2020-02-14
キリスト教についての記述
『Journey through the Text of ACIM』のざっくりまとめ。3章の4項目目は、キリスト教について。
これは主にテキストの3章1節「犠牲のない贖罪」に対応しており、ACIMテキストでイエスがキリスト教について特に言及している三箇所のうちのひとつにあたる(他は、6章1節「十字架刑のメッセージ」、9章5節「癒されていない治療者」)。
「『犠牲のない贖罪』でイエスは、自我の思考システムが神をそのシステム内に取り込むことによってどのように心の力を弱めているかについて述べています。」とワプニック先生。
神からの分離が実際には起きていないことが、ACIMの根幹だ。神が自我の動きに影響を受けることはない。
しかし、本節では実際にはない罪を自我がどのように私たちにとってリアルなものにしていくのかを見ていく。
(※厳密さより、自分にとってのわかりやすさを優先しています)
「犠牲」と「どちらか一方」というキーワード
「犠牲のない贖罪」は、伝統的なキリスト教がイエスに行った行為と十字架刑について具体的に記述している。
聖書は、私たちがとてもひどいことをしたので罪の意識を感じるべきだと言い、神は創世記のアダムとイブの神話で描かれているように私たちを罰するだろう、その究極の罰は死だと告げる。
ACIMの観点から見ると、これは自我の力学に他ならない。
ワプニック先生によれば、ここでのキーワードは「犠牲(sacrifice)」だという。
これは、「どちらか一方(one or the other)」という言葉の別の表現にあたる。よい状況になるためには別の誰かの犠牲が必要だという意地の悪い自我の原理を表すものだ。
繰り返しになるが、神は一度も天国を離れてはいない。またこうした幻想に一切関知していない。
しかし…(ここからワプニック先生の自我の戦略概説)自我は、「どちらか一方」という観念に基づいており、神は自我と神の子に裏切られ苦しんでいる、と見る。神は、分離した自己が生き延びるため犠牲になった。すなわち「どちらか一方」で、「犠牲あり」の世界だ。
自我の戦略展開
ここで自我が繰り出す戦略は、「神もまた“どちらか一方”を信じている」と私たちに吹きこむことだという。
自我は「神はいまに盗んだ命を奪い返しにくる」と脅す。
奪うか、奪われるか。生き残るのはどちらか一方だ。
このピンチに対して、自我はよい方法があると助言する。
「この世に逃げろ」
助言を受け入れた私たちはこの世にかけこむ。追手である神と死からうまく逃げおおせたつもりだ。自我は「想念はその源を離れない」(ゆえに分離の想念もこの世をでっちあげたその心の源から離れない)ことは教えない。
しかし、気づけば、私たちはこの世で今なお死すべき存在としてある。
ただ前と違っているのは、私たちが自らの心からすっかり離れてしまい「mindless」の世界にいるということだ。
自我は自己保存のために、「肉体的な人生」というものが続いていくという夢を作る。
人が、生きて、攻撃して、死んで、生きて、攻撃して、死んで…この繰り返し…と。
(ふつう「人生」は、生まれて、成長して異性と出会い、結婚して子供を育み、老いて、いずれ死を迎え…、といったふうに表すけれど、ワプニック先生の端折り方がすごい)
世界とは、「内的状況の外的投影」(T-21.in.1:5)なので、私たちは内なる恐怖をこの世に写し出しているだけ。この循環は私たちが根底の考えを変えないかぎり続く。
ワプニック先生は「私たちは破壊的、あるいは自己破壊的なパターンを永続するよう運命づけられており、だからこそ長い歴史を経ても何ら変わっていないのです。」と述べ、この心理的力動は「反復強迫」というフロイトの基本概念の中でも見受けられると加えられている。
反復強迫…精神分析の用語。幼児期の外傷体験を、意識することなしに行動で反復すること。(by コトバンク)
自我のさらなる助言と術
罪、罪悪感、恐怖(unholy trinity:非神聖な三位一体)が投影されると、神の罰を恐れる世界が映し出される。それが、今いるこの世界だ。
自我はまた“解決策”を助言してくれる。
「神に見つかって神から罰せられる前に、自分で罰したらどう?」と、“自分自身を犠牲にして神を煙に巻く術”を伝授してくれる。「うまくいけば、神の怒りを治めることができるよ。」
さらにもっといいのは…と、自我は膝をつめてくる。
「神に一人だけ殺させれば?(わざわざみんなが犠牲にならなくてもよくない?)」と、“ひとりだけ生贄の術”(あるいは“罰されるのでしたらこの人をどうぞお先にの術”)を提案する。
この生贄という概念は、宗教に限ったものではなく、私たちの想念に潜在的にあるものなのだという。
