241~250(3.世界とは何か)

ACIMワーク250-私自身を、限られた者として見ることがありませんように。

2019-03-19

私自身を、限られた者として見ないためには、目の前の人を限られた者と見ないことが絶対条件だ。

分離を映し出す世の中では、自分と他者を切り離し「自分ではない○○が悪い」と考えることで、心の均衡を保っている。

それが無意識のくせになっていて、自分ではない「悪い」人を見つけて批判する。

その間だけは無意識の罪悪感を自分からそらすことができるから、楽になった錯覚がする。

だけどその作用は長くは続かないから、新たなターゲットを批判することが必要になる。

まるでドラッグやなんかの依存症のようだ。

批判依存。

それは他でもない自分がかかっている病で、遠くのことには観念的に考えられるが、自分自身が巻き込まれたことだと、ささいなことでも瞬時に批判の刃を持って身構えてしまう。

そうしたクセを治していくには、どんどん他者と触れ合って他者と自分を分けない、他者のなかに神の子だけを見る訓練をする必要があるんだろうなぁ、と思う。

奇跡講座についてのブログを初めて3年。かなり内向きな日々だったけど、そろそろちょっと外向きになってもいいんじゃ?

私は赦しどころか、奇跡講座の理くつだけ学んで脆弱なエゴをガードするスーパーエゴを作り上げてしまっているんじゃ…と、しばしば思う。

そして聖霊が導く正しい見方を学んだ自己の部分から、スーパーエゴとして“成長”したエゴが、そっちには行かすもんか、と引っ張っているんじゃ?

あ゛

私、ちぎれちゃうよ。。<(;゚_゚;)> 

 

考えすぎかな?これも頭の中での見解。

畳の上での水泳練習はそろそろやめて水に入らなきゃ。

とすれば、いろんな方と交わって、

彼の中の神聖な光を陰らせ、彼の強さが衰えて虚弱となるのを見ようとするのはやめよう。

また、彼の中に欠乏を知覚して、それを理由に彼の主権を攻撃しようとするのはやめよう。」(L250-1-2,3)

を実践することだ。

エゴが猛反発しないように、そろりそろり。徐々に徐々に。

ACIMワーク249‐赦しはすべての苦しみと損失を終わらせる。

2019-03-15

確定申告終えてほっ

何かにつけて体力気力が乏しい(と思っている)私には土日と講習が続くのは負荷がかかりすぎるみたい。ちょっと調子を崩していた。大量の花粉飛散(>_<)の影響…もあるかもしれない。

おととい確定申告を終えた。ほっとした。

今年はいつもにない不動産譲渡取得税(不動産を買った時よりも高く売った場合にかかる税金、これが関わってくるのはありがたいこと)の申告という作業があったから。

売買を仲介してくれた不動産屋さんはもう済んだ取引には親身ではなく、所轄の税務署も個別の相談までは受けられないとのことだった。

ネットで調べてたたき台を作り、他社の不動産税務無料相談会に申し込みいろいろ教わった。

相談会で対応してくださった税理士さんは、「これ、うちで仕事として受けたらお母様と二人分で40万円はいただきます」

それを無料相談会だからと親身に教えてくださった。おかげで、何とか自分で書類を作成して終わらせることができた。

ACIMでこの世の幻想性、おカネの幻想性を学んではいるものの、この世界ゲームに参加しているプレーヤーの私には、こういうことは圧倒的なリアルさを持って立ちはだかってくる(ように見える)。

