『奇跡講座』 ワークブック

ACIMワーク244‐世界のどこにいても、私に危険はない。

2019-02-18

ダンベル体操のDVDを飲み込んだままのプレーヤー

筋力UP・維持のため以前やっていたDVDを見ながらのダンベル体操を再開させたいとダイアリーを書いていたのが、去年の9月。

それから毎日とはいかなかったけれど何とか週2回くらいやっていた。

が、それも昨年末DVDプレーヤーの調子が悪くなるまで。今年に入ってからは一度もやってない。

しばらくぶりにDVDプレーヤーのスイッチを入れてみた。もしや直っているかと思ったが、やはりだめ。機械に自己治癒力はなかった

ブーンと音が鳴り続け、ダンベルのDVDを飲み込んだまま開くことすらできなくなっていた。

2年前Amazonで3,500円で買ったDVDプレーヤー。やっぱり壊れるのが早い…

なかなか決断できなかったけど、やっぱり新しいの買おう。

でも、やっぱり次もAmazonの最安値を選んでしまいそうだ。

「安物買いの銭失い」ってことわざあったなぁ、と思いながら。

おカネだって幻想の最たるもんだけど、なかなか…ね。自由までの道のり遠し。

ACIMワーク244‐世界のどこにいても、私に危険はない。

レッスン244の主題概念も私には響くものだ。

なんだかんだ言って気づけばやはり不安と恐怖でがちがちになっていることが多いから。

言葉にして「世界のどこにいても、私に危険はない。」と言ってもらえると心強く思うのだ。

私は赦しを実践して前進するどころか、逆に幻想の不安や恐怖を強固なものとして自分の足を引っ張っているのではないか…

危険がある場所は、スクリーンじゃなくて映写機のフィルムのほう。自分の心の中なのだ。

神の中で私たちは安全である。」(L244-2-3)

ずっとこれを覚えていられたら、と思う。

この感じ方をリアルに感じられるくらい成長したい。

ACIMレッスン243-今日、私はどんな出来事も裁かない。

2019-02-16

赦し…言うは易く行うは…

「赦し、赦し」とそればかり口にしているくせに、ささいなことでもひっかかってしまう。

甥っ子にバレンタインチョコを送ったがリアクションがない。甥っ子はとても大人しく口数も少ないが、妹は高3の受験生に「余計なことを」と思っているかも。

妹の誕生日があったから2月初めには妹にもチョコを送っていたが、それに対してもまったくノーリアクションだ。

仲が悪いわけではないけれど歳が離れているのもあって、妹が家庭を持ってからあまり行き来がない。

自分が勝手に送ったくせに…しかもささやかなもの。だけど、なんだか軽んじられている気もしてしまう。

それが自分の“罪”を赦すための赦しの機会だということは知っているくせに…。

気になったなら気軽に電話すればいいだけのことだけど、それもできず。

ACIMワーク243‐今日、私はどんな出来事も裁かない。

滞っているワークについて書こうと、「今日はどこから?お題は何だっけ」と見たら(ワークをやるのとブログに書くのとの間には少しズレがある)、これだった。

今日、私はどんな出来事も裁かない。

そう…、私は裁きたくなっていたのだ。

たかだかチョコレートの受け取り連絡がないくらいで、ネガティブに振れてしまうとは…

ACIM学習者ならずとも小さすぎる。

私は大昔家庭教師をしていたお宅から結婚祝いに高価なランプをいただいたが、お礼の連絡をしそびれたという大失態をしたことがある。

実家に宅配便で送っていただいたのだがその時慌ただしかったこともあって何か紛れて連絡しそびれてしまったのだ。

こう書いているだけで未だにピリピリする。なんでできなかったんだろう。

自分がそんな大それた失礼なことをしておきながら、人には小さなことでも見咎めようとする。それが私…

レッスン243の文言は穏やかに諭す。

今の自分の理解が及ぶはずもないことを、すでに知っていると思わないようにする。知覚の断片から、全体が理解できるなどと思わないようにする。」(L243-1-2,3)

それにより私は、もともと自分にはできない判断を下さずにすむ。」(L243-1-5)

