ACIMワーク250-私自身を、限られた者として見ることがありませんように。
2019-03-19
私自身を、限られた者として見ないためには、目の前の人を限られた者と見ないことが絶対条件だ。
分離を映し出す世の中では、自分と他者を切り離し「自分ではない○○が悪い」と考えることで、心の均衡を保っている。
それが無意識のくせになっていて、自分ではない「悪い」人を見つけて批判する。
その間だけは無意識の罪悪感を自分からそらすことができるから、楽になった錯覚がする。
だけどその作用は長くは続かないから、新たなターゲットを批判することが必要になる。
まるでドラッグやなんかの依存症のようだ。
批判依存。
それは他でもない自分がかかっている病で、遠くのことには観念的に考えられるが、自分自身が巻き込まれたことだと、ささいなことでも瞬時に批判の刃を持って身構えてしまう。
そうしたクセを治していくには、どんどん他者と触れ合って他者と自分を分けない、他者のなかに神の子だけを見る訓練をする必要があるんだろうなぁ、と思う。
奇跡講座についてのブログを初めて3年。かなり内向きな日々だったけど、そろそろちょっと外向きになってもいいんじゃ?
私は赦しどころか、奇跡講座の理くつだけ学んで脆弱なエゴをガードするスーパーエゴを作り上げてしまっているんじゃ…と、しばしば思う。
そして聖霊が導く正しい見方を学んだ自己の部分から、スーパーエゴとして“成長”したエゴが、そっちには行かすもんか、と引っ張っているんじゃ?
あ゛
私、ちぎれちゃうよ。。<(;゚_゚;)>
考えすぎかな?これも頭の中での見解。
畳の上での水泳練習はそろそろやめて水に入らなきゃ。
とすれば、いろんな方と交わって、
「彼の中の神聖な光を陰らせ、彼の強さが衰えて虚弱となるのを見ようとするのはやめよう。
また、彼の中に欠乏を知覚して、それを理由に彼の主権を攻撃しようとするのはやめよう。」(L250-1-2,3)
を実践することだ。
エゴが猛反発しないように、そろりそろり。徐々に徐々に。