もっともっと学習が進んだら、たいしたリアルさではなくなるんだろうけど、それにはまだまだ赦しの実践が足りない。

そうそう、カルチャー講座仲間からバレンタインチョコのお返しというわけじゃないだろうけど、ホワイトデーに手作りの肉じゃがをいただいた。



タッパーを新聞紙でくるみ、その気取らなさがあったかかった。

肉じゃが久しぶり、おいしかった!私よりうんと上品な味付けだな。東京の肉じゃがは豚肉だと聞いていたけど、これは牛だった。

ACIMワーク249‐赦しはすべての苦しみと損失を終わらせる。

赦しが描き出す世界では、苦しみは終わり、損失は不可能となり、怒りは意味をなさない。攻撃は過ぎ去り、狂気には終わりがくる。

そのとき、どのような苦しみがありえるだろう。

世界は喜びと豊かさと慈愛に溢れ、いつまでも与え合う場となる。」(L249-1-1~5)

書き映してしまった。

こういう世界をどこか知っているという記憶があるから、ACIMに惹かれたんだろうと思う。

私はACIMの理くつは素晴らしいと思っているけど、赦したくない、赦しの機会に直面したくないと思っている節もあるなと自己分析する。

赦しを実践してこそのACIMだ。

気が乱れがちな私の3月

このワークをやっていたのは3月の初めでその頃のワークメモを見てみたら、メモらしいメモはなく、

ただ「疲れていると思い込んでいるだけで、私は疲れてはいない。」という走り書きがあった。

ん?どういうことだ?

私は自分を身体だと見ているから、こんなに疲れやすいんだろうか。

「ゲイリー・R・レナードさんのワークショップ申し込んだ!」

「気が上がってしまい落ち着くことができなかった」

とのメモもあった。

そうそう、気が上がってしまったついでになのか、クレジットカード落っことした。再発行手続き…。あ゛~やはり私はマヌケだった。

もちろんこれも、この世界ゲームに参加しているプレーヤーの私の出来事で、大勢に影響はないことなんだろうけど。

疲れと支離滅裂。一回落ち着きたい。

ACIMワーク248‐苦しんでいる主体は、私の一部ではない。

2019-03-01

メルカリでペンタブ購入

昨日一昨日とほとんど休眠状態の自社の確定申告作業でばたついていた。嫌なことを先延ばししてぎりぎりにならないとできない性格は未だ直らない。

2月中旬ペンタブ欲しいと言っていたが、気づいたら買ってた。

メルカリで不用品を売った「売上金残」があり、ペンタブってどんながあるのかなと見てたら、ついポチっとしてしまったのだ。4,000円位。

メルカリで売ってメルカリで買う循環経済。売るのも買うのも手数料10%だからメルカリっていい商売してる。

ペンタブ使いこなせるかわからないのもを新品でまで買おうとは思えないし、もし新品買うならちゃんと検討しなきゃと買うまでには至らないだろうから、これでよかった。

でも、こういうものに、もはや使用説明書って付いてないんだな~(説明書はあるにはあるが設定の説明のみ)、

これ、どうやって使うんだろ?

私に使えるかな?

ACIMワーク248‐苦してんでいるは、私の一部ではない。

一年のうちでこの季節がもっとも苦手だ。

自社の確定申告で自分の無能さ、無力さ加減をを痛感するから。

こんなに豊かで自由でIT化に伴って無料で個人が使えるツールもたくさん出ているというのに、なんで何らか自分なりのプチ事業さえできないのか。。。

言ってみれば、なさけなさと罪悪感。

悩んでいる気もするし、悩んでいない気もする。

苦しんでいるは、私の一部ではない。

そう。

ACIMでは何かに苦しんでいる、悩んでいるなら、それはあなたの見方が間違っているという。

神の子である私たちには、本来愛と喜び、幸福以外はありえないはずだ。それ以外を感じているとしたら、それはあなたが幻想をリアルにしているということだ。

なので、私はここ数年「悩み」を大っぴらに言えない。

「悩み」はこれを「悩み」として相談してしまうと「リアル」にしてしまうと思っているのだ(ブログではついつい書いてしまうが)。

友達にはどうでもいい悩みしか口にしづらい。

苦痛を感じているのは、私の心の中の幻想にすぎない。」(L248-1-5)