すべては赦しのために…なんだよな。

私の見方が変われば、世界も変わる。それはワークを通して何度も経験している。

私に赦すべきことがあるから、見せてもらっていることなのだ。

私は今も神とひとつなのだから、自分も他者も裁く必要はない。

ACIMレッスン242-今日一日は神のものである。私はこの日を神への贈り物とする。

2019-02-14

バレンタインデー

バレンタインデー…愛する男性へチョコをというのは残念ながらできないけど、ちょうど母の誕生日。

で、毎年母にチョコレートを送っている。

一緒に洋服を送ったりしていたが、色やデザインが好みに合わないことが続き、2年前ついに「今後一切断じて服送るべらかず」というお達しが出た。

正座するのがきついと言い出したので正座用椅子を送ったら、「余計なことを」とひどく叱られたこともある。

母は正直だから、要らないものは要らないと言う。他の方への贈り物でも「合う」ことは少なくて、きっと私は「余計なもの」を贈っているんだろうなぁ。

今回はまだ北陸は寒さが続くだろうから、レッグウォーマーを添えた。これだったらミスマッチだとしてもダメージは少なそうだ。

ちゃんと届いたらしい。夕方母から、

「おいしいチョコレートありがとう。最近松山千春のCD(前に私が送った)をよく聞きます。今も聞いています。」とメールが来た。

「苦情」覚悟だったから、ほっとした。

ACIMワーク242‐今日一日は神のものである。私はこの日を神への贈り物とする。

私は世界を理解していないのだから、自分ひとりで生きようとすることは愚かである。

しかし、私にとって最善なることを知っている聖霊がある。

そして聖霊は、私のために喜んで、神へと導く選択だけをしてくれる。

私は帰還の時を遅らせたくないので、この日を聖霊に捧げる。

聖霊こそが神への道を知っているからである。」(L242-1-2,3,4,5)

そのとおり、と思う。

問題は、

(自分なりの方法で)ワークがちゃんとできているのか、

聖霊の声がちゃんとキャッチできているのか、

だけど、これも深追いして考えないことにした。

稼げてないことへの不安感、恐怖感、自己否定感がずっとあるけど、これも今しばし棚上げしようと思う。

気づけばすぐゲンジツに巻き込まれ、ザワザワしたりパニクったり、あるいは被害者になったりしているけれど、これも「作っているのは私だ」と思い出すことを心がけている。

日中はすっかり忘れているけれど、思い出した時に「そうだった」と思い返す。

なるたけ聖霊さんのしごとの邪魔にならないようにしたいけど、そういう舌の根も乾かないうちにまた邪魔してしまいそうだ。

私は恵まれている。感謝しよう。

ACIMレッスン241-この聖なる瞬間に救済が訪れる。

2019-02-07

福袋買った

楽天市場内ショップのお知らせメールから、何気にサイトに飛んでいったら「福袋」が目についた。

レビュー☆4.75は高い。

たいがい福袋には「こんなのもらっても困るよね」っていうものが入っているのだと思っていたけど、「全部ちゃんと着られるものばかりです」「めちゃくちゃお得」等のレビューが気になってしまった。

ニットとカットソー5点でクーポン使って送料込み1839円。ポイントを消化するとすれば実際に払うのは900円。

買ってみる?

服が欲しいというより、福袋を覗いてみたいという衝動。何が来るかわからないのにワクワクして、ポチっとした。

そして来た。

地味だ。モノトーンに近い。

レビュアーさん方のおっしゃるとおり、全部使えそうなものばかり。

グレーのニット着てみたら着心地悪くない。福袋とは思えない実用性だ。

5枚のニット&カットソーにおまけの白いマフラー。これで1839円とは…安っ。

単品で売っていたら買うかどうかは別だけど、何が来るかな、どんなのかな、と思って待って開けてみる、その一連は思いのほか楽しかった。

薄手のものが多いから春先に着ようっと。

ACIMワーク241‐この聖なる瞬間に救済が訪れる。

第2部に入ってから、主題概念を第1部ほど重んじてはいない。

このレッスン241「この聖なる瞬間に救済が訪れる。」も、そっかぁという感じで読んでいた。

「聖なる瞬間」は私にはまだ遠そうだ。

「赦し」の宿題がたくさんあるから。

私はどうも自分がやりたいことや自分がそうでありたいと思うことの近くにコンプレックスがくっついているらしく、やりたいことや好きなことに向かいたいんだけど向かえない。

関心と羨望のそばには同時に強い抵抗感と恐怖もあるのだ。

これこそが私の赦しのお題なんだろう。

は~、今世200年くらい欲しいなぁ。

葛藤しているうちに終わっちゃうよー。

昔読んだ本のフレーズ「これがあなたの人生だ。リハーサルではない。」が頭に浮かんできた。

何だっけこの本、とAmazonにうろ覚えのフレーズを入れたら、タイトルが出てきた。

『誰でもできるけれど、ごくわずかな人しか実行していない成功の法則』

便利な世の中だ。

なつかしいなぁ。この本。

こういう自己啓発本の類は『奇跡講座』に出会ってからまったく読まなくなったけど、たまには背中を押してもらうのもいいかもしれない。

ひゃあ~、ずっとリハーサルというか「いつか」と思って生きてきたけど、今が本番だよ~気づいたらエンドロールなんてヤダ。

この人生は幻想だからまあいっか、とはならない。

自分の心の抵抗感や恐怖感からもっと自由に生きたい。

ACIMワークブック第Ⅱ部-3.世界とは何か

2019-02-06

内なる恐怖心の強さったら

おもてなし英語講座4回目。

二人組になって「一人でいる時最近何している」という会話をし、それをみんなの前で発表するというのをした。

私は去年の引っ越しを機にAmazonプライム会員になり、用意されているプログラムをテレビで見るという楽しみを覚えた。 (さらに…)

ACIMレッスン240-恐れはいかなる形においても正当化されない。

2019-01-30

今さらながらの“怯えているエゴ解体講座”