ただ「キリスト教に見られる奇妙な構造のひとつは、神は私たちの罪の贖いとして神の子が処刑されることを要求するというものです。」とワプニック先生。
そして「どう見ても、(キリスト教における)神の計画は有効ではありません。というのは、私たちの人生はこれまで同様ひどい状況なのですから。」と続けられている。
間違った前提で間違った考えに基づいて動いているのだから、変わりようがないのだ。
キリスト教における基本的誤り
キリスト教における誤りは、真の問題を覆い隠したことだという。
宗教的文脈で陥りやすい考えは、「私たちはスピリチュアルだ」「したがって神は私たちを愛す」、しかし自我の思考に基づくかぎり「どちらか一方」なので、「私たち以外は愛さない」。つまり必然的に、異教徒、無宗教者、独裁者、悪人などは憎むべき存在となる。
この「どちらか一方」こそ修正されるべき考えで、それが取り除かれる以外にみなが平和で愛される世界は実現しない。
しかし、その誤りに気付いていない。無自覚なものは直しようがない。
ワプニック先生は、「キリスト教は、この世の問題と答えがどこにあるのか示してくれた人の教えを取り上げ、それをまったく逆の教えにしたのであり、この世にとんでもない大損失を与えたのでした。」と。また、
「キリスト教は、私たちを夢から覚ましてイエスの光の中へと導くかわりに、イエスを夢の中に引きずり込んで闇の一部にしました。
これがテキストの後のほうにある『なぜなら、私はあなたの罪の象徴となったために、あなたの代わりに死ななければならなかったからである。』(T-19.Ⅳ-A.17:2)の意味です。」と述べられ、テキストの次の箇所を引用なさっている。
「私が『世の罪を除く神の子羊』と呼ばれたのは正しいことだが、『子羊』を血にまみれたものとして描写する者たちは、この象徴の意味がわかっていない。正しく理解されたなら、それは私の無垢性を語る非常に明瞭な象徴である。(以下略)」(T-3.Ⅰ.5.1-2)
神の子の無罪性は完全であるはず
神の子の無罪性は完全でなければならない。誰かに罪があるなら、全体としての神の子に罪があるということになる。
キリスト教は、罪を現実のものとした。ACIMは間違っているのは選択した思考システムだけだと断言する。
ACIMの見方による本当の贖罪とは、「何事も起こっていない。贖うべきものは何もない」と正しい見方をして間違いを訂正することだ。
「『贖う』とは、『取り消す』という意味である」(T-1.Ⅰ. 26:2)という奇跡の原理を思い出して下さい。」とワプニック先生はテキストの最初の箇所を挙げられている。
取り消しを行うためには、間違いが生じた思考の源に戻らなければならない。しかし罪悪感を直視したくない私たちは心を見ようとはしない。
「取り消しの意味において重要なのは、無自覚の分離が個々の人生にいかに映し出されているか、とくに特別な関係においてどのように反映されているか注視することです。」とおっしゃっている。
「いったい、このようなことがあり得るだろうか」
聖書を通して神自身が罪は現実だと言い、神がこの世を創ったとしたならば、この世はもう(本当は存在しない)罪からの隠れ蓑でもなんでもなくなる。もはや私たちが自我の思考システム疑問視することは不可能になり、その代わりにこの世は神が被造物に復讐的犠牲を強いるまさにリアルな場になると指摘されている。
「(前略)確かに、転倒した観点から十字架刑を眺めるなら、あたかも神が、神の子のひとりが善良であったという理由で受難することを容認し、それを奨励さえしたかに見える。このとりわけ残念な解釈は投影から生じたものであるが、それにより数多くの者たちが神を激しく恐れるようになった。
この反宗教的概念が、多くの宗教に入り込んでいる。だが、真のキリスト教徒ならここで立ち止まって、『いったい、このようなことがあり得るだろうか』と自問するはずである。(後略)」(T-3.Ⅰ.1:5-8)
わが心を覗き見てそこから罪悪感を取り除かないかぎり、誰かを攻撃したり誰かを犠牲にしたりすることはなくならない。
やっかいなことにいったん投影されると、悪や罪は自分ではなく他者にあるように見え、自分自身の考えや行動は正当化されてしまう。
これは宗教的概念とは関係なくすべての人に組み込まれている思考システムだ。
さらにやっかいなのは、聖書によってこの狂気の思考システムが神によるものとして崇められているため、ある種思考停止に陥っており、そのおかしさを疑問視するに至らないのだという。
このACIMの考え方を学ぶと、世の中で起こっていることが確かにそうだ、と思える。世の中は便利にはなっているけど、感情的にはまったく変わっていない。むしろ「道具」が進化したためテコの原理でまずい状況がよりダイナミックになっているような?もちろんこれもそう見えるだけだろうけど(長文すみません)。