今、私は自己概念や、聖なる神の子についての欺瞞や虚言を、放棄する。」(L248-1-7)

これを実践しようと思っている私と、

気づけば苦痛や悩み事について考えてしまっている私。

それをまたゲンジツに向けて自力で努力することはせず心の中で手放そうと試みる。

ああ、こんなんでいいのか。。。

この世をリアルにせずにこの世と絡み合わない生き方って、なかなか理解されないだろう。私もそれでうまくいっているとは言えないから人に言いづらいなと思っている。

ACIMを前進しているのか、

はたまた世逃げ度と怠け者度を増しているだけなのか。

ACIMワーク247‐赦しがなければ、私は見えないままである。

2019-02-25

些細なゲンジツに一喜一憂するワタシ

枯れた木に新芽が出ている。3月近し。いよいよ春到来の気配。

甥っ子が第3希望の大学に進学が決まったと母から電話。「あんたも電話してやりなさい」。

先日甥と話してからも妹から連絡があったわけじゃないし、電話しても機嫌が悪かったらヤダなと若干気が重かったけど電話した。

今度は妹もいた。

「進学先決まったんだって、お母さんからうれしそうな声で電話があったよ」と私。

「お姉ちゃんにこの前からいろいろ頂き物しているのに電話もしなくてごめんね」「大学のこともこちらから連絡しなくちゃいけないのに」と妹。

進学先が決まって機嫌がよかったのかもしれない。その言葉に私はみるみる解けて癒されていくのを感じた。

現実ではないと自分に言い聞かせつつも、やはり気にかかっていたのだ。最近は「お姉ちゃん」とも呼んでもらえなくなっていたから、「お姉ちゃん」と呼んでもらえるだけでうれしい。

こんなささいなことでも、私には大事なんだな。

私の在り方はこの世のすべてを赦すという態度とはほど遠いのだった。

でも、ACIMの教えに倣って電話をかける前に不安感を手放すということを何度かやっていたため最初から不安をぶつけずに済んで、和やかなゲンジツが得られたのかもしれない。

私には子どもがいないから、甥っ子は母の唯一の孫であり未来の世への希望をつなぐ存在。

そのことだけでも妹には頭が上がらないと思ってしまう。

ACIMワーク247‐赦しがなければ、私は見えないままである。

罪は攻撃の象徴である。罪をどこかに見ている限り、私は苦しむ。赦しだけが、私にキリストの心眼をもたらす手段だからである。」(L247-1-1,2)

兄弟よ、私の所にきて、あなたの姿を見せてほしい。あなたの麗しさが、私自身のそれを映し出す。

あなたの無罪性は私の無罪性である。あなたは赦されており、私はあなたとともに赦されている。」(L247-1-5,6,7,8)

このとおりだ、と抽象的概念としては理解できるけど、自分の身に具体的な事象がおこるとすぐわけがわからなくなってしまう。

目の前のことに感情が揺らぎ、『奇跡講座』の概念のほうがウソくさく思えてしまう。

どちらが真実でどちらが偽りと思えるか。心の中に切り替え装置でも付いているみたいだ。

私の無意識の恐怖と罪悪感の埋蔵量はどれぐらいのものだろう。

ワークを始めて5年余り。0.1%ほどでも手放せただろうか。

たとえ行き先は見えなくても方向はわかったのだから、磁石の指すほうを目指したい。

ACIMワーク246‐父を愛することは、父の子を愛することである。

2019-02-22

早くも蘭が咲いた

蘭の花が咲いた。

例年5月頃咲くのだけど、引っ越ししてから西日が入る部屋になり蘭は「咲こう」という気分になったのか。

もともと仕事で一緒に出かけた方に小さな鉢を買っていただいたもの。今ではかなり野性的に育っている。

蘭の花がほころんでいくのを見ていると春が近いと感じる。

母から甥っ子が滑り止めの大学には合格が決まったらしいと聞き、電話をしてみた。妹は外出中で甥っ子だけだった。

そこで、合格したってね、と話しつつ、送ったけどリアクションがなく気になっていたチョコのことを聞いてみた(参照:2月16日ダイアリー)