おもてなし英語講座の第3回目。他の参加者の方とのレベル差を知った私は参加するのがイヤになっていた。

なによりコミュニケーション自体が怖かった。

そもそも申込時から想像できたこと。

まず自己紹介的なことがあるだろう。そこでは仕事や家族、趣味などについて質問し合ったりするだろう。その時にプレゼンできる触りのいいことが私には思い当たらない。。。

バツイチ独身家族なし、無職状態、若くない、内向き…

どんな音楽が好きかとか、あるいはどんなスポーツをやっているかとか…そういうのも答えようがなくて、さえないつまんない人だなと思われるのが怖かった。

でも、怯えているのはエゴで、これはそんなエゴを解体することこそ、この講座の目的なのだと気づいたら、見え方が違ってきた。

これは赦しのチャンスに他ならない。恐怖心や劣等感が浮かび上がったらその都度赦し手放せばいいのだ。

先週やった二人組になってみんなにパートナーさんを紹介する他者紹介、私とパートナーさんはまだだった。続き、今週はもうやらないかなと思っていたら、やった。

先生が「Next」と言われるのに躊躇していたら、結局最後になってしまった。

取り繕ってもしゃべれば、英語スキルは丸見え。みんなの前で下手なりに他者紹介を済ませられたら、すっきりした。

来てよかった。

参加しなかったら、低くなっている社会的自己評価がますます低くなっただろう。

「説明できる自分がない問題」だって、エゴが問題だと思っているだけで私の内に恐怖心や罪悪感がなくなれば、見え方はずっと違ってくるのだろう。

ACIMワーク240‐恐れはいかなる形においても正当化されない。

レッスン240は、私にはとくに沁みる主題概念だ。

恐れは偽瞞である。それが証言していることは、あなたが、決してありえない姿の自分自身を見たということと、それにより、あなたがありえない世界を見ているということである。」(L240-1-1,2)

それは、自分自身についてあなたが抱いている幻想を証ししているにすぎない。」(L240-1-5)

私たち一人ひとりが愛そのものの一部なのだから、私たちの中に恐れはない。」(L240-1-8)

重要箇所に線を引いているうちに全部になってしまう。

自分ではACIMを継続して前より恐れを手放せているつもりだけど、私の対人(対世間)恐怖って強いんだな~と改めて思う。

これまではわりとペルソナ(仮面)をうまく使えてきたほうだから、生身の傷つきやすさに直接触れないで済んできたのだ。

でも仮面はいつまで経っても仮面だし、それでは生きたことにならない。

恐れはいかなる形においても正当化されない」は、「怒りは決して正当化されない」(T-30.VI.1)とともに、私にはとっても大事な概念。おまじないと言ってもいい。

よくよく覚えておこうと思う。

ACIMレッスン239-私の父の栄光は、私の栄光である。

2019-01-29

まんだらぬりえ

日曜日、月1の色彩ワークショップで、持ち回りでファシリテーター役をやっているが、今回は私の番。

それで「マンダラ塗り絵」をやった(「まんだらぬりえ」とひらがなで書くほうがしっくりくる)。

何のことはない。本からコピーしたマンダラ下絵の中から気に入ったものを選んで塗るだけ。

本は10年以上前に買っていたのだけど一度も使ったことはなかったのだ。

マンダラとはユング心理学でも出てくる概念。自己(自我ではなく本来の自己のようなもの)を投影したものとみる。これを塗って仕上げていく過程で満たされ癒されていくのだという。

ワークショップでは近況をおしゃべりしながら塗った。選ぶ図柄、選ぶ色が違うから、それぞれちがうマンダラに仕上がっておもしろかった。

これで勢いづいたのか、昨晩小さくプリントし直し塗り絵した。

何にも考えずただ塗るだけ。配色もテキトーだ。

意外と時間がかかる。40分位かかったかもしれない。もっと単純な図柄にすればよかった。

できた塗り絵をダイソーで買った100円額縁に入れてキャビネット棚の上に置いた。

少し遠目に見ると塗っていた時とはまた違う印象になる。

文字どおり「こころ模様」なのかな。ちがうパターンも塗ってみたくなった。

ACIMワーク239‐私の父の栄光は、私の栄光である。

神がご自身の栄光を分かち合う人々の中に、わずかでも罪や罪悪感を見ることなどできるだろうか。」(L239-1-3)

神が、わが子は創造されたときのままであると知っており、わが子をまったく変わりなく永久に愛しているのなら、私たちがそこに含まれないということがあるだろうか。」(L239-1-4)

