソコンに、慣れないせいもあるかな。

母は会うたびに腰がまがっている。切ない。愛おしい。一方で、心のなかで「和解」し感謝できていること、いまここに居てくれること、それがなによりありがたい。

これはACIMの考えに依った感情かどうかわからない。

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