「忘れてた」と気の抜けた応え。

着いたかなと気になったからメールでもしてね、と言いながら、甥には何らの感情的こだわりがないことに気づく。

私が意識してしまっているのは妹のほうだった。

子どもの頃はかわいい、かわいいだけだったけど、大人になって妹が旅先で家族みんなに怒りをぶつけたことがあり、その姿が昔の母を思い起こさせ私の心に壁ができたのだった。

私は「許せない」と思っていた母を赦したつもりで、そうではなかった。母が老いて弱者になり丸くなったから、その感情がうずくことがなくなっていただけだったのかもしれない。

支配的に感情的に振る舞う妹にかつての母を見て、それ以来感情が揺れるようになったのだ。

認めたくないが、それは私が隠している自身の姿そのものでもあるんだろう。

また妹には別の感情もあった。

私は高校卒業して進学のため家を離れた。とにかく母から離れたかった。

一方私がいなくなった家では、思春期を迎えた妹がひとりで母のパワハラ的しつけを受け、それはかなりしんどかったらしい。パワーある妹は反抗で返したらしいが。

その「自分だけ逃げ出した」というどこか罪悪感めいたものが、妹に対してあるのだ。

妹に若かった母のおもかげを見てざわつく気持ちと、「逃げた」という感覚、両方とも「神から離れた」という原初のできごと(もちろん実際には起こってない)の、別バージョンの再現ドラマだ。

それこそが私の心に根っこがある勘違い。私が赦すべきことだ。

そうやって“分析”はできるものの、それですっきりおしまいというわけにはいかない。心の深みにある感情を表面化して手放していく時間という幻想の経過が必要だ。

親や兄弟、夫、妻といった近しい「特別の関係」は、ACIMの中でも手ごわいものなんじゃないかと思う。

ACIMワーク246‐父を愛することは、父の子を愛することである。

さてレッスン246。

胸に憎しみを抱いたままで神への道を見出せるなどと、思うことがありませんように。」(L246-1-1)

神の子を傷つけようとしながら彼の父や私の真の自己を知ることができるなどと、思うことがありませんように。」(L246-1-2)

自分自身を認識できないまま、父を自覚できるとか、父から私への愛や私が父に返す愛が思い描けるなどと、信じることがありませんように。」(L246-1-3)

まさに!

振り返って、最近はワークをやっていてもおざなりで上滑りしていて“エゴ主導”になっているかも、とも思った。

起きていることはすべて赦しの機会を含んでいる。

私がいろんなことを正当化して自分の赦しを遅らせることがありませんように。

知っていることを実行するだけの勇気が持てますように!

ACIMワーク245‐父よ、あなたの平安が私とともにあります。私は安全です。

2019-02-20

夜な夜な英語アプリを前に大声で発音練習中

区主催のもてなし英語の講座は6回目を終えた。

「お好み焼きを外国人にどう説明する?」などという先生からのお題に、カタコトすら言葉が浮かばず、先生に当てられたらどうしよう?と毎回ビビりながらの参加だ。

でも自分から手を挙げる参加者の方が多いから座っているだけで時間が過ぎ、今日も無事終わったとほっとする。

そんなんでいいのか…。

でも日本人でもこんなにみんな流暢に話せるんだな~という“発見”は大いに刺激になった。

私もペラペラ話せるようになりた~い!