この反語が力強い。

気づけば、自分はダメ人間だと罪悪感を感じてしまっている私は、それでもやはり罪悪感を背負いながらも慰められる。

私が罪悪感を感じているのは中途半端だからというのもある。

自分が思うことをそれが共感を得られるかどうかに関わらず、表すことができていないから。

yesであれnoであれ、尊敬されようが軽蔑されようが、正しいかどうかもさておき、怖れなく表明できたらもっと自信が持てるだろう。

そういう意味で過激なことを言ってもシレっとしているホリエモンとか密かに憧れる。

「この世は幻想」とするACIMについて話そうとすると、すべての人を敵に回すかのような底知れぬ恐怖感がある。

でも、私はほんとうはどうありたいか。

ほんとうは何をしたいのか。

そう考えたら、この体をもった今回の人生で、自分の思いに沿って矢面に立ちたいのだな~と思う。それがどういうかたちかはわからないけれど。

だとしたら…

自分のアンテナに従って、少しでも反応したことをやってみる。

また人に喜んでもらえそうなことも、やってみる。

…ということかなぁ。

ACIMレッスン238-救済のすべてが、私の決断にかかっている。

2019-01-24

あ゛~、みんなペラペラだよぅ

もてなし英語講座の2回目に出て、いきなりビビってしまった。

みんなものすごーくペラペラだ!!

あ゛~、私、場違いなこと来ちゃってるよぅ (;゜д゜)

だいたい私より上手だろうとは思っていたけど、こんなにみ~んながペラペラだとは!想定外だった。

現役の英語の先生や仕事で英語を使っている人などが参加されているらしい。こりゃ「中級」というより「上級」だな。

先生は第一言語ではないけれどもちろんペラペラで英語で自己紹介。その間もあるポイントでみんながどっと笑ったりしていたけど、私は9割方聞き取れず、

な、なんでみんな笑っているのー?(o’ω’o)?

あわあわっ、

見方を変えれば上達のチャンスでもあるのだけど、大いに怯えてしまった。

二人組になって自己紹介し合い、そのパートナーの紹介をみんなに発表している途中で時間になって、私とパートナーさんは次回にということになったけど、大丈夫かな?いやダメだ(>_<)

何を怯えているのか。

おそらく下手な自分をさらしてエゴが傷つくのが嫌なんだ。実力をそのまんま出すだけだから身構えることもないのにね。

もうひとつ。参加している方は、一様に外交的でコミュニケーションスキルが高く好奇心旺盛(に見える)。その場のテンションにもついていけてないんだ。

自分がネガティブ志向な内向型人間だと思い知らされる。

ありのまんまでぼーっとしていていいか。それとも頑張ってテンションあげるべきなのか。

そういうのが久しぶりで尻込みしたくなる。

あと6回ある。

旅の恥はかき捨てくらいの気持ちで挑めばいいんだろうな。

ひきこもりが社会に出るリハビリみたいなものか。

ACIMワーク238‐救済のすべてが、私の決断にかかっている。

私は物心ついた頃から、基本怯えているのかもしれない。

まず母に怯え、その先に現れた世の中に怯えた。

でも、ほどなく“人畜無害”だというペルソナ(仮面)を付けて出ていくことを憶え、それは学生時代も社会人になってからもうまく機能した。

私は見た目穏やかでそう自己主張しない(箸にも棒にもかからない)、しっかりはしていないけどまあまあまじめな人としてやれてきた(実際はどうであれ)。

仕事をしなくなり世の中に怯えていた自分の感じを思い出した。

これが私ですよとわかりやすく見せるべき自分を失った感じ。

そしてもともと自信があったわけではないが、社会的自己評価が下がった。

そうなのはどうでもいいと思っているけど、それは私が社会と接してないから意識しなくてよかっただけなんだ。

独身で子供もなく、そして仕事もなく…?

じゃああなたは何をしている人なの? 誰なの?

こういう怯えはすべてエゴの怯えだ。

それが浮かんできたときに、そんなものは幻想だと一つずつ手放していけばいいんだろう。

自分が自分をどう捉えるか。それは私自身の決断にかかっている。

私は大丈夫だ。

その根拠は何か。

だから今日も再び、私たちは動きを止めて、父がどれほど私たちを愛しているのかを考えてみよう。」(L238-2-1)

また、神の愛によって創造された神の子は、神にとってどれほど愛しい存在であり続けるかということや、神の愛は神の子の中で完全になるということについて、考えてみよう。」(L238-2-2)

ACIMレッスン237-私は今、神が創造したままの私でありたい。

2019-01-20

日曜の昼に好物を食べてしあわせ

1月も半ばをすぎた日曜日。ようやく2019年に立てた気がしている。窓から入る日差しが眩しい。

お昼は好物のトムヤムクンヌードル。

本格的な酸っぱ辛さがやみつきなのだ。

食べ物をストックとしておけない質で、あればすぐ食べちゃう。あまり体に良さげとも思えないからたまにしか買わない。

日曜の昼のぼわんとした時間にこのちょっぴりジャンクなお気に入りを食べるのは、ささやかな至福だった。

スープまで全部飲み終えた後、栄養表示に目が行った。「塩分5.0g」とある。このカップヌードル1個で5gとは!おいしくてもスープは残しておくべきか。。

デザートは炊飯ジャーで作った蒸したてのさつまいも。

炊飯ジャーで簡単にできると知ってから、できたてのあつあつをふーふー言いながら食べるのが楽しみになっている。

ほくほくというよりねっとりだったが、甘くておいしかった。

残りは部屋の隅で干し芋に。水分が飛んで一段と甘くなる。

これも完成まで取っておけずつまみ食いしちゃう可能性大だけど。

ACIMワーク237‐私は今、神が創造したままの私でありたい。

結局のところ私はいつも同じようなことを訴えている。

ACIMを歩みたいが聖霊の導きとエゴの間で葛藤があること。

そもそも聖霊の声がちゃんとキャッチできているかわからないこと。

ACIMの理解の仕方も独りよがりで間違っているんじゃ…?と。

そんなことをずっと言いながらも、ACIMから離れずにワークブックをしていればいずれACIMの思考が浸透して自然に前進できているんじゃないかとも期待している。

実際はどうなっているんだろう。自分のことは客観視できない。

世間の目で見たら、成長どころか大いなる堕落だとはわかる。のだけど。

そんな私に、レッスン237の主題概念は素直に響いた。

私は今、神が創造したままの私でありたい。

そう、そうなんだ。

私はACIMの道のどこらへんにいるかな。

道しるべは聖霊さんの声なのだけど、それに従ったり耳栓をしていたりの私は迷子になったりしていないだろうか。

父なる神が私に語る救済の知らせを、世界に伝えよう。」(L237-1-3)

ここが今回このレッスンを読んでもっとも惹かれたところ。

私が自分の感じていることをもっと素直に語らなければ、私が見る世界も変わらない。

私のこれまでの人生では、“世間恐怖症”で素の自分を出すのをとても恐れてきた。

自分を出さないでいるのは楽どころか、逆にとてもエネルギーを要した。

もういい歳だし余計なエネルギーはない。

もっと素直に自分を表現したら?

それが「神が創造したままの私」だったら、とっても素敵なことなんじゃないか、と思う。

ACIMレッスン236-私は、自分だけが統治できる自分の心を統治する。

2019-01-18

『神の使者』をまた初めから

きのう掃除をし始めたら、気づいたら大掃除になっていた。

いつもわりとまめに掃除しているし引っ越してまだ7ヶ月、不要なものもないと思っていたけれど、知らないうちに未処理物、未分類物がここかしこに溜まっていて重たくなっていた。

物をこれ以上増やすまじと思うけど、気づくと増えてるんだよな~

ようやく世間の人の年末大掃除の頃にたどり着いたのかもしれない。

遅っ、

相変わらずだけど。

夜には『神の使者』を再読し始めた。この本は古いバージョンの本を3冊持っていてそのうちの1冊が日頃読む用(あとの2冊は予備)。

また、アーテンとパーサがゲイリーの前に現れたところから。

何かの変わり目にはつい読みたくなるのだ。『奇跡講座(ACIM)』を学ぶきっかけとなった本だから、その動機みたいなものを確認したくなるのかもしれない。

私の『神の使者』は付箋とマーカーだらけだ。

黙読しながらマーカーを引いた部分は音読するのが自分の中での流行りになっていて、そうやっているとこの分厚い本を読み終えるまでやたら時間がかかってしまう。そのうちに日常にまみれて中断してしまうこともままある。

ここは戻りたくなるところ。だからそれでいいのかもしれない。

私はACIMというより『神の使者』を信じている(というかすがっている)のかもしれないと思う。

ACIMワーク236‐私は、自分だけが統治できる自分の心を統治する。

L236で気になったところ。

今日、私は心の働きを聖霊に差し出し、聖霊がふさわしいと思うものに使ってもらう。」(L236-1-6)

そのようにして、自分の心を自由にし、神の意志を行えるようにする。」(L236-1-8)

私はやっぱり聖霊さんのメッセージが受け取れているかどうかわからない。

いや、受け取れているけれど聞きたくないものには耳をふさいでいるのかもしれない。だから、わからないと言っている気もする。

耳元で大声でくりかえし叫んでいるのに、私がただぼんやりしているのだとしたら、聖霊さんは呆れているのではないだろうか。

もう私をサポートするのに嫌気がさしたりしているのではないか。不安だ。

自分のエゴのものさしで確証が得られないことは受け取りがたい。

エゴのものさしと聖霊のものさしはまったく別だから、私は未だにその二つの間で揺れている。

少しずつでもこのコースの歩みを進めたい。

こう書いた時、「そのためには気づいたことをやる」というフレーズが頭に浮かんだ。

と同時に、怖っと感じた。

ACIMレッスン235-私が救われることが、慈悲深い神の意志である。

2019-01-17

『奇跡講座』に目標はいらない!?

土曜日のダイアリーに英会話教室で作った「今年の抱負(目標)」を書いたが、あとで「目標」という概念はやっぱり『奇跡講座(ACIM)』には重要ではないのかなと感じた。

「目標」とは欠けている状態から完璧へとめざす道すがらの指標で、やはりエゴからの発想だから。

たぶんすでに完璧であるということに気づくことが大事なんだろうな、聖霊さんの導きを得ながら。

だから、リラックスして恐怖感や罪悪感、攻撃や非難したい気持ちに気づいたらその幻想性を思い出して赦し手放し、思いつくことややりたいことがあったらその気持ちに従う、それでいいんじゃ…と。そう思った。

まぁ、それが難しいんだけど!