でもおカネはかけたくない。

前は無料アプリの「毎日英語」というので発音練習していたこともあるが、久しぶりに立ち上げてみたらいつの間にか毎月課金しないと使えなくなっていた。

それに代わるものと語学アプリをいろいろ見て「Real英会話」というのを買ってみた。こちらは買い切り600円なので許容範囲だ。

これが今の私には合っていた。「スピーキング」では発音をアプリが判断してくれる。正しいと判断されないとクリアできない。練習し始めてかれこれ20日。今は初級30%というレベル。

声に出して発音してどうやっても聴き取ってもらえないフレーズがいくつもある。

私はどうも「L」の発音ができていないらしく、よくひっかかる。「We'll」もまったく聴き取ってもらえない。

この練習、時間が経つのが早い。何度も却下されているうちに自然に声がでかくなる。老独女が夜ひとりアプリに向かって拙い英語のことばを繰り返す。。。の巻(^_^;)

ACIMワーク245‐父よ、あなたの平安が私とともにあります。私は安全です。

私の行くところには、あなたの平安がともにあります。その光は、私が出会うすべての人に注がれます。」(L245-1-2,3)

私はその光を、惨めで孤独で怯えた人々のところへと運びます。」(L245-1-4)

…とここまで読んで、惨めで孤独で怯えた人…?

「それは私やないかい!」と心の中でツッコンでしまった。

え!?

ネガティブ卒業「ポジティブでいこう」と決意して間もないというのに、自分のことを「惨めで孤独に怯えた人」と思っていたなんて、と気づく。

そんなに急には変われないものか。

それでも、こうしてACIMに出会えてACIMを学習できるスペースが与えられて、私はとても恵まれていると思っていることも本当。ACIMのおかげで人生が行きつく先は死ではないと知り、希望の光を得た。

その昔20代の頃勤めていた会社を辞める時に上司だった方が手紙をくれた(退職時の会の際みんなの前で読んでくれた)。その手紙の中にあったフレーズを思い出した。

自助の人たれ

英語でセルフヘルプ。

自分が「惨めで孤独に怯えている人」なら、まず自分に「神の平安」を届けよう。聖霊はいつも助けてくれるだろう。

それができるようになったら、その平安の光を他の人にも届けることができるだろう。

まず自分に光を当て幸せにする。

幸せは願望というより義務に近い。

私が行くところには必ず神の平安があるのだから、私はその光をもってどこにも行ける。

その光をともにある人すべてと浴びることができるはず。

ACIMワーク244‐世界のどこにいても、私に危険はない。

2019-02-18

ダンベル体操のDVDを飲み込んだままのプレーヤー

筋力UP・維持のため以前やっていたDVDを見ながらのダンベル体操を再開させたいとダイアリーを書いていたのが、去年の9月。

それから毎日とはいかなかったけれど何とか週2回くらいやっていた。

が、それも昨年末DVDプレーヤーの調子が悪くなるまで。今年に入ってからは一度もやってない。

しばらくぶりにDVDプレーヤーのスイッチを入れてみた。もしや直っているかと思ったが、やはりだめ。機械に自己治癒力はなかった

ブーンと音が鳴り続け、ダンベルのDVDを飲み込んだまま開くことすらできなくなっていた。

2年前Amazonで3,500円で買ったDVDプレーヤー。やっぱり壊れるのが早い…

なかなか決断できなかったけど、やっぱり新しいの買おう。

でも、やっぱり次もAmazonの最安値を選んでしまいそうだ。

「安物買いの銭失い」ってことわざあったなぁ、と思いながら。

おカネだって幻想の最たるもんだけど、なかなか…ね。自由までの道のり遠し。

ACIMワーク244‐世界のどこにいても、私に危険はない。

レッスン244の主題概念も私には響くものだ。

なんだかんだ言って気づけばやはり不安と恐怖でがちがちになっていることが多いから。

言葉にして「世界のどこにいても、私に危険はない。」と言ってもらえると心強く思うのだ。

私は赦しを実践して前進するどころか、逆に幻想の不安や恐怖を強固なものとして自分の足を引っ張っているのではないか…

危険がある場所は、スクリーンじゃなくて映写機のフィルムのほう。自分の心の中なのだ。

神の中で私たちは安全である。」(L244-2-3)