ついコントロールしたくなってコントロールはしきれないものの、何かせざるを得ない。それはエゴの性質だとは思うけど、体をもって生きている限りそこからまったくフリーになることは不可能なのかもしれない。

ACIMワーク235‐私が救われることが、慈悲深い神の意志である。

L235はとっても優しい。

私は過去に「自分は幸せになってはいけない」という自己暗示をかけたようで、無意識のうちに自分に似つかわしい不幸を求めていた。そして中年の転機といわれる40代半ばにそのことに気づいた。

気づいたらすぐその暗示が解けるというわけではないから、L235で、

私が為すべきことは、ただ、自分を傷つけるように思える物事を眺め、全き確信をもって、『私がこのことから救われることが、神の意志である』と言い、自分を安心させ、それらが消えてゆくのをじっと見ていることだけである。」(L235-1-1)

幸福だけが私に訪れているとわかるためには、私に対する父の意志は幸福だけだと憶えておくだけでよい。」(L235-1-2)

と言ってもらえると、そうなのだと心に沁みこませることができる。

富山ではなく私こそが家意識に執着していた

このワークをやっていたのは1/4~9だったが、そこで気づいたことがあった。

それは、故郷の富山は家意識が強くて苦手だと思っていたのだけど、実は家意識が強いのは私だということだ。

二人姉妹の長女で幼い頃から周りから「跡取り姉ちゃん」と呼ばれ家を継ぐことを期待されてきた。

婿を取るというかたちで結婚したが1年で離婚。「家」を維持できなかったことへの罪悪感とくやしさ?みたいな感情があるのだと気づいた。

「○○家」やその「○○代目」というのはエゴが神の替わりとして私たちに勧めている儀であり、いわば偽似神にすぎないと思う。

だけど私はそれに長らく執着してきたんだ。。

家意識が強い故郷が苦手なのではなく、そこでちゃんとできなかった自分を否が応でも意識させられる場所である故郷が、苦手なのだ。

前夜母が入院して帰京を延期したために、1月6日の晩、母といっしょにテレビで「ポツンと一軒家」という番組を見ていた。

その時に自分の中の「家」への執着に気づいた。どのシーンがきっかけかは忘れたけど。

もちろんこれは赦すべきことだ。

長く無意識化で醸造されてきたものでなかなか手放しがたいものだと思うけど。

エゴの家への執着を手放さなければ、本当の故郷である神の家に安住することはできないのだから。

ACIMレッスン234-父よ、今日、再び私はあなたの子です。

2019-01-11

連続晴れ、乾燥注意報。うつ抜け?

東京は晴れ。乾燥注意報。

12月24日以降、雨や雪が観測されず明日も晴れ予想で、これは歴代3位の記録だとか。

私は東京の冬の空が好きだ。18の時初めて受験で2月の東京に来て、空が明るく澄んでいるのにびっくりしたのを、また思い出す。

あの時は父が付き添ってくれたのだった。

北陸の冬は日照時間も少なくセロトニンも出にくい。うつになりやすいと思う。

うつ…といえば、数年前とっても動きづらい時があって、メール1通出すにもエネルギーを溜めて頑張って出すといった時期があった。

医師に診てもらったことはないのだけど、あれはやはり抑うつ症状と言うのだろう。何年もちょいちょい動けなくなったいたから、いわゆる更年期と関係することか。

エネルギー不足は変わらないけど、それがすこーし回復している気がする。

外出した日は帰宅後2時間位動けないことも多かったけど、その時間が少しだけ短くなったような?

膨大なエネルギーを使う引っ越しなんて無理かと思っていたけど、それも何とかできたし。

更年期もそろそろ抜けようとしているのか。

もう少しアクティブになれたら…

ACIMワーク234‐父よ、今日再び私はあなたの子です。

レッスン234はちょうど年末年始やっていたワーク(一応やってた)。

父よ、今日、再び私はあなたの子です。

これは、自らのアイデンティティを高らかに宣言する主題概念であり、「私が私になる」というテーマだ。

去年からワークの終わりに「祈りの祭壇」をイメージして、そこにお願いというかたちではなく「自分の問題や目標や偶像を贈り物として祭壇に捧げる自分を想像する(『神の使者』13章より)」ということをしている。

そこで捧げているものの一つが「私の新しい人生」だった。あまりに漠然としていて、どう新しいのか自分でもわかっていないのだけど、そう捧げていた。

このワークをして、その「新しい人生」には、まずレッスン234の「私が私になる」(神の子としての自分になる)ということが不可欠で、それが先だと感じた。

常に、神の子なる自分を忘れないこと。

まあ、たいがい忘れているけれど。

1月3日のメモには、

「すべては私が見せているものである。

怒りの対象は、怒りではなく赦しを求めている。

赦しが出口だ。

挑発に乗らない。

怒らないこと自体が目的。」と書いてあった。

帰省後、数日過ぎて私も母もお互いに地が出て、リズムが合わなくていらいらしていたのだろう。(一人の時間が欲しい私は誰といても疲れてしまうのかもしれない)

私ってー、いる場所、いる時間、一緒にいる人たちによって、すぐに自分が誰だかわからなくなってしまう。

わからなくなっても、神の子だということだけ覚えていられたらいいのかもしれないが、そうはいかずエゴで固めた自分をどうにか思い出そうとあがく。

今も少しそう。しゃべればしゃべるほど、堕ちていく…気分の今。

まあ、ぼちぼちいこう。

ACIMレッスン233-私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる。

2019-01-04

友人との癒しのランチバイキング

昨日は30年来の友人と久しぶりに会い、ホテルのランチバイキング行った。

90分食べ放題だったけどおかわりすることも忘れおしゃべり夢中で、気づいたら残り時間30分を切っていた。

デザートだけは食べなきゃ。慌ててプチケーキを取りに行った。

レストランを出ても、ホテルのロビーで話し込んだ。

話の内容はたわいもない近況。健康話とITやスマホなどの“世の中に付いていけてない”話が増えたかな。

気が合っておしゃべりできるって、幸せ!

友は私が『奇跡講座』に関心があることも学んでいることも、もちろんその内容も知らない。

私たちは、生きている間この世の幻想のあれこれで忙しい。話をすることで、確認したり気を慰めたり。

次会う時には、今日の話の内容は忘れていて、またその時の話になっているだろう。

それでいい。

女子ならではの習性?、結果や成果を求めるためじゃなく、ただ純粋におしゃべりすることが楽しかった。

ACIMワーク233-私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる。

レッスン233では、「私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる」が主題概念だ。

神の導きにゆだねるには、まず心穏やかであらねば。

心静かであることも大事。

今朝は、母が家そばの接骨院に行っている30分の間にワークをした。そこまでは健やかでいい出だしだと思ったけれど、振り返れば母にいらいらしてしまっていた一日だった。

実家に滞在中は、気づいたら『奇跡講座』が意識から遠のいてしまっているが、今回もやっぱりそうだ。

母からの絶え間ない刺激に反応するも、そのうちだんだん疲れてきて何が何だかわからなくなる。

ACIMの教えはどこへやら。

ずっかり自分人生ゲームの主人公になりきって登場人物と組み交わして、実のプロデューサーが自分自身だということも忘れてしまっている。

自分の中での母とACIMの共存が、意外とテーマだったりするかな?

 

私のゲンジツ世界の中では、母が大きな仏像のように鎮座している。

それでも、昔より関係性が良くなっていると思うから、よしとしよう。

母にいらいらしてしまうのは、私が自分のエゴに固執しているからでもあるのだ(おそらく)。

私は、ただいらいらしたくてしているだけなのだ。

本来赦しの対象であるものと、戦おうとしている。

それは、どこか赦すまじと思っているから。

父よ、今日、私は自分の考えをすべて、あなたに差し出します。

私は、自分の考えを何ももたずにいます。私の考えのかわりに、あなたの想念を与えてください。」(L233-1-2,3)

こういうことがちゃんとできたら、そんなにいらいらしないんだと、今ダイアリーを書いていて思った。

本当は今夜帰京予定だったが、母のパソコンがどうしたことかExcelもWordもプリンターも使えなくなっていて、それを直す(再インストール)ために、帰京日を一日遅らせることとなった。

これも意味あること(自分が作っている幻想)。

私は心が弱くまた狭く、すぐいっぱいいっぱいになってしまうけど、できるだけ優しく親切でいたい。

漠然としているけれど、それが2019年のなりたい自分かな。

 

ACIMレッスン232-父よ、一日中、私の心の中にいてください。

2018-12-31

故郷での大晦日

紅白歌合戦聴きながら、ブログを書いている。横では母がテレビに逐一反応して声をあげている。

昨日から、買い出し、掃除、神棚や床の間、仏壇、玄関に花を活け、1月2日にはお寺から読経に来られるからその準備。おせちの支度…。

全部母主導で私は言われたことをやるだけ。

わが家のお雑煮は、(富山県内はみんなそうなのかな)醤油ベースのけんちん汁みたいななかに焼いた鯛の身を入れたもの。

魚屋さんで焼いてもらった鯛から骨を取って身をほぐす料理以前の作業は、例年私の役だ。

亡き父はお雑煮にはどんな細かいものでも骨が入っていることを嫌ったから、どんな細かい骨も見逃さないことが重要だった。今日も骨を見逃していないか二度チェックする。

鯛から骨を外していく作業をしていると、ああ、命をいただいているんだなぁと思う。

故郷ならではのお正月。

こうした風習も母がいてこそだ。

私ひとりだったらやらないだろう。

東京にいるなら、なおさら。

お雑煮さえも作らないのではないかと思う。

幼い頃はあたりまえだった風習。母に付き合うかたちでやっているけど、私の中にはもはやないものだな。

それはなさけなく寂しいことかもしれないけれど。

『絵本つくりかた』

帰省直前に、Amazonで『絵本つくりかた』という本を手配して届いた。

12月12日や12月19日の記事にも書いたけどACIMワークをしているとき、何度かこの本のイメージが浮かんできて「買ったほうがいいかな」と気になっていたのだ。

絵本に関心はあるけど具体プランがあるわけではないし、買いたい本なら他にあるから、と買えないままきた。でも、勘違いかもしれないけれど、聖霊さんからの何かヒントなのかもしれない。

暮れも差し迫った今、聞いておいたほうがいいんじゃあ?