ずっとこれを覚えていられたら、と思う。

この感じ方をリアルに感じられるくらい成長したい。

ACIMレッスン243-今日、私はどんな出来事も裁かない。

2019-02-16

赦し…言うは易く行うは…

「赦し、赦し」とそればかり口にしているくせに、ささいなことでもひっかかってしまう。

甥っ子にバレンタインチョコを送ったがリアクションがない。甥っ子はとても大人しく口数も少ないが、妹は高3の受験生に「余計なことを」と思っているかも。

妹の誕生日があったから2月初めには妹にもチョコを送っていたが、それに対してもまったくノーリアクションだ。

仲が悪いわけではないけれど歳が離れているのもあって、妹が家庭を持ってからあまり行き来がない。

自分が勝手に送ったくせに…しかもささやかなもの。だけど、なんだか軽んじられている気もしてしまう。

それが自分の“罪”を赦すための赦しの機会だということは知っているくせに…。

気になったなら気軽に電話すればいいだけのことだけど、それもできず。

ACIMワーク243‐今日、私はどんな出来事も裁かない。

滞っているワークについて書こうと、「今日はどこから?お題は何だっけ」と見たら(ワークをやるのとブログに書くのとの間には少しズレがある)、これだった。

今日、私はどんな出来事も裁かない。

そう…、私は裁きたくなっていたのだ。

たかだかチョコレートの受け取り連絡がないくらいで、ネガティブに振れてしまうとは…

ACIM学習者ならずとも小さすぎる。

私は大昔家庭教師をしていたお宅から結婚祝いに高価なランプをいただいたが、お礼の連絡をしそびれたという大失態をしたことがある。

実家に宅配便で送っていただいたのだがその時慌ただしかったこともあって何か紛れて連絡しそびれてしまったのだ。

こう書いているだけで未だにピリピリする。なんでできなかったんだろう。

自分がそんな大それた失礼なことをしておきながら、人には小さなことでも見咎めようとする。それが私…

レッスン243の文言は穏やかに諭す。

今の自分の理解が及ぶはずもないことを、すでに知っていると思わないようにする。知覚の断片から、全体が理解できるなどと思わないようにする。」(L243-1-2,3)

それにより私は、もともと自分にはできない判断を下さずにすむ。」(L243-1-5)

すべては赦しのために…なんだよな。

私の見方が変われば、世界も変わる。それはワークを通して何度も経験している。

私に赦すべきことがあるから、見せてもらっていることなのだ。

私は今も神とひとつなのだから、自分も他者も裁く必要はない。

ACIMレッスン242-今日一日は神のものである。私はこの日を神への贈り物とする。

2019-02-14

バレンタインデー

バレンタインデー…愛する男性へチョコをというのは残念ながらできないけど、ちょうど母の誕生日。

で、毎年母にチョコレートを送っている。

一緒に洋服を送ったりしていたが、色やデザインが好みに合わないことが続き、2年前ついに「今後一切断じて服送るべらかず」というお達しが出た。

正座するのがきついと言い出したので正座用椅子を送ったら、「余計なことを」とひどく叱られたこともある。

母は正直だから、要らないものは要らないと言う。他の方への贈り物でも「合う」ことは少なくて、きっと私は「余計なもの」を贈っているんだろうなぁ。

今回はまだ北陸は寒さが続くだろうから、レッグウォーマーを添えた。これだったらミスマッチだとしてもダメージは少なそうだ。

ちゃんと届いたらしい。夕方母から、

「おいしいチョコレートありがとう。最近松山千春のCD(前に私が送った)をよく聞きます。今も聞いています。」とメールが来た。

「苦情」覚悟だったから、ほっとした。

ACIMワーク242‐今日一日は神のものである。私はこの日を神への贈り物とする。

私は世界を理解していないのだから、自分ひとりで生きようとすることは愚かである。

しかし、私にとって最善なることを知っている聖霊がある。

そして聖霊は、私のために喜んで、神へと導く選択だけをしてくれる。

私は帰還の時を遅らせたくないので、この日を聖霊に捧げる。

聖霊こそが神への道を知っているからである。」(L242-1-2,3,4,5)

そのとおり、と思う。

問題は、

(自分なりの方法で)ワークがちゃんとできているのか、

聖霊の声がちゃんとキャッチできているのか、

だけど、これも深追いして考えないことにした。

稼げてないことへの不安感、恐怖感、自己否定感がずっとあるけど、これも今しばし棚上げしようと思う。

気づけばすぐゲンジツに巻き込まれ、ザワザワしたりパニクったり、あるいは被害者になったりしているけれど、これも「作っているのは私だ」と思い出すことを心がけている。

日中はすっかり忘れているけれど、思い出した時に「そうだった」と思い返す。

なるたけ聖霊さんのしごとの邪魔にならないようにしたいけど、そういう舌の根も乾かないうちにまた邪魔してしまいそうだ。

私は恵まれている。感謝しよう。

ACIMレッスン241-この聖なる瞬間に救済が訪れる。

2019-02-07

福袋買った

楽天市場内ショップのお知らせメールから、何気にサイトに飛んでいったら「福袋」が目についた。

レビュー☆4.75は高い。

たいがい福袋には「こんなのもらっても困るよね」っていうものが入っているのだと思っていたけど、「全部ちゃんと着られるものばかりです」「めちゃくちゃお得」等のレビューが気になってしまった。

ニットとカットソー5点でクーポン使って送料込み1839円。ポイントを消化するとすれば実際に払うのは900円。

買ってみる?

服が欲しいというより、福袋を覗いてみたいという衝動。何が来るかわからないのにワクワクして、ポチっとした。

そして来た。

地味だ。モノトーンに近い。

レビュアーさん方のおっしゃるとおり、全部使えそうなものばかり。

グレーのニット着てみたら着心地悪くない。福袋とは思えない実用性だ。

5枚のニット&カットソーにおまけの白いマフラー。これで1839円とは…安っ。

単品で売っていたら買うかどうかは別だけど、何が来るかな、どんなのかな、と思って待って開けてみる、その一連は思いのほか楽しかった。

薄手のものが多いから春先に着ようっと。

ACIMワーク241‐この聖なる瞬間に救済が訪れる。

第2部に入ってから、主題概念を第1部ほど重んじてはいない。

このレッスン241「この聖なる瞬間に救済が訪れる。」も、そっかぁという感じで読んでいた。

「聖なる瞬間」は私にはまだ遠そうだ。

「赦し」の宿題がたくさんあるから。

私はどうも自分がやりたいことや自分がそうでありたいと思うことの近くにコンプレックスがくっついているらしく、やりたいことや好きなことに向かいたいんだけど向かえない。

関心と羨望のそばには同時に強い抵抗感と恐怖もあるのだ。

これこそが私の赦しのお題なんだろう。

は~、今世200年くらい欲しいなぁ。

葛藤しているうちに終わっちゃうよー。

昔読んだ本のフレーズ「これがあなたの人生だ。リハーサルではない。」が頭に浮かんできた。

何だっけこの本、とAmazonにうろ覚えのフレーズを入れたら、タイトルが出てきた。

『誰でもできるけれど、ごくわずかな人しか実行していない成功の法則』

便利な世の中だ。

なつかしいなぁ。この本。

こういう自己啓発本の類は『奇跡講座』に出会ってからまったく読まなくなったけど、たまには背中を押してもらうのもいいかもしれない。

ひゃあ~、ずっとリハーサルというか「いつか」と思って生きてきたけど、今が本番だよ~気づいたらエンドロールなんてヤダ。

この人生は幻想だからまあいっか、とはならない。

自分の心の抵抗感や恐怖感からもっと自由に生きたい。

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