そう思って買ったのだ。

中はまだ見てない。

来年は聖霊の声がもっと聴けるかなぁ。従えるかなぁ。

まあ、私次第なのだけど。

ACIMワーク232-父よ、一日中、私の心の中にいてください。

レッスン232も短いけれど、根幹となるいい教えが書いてあるなぁ。しかも平たい言葉で。

1分、1分があなたとともにいる時間となりますように。」(L232-1-2)

そして、あなたがともにあり、私の呼びかけを聞き、私に答えるために常にそばにいてくださることに、毎時間、感謝を捧げるのを忘れずにいられますように。」(L232-1-3)

今日、恐れの終わりを練習しなさい。

あなたの父である神を信じなさい。

すべてを神にゆだねなさい。

神にすべてを明らかにしてもらいなさい。

そして、あなたは神の子なのだから、うろたえずにいなさい。」(L232-2-1,2,3,4,5)

とくに心に染み入る言葉を書き出していったら、全部になりそうだ。

 

このブログ、この世のあたりまえに立っているかのかと思うと、次の瞬間にはACIM的価値観に立っていたりと(ACIMにちゃんと立つとすべてはメタファーで何にも書けないけど)、意味不明で思いやりに欠ける。

それにもかかわらず、

立ち寄ってくださった方、どうも どうも ありがとう。

たくさん素敵なことが来ますように!

ACIMレッスン231-父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。

2018-12-29

故郷へ帰省、雪が降っている

昨夜、故郷の富山に帰省した。

東京は空気が乾燥して風が冷たいが、こちらはしーんと体に染み入る寒さ。寒さの種類がちがう。

でもやっぱり富山のほうが格段寒い。

母はいつもこの季節、郷土料理のかぶら寿司を漬ける。それも業者が使うような樽で大量に。それを親戚や近所の方に配るのだ。

今日はそれをおつかいで、配って歩いた。

いっつも、いっつも「今年はかぶらの質がいま一つだった」とか「ブリの塩がきつすぎて」など、“言い訳”を添えて配るのだ。

親戚から晩に「手間暇かかるものありがとう。今年のもおいしかった」と電話があり、母は上機嫌だった。

親戚のおばちゃんは、私に「たまちゃんもかぶら寿司作ることできるんでしょ?ちゃんとお母さんに習ってね」とプレッシャーをかけてくるが、私は一回も習ったこともないばかりか、作る場面に立ち合ったこともない。

手料理で周りの方に喜んでもらうのが好きだという母の性質は素晴らしいと思うけど、そういうところは受け継がなかったみたい。

私は一見優しげにいるけれど、実際に人に尽くしたり役に立ったりといったことが苦手だ。手料理や手仕事が上手な人、人に尽くすことができる人に引け目を感じている。

あ~、思えば、今年もあとわずか。

一年の区切りに意味があるような、ないような、でもやっぱり影響あるような。

大晦日から新年は、日本国民みんなで大縄跳びをしているみたい。一緒にその大縄を飛べなければ新しい一年に乗れない気がする。

混んだ新幹線での大移動、面倒だと感じる反面、行ける故郷があるのがありがたいとも思う。

ACIMワーク231-父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。

富山は、私にとってACIMから遠くなる場所だ。もちろん私の錯覚のなかでのことだけど。

一日中話しかけてくる母に反応しているうちに、ACIMの世界がどんどん遠くおぼろげなものになっていくのだ。

とりあえず、ワークブックだけ持ってきた。

朝晩のワークだけできればいいけど。

家族と密な時間を過ごしていると、神より家族が近く感じ、そもそも私は家族なるものの代わりに神を求めているのかなという気分になってくる。

家族や愛に恵まれていると、ACIM的なものに意識が向かわないのも無理はないのかもしれないと思う。

私は神さまもよくわからないのだけど、ただACIMの言っていることは理が通っている、と思う。

先が通じている。

ほんものだと感じる。

だから、どう行っても出口のないと感じるこの世のやり方ではなく、ただ幸せと感謝に満ちているACIMの教えに重きを置きたい。

ワークのメモを書いていたノートもちょうど新しいノートへの切り替わりで古いのは置いてきてしまったから、L231ワーク時にどんなことを感じたか(あるいは感じなかったか)思い出せない。けれど、母が寝静まった今の私の気持ちはL231のとおりだ。

父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。

あなたを思い出させてください。自分自身についての真理のほかに、何を望むことができるでしょう。」(L231-1-5,